山口和紀(立命館大学先端総合学術研究科)
不安定な自由と安定した不自由のはざまで――筑波技術大学設立反対運動における共闘
報告要旨
筑波技術大学設立反対運動においては、「障害者だけの大学」がもたらす排除の論理に対して、盲学校教員と障害当事者が共闘した。本発表は、その運動が「直接的包摂」と「媒介的包摂」という異なる包摂の戦略を併存させていた点に注目し、両者の接合が可能だった背景を分析する。分離か統合かの二項対立を超え、当事者たちが選び取った「不安定な自由」と「安定した不自由」の往還的実践の意味を再考する。
報告原稿
【背景】
1970年代初頭から始まった身体障害者向けの高等教育機関の構想を設置の出発点として、筑波技術短期大学(現・筑波技術大学)は1990年に開学した。その設置には1970年代中ごろから本格的な反対運動が起こったが、そこでは一見相反する立場の二つのグループが共闘していた。ひとつは『障害者だけの大学』という発想そのものに「分離」として反対する若い視覚障害者たち、もうひとつは、盲学校の『専攻科』を短大に昇格させるべきだと主張し、専攻科を残したまま新たに短大を設置するという構想に反対した盲学校教員たち(専攻科昇格派、ただし視覚障害者の教員を含む)である。
【目的】
本研究は、『障害者だけの大学』設置をめぐる反対運動において、「障害者だけの大学」設置そのものに反対した視覚障害者のグループ(統合派)と、「障害者だけの大学」設置そのものを否定せず盲学校専攻科の短大昇格を求めた教員グループ(専攻科昇格派)という、一見対立する立場のあいだに、いかなる共闘関係が存在していたのか、そしてそれはいかにして成立しえたのかを明らかにすることを目的とする。
【方法】
1970〜80年代における筑波技術短期大学の設置構想と、それに対する反対運動に関する一次資料(とくにビラ、東京教育大学附属盲学校文集、自伝的書籍など)をもとに、大橋由昌(視覚障害者)と有宗義輝(盲学校教員、視覚障害者)に関する記述を中心に検討した。
【結果】
結果として、「障害者だけの大学」設置の是非という議論の次元においては対立していた統合派と専攻科昇格派であるが、その背後には共通の問題意識が存在しており、それによって一見相反する主張の両者に共闘が成立しえたと考えられる。その問題意識とはすなわち、視覚障害者が制度や職業構造によって「どのように生きるか」をあらかじめ一方的に定められてしまう状況への異議、すなわち〈鋳型化〉への忌避である。
そもそも、視覚障害者による身体障害者大学の設置反対運動それ自体が「分離か統合か」という制度モデルの選択自体を主たる争点としたのではなく、視覚障害者の進路が構造的に安定した職業としての「三療」へ狭められてしまう状況への抵抗に基づいていたものと考えられる。
有宗義輝をはじめとする盲学校教員の一部は、専攻科の短大昇格(専攻科の廃止を伴う)によって、三療に進む視覚障害者の社会的地位の向上を目指した。これは、三療教育を制度的により質の高いものとして保障するために、教育機関としての立場を高めようとするものであったと言える。専攻科昇格路線は、構想の中で早期(1970年代中頃)に棄却され実現しなかったのだが、専攻科を廃止しなければ、短大と専攻科のあいだに競合関係が生じるだけでなく、専攻科に進学した視覚障害者に不利益が及ぶとする立場であった(山口 2024)。
他方、実際に大学進学を果たしていた立場から反対運動を主導した大橋由昌は、盲学校の閉鎖性と職業進路の固定化に異議を唱え、『障害者だけの大学』の設置によって一般大学への進学という選択肢が閉ざされることに反対していた。
こうした両者の主張は「障害者だけの大学」の是非を巡っては一見矛盾するように見えるが、共通していたのは「生き方」が制度的に決めつけられてしまう構造、〈鋳型化〉そのものへの抵抗であった。大橋は、自伝的著作の中で、(大橋自身は)「理療科へ進むのが嫌でたまらなかった」と述べ、そこには、三療が好きか嫌いかという問題以前に、『有無を言わせず鋳型にはめ込んでしまうような現実そのもの』への拒絶があったと述べている(大橋 1988:72)。
一方で有宗の立場も、進路の選択肢を一元的に規定することへの抵抗をしていたと言えよう。専攻科の短大昇格を求めたのは、三療を唯一の進路としようとするのではなく、当時晴眼者の進出によって視覚障害者の職業的な自律性が危ぶまれていた中にあって、あくでもありうる一つの選択肢として三療業を「残す」ためのものであった。こうした姿勢は、三療を進路として否定するのでも、盲学校の職業教育の閉鎖性を温存するのでもなく、障害者にとっての職業的・教育的選択肢の多様性――「出戻り」も含めた多層的な進路――を確保するためのものだったと考えられる。
両者に共通するのは、どのような制度設計であっても、それが個人の生を一方的に規定するものとなるならば、その構造に対して抗わなければならないという姿勢であったのではないか。三療の道は(晴眼者の進出があるとはいえ視覚障害者にとって比較的)「安定した道」であるとされていたが、その安定が排他的な規範となってしまえば、それは「鋳型化」そのものである。他方で、当時において、不安定で先が見えない大学進学の道もまた、自由の代名詞として単純に肯定されるものではなかった。こうした二項対立を超えて、制度による「押し付け」や「排除」がない構造を重層的に模索するという点で、両者の実践は共闘しえたと言える。
参考文献
大橋由昌 1988 「キャンパスにオジサンは舞う 盲学生憤闘記」,彩流社
山口和紀 2024 「障害者に対する高等教育機関設置とその背景: 筑波技術短期大学設置を巡る経緯を通して」,『Core ethics』20:89-102