加藤旭人(日本学術振興会特別研究員(PD))
富士学園・自主運営の論理―「非分類・小規模・街中」が意味するもの
報告要旨
かつて東京都国立市に富士学園という無認可の障害者施設があった。富士学園は1960年に資産家により開所されたが、1973年に経営者によって経営難を理由に閉鎖が決定される。すると入所者および職員は、施設閉鎖反対運動および「非分類・小規模・街中」を目指し自主運営を展開したが、施設や運動をめぐる矛盾を抱え込み、1981年にひとりの入所者の死を契機として闘争を終えた。本報告は、富士学園・自主運営闘争の展開を明らかにし、この闘争が持つ意味を考察する。
報告原稿
1,目的と方法
東京都国立市にかつて、富士学園という無認可の障害者施設があった。富士学園は、1960年に障害児の親である資産家によって設立された。1974年3月に経営側が財政難を理由に学園閉鎖を通知すると、翌4月から閉鎖と解雇に反対する自主運営闘争が始まり、「非分類・小規模・街中」を掲げ1981年まで7年半にわたって継続した。本報告では、富士学園・自主運営闘争がどのような論理で展開したのかを検討する。このことは、「障害者運動」と「施設」の分かち難く、しかし一様ではない結びつきを当該の文脈に即して検討する作業となる。
運動の展開については、運動を担った施設職員による著作(池田1994)に依拠して記述するが、より詳細な把握のために法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズが所蔵する「旧東京都立多摩社会教育会館市民活動サービスコーナー所蔵資料」に含まれる富士学園発行の会報や冊子を用いる。
2.自主運営の展開
富士学園・自主運営は、富士学園に留まり園生の生活の場を保障する運動と、職員の解雇に反対する労働運動の二つの側面がある。さらに言えば、労働運動を通じて事態を係争中にしておくことで学園に留まる根拠を得えつつ、同時に生活の場を運営することを通じて労働運動に正当性を与えるという形で、両者が一体となったのが自主運営闘争であった。
学園での生活について、閉鎖通知時15名だった園生は、閉鎖通知後は最終的に3名となった。園生は、「精神薄弱」に加え難病、聴覚障害と判定された重度重複障害者である。施設職員は、閉鎖通知時は4名で解雇反対闘争に関わったが、最終的にはひとりが残り、富士学園に住み込み生活する体制となった。
労働運動については、閉鎖通知がある前1974年1月に施設職員4名で日本社会福祉労働組合富士学園分会として労働組合を結成し(のちに甲山学園事件で山田悦子を支持したことで日社労組から除名)、当初は和田博夫や府中療育センター闘争に関わった外部支援者とも結びつき、学園閉鎖と解雇を不当労働行為として労働委員会に申し立てた。しかし1974年9月和解折衝が決裂すると行き詰まり、1978年8月1日に申し立てを棄却された。
3.「非分類・小規模・街中」の意味するもの
1974年9月和解折衝が決裂し労働運動が実質的な挫折を迎えると、富士学園の運動内部にあった学園での生活を重視する立場と、労働運動として取り組もうとする外部支援者(和田博夫ら)の対立が表面化する。そして、後者は財政や戦術の面で運動の中心であったが、運動のすすめ方の違いから富士学園を離れることになった。そして、「力をもつ少数の人の支持ではなく少しずつの協力でも大勢の人の力で支えて行ける」(日社労組富士学園分会1977:12)運動への転換を図り、その可能性を地域社会に求めていく。そして学園と地域住民の共同でバザーや廃品回収、集会や支援コンサートなどに取り組み、1977年7月に地域住民が「富士学園を支える市民の会」を発足する。
以上の取り組みの中で、「非分類・小規模・街中」という理念が打ち出された。
①現行法内の分類収容の批判―対象者を年令・障害の種類・程度に分けるのではなく、必要とする人達に開放されるべき。②生活集団の規模は、干渉しあうことなく、またお互いの存在を確かめ合って不安なく過せる人数と広さであること。③生活拠点として地域社会の中にあること。(「共に生きつづけて」編集委員会1981:8)
「非分類・小規模・街中」は、当時の大規模施設中心の福祉に対するアンチテーゼであり、また富士学園の現実に根差したものだった。園生3名がみな重複障害者であり、既存の分類収容から外されるからこそ富士学園にいた(以外なかった)。そして、生活の負担からじっくり付き合える小規模である必要があった。ただし、小規模の生活が「力をもつ少数の人の支持」に依存しないよう、さまざまな人との関わりも重要だった。
ただし、自主運営は続かなかった。運動が終焉したきっかけは、1981年4月にひとりの園生が電車にひかれて亡くなる事故にあった。とはいえ、「非分類・小規模・街中」が求める運動と生活の重なりは、大きな負担となっていた。
開かれた地域を求めてまず学園を開放した私達は、その事によって、守られるべき個々人のプライベートな空間をお互い保証し合うことが困難となった。広範囲な階層の人たちとの出合いは、福祉現場の特殊性を痛感させられた。楽しい交流に励まされながらも尚、運動を進め生活を維持するために次々と組んだ催しは、運動面において意味を持ちながらも、学園の暮らしを維持し、尚且つ、対外的な仕事も究極的に責任を問われる立場の生活者にとって、疲労困ぱいの連続であったように思う。(「共に生きつづけて」編集委員会1981:10-11)
4.考察
「非分類・小規模・街中」は、運動と生活がせめぎあう自主運営がもつ可能性と限界を両義的に示している。第一に、自主運営闘争は、現行のシステムがもつ前提を生活の場から問い直す運動であり、権利保障をこえた広範な正義を求めていた。このことは、システムから排除されようがなお共にあり続けた生活に支えられていた。しかし第二に、自主運営闘争は、生活と運動を制約するものでもあった。生活の場である学園の存在が運動に正当性を与えたことは、「非分類・小規模・街中」という理念を準備した一方で、現実の運動にラディカルな変革(施設解体など)とは異なる改良主義の傾向をもたらした。さらに、生活と運動が重なることは現場に厳しさを与え、生活と運動の継続を難しくした。
参考文献
池田智恵子,1994,『保母と重度障害者施設――富士学園の3000日』彩流社.
日社労組富士学園分会, 1977,「解雇にもめげず閉鎖にもめげず――あおいとり・再開要求三周年特別号」.
「共に生きつづけて」編集委員会, 1981,「共に生きつづけて―富士学園自主運営の記録・7年半」.