自由報告2-5

森下摩利(立命館大学大学院先端総合学術研究科 一貫制博士課程)
盲ろう者運動の前史――1960年代に活動したある盲ろう者の記録から
報告要旨

盲ろう者運動は1980年代に始まり、1991年に当事者団体および支援団体が発足し、本格的に盲ろう者運動がスタートしたと考えられている。しかしその約20年前、山口県仙崎において運動を起こした盲ろう者がいた。その存在は盲ろう者運動のなかで知られていたものの詳細は明らかになっていなかった。今回その盲ろう者の記録と、その活動が社会に一定程度影響を与えたことが確認できたため、本発表にて報告する。

報告原稿

報告の趣旨

現在の盲ろう者運動の契機は、1981年の「福島智君とともに歩む会」(東京)と1984年の「障害者の学習を支える会――門川君とともに歩む会」(大阪)の発足だといわれている。いずれも大学進学を目指す盲ろう青年の生活と勉学を支えることを目的とした。この2つの会は発足後まもなく現在の「盲ろう者向け通訳・介助員派遣制度」の原型を作り、1991年に設立した支援団体「全国盲ろう者協会」や当事者団体「東京盲ろう者友の会」ならびに「大阪盲ろう者友の会」の母体となった。一方で、その約15年前の1964年に山口県仙崎にて盲重複障害者の会「われら生きるの会」を立ち上げ活動した盲ろう者がいた。若くして全盲ろうになった中木屋スミヱである。
例えば、愼英弘は盲ろう者の存在が社会に認識されたのは1980年代以降だとし、それまでは「厚生行政や社会福祉関係者には盲ろう者についての認識はほとんどなかった。」と述べている(愼2008)。確かに中木屋の活動は約5年と短く、盲ろうという障害ゆえに一時的な活動で終わってしまい(小島 1990; 福島 2011)、よって1980年代の盲ろう者運動がはじまるまで、盲ろう者の存在は社会にほとんど認識されてこなかったと考えられてきた。
しかし今回の文献調査で、中木屋の活動が盲ろう者の存在を社会に一定程度示すものであったことが明らかになった。

中木屋スミヱと「われら生きるの会」の活動

 中木屋は1931年に山口県仙崎に生まれる。15才の時に泥水がはねて目に入り右眼に斑点のような傷ができたが、日常生活に支障はなかった。高等小学校を卒業後、右眼のせいで結婚はできないだろうと考え、洋裁学院に通いデザイナーを目指す。昼間は一家の生計を助けるため蒲鉾工場に勤め、夜は洋裁学院で学んだ。22才の時に縁談の話があり、右眼の斑点を治そうと北九州市の病院で手術を受けたが失敗し失明、半年後には失聴する(『朝日新聞』1969年12月9日)。それから何度も自殺を企てる。中木屋は当時の自分を「日々はげしい耳なりに苛まれ、狂いまわる野獣のように手のつけられえない癇癪もちになってしまった。」と記している(阿部編 1970)。
25才の時に視覚障害者より点字を習い、すぐに点字を習得。その後、図書館司書の阿部葆一と出会う。阿部は健常者で、視覚障害者の読書会で点字回覧誌『まどい』の編集を指導しており、中木屋に入会を薦めた。中木屋は『まどい』に多くを投稿するようになる。そして自分と同じ境遇の人と交流をはかろうと、1964年33才の時に盲重複障害者を中心とした「われら生きるの会」を設立、点字回覧誌『われら生きる』を創刊する(『朝日新聞』同)。
『われら生きる』の回覧方法は、まず会員から送られてくる投稿文を中木屋が製本する。それをある会員に郵送し、その会員が読み終わったら次の会員へ郵送するというものだった。会員は約20名で「視力障害の上にろう・難聴・四肢障害・原爆症・ハンセン氏病・スモン病・ベーチェット病などをはじめあらゆる疾病や障害に悩んでいる人」がおり、会員の所在地は山形、栃木、広島、愛媛や鹿児島などだった(阿部編 同)。点字回覧誌は年2回のペースで第5号まで発行された。
1966年、中木屋が按摩の免許取得のため盲学校に入り回覧誌の活動は休止になるが、卒業後の1969年『われら生きる 再刊記念号(点字版)』を発行、200部を盲学校などに配布した。これを機に寄付金が集まり、1970年『われら生きる すみ字版 第一集』(以下、『すみ字版』と記す)を発行した(『朝日新聞』同)。

中木屋スミヱと『われら生きる』の影響

中木屋は、1964年と65年に日本点字図書館作文コンクールに入賞、1966年には雑誌『婦人之友』に投稿するなど会以外の執筆活動も行っていた。また、『まどい』や『すみ字版』に書かれた中木屋の生活実態や生き方について、精神科医の神谷美恵子(1971)や社会評論家の丸岡秀子(1978)、女性史研究家のもろさわようこ(1978)が言及している。社会福祉学者の一番ヶ瀬康子は『現代社会福祉論』で「「人はいかに生きているか」という現実認識」から社会福祉の科学的認識を探求しなければならないとし、『すみ字版』にある中木屋の「発刊のことば」の一部を抜粋(一番ヶ瀬 1971a)、『解説社会福祉』では「発刊のことば」全文を掲載している(一番ヶ瀬 1971b)。
このように中木屋の活動とその存在は社会に一定程度認識されていたことが明らかになった。
ただ、中木屋の活動は短命に終わってしまった。中木屋自身の執筆は『すみ字版』を最後に途絶えている。

参考文献

阿部葆一編,1970,『われら生きる すみ字版 第一集』われら生きるの会.
福島智,2011,『盲ろう者として生きて――指点字によるコミュニケーションの復活と再生』明石書店.
一番ヶ瀬康子,1971a,『現代社会福祉論』時潮社.
一番ヶ瀬康子,1971b,『解説社会福祉』医歯薬出版.
神谷美恵子,1971,『人間をみつめて』朝日新聞社.
小島純郎,1990,「発刊にあたって」『コミュニカ 創刊号』全国盲ろう者協会設立準備会.
丸岡秀子,1978,『埋葬を許さず――丸岡秀子評論集3』未来社.
もろさわようこ,1978,『女のはたらき ドキュメント女の百年3』平凡社.
愼英弘,2008,「日本における盲ろう者福祉の歴史」『社会事業史研究』35: 37-51.