松元圭(新潟医療福祉大学)、小堀晶子(新潟医療福祉大学)
当事者になるまで:新潟における胎児性水俣病患者の語りから
報告要旨
報告者らは、所属大学で実施されている新潟水俣病関連の学習会に参加した際、胎児性水俣病患者の語りの中に先行研究等に見られる水俣病患者の語りとの奇妙な「距離」を感じた。
本報告は、上記を発端として、新潟における胎児性水俣病患者への聴き取り調査を通じて明らかになった、水俣病患者としての特異な立ち位置と、アイデンティティ形成過程の素描を目的とするものである。
報告原稿
本報告の目的と背景
本研究は、報告者の所属大学における新潟水俣病関連の学習会に参加した際、胎児性水俣病患者であるA氏の語りを聞いたことに端を発している。A氏の語りは自身の水俣病の症状について語るものだったが、淡々として、どこか他人事のような、やや距離のある語りであった。当事者であり、耳鳴りをはじめとする多様な困難を経験しているであろうA氏は、なぜこのような距離のある語りをするのだろうか。
本報告では、上記の素朴な疑問を端緒に、A氏がどのような人生を歩んできたのか、そして水俣病患者としてどのような困難を経験してきたのか、あるいはしてこなかったのかを明らかにする。それと同時に、胎児性水俣病患者としてのアイデンティティがどのように形成されるのかを描き出す。
方法と倫理的配慮
本報告で用いるデータは、胎児性水俣病患者であるA氏に対し、2025年5月および7月に実施した、アクティブインタビュー(Holstein & Gubrium 1995)によって得られたものである。
本調査は、障害学会倫理綱領を遵守し、対象者からの同意を得たうえで実施した。
結果と考察
得られた語りから、①症状を認識することの困難、②累積する困難、③世代を越える困難、の3点がテーマとして浮上した。
①症状を認識することの困難
水俣病患者の多くが、「耳鳴り」をその症状として訴えるが、A氏は長らく「耳鳴り」を症状として認識できていなかった。A氏には3種類の「耳鳴り」があるが、そのうちの一つ「ザー」という音は常に聞こえていたため、それが水俣病の症状だとは認識していなかった。この「ザー」という音は、幼稚園の頃には既に聞こえていて、「みんな聞こえているもの」だと思っており、「気にしてなかった」述べている。
後天的に水俣病の被害を受けた患者であれば、「耳鳴り」という症状を認識することができ、以前の状態との比較から「患者になる」と考えられる。しかし、生来症状とともに生きている胎児性水俣病患者は、「耳鳴り」という症状を当たり前のものとして認識するため、症状を自覚することや「患者になる」こと自体に困難が生じる。加えて、「耳鳴り」という症状が、個人の感覚的なもので不可視であることも症状を認識することを困難にする一因であると考えられる。
②蓄積する困難
「耳鳴り」を症状として認識できていなかった一方で、A氏が「だるさ」と表現する身体的不調は幼少期から常に感じていたと述懐している。
A氏は、幼稚園の頃から疲れやすさを感じており、インタビューの中で度々「だるくてしょうがなかった」「眠くてしょうがなかった」と語っている。降園後は遊ぶ体力もなく、「家に帰ってずっと寝ていた」とも述べている。就学後は、授業中にこの「だるさ」や眠気に襲われ、「集中できない」状態が続き、小・中学校と成績は振るわず、運送会社が経営する専門学校のようなところへ入学した。しかしながら、「だるさ」や集中力の問題から中途退学する。
その後、17歳で運送会社に就職し、長距離トラックの運転手をしていたが、集中力の問題と目の疲れから、トラックをぶつけることが頻繫にあったという。そのため、他の従業員から「またか」という反応をとられ、次第に疎遠となり6~7年で退職する。
「だるさ」や集中力の続かなさに起因する学業不振や、職場でのミスは、彼の進路選択や対人関係にも影響している。このように、水俣病の症状は時と共に蓄積し、A氏の人生を大きく左右したのである。またA氏は、親からも「心配されることはなかった」「怠けていると思われていた」と述べており、これらが症状として認識されることはなく、A氏個人の責任に帰されていた。
③世代を越える困難
A氏は幼少期から母と不仲で、母は「突然切れだす人」で「どこに地雷が埋まっているかわからない」人だったと述べている。
幼稚園の迎えに母親が来ず、一人で帰宅していたと振り返った他、母親の代わりにA氏が妹の迎えに行き、母親が幼稚園の先生に度々怒られていたと述べている。
A氏から母親との良好な思い出が語られることはなかったが、「今振り返ると(水俣病の)症状だったのかもしれない」とも述べている。A氏の母親は時折、「頭が変だ」「頭がおかしい」と述べていたと述懐しており、A氏は「あれは耳鳴りのことを言っていたんじゃないかな」と振り返った。
水俣病の診断を受けたことにより解釈が変わった可能性は十分に考えられるが、A氏の語りからは、母親が水俣病による健康被害を受けていたことにより、A氏にとって望ましい養育が受けられなかった可能性も示唆される。
これまで、胎児性水俣病患者に関する言説は「奇病の子」として差別にあったことや、母親の水銀を子どもが肩代わりしたとする「宝子」という表現等、激症例や窮状が注目されてきた。しかしながら、本報告が取り上げた事例からは、症状に起因しつつも、それだけでは捉えられない「不利の累積」(三谷 2019)と、激症例ではないからこそ見えづらくなる胎児性水俣病患者の困難が浮上した。
課題
上記の結果から、激症例ではない胎児性水俣病患者であるからこそ生じる困難があることが明らかとなった。しかしながら、A氏が水俣病患者としてのアイデンティティをどのように形成していったのか、そしてなぜその語りに当事者としての距離があるのかを明らかにするには至らなかった。インタビューを継続することで、これらを明らかにすることが今後の課題である。