『障害学研究』21号 エッセイ募集

学会誌『障害学研究』第21号(2024年9月刊行予定)のエッセイを、下記の要領で募集いたしますので、ふるってご投稿ください。

■ 分量:1200文字以上 10000文字以内(詳しくは末尾の審査規定・投稿規定を参照)
■ 締切:2024年3月15日
■ 送付先:yukara「あっと」akashi.co.jp
(送信の際は「あっと」を@に変えてください)
【担当者】明石書店 辛島悠さん

【備考】
1.送付にあたっては、

1)原稿は添付ファイルとし、
2)メール本文には投稿者の氏名と所属、エッセイタイトルを記し、
3)メールの件名を、「障害学研究第21号 投稿論文」としてください。
受領しましたら、こちらから確認のメールをお送りいたします。万が一、送信後3日を経ても確認メールが届かない場合は、事故の可能性がありますので、恐れ入りますが、その旨を記した上、再度原稿をお送りください。

2.掲載にあたって、会員名簿にご登録のお名前とは別のお名前(ペンネーム等)をご使用になる場合は、そのペンネーム等に加えて、学会名簿にある名前を原稿に併記して、ご投稿ください(投稿資格の有無を確認する際に必要になります)。加えて、どちらの名前での掲載を希望するかも明記してください。

障害学会・第11期編集委員会
委員長 矢吹康夫

『障害学会』エッセイ審査規定・投稿規定


21号エッセイ選者・プロフィール・求めるエッセイを掲載します。

◆ 伊是名夏子(いぜな・なつこ)さん/コラムニスト。著書に『ママは身長100cm』(ハフポストブックス)。
◇ あなたが悩んできたこと、驚いたこと、悔しかったこと、傷ついたことのモヤモヤをまずは言葉に、文にしてみてください。読み手がいるので伝え方も大切ですが、それ以上に自分の中にある思いをまずは言葉にしてみてください。あなたにしか伝えられないことはあるはずです。飾らない、まっすぐな思いが、意外にも多くの人の気づき、共感になります。そして悩みながらも書くことは、自分を取り戻し、力を得ることでもあります。時間はかかり、苦しいこともあると思いますが、あきらめずに書いて下さい。

◆ 齋藤陽道(さいとう・はるみち)さん/写真家、文筆業。著書に『異なり記念日』医学書院、『声めぐり』晶文社、『育児まんが日記 せかいはことば』ナナロク社など。
◇ 私ではない誰かが書いた物語や番組に浸かっていると、無意識に、そうした言葉をあてがってしまい、自分自身の本当の感情を見失ってしまうことがあります。注意深く、そうした言葉を注意深くはぶいて、私の感動、私の悲しみ、私のこの感情を、大事にした、正直な、切実なことばを、書いてみてください。それはきっと、みんなにとっての宝です。

◆ 市川沙央(いちかわ・さおう)さん/作家。『ハンチバック』(文藝春秋)で第169回芥川賞受賞。筋疾患先天性ミオパチーによる医療的ケア当事者。
◇ こんなこと書いちゃっていいんだろうか? 皆にとってはくだらないことだろうか? そう思いながらも自分がいちばん書きたいことを私はいつも書いています。意外とそれが褒められます。あなたがいちばん書きたいことをぜひ書いてください。身体から溢れだす率直な言葉をつかまえた、身も蓋もない本音の文章を、お待ちしています。

◆ 御代田太一(みよだ・たいち)さん/元救護施設生活支援員。著書に『よるべない100人のそばに居る。<救護施設ひのたに園とぼく>』河出書房新社、福祉に関するリトルプレス『潜福』。
◇ 言葉のトンネルを掘り進める作業は、往々にして地道で孤独なものです。でも深く掘れば掘るほどそのトンネルは、同じ誰かとつながり、新しい自分と出会い直すための通路にもなるはずです。「こんなことを考えているのは世界で自分だけなんじゃないか」と思えるようなことも、一人称にこだわって、紡いでみてもらえたら嬉しいです。皆様の文章を、心から楽しみにしております。

立岩真也、ジョン・ヒギョン、障害学国際セミナー

長瀬修

立岩真也の追悼ビデオが5分以上にわたり流されたのは、2023年10月27日、ソウルで開催された障害学国際セミナー2023開会式だった。韓国で2010年、2012年、2014年、2017年と4回開催されてきた障害学国際セミナーをはじめとする様々な場面での立岩の姿が映し出された。
深い思いと温かい記憶に満ちたビデオを作成し、解説したのは同セミナーのホストを務めた韓国障害学会の国際委員長であるジョン・ヒギョン(鄭喜慶:光州大学社会福祉学部学部長)である。        (障害学国際セミナー2023でのジョン・ヒギョン)

韓国からの留学生であり、自立生活センター立川で介助者経験のあるジョンは2007年4月に立岩が所属する立命館大学大学院先端総合学術研究科の博士課程に入学している。立岩はジョンの指導教員(博士論文の主査)だった。
障害学会でも、立岩が大会長を務め、立命館大学で開催された2007年の第4回大会2009年の第6回大会の2回、研究テーマだった韓国の障害者運動について報告している。ジョンは立岩が著者の一人である『生の技法』(1995年増補改訂版)を2010年に韓国語に翻訳している。韓国での立岩の評価はとても高く、「カリスマ的存在」だったと2010年のセミナーの参加者の一人は述べている。
障害学国際セミナーが2010年に日韓の障害学の交流の場として発足したのは、ジョンと立岩の出会いがあったからだ。そうして誕生した障害学国際セミナーの英文の名称は、“Korea Japan Disability Studies Forum” であり、韓国と日本を冠していた。
私が最初に参加したのは2012年のソウルでのセミナーだった。焼肉屋でサムギョプサルを頬張り、ソジュを飲みながら韓国側の参加者と議論を交わす立岩は本当に楽しそうだった。
日韓の障害学国際セミナーに中国のグループが加わったのは、2013年秋に京都で、立岩が率いる立命館大学生存学研究所が主催し、中国の障害者組織と障害学の研究グループそれぞれの代表を招いた研究会がきっかけだった。今では想像できないほど、自由な交流が中国と可能だった時代だった。国際交流に熱心な立岩と私は、日韓の障害学国際セミナーと同様に、日中の定期的セミナーを提案したが、前年の尖閣問題以降、日中関係は悪化していたため、政治的に難しいという感触だった。そこで、日韓のセミナーに中国グループが加わる形はどうかと提案すると、賛同が得られた。韓国側と相談し、2014年のソウルでのセミナーに中国グループが初めて参加した。
中国グループがホストとなり北京で開催された2015年のセミナーから日韓中の枠組みとなり、障害学国際セミナーという日本語の名称は変わらなかったが、英語では”East Asia Disability Studies Forum” とし、東アジアという名称に変更した。
台湾の障害学グループが初めて加わったのは立命館大学大阪いばらきキャンパスで生存学研究所がホストとして開催された2016年のセミナーだった。研究所の一員として私が企画運営を担当したが、立命館のアクセシビリティの課題で肝を冷やした
現在の日韓中台という枠組みが確立したのは、このセミナーだった。中国グループが加わった段階で、それまでの日本語と韓国語に加えて、中国語の通訳も加わり、音声言語だけでも3言語の同時通訳という体制となっていた。英語ではなく、それぞれの言語で参加できる形態の維持は、運営・経費面で大変な負担だったが、立岩にとって大きなこだわりだった。英語ができることが条件とならず、広範な参加が可能なセミナー運営が現在も維持されているのは、立岩のビジョンのおかげである。
なお、同セミナーの集合写真に神妙な顔で映っている立岩のもう一つのこだわりは、背景に映っているセミナーの看板の左端の月やススキと右端のウサギだった。これらは立岩の趣味であるのみならず、海外ゲストへのもてなしの気持の表れだっただろう。
この時期、立岩は新たなネットワークを強化するために、障害学国際セミナー以外でも東アジアに足を運んだ。2016年11月に台湾の東海岸の花蓮で開かれた台湾社会学会大会で報告を行っている。台北からの2時間半を越す列車の移動中、同行したアン・ヒョスクと私は車窓から見える美しい景色に目を奪われたが、立岩は持参した原稿の修正に集中し、窓外に目を向けることはなかった。2017年12月には中国の武漢で開かれた、中国の障害者政策に関する国際会議でも報告を行っている。

(2016年、花蓮の七星潭での立岩と、同行した韓国の留学生、アン・ヒョスク)

障害学会と障害学国際セミナーとの関係をここで振り返る。まず、学会と東アジアの障害学との接点に含まれるのは、2014年に沖縄で開催された第11回障害学会大会プレ企画「東アジアの障害学の展望――中国・沖縄・日本」(学会は後援)である。2012年の障害者権利条約の初回審査において、勇敢にもパラレルレポートを国連障害者権利委員会に提出した中国の障害者組織障害学研究グループのメンバーが報告した。堀正嗣会長と岩田直子大会長の尽力の成果である。
2018年の浜松での大会(田島明子大会長)では、同年に発足したばかりの台湾障害学会の張恒豪会長が自費で参加し、「台湾の障害学――問題と課題」と題する講演を行って下さっている。この時、立岩は会長である。
学会が共催に加わったのは、2020年のセミナーからである。本来は、2020年秋に京都で開催予定だったのだが、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の影響によりオンラインで開催された。学会大会もやはりコロナの影響により、オンラインで開催された。立岩は3回目の大会長を務めた。立岩は会長であり、2020年の学会大会とセミナーを連続して京都で開催する構想を持っていた。コロナの影響で実現しなかったのは、かえすがえすも残念でならない。
京都での対面での開催を模索したものの実現せず、2020年から2022年まで、3回連続のオンラインセミナーを情報保障付きで開催に成功し、その後、バトンを韓国障害学会に渡したのだった。情報化社会のユニバーサルアクセスを全体テーマとするソウルセミナーでは、石川准(学会会長)の放送やメディアのアクセシビリティの政策についての口頭報告(ビデオ)と、学会員によるポスター報告が共に初めての試みとして実現した。
ソウルでのセミナーは、最後に対面で開催された2019年10月の武漢でのセミナーから4年ぶりの対面開催だった。長期にわたる厳しい都市封鎖を経験した武漢のグループとの再会を含め、生身で会える形での開催は格別だった。しかし、そこに立岩の姿はなかった。それでも立岩の存在は間違いなくあった。立岩のビジョンとリーダーシップの成果がそこにあった。
それは2024年には台湾に引き継がれる。ソウルでは、台湾障害学会会長の周怡君(東呉大学教授)から障害学国際セミナー2024について、「障害者権利条約を超えて」を全体テーマとして、①支援付き意思決定、②働く場での合理的配慮、③脱施設化、④障害者権利条約の可能性と限界を4つのサブテーマとして、2024年10月25日、26日に台湾で開催する旨が表明された。
ソウルの障害学国際セミナー2023で立岩の追悼ビデオを見ることができたのは、ひとえにジョンのおかげである。「カムサハムニダ」。日本国外で立岩が最も評価されたのは韓国だった。それを可能にしたのもジョンの力である。国境を超えた立岩とジョンの出会いに心から感謝する。

(台湾での障害学国際セミナー2018にて。右前がジョン、その上が筆者、その左が立岩、左端は高雅郁(障害学会国際委員)

(敬称略)

 

障害学会第11期委員会・ワーキンググループ

第11期委員会(任期:2023年9月から2年間)

◆研究企画委員会
熊谷晋一郎(東京大学/委員長)
山下幸子(淑徳大学)
杉野昭博(元・東京都立大学)
武藤香織(東京大学)
長谷川唯(NPO法人ある)

◆編集委員会
矢吹康夫(中京大学/委員長)
田中恵美子(東京家政大学)
石島健太郎(東京都立大学)
木口恵美子(鶴見大学)
中根成寿(京都府立大学)
圓山里子(新潟医療福祉カレッジ)

◆国際委員会
飯野由里子(東京大学)
伊東香純(立命館大学)
高雅郁(立命館大学)
日下部美佳(京都大学)
後藤悠里(成城大学)
鈴木良(同志社大学)
田中恵美子(東京家政大学)
長瀬修(立命館大学/委員長)
ホワニシャン・アストギク(ロシア・アルメニア大学)
ミトー・アンヌ=リーズ(パリ・シテ大学)

◆広報委員会
岡部耕典(早稲田大学)
市野川容孝(東京大学)

◆アクセシビリティ委員会
川島聡(放送大学/委員長)
瀬山紀子(埼玉大学)
高森明(中央大学)

ワーキングループ

◆20周年記念出版企画WG
【2021年9月から2024年3月までの予定】
岡部耕典(早稲田大学)
山下幸子(淑徳大学/リーダー)
川島聡(放送大学)
高森明(中央大学)

◆20周年記念大会企画WG
【2022年4月~2024年3月までの予定】
石川准(静岡県立大学)
岡部耕典(早稲田大学)
川島聡(放送大学)
熊谷晋一郎(東京大学)
田中恵美子(東京家政大学)
長瀬修(立命館大学/リーダー)
堀田義太郎(東京理科大学)
山下幸子(淑徳大学)

◆倫理規程策定WG
【2023年9月~2025年9月までの予定】
深田耕一郎(女子栄養大学/リーダー)
川島 聡(放送大学)
瀬山紀子(埼玉大学)
廣野俊輔(同志社大学)

障害学会第11期理事会

第11期理事会 (任期:2023年9月から2年間)

会  長  石川准(静岡県立大学名誉教授)
事務局長  廣野俊輔(同志社大学)

市野川容孝(東京大学)
伊東香純(立命館大学)
岡部耕典(早稲田大学)
川島聡(放送大学)
熊谷晋一郎(東京大学)
瀬山紀子(埼玉大学)
田中恵美子(東京家政大学)
長瀬修(立命館大学)
西倉実季(東京理科大学)
深田耕一郎(女子栄養大学)
堀田義太郎(東京理科大学)
矢吹康夫(中京大学)
山下幸子(淑徳大学)

会計監査  増田洋介、與那嶺司

合理的配慮等に関するガイドライン1.0

合理的配慮等に関するガイドライン1.0

1.目的

本ガイドラインは、障害学会(以下、本学会という)の事業活動における障害のある会員及び非会員(以下、障害者という)に対する差別の解消に関し、合理的配慮等の必要な事項を定めることにより、本学会会則第2条に定める本学会の目的の達成に資することを目的とする。

2.障害者差別の解消

本学会は、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成25年法律第65号)その他関係法令を遵守し、本学会の事業活動において障害者差別を行わず、障害者差別の解消を推進する。障害者差別とは、障害者に対して不当な差別的取扱いをすることと合理的配慮を行わないことをいう。

3.不当な差別的取扱い

不当な差別的取扱いとは、本学会が障害を理由に正当な理由なく障害者を非障害者より不利に扱うことをいう。正当な理由に相当するのは、障害者を不利に扱うことが客観的に見て正当な目的の下に行われたものであり、その目的に照らしてやむを得ないと言える場合である。本学会は、正当な理由があると判断した場合には、障害者にその理由を丁寧に説明し、理解を得るよう努める。

4.合理的配慮

本学会は、個々の場面において特定の障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合に、建設的対話を通じて合理的配慮を行う。合理的配慮とは、本学会が特定の障害者個人のニーズに応じて過重な負担のない範囲で行う社会的障壁(物理面、情報コミュニケーション面、制度面等の障壁)の除去であって、障害者の意向を十分に尊重し、非障害者との機会平等を実現し、本学会の本来的業務に付随し、かつ、本学会の事業活動の本質的部分を変更しないものをいう。社会的障壁の除去が本学会にとって過重な負担に当たるか否かは、当該除去の事業活動への影響の程度、当該除去の実現可能性の程度、当該除去の費用・負担の程度、及び本学会の事業規模・財政状況を総合的に考慮に入れて、具体的・客観的に判断する。本学会は、過重な負担に当たると判断した場合は、障害者に丁寧にその理由を説明し、理解を得るよう努める。

5.事前的改善措置(環境の整備)

本学会は、事前的改善措置を積極的に講じる。事前的改善措置とは、本学会があらかじめ不特定多数の障害者を主な対象として社会的障壁を除去しておくことをいう。

6.研究大会及び総会

本学会は、研究大会及び総会の開催に当たり、開催校と協力して事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、手話通訳及び文字通訳を確保し、休憩室を準備し、障害者の支援者の研究大会及び総会への参加を無料とする。また、本学会は研究大会及び総会の資料のアクセシビリティを確保する。

7.理事会及び理事選挙

本学会は、理事会の開催及び理事選挙の実施に当たり、事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、理事会を対面型で開催する場合には、障害のある理事の支援者に交通費及び宿泊費が必要となるときはこれらを支給するとともに、理事の希望によりオンライン参加を認める。また、本学会は理事会及び理事選挙の資料のアクセシビリティを確保する。

8.学会誌

本学会は、出版社と協力して事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、障害者が自身に配布された学会誌又は自身が購入した学会誌を読む際の社会的障壁の除去のために必要かつ適切な場合には、当該障害者にテキストデータを無償で提供する。

9.ホームページ

本学会は、ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム(W3C)のウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドラインに準拠して、本学会のホームページhttp://www.jsds.org/ の情報を適切に構造化して表示するなど当該ホームページのアクセシビリティを確保する。


※障害学会の合理的配慮等ガイドライン 1.0はクリエイティブ・コモンズ表示 4.0国際ライセンスで提供されています。

        ライセンス認証に関わる相談窓口:アクセシビリティ委員会
            jsds.accessibility「あっと」gmail.com
           (送信の際は「あっと」を@に変えてください) 

学会からの一斉メール配信について

障害学会は以下の情報を障害学会会員の登録アドレスに一斉配信します。

①障害学会の公式の告知(役員、学会誌、大会、会費納入、選挙等)
②会員が書いた図書、論文、学会報告等の研究情報
③障害学にかかわる研究会や催し物等

メールマガジン等の定期刊行物は配信しません。
その他商業利用など会員間の情報共有として適切では
ないと学会が判断するものについては配信しないことが
ありますのでご承知おきください。

②③については学会員からの情報提供を歓迎します。
ご自身の業績紹介の機会としてぜひご活用ください。

依頼方法

配信を希望する内容の本文(テキストデータ)をメール
本文に書き、
jsds_info「あっと」googlegroups.com
(送信の際は「あっと」を@に変えてください) まで
お送りください。
依頼受領後原則として日曜祭日を除く5日以内に配信します。

・掲載される情報は学会会員が提供するものに限ります。
(情報提供時に会員名を明記してください)
・会員の著書や論文の紹介は原則として著者自身が行うことを
強く推奨します。
・基本的に提供されたテキストデータをそのまま配信しますが、
広報担当者のほうで文面の一部を調整することがあります。

注意事項

メールマガジン等の定期刊行物は配信しません。
その他商業利用など会員間の情報共有として適切では
ないと学会が判断するものについては配信しないことが
ありますのでご承知おきください。

訃報 立岩真也前会長のご逝去

障害学会の理事の立岩真也さんが、2023年7月31日にご逝去されました。
立岩さんは、『生の技法』や『私的所有論』をはじめとする傑出した障害学分野の実績を持ち、2003年の学会発足時から初代理事として、学会の立ち上げと発展に寄与されました。立岩さんの学会運営への貢献の主な軌跡は以下の通りです。

第1期(2003-2005) 理事
第2期(2005-2007) 理事
第3期(2007-2009 理事
第4期(2009-2011) 理事
第5期(2011-2013)理事
第8期(2017-2019)会長・理事
第9期(2019-2021)会長・理事
第10期(2021-2023)理事

学会長を2期4年、学会理事は計8期、16年それぞれ務められました。学会の大会長は2007年、2009年、2020年(オンライン)の計3回務められました。
ここに、これまでの学会への多大な貢献に深く感謝申し上げるとともに、謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

障害学会事務局

コロナ禍における調査――現地に行ってわかったオンラインインタビューの仕方

伊東香純(日本学術振興会特別研究員PD/中央大学)

 『障害学研究』の最新刊に、「障害と開発」分野で先駆的な研究をしてこられた森壮也さんが拙著『精神障害者のグローバルな草の根運動』(伊東2021)の書評(森2023)を書いてくださり、私もリプライ(伊東2023)を書きました。拙著は、2020年9月に立命館大学に提出した博士論文が基になっています。博士論文では、2016年度にニュージーランド、2018年度と19年度に欧州8か国(うち2か国はオンライン)で、インタビュー調査や文書史料収集をおこない、精神障害者の世界組織の社会運動の歴史を描きました。2019年度の終わりからコロナ禍の世界が始まったことを考えると、私は非常に運がよかったと思います。博士論文の審査は、口頭試問(2020年4月)も公聴会(同年7月)もオンラインで実施されました。口頭試問の際、どうしたわけか指定されたミーティングルームに入れず、忙しい合間を縫って参集くださっている4名の審査員を5分ほどお待たせしてしまい、開始早々冷や汗をかいて謝るというハプニングもありました。
その後2021年度から現在の特別研究員(PD)に採用され、アフリカの精神障害者の社会運動の調査を始めました。このエッセイでは、1年目はオンライン、2年目はオフラインで実施した2年間の調査から、調査の仕方について私が学んだことをお話します。この研究プロジェクト応募当時(2020年5月頃)は、日本で最初の緊急事態宣言が発令された時期でした。海外渡航はできない状況でしたが、このような状況がこれほど長期に渡るとはまったく予想しておらず、博士論文が書けたら、フィールドワークを再開するぞと意気込んでいました。応募書類には、現地でのインタビューや史料収集を盛り込んだ研究計画を書きました。運よく研究員に採用されたものの、2021年度になっても海外渡航がほぼ不可能な状況は変わっていませんでした。このまま研究員の採用期間が終わってしまったらどうしようという焦りもあり、オンラインでインタビューをすることにしました。
欧州での調査でお世話になった方を頼ったり慣れないSNSを駆使したりして、2021年度は最終的に6名の方にインタビューにご協力いただけました。これは、私にとって予想を上回る成果でした。オンラインでのインタビューはコロナ禍前から経験していたので、現地の様子がわからなかったり信頼関係が築きにくかったりといったデメリットは始める前から予想していました。しかし、それらより私にとってはるかにデメリットだったのは、アフリカのネット回線の弱さです。10分以上お互いに音声が届かないことが、1回のインタビューで何度もあり、途切れた状態が30分以上続くこともありました。突然、音声が途切れると、私が日本でいくら大きな声で状況を伝えても相手には届きません。そして、聞こえていないのを知らずに、ずっと話し続けてくださっているのです。「Can you hear me?」を多いときには20回も繰り返して、やっと回線が復活すると、ひれ伏す気持ちでこの話の後から聞こえていなかったからもう一度話してほしいとお願いしました。二度も、時によっては三度も同じ話をしてもらうのは非常に忍びなく、話のテンポも悪くなるし、私は苛立つと同時に、インタビュイーが腹を立てはいないかとびくびくしていました。時差のため、ほとんどのインタビューは、日本時間の夜から深夜におこないました。実際に話を聞けていた時間は1時間程度でも、オンラインに接続して緊張していた時間は2時間近くになる場合が多く、へとへとになりながらオンラインのスイッチを切った深夜を覚えています。しかし、インタビュイーの方は、画面をオフしていたので実際のところはよくわかりませんが、私の心配とは裏腹に嫌な顔一つせず、熱心にインタビューに応じてくれました。コロナ禍で急増したオンラインのイベントでは、機材トラブルで数分間でも時間がロスすると主催者が謝ったり、トラブルを未然に防ぐためのシミュレーションを事前におこなったりといった対応を経験してきました。この経験と照らすと、私はインタビュイーの人たちがトラブルに落ち着いて非常に寛容に対応してくれたことが、個人の性格では説明しきれないように思えて不思議でした。
この寛容な対応は、2022年度、アフリカに来てすぐ腑に落ちました。私がアフリカでの調査で最初に訪れたのは、ウガンダの首都カンパラです。最初のインタビューは、カンパラからさらに東に移動した、ケニアの近くのムバレという地域でおこないました。ウガンダでよく使われる交通手段の1つにマタツと呼ばれる10人乗りくらいのミニバスがあります。歩いていると、乗れ乗れとたびたび車内から声を掛けられました。最初のインタビューの日、私の泊まっていたホテルからインタビュイーのご自宅まで、ホテルの近くに住んでおられるインタビュイーのご家族のジェーンさんが送り迎えしてくださいました。行きは、スーパーハイヤー(日本でいうタクシー)で、30分ほどかけてインタビュイーのお宅まで行きました。用事が済んで帰ることになり、帰りはマタツで行こうと誘ってもらいました。沿道に出ると間もなくマタツがやってきました。そこで、私が乗ろうとすると、ジェーンさんは乗るのはまだだと言います。もう少し人が乗ってからでないと車内で長時間待つことになるというのです。そして、客引きをしていた乗務員に乗客が集まってから声を掛けてくれと言って、沿道で待つことになりました。待っていると近所の人が椅子を出してくれ、ソーダと呼ばれる炭酸飲料を買ってきてくれ、スコーンとパンの間のようなお菓子を出してくれて、煮干しを仕分けたり菜っ葉を刻んで売ったりしているのを見ながらおしゃべりしました。その間、マタツは、300メートルほどを行ったり来たりしながら、お客を集めていました。30分以上経って、もう待っても人は集まらないということになったようで、私たちはマタツに乗り込みました。やっと帰れるかと思ったら、1キロほど走って人家が多いところにくるとまた客引きです。30分以上同じ道を行ったり来たりして、乗れ乗れと声を掛けます。そこでようやく座席が埋まり、市街地に向かって走り出しました。マタツを降りたときには、帰ろうかと言い出してから2時間以上が経過していました。驚いたのは、マタツは時間が来たらではなく、席が埋まったら発車するのだと聞いたときです。

沿道に停められているマタツ (2022年8月20日ジンジャ(ウガンダ)のバス停にて筆者撮影)
ジェーンさんたちといっしょにマタツの乗客が集まるのを待っていたところ (2022年8月12日ムバレ(ウガンダ)にて筆者撮影)

翌朝、渡航してから最初の停電を経験しました。アフリカでは、よく停電が起きると事前に読んで知っていたので、これかと思いました。その日は、ジェーンさんに地元のお祭りを案内してもらうことになっていて、前日同様ジェーンさんがホテルまで迎えに来てくれました。私は、ボダボダと呼ばれるバイクタクシーで、ドライバーとジェーンさんの間にできるだけ身を薄くして挟まれながら、今朝の停電の話をしました。そうすると「そんなのこっちじゃよくあることだから、わざわざ話題にしないよ」と笑われました。なんだか恥ずかしい気持ちになりました。そのお祭りは、皆がお酒を飲んで騒ぐから慣れていない外国人を連れていって危険な目に遭わせては大変だとのジェーンの友人の助言により、その日は結局ジェーンさんのお宅にお邪魔して、1日を過ごしました。庭の果物や普段より品数を増やした家庭料理で厚いおもてなしを受けました。
コロナ禍の調査を通じて学んだことの1つは、現地に行けない時期にもできることは思った以上にたくさんあることです。もう1つは、現地に行けない時期の調査をより実りあるものにするために、行ける時には行くことが重要だということです。インタビューの内容に関してより適切な質問を考えたり解釈したりするためには、現地の暮らしを知ることが役に立ちます。さらにそれだけでなく、インタビューの外形的な実施方法を考える上でも、自文化との違いを知ることは重要でした。私は、オンラインでのインタビューに時間がかかってしまって申し訳なく不安に思っていましたが、時間の経過ではなく聞くべきことを聞けたらインタビューを終わりにしてよい、聞けるまではインタビューを続けてよかったのだと知ることになりました。

[文献]
伊東香純,2021,『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』生活書院.
――――,2023,「書評へのリプライ」『障害学研究』18:360-365.
森壮也,2023,「書評/伊東香純著『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』」『障害学研究』18:354-359.

ジュディ・ヒューマン:「私たちは、お互いから学ぶことができます」

長瀬修(立命館大学生存学研究所)

左はジュディ・ヒューマン、右は筆者。2018年8月21日、障害者の権利に関するサマースクールを開催中の国立アイルランド大学ゴールウェイ校にて。

ジュディ・ヒューマンと初めて会ったのは、1987年の日米障害協議会だった。秘書としてお仕えしていた八代英太参議院議員が同協議会のリーダーの一人であり、私自身は、その事務局を務めていた時だった。バークレイで開催され、エド・ロバーツも出席していた第2回会議だった。ホストはバークレイCIL所長のマイケル・ウィンターである。ちょうどADA(米国障害者法)へ向けての取り組みが進んでいる時代だった。ジュディ(正確にはジュディスだが、いつもジュディと呼ばれていた)は、ロバーツが所長を務める世界障害研究所(World Institute on Disability)の副所長だった。
強く印象に残っているのは、ジュディがジャスティン・ダートをはじめとする他の障害者リーダーと共に必死に取り組んだ成果として1990年にADAが成立後に会った時だった。日本での障害者差別禁止法の実現を求めて八代と言葉を交わしていたジュディは、急に私の顔を見て「あなたのような人の役割が重要です」と言ったのだった。
当時の私は、米国政府と契約関係にある機関における障害者差別禁止を規定し、ADAの先鞭をつけたリハビリテーション法504条の成立過程で議会スタッフが果たした役割について不勉強だった。そして、同条の実施を求めて、ジュディたちが連邦政府のビルを1か月近くも占拠したことも知らなかった。それでも、ジュディの言葉は心に強く残った。場所は覚えていないが、晴れた日の屋外だった。その光景は、まるで第三者として見ているかのように、脳裏に刻まれている。
その後の長年にわたる交流で学んだのは、ジュディの①インクルーシブなリーダーシップ、②国際的な視野、③障害者の権利推進のために自分のポストを最大限に活かす姿勢である。それぞれについて少し述べたい。
ジュディはインクルーシブなリーダーだった。障害者権利条約の交渉過程のサイドイベントをはじめとして、ジュディは壇上から、「折角、この会議に来たのだから、顔見知りばかりに声をかけるのではなく、知らない人にこそ、声をかけてください」といつも呼びかけていた。アメリカ手話(ASL)で壇上から、フロアにいるろう者に話しかける姿もよく見かけた。1977年に連邦政府のビルを占拠していた時も「手話通訳の準備が整うまでは会議を始めない、という方針」を貫いたのだった。(ジュディス・ヒューマン、クリスティン・ジョイナー著、曽田夏記訳『わたしが人間であるために』2021年、現代書館
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3589-2.htm
ジュディは国際的な視野の持ち主だった。残念ながら時折、障害分野でも散見される米国中心主義=自国中心主義から自由だった。ADA成立以後の、「米国の障害者の状況はおそるべきもの」(第4回日米障害者協議会、1991年)や「米国には国民皆保険すらない」という言葉を思い出す。国際的な視野から、差別禁止や、アクセシビリティなど自国の長所を認める共に、自国の課題にも率直に向き合っているリーダーだった。そして自国中心主義と向き合うことは、例えば、障害者権利条約の審査でジュネーブに100人以上を送り出せる日本の市民社会にとっても重要な課題である。
ジュディには、障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢があった。国際的な視点を買われて、ジュディが世界銀行で初めての障害と開発に関する顧問だった2003年である。当時勤務していた東京大学では、福島智の着任を機にバリアフリー推進の機運が盛り上がり、バリアフリー支援準備室が2002年10月に設置されたばかりだった。福島は同室の副室長であり、私は副室長補佐だった。さらに全学的な機運を高めるために、バリアフリーシンポジウムを企画する構想が生まれ、その基調講演者としてジュディを招く構想が浮かび上がった。しかし、米国の首都ワシントンから招聘する予算はなかった。そこで2003年6月にニューヨークの国連本部で開催された第2回国連障害者の権利条約特別委員会に出席した際に、ワシントンまで足を伸ばして世界銀行本部でジュディに面会した。基調講演をお願いすると、東大のみならず日本にとって重要なシンポだからと快諾だった。そして、率直にジュディと介助者の招聘予算が十分ないことを話すと、世界銀行の仕事で日本への出張予定があり、その予算で航空券はカバーできるから心配するなとまで言ってくれたのである。当日、定員が120名の東大本郷の山上会館2階大会議室は満席の盛況だった。当時の山上会館にはバリアフリートイレがなく、仮設トイレでしのぐという冷や汗の経験だったが、ジュディが「世界の高等教育とバリアフリー」をテーマとして力強い講演をしてくれた手ごたえは今も思い出せる。トイレの不備についてはユーモアに包みながらも、ずばりと「では来週までに作ったほうがいいでしょう」とし、「そのストレートな話しぶりは、参加者を強烈に引き込むものだった」と東大広報(1273号)は報じている。その後、東大のみならず他大学においても進展した高等教育と障害の取り組みの進展にもジュディは確かな足跡を残した。この不世出のリーダーが残した数知れない足跡の一コマだった。
ジュディの障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢のもう一つの例を紹介しよう。ジュディがオバマ政権下、国務省において「国際障害者の権利に関する特別アドバイザー」をしていた時のことである。世界銀行の例と同様、ジュディが初代だった。2014年12月に国際障害同盟(IDA)が企画した、障害者組織を対象とする障害者権利条約に関する研修を行うためにモンゴルをビクトリア・リーと私が訪問した際である。その広いネットワークで、訪問を聞きつけたジュディから、首都ウランバートルの米国大使館訪問を要請された。大使館員に障害者権利条約のモンゴルでの実施について面談してほしいというのである。当初、固辞したが、東大の件で恩があり、お引受けした。大使館に入る時には非常に厳重なセキュリティチェックがあり、携帯、パソコン等すべて受付で預けさせられた。面会したのは、障害も担当しているという文化担当官で、他国に勤務していた時にジュディと会ったことがあると話していた。そして、モンゴルで盲導犬を使う盲人を最初に雇用したのは同大使館であると語っていた。自分が所属する国務省の中で最大限、常に障害者の権利を推進するために積極的に取り組むジュディの姿の一端を見た気がした。
ジュディが、昨年12月16日に東京において31歳で急逝したブックマン・マークと対談したビデオがある。マークは東京大学東京カレッジのポストドクトラルフェローであり、立命館大学生存学研究所の客員研究員だった他、米国障害学会理事、そして私が委員長を務めている障害学会国際委員会のとても頼りになる委員だった。
このビデオはマークが所属していた東京カレッジのイベント:著者と考える「わたしが人間であるために」ー米国と日本における障がい者の公民権運動(2022年6月24日)の記録である。ジュディそしてマークを振り返るために、再度、この貴重なビデオを見返した。
イベントサイト: https://www.tc.u-tokyo.ac.jp/ai1ec_event/7009/
日本語通訳版(和文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=daDJFAjUgK8
英語オリジナル版(英文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=oEKhLJSnU0g&t=72s
失ったものの大きさを痛感すると共に、ジュディそしてマークから受け取ったメッセージの偉大さに思いを馳せた。ジュディとマーク、この傑出した二つの魂は今頃、いっそう対話を深めているかもしれない。
このビデオの締めくくりでジュディは、「私たちはグローバルコミュニティの一員であり、お互いから学び続けることができます。学ぶべきことは多くあります」と語っている。この言葉を私はかみしめている。
(敬称略)

障害学の風:アルメニア

ホワニシャン・アストギク(ロシア・アルメニア大学)

 アルメニアは南コーカサスにある小国である。面積は29,800平方キロメートルであり、人口は約300万人、そのうち98%近くはアルメニア人である。主な産業は農業、IT産業、サービス業であり、一人当たりのGDPは4,267米ドルである。世界で一番古いキリスト教国とされており、修道院、教会などの建築物が多い。

写真1:アルメニアの首都エレバン

アルメニアにおける障害者の歴史についてはほとんど知られていない。文学作品には知的障害者、精神障害者などの描写がしばしば見られるが、障害観、障害者福祉・政策の歴史についてまとまった研究が存在しておらず、障害学という分野もない。いうまでもなく、NGO、当事者、アルメニア政府により障害者の雇用、アクセシビリティなどについてさまざまな調査が実施されているが、それはあくまでも諸問題を明らかにするためであり、理論などを取り扱っていない。
アルメニアは1922年〜1991年はソビエト連邦の一部になっていたが、障害者政策もソ連と同じであった。ソビエト時代には障害は就労不能と強く結び付けられており、例外的なものとして視覚障害者連盟、聴覚障害者連盟では障害者が働ける工場などがあったが、特に重度の身体障害者、精神障害者の場合、就労は原則として不可能であった。ちなみに、ソビエト・アルメニアで視覚障害者および聴覚障害者はその他の障害者に比して社会的地位が高かったといえよう。1930年代にそれぞれの障害者連盟が形成され、連盟が障害者のためのアパートを建設したり、障害者が務める文化会館、教育機関、工房、工場などを経営していたため、視覚障害者および聴覚障害者が文化活動に携わっており(劇団、合唱団<注1>など)、雇用も保証されていた<注2>。両連盟は現在でも不動産を所有しており、それを貸し出すことによって費用の一部を賄っている。

写真2:アルメニアの首都エレバンの中心部にあるアルメニア聴覚障害者連盟の文化・スポーツ会館。連盟以外は、アルメニア空手連盟の事務所、旅行会社なども入っている。

また、ソビエト時代に障害は1932年より三つの級に分けられており、第1級は最も重かった<注3>。アルメニアでは独立後もそういった制度が続いていたが、2021年に施行された「障害者の権利に関する法律」では級が廃止されたため、現在は別のシステムに移行中である。

1991年以降の状況について

アルメニアは1991年にソビエト連邦から独立したあと、障害者に関するさまざまな法律が施行されている。1993年4月に「障害者の社会保障に関する法律」が制定され、機会均等化をはかろうとした。法律は障害者の健康、教育、雇用の保証、アクセシビリティ、生活保護などに包括的に触れていたが、問題点も多かった。例えば、「障害者」の定義は「知的または身体的不完全さにより日常生活の活動が制限され、社会支援および保護を必要とする者」となっていた<注4>。
この法律が2021年に廃止され、「障害者の権利に関する法律」<注5>が施行された。この法律は、内容や語彙に関して、アルメニアが2010年に批准した国連の「障害者の権利に関する条約」に強く影響されている。新しい法律では、障害や障害者の定義が変わり、個人の健康状況のみならず、物理的・社会的バリア(障害者に対する態度を含む)の影響も強調されている。ここでは、「障害者」とは「身体的、精神的、知的または感覚的な継続的な障害を有し、かつ環境のバリアの影響により他の者との平等に社会生活への完全かつ効果的な参加が制限されている者」と定義されている。ちなみに、用語も変更し、「障害者」(հաշմանդամ) は「障害のある人」(հաշմանդամություն ունեցող անձ)となっている。
新法律では、社会保障などのみならず、障害者差別、ステレオタイプや偏見の解消、障害者の社会参加、労働についての権利、男女平等、アクセシビリティ、インクルーシブ教育なども重視されており、障害の人権モデルが採用されている。また、ソビエト時代の障害の「級」が廃止され、障害は「中度」「重度」「最重度」となっており、ヘルパー制度も導入されている。

写真3:「障害者の権利に関する法律」の作成に積極的に関わった国会議員のザルヒ・バトヤン(Zaruhi Batoyan)。車椅子利用者であり、2019年1月〜2020年11月に労働・社会問題相として務めていた。写真は本人のFBページより。

上記の法律以外は、アルメニア共和国憲法、労働法、「都市計画に関する法律」などでも障害に関する規定がある。また、1991年以降には数多くの障害者支援団体、NGOが活動している。

法律と現実のギャップ

このように、法律は整備されているが、それは障害者の生活の質の向上につながっておらず、アルメニアの障害者は数多くの問題に直面している。2021年の時点で、アルメニアには195,634人の障害者がおり、そのうち93,201人は女性である。18歳以下の障害者数は9182人、63歳以上の者は85,165人である<注6>。障害者権利団体Unisonの代表アルメン・アラベルジャンによると、障害者の中では失業率が90%以上を超えており、それはアルメニアの平均(16.5%)を大きく上回っている。アルメニアの「雇用に関する法律」の第20条では、障害者の採用枠が設けられており、それは100人以上雇用している国有企業・役所の場合は3%、民間企業の場合は1%である<注7>。また、障害者を雇った場合、助成金制度、減税制度も利用できるが、それは必ずしも障害者雇用につながっていない。アラベルジャンによると、採用枠を増やす必要もあるが、障害者雇用を妨げる最大の理由は、「障害者が働けない」という根強い偏見である<注8>。
もう一つの大きい問題は、物理的なバリアである(そして、それも大きく就労機会を制限しているといえる)。アルメニアの「障害者の人権に関する法律」、「都市計画に関する法律」などはアクセシビリティに触れているが、アルメニアの町は、最近多少改善されたものの、障害者にとって非常に不便である。
まず、ソビエト時代からある建物には、基本的にエレベーターがない。あった場合も、車椅子が入れないほど狭い。そのため、身体障害者にとって外出さえ大きなチャレンジである。私の恩師、日本語教師のK先生(2019年に逝去)の例をあげたい。K先生は癌による障害があり、2016年からは車椅子利用者になっていた。働く意欲があったものの、暮らしていたアパートにも、勤務先の大学の建物にもエレベーターがなかったため、それは不可能であった。外出すら至難の技であり、業者を呼び、車椅子を4階からおろしてもらう必要があったため、特別な機会を除いて、家を出ることはできなかった。
1990年代以降に建設されたアパートでは、エレベーターの設置が義務付けられているが、狭いものが多く、車椅子利用者が必ずしも自由に使えるとは限らない。
また、町の中は階段が多く、スロープが少ない。エレバンの中心部にはある程度作られているが、勾配が大きくて使いにくいものも少なくない。さらに、スロープのすぐ前に車が止まったり、工事がされたりすることなども珍しくないため、整備されている道でも、自由に動けない場合はある。

写真4:エレバン中心部にあるショッピングセンターのスロープ。
写真5:エレバンの中心部。この状態が2週間程度続いていた。

公共交通機関のバリアフリー化も進んでおらず、車椅子利用者が地下鉄、バスなどを基本的に使えない。一部のバスにはスロープかつ車椅子スペースが設けられているが、当事者によると、多くの場合バス運転手がスロープの使い方がわからない、あるいは混み合っているときは協力しないため、整備されているバスでも乗れないことがある。
ここで問題の一部のみをとりあげたが、このようなバリアのためアルメニアの障害者が自由に外出できず、しばしば引きこもり生活を余儀なくされている。物理的なバリアによって、その他のバリアも発生する。例えば、アルメニア政府は不妊治療の経済的な負担を減らすために障害者を含む42歳までの女性の体外受精などの費用を全てまたは一部助成するが<注9>、通院が問題になって諦める障害者女性も少なくない<注10>。
当事者の話によると、問題は経済的なものだけではない。自治体、ビジネスなどがアクセシビリティを重要視しない、不便さを意識しないことが最大のバリアであるそうだ。アルメニアの障害者、またベビーカーを押している親たちが声を上げ始めているが、それが大きい運動に発展しない限り、真のバリアフリー化を望めないと思われる。

写真6:スロープの上に止まっている車。

日本のアルメニアの障害者への支援

最後に、国際協力の例として日本の草の根・人間の安全保障無償資金協力の枠組みによるアルメニアの障害者への支援について紹介したい。「草の根無償」とも言われるこのプログラムは、「人間の安全保障の理念を踏まえ、開発途上国における経済社会開発を目的とし、地域住民に直接裨益する、比較的小規模な事業のために必要な資金を供与するもの」<注11>であり、今までアルメニアでそれにより多数のプロジェクトが実施されている。その中には、障害者に裨益するものもある。その例としては、「障がい児支援のための感覚統合ケアサービス整備計画」がある。この計画が、リハビリ機材を導入し、障害児に感覚統合ケアサービスを提供することによって社会的適応や自立の促進を目指している<注12>。
「草の根無償」だけでなく、いつかアルメニアと日本の障害者の「草の根交流」も可能になることを願っている。

<注>
1.視覚障害者連盟の合唱団は、高齢化しているものの、いまだに存在している。詳しくは次のドキュメンタリーを参照(英語字幕付き)。https://www.youtube.com/watch?v=mAhXHN6j-Z8&t=2s&ab_channel=CIVILNET (2023年2月10日アクセス)。
2. 情報は視覚障害者連盟長ラフィク・ハチャトリアンとの会話に基づく(2021年5月10日)。
3.ソビエト連邦の障害者政策については次の論文が詳しい。Sarah D. Philips. 2009. “” There Are No Invalids in the USSR!”: A Missing Soviet Chapter in the New Disability History”, Disability Studies Quarterly Vol. 29, Issue 3. https://dsq-sds.org/article/view/936/1111 (2023年2月10日アクセス)。
4. 法律の全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=127 (2023年2月11日アクセス)。
5. 全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docID=152960 (2023年2月11日アクセス)。
6. アルメニア国立統計局。https://armstat.am/file/article/sv_01_22a_530.pdf (2023年2月11日アクセス)。
7. https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=87734 (2023年2月12日アクセス)。
8. Արմեն Ալավերդյան, Հաշմանդամություն ունեցող անձանց զբաղվածությունը որպես լիարժեք կյանքի գրավական, 17 մայիսի 2020, Սիվիլնեթ (アルメン・アラベルジャン「完全な生活の保証としての障害者雇用」2020年5月17日、Civilnet)։
9. 障害のある女性の場合、医療上の禁忌がないことが不妊治療および費用の助成の条件となっている。
10. ԿՌԿ Հայաստան, Վերարտադրողականության օժանդակ տեխնոլոգիաների հասանելիությունը կանանց տարբեր խմբերի համար. խոչընդոտները և մարտահրավերները, 2022.
(Women’s Resource Center, Armenia『さまざまな女性のグループの、生殖補助医療へのアクセス:バリアおよびチャレンジ』、2022 ).
11. https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/kaigai/human_ah/index.html#:~:text= (2023年2月14日アクセス)。
12. https://www.am.emb-japan.go.jp/files/000550691.pdf (2023年2月14日アクセス)。