伊藤孟(京都大学大学院文学研究科博士後期課程)
ニューロクィア理論とそれに基づく実践の可能性について
報告要旨
ニューロクィア理論とは、ニューロダイバーシティの発想をクィアスタディーズを参照し、批判的に発展させた理論である。中心的な論者に2021年にNeuroqueer Heresies を上梓したNick Walkerがいる。その眼目は、定型発達者が作り出した神経定型発達規範からの解放と社会の変革を目指すことにあるが、アイデンティティの流動性を前提とするため、解放されるのはASD当事者だけでなく、神経定型発達規範を「クィア化」する全ての者であり、大きな可能性がある。
報告原稿
はじめに
本発表では、ASD(自閉スペクトラム症)当事者でトランスジェンダー当事者でもあることを公表しているニック・ウォーカーの著書(Walker 2021)におけるニューロクィア理論とその実践を巡る議論を中心に参照した上で、その射程と可能性を考究するものである。クィア・スタディーズの知見を参照し、ニューロダイバーシティモデルを批判的に発展させようとするニューロクィア理論とそれに基づく実践は、障がい者/健常者の二項対立を越える実践的枠組みを提供するものと思われる。現代社会のあらゆる局面で定型発達者の作り出した「神経定型発達規範」が無批判に受け入れられており、とくにASD当事者にたいする教育において抑圧的に働いている現状があるが、ニューロクィア理論とその実践は、こうした現状に一石を投じ、当事者だけでなく、全ての人を解放する可能性がある。とくに日本の教育においては、最も誠実にそして真摯に障がい児童教育に携わった糸賀一雄でさえ、「規範」を絶対化し、夜尿症の児童に対して、その「治療」を目的として、脳に外科的手術を行っていた事実に言及し、日本の教育における「規範の絶対化」を可視化し、そうした現状に対してニューロクィア理論とその実践がもつ解放の射程を検討する。
1 理論的背景
1・1 用語の生成と射程
ニューロクィアという語について、先行研究では、「ニューロクィアは、オンラインコミュニティの構築に取り組む活動家、学者、ブロガーの共同作業」(Egner 2019, 123)であると指摘されているが、ニューロクィアについて著作を出し、議論を先導しているカリフォルニア統合学研究所(CIIS)の心理学教授ニック・ウォーカーは2008年に「ニューロクィア」という語を着想し、十五年にわたり理論と実践を連環させてきたと言う(Walker 2021, 169)。彼によれば、ニューロクィアとは「神経定型発達規範(neuronormativity)」と 異性愛規範を同時にクィア化する行為である」(Walker 2021, 160-161)。神経定型発達規範とは、いわゆる「神経定型発達」で当たり前とされる規範であり、ウォーカーは「手の動きの監視」(Walker 2021, 183)、つまり、手をひらひらさせない、動かしたいように動かさないなどといった規範などを例に挙げている。ニューロクィア理論は、こうした神経定型発達規範の恣意性を明らかにし、その理論に基づく実践は、神経定型発達規範と異性愛規範をともに「クィア化」、つまり、規範を攪乱し可塑的主体を生成する。
1・2 八つの実践領域
ウォーカーはニューロクィア理論に基づく実践を八つの相互連関的実践として分類する。①神経多様性とクィアネスの交差の探究、②神経特性を用いたジェンダー/セクシュアリティ表現の再構築、③内面化規範の解体、④意図的な神経過程の変容、⑤文化的語りの書き換え、⑥文学芸術の創造、⑦表象批評、⑧コミュニティの構築である(Walker 2021, 160-161)。動詞としてのニューロクィアは、この八領域を行き来するプロセスを指し、形容詞・名詞としての「neuroqueer」は実践の過程で生成する流動性をもった可塑的な自己を示す。
1・3 ニューロクィア理論における四つの視座
ウォーカーはさらに、クィア理論を参照しつつ、(1)神経定型発達規範・異性愛規範は自然ではなく社会的構築物である、(2)規範は文化制度を通じて内面化される、(3)内在的傾向は規範に抗い得る強度を持つ、(4)主体は生得傾向と社会的学習の相互作用で生成する、という四認識を提示する(Walker 2021, 169-170)。ニューロクィア理論は生物学的本質主義と純粋社会構成主義の両極を避け、「二〇%の本質と八〇%の構築」と言えるという(Walker 2021, 169-170)。
2 クィア・スタディーズとの交差
クィア理論は、アイデンティティの固定化を拒み、差異を連帯の基盤とする批判的視座である(森山 2017)。ニューロクィア理論はこの視座を神経領域へ拡張し、神経多様性(neurodiversity)パラダイムの「多様性の事実」から一歩進め、「規範転覆の戦略」へと転換する。ウォーカー自身、「創造的潜在能力の解放はアイデンティティラベルではなく実践の選択に依存する」と述べ、本質主義的アイデンティティ政治の限界を批判する(Walker 2021, 176-177)。
3 ニューロクィア理論に基づく実践が持つ可能性の具体例
ニューロクィア理論に基づく実践が持つ可能性として、とくに教育分野におけるASD当事者のスティミングやエコラリアへの対応の仕方を例示したい。従来の応用行動分析(ABA)に基づく教育実践がこれらを「問題行動」と位置付け抑制してきたのに対し、ニューロクィア理論に基づく実践は、ASD当事者の身体の自律的リズムを肯定し、学習様式へ包摂する。これは単なる個別的環境調整(合理的配慮)ではなく、教室全体の規範を「動かし」、神経定型者にも創造的逸脱の余地を開く実践である。
4 日本の教育への適用可能性
糸賀一雄は物資が欠乏し、あらゆる物が足りない1946年に文字通り見捨てられていた知的障がい児の生活・教育の場、近江学園を創設、住み込んで文字通り365日休まずに尽力した。しかしながら、最も誠実に障がい当事者に向き合った糸賀でさえ、「規範」からは自由では無かった。近江学園では夜尿症児童に対し、その「治療」を目的に脳下垂体埋没手術が行われたのである(糸賀 1965, 94-95)。糸賀は「この子らを世の光に」と唱えつつ、夜尿を「治療すべき欠陥」とみなした点で神経定型規範の枠外を想像できなかった。これは日本における教育は、このように「神経定型発達規範」を前提として行われており、それは、エコラリアの矯正に見られるように、現代においても継続している状況にある。こうした現状に対し、ニューロクィア理論に基づく実践は、障がい当事者だけでなく健常者も含めた「全員」が自己を神経定型発達規範から解放し、真に自分らしく生きるための教育を受けるようになる。
5 障がい者/健常者二分法を超えて
ウォーカーは「ニューロクィアの個人とは、生まれ持った性別、性的指向、または神経認知機能のスタイルに関係なく、ニューロクィアの実践に従事することで、アイデンティティ、自我、ジェンダーパフォーマンス、および/または神経認知スタイルが何らかの形で形成された個人のことです」(Walker 2021, 161)と述べる。つまり、ニューロクィア理論に基づいて、神経定型発達規範から解放された実践を行う者は、ニューロクィアな個人と言えるのだ。このニューロクィア理論に基づく実践が普及すれば、障がい者のみならず「普通」を演じざるを得なかった人々も、規範からの解放を経験しうる。
結論
ニューロクィア理論は、神経定型発達規範と異性愛規範が相互補強し、障がい当事者のみならず、健常者をも抑圧する構造を暴き、主体の流動性を方法論として導入する点で独創的である。日本の教育がこの視点を採用するならば、糸賀が超えられなかった「規範の壁」を動態化し、真に「この子らを世の光に」と言える社会に変える契機となるだろう。
参考文献
- Egner, J., 2019, “The Disability Rights Community was Never Mine: Neuroqueer Disidentification,” Gender & Society, 33(1): 123-147.
- 糸賀一雄, 1965,『この子らを世の光に—近江学園二十年の願い』柏樹社.
- 森山至貴, 2017,『LGBTを読みとく—クィア・スタディーズ入門』筑摩書房.
- Walker, N., 2021, Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities, Autonomous Press.
- Walker, N. & Raymaker, D. M., 2021, “Toward a Neuroqueer Future: An Interview with Nick Walker,” Autism in Adulthood, 3(1): 5-10.