桐原尚之
1990年代の全国「精神病」者集団事務局の体制変化
報告要旨
本報告では、1990年代の全国「精神病」者集団事務局の急激な体制変化の歴史を明らかにする。全国「精神病」者集団の刊行物類、事務局の記録、埼玉県精神障害者連絡会議等の刊行物、全国精神障害者団体連合会の刊行物類、前進友の会やごかいの刊行物類を一次史料にして叙述する。事務所は、1989年に死刑囚だった赤堀政夫さんが無罪で釈放となり、ほどなくして大野萌子が介護をすることになった。これに伴い大野萌子が管理していた名古屋事務所の運営が困難になり、京都事務所へと移転した。1993年に全国精神障害者団体連合会が結成した。全国「精神病」者集団の事務局は、全精連の評価をめぐって立場がわかれた。このような事態に至った理由は、セクトの影響(埼玉県の事例)、「処遇困難者」専門病棟新設及び手帳制度への態度が大きく作用していることがわかった。このような精神障害者同士の対立は、世界的にも頻繁にみられるものであり、”協調することが難しい人同士による組織”という観点から様相を明らかにした。
報告概要
1990年代の全国「精神病」者集団事務局の体制変化
桐原尚之 同志社大学特別研究員
はじめに
精神障害者の社会運動の歴史研究は、身体障害者の社会運動に歴史研究と比較してもほとんど蓄積がない。これまで精神障害者の社会運動の歴史研究が進まなかった要因のひとつには、当事者同士の激しい“応報合戦”に対する躊躇があげられる。このような“応報合戦”がいかにして発生し、どのように捉えるべきものなのかについては、社会モデルの観点から精神障害を捉え、かかる問題を解消していく上では避けて通れないはずであるが、全くと言ってよいほど着手されていない状態であり問題がある。つまるところ、精神障害者の社会運動の歴史研究を進めていくことなくして解決は難しい。
本報告では、1990年代の全国「精神病」者集団事務局の急激な体制変化の歴史を明らかにする。全国「精神病」者集団の刊行物類、事務局の記録、埼玉県精神障害者連絡会議等の刊行物、全国精神障害者団体連合会の刊行物類、前進友の会やごかいの刊行物類を一次史料にして叙述する。
全国精神障害者団体連合会の結成
1972年、谷中輝雄はやどかりの里の訓練課程卒業者25名を中心に始めた「やどかりの里朋友の会」に関わり、1967年に活動を始めた神奈川県の「あすなろ会」とともに全国的患者活動を目指し、支援活動を展開した。全国の患者交流は「全国交流集会」という名称で 1976 年から毎年 1 回開催された。全国交流集会は、7 回目で解散となり、1983年に富山県で「全国精神障害社会復帰活動連絡協議会(全精社連)」という名称で新たに活動を開始することになった。1990 年 9 月に開催された第 8 回全精社連埼玉大会において精神障害者自身が活動することの必要性が確認され、1991 年 6 月に開催された第 9 回全精社連札幌大会では、将来的に全精社連を発展的に解消する形で精神障害者の全国組織を結成することが決議され、ほどなくして全国精神障害者団体連合会準備会が組織された。1993年、全国精神障害者団体連合会が結成した。全国精神障害者団体連合会は、処遇困難者専門病棟の検討を求める主張や精神障害者保健福祉手帳制度を支持するような主張をしていった。
全国精神障害者団体連合会の結成に対する反応
全国「精神病」者集団、前進友の会、ごかい、「精神病」者関東有志の会、救援連絡センターなどで構成される「処遇困難者」新設阻止共闘会議は、全精連の結成を御用組織の結成と精神障害者同士の分断の問題であると捉え反全精連を方針に掲げることの是非について議論をおこなった。全国「精神病」者集団の大野萠子と山本眞理は、仲間に対して反などというべきではないとし反全精連の方針を出すことに反対した。これに対して前進友の会、ごかいは、反全精連を掲げるべきだとして、大野萠子と山本眞理に対して反論した。1996年2月25日、全国「精神病」者集団事務局員であった高見元博・佐藤忠・多田道夫は、全国「精神病」者集団への決別宣言を出し、ごかい・前進友の会とともに反全精連を掲げることを態度として示した。1996年4月1日、大野萠子と山本眞理は共同声明を出して事態の鎮静をはかろうとするも、かえって反論に反論を呼び、山本眞理への非難が絶えない状態に陥った。
1996年6月、山本眞理は事態の終息に向けて事務局員を辞任する意向を発表した。
埼玉県
埼玉県には、谷中輝雄が結成したやどかりの里がある。埼玉県下では、埼玉県精神障害者団連連合会が結成され、全精連傘下団体として活動していくことが期待されていた。しかし、埼玉県精神障害者団連連合会準備会のメンバー数名が脱退し、別に埼玉県精神障害者団体協議会を結成した。このことで埼玉県下に精神障害者団体の連合会が2つ存在するかたちになった。埼玉県精神障害者団体協議会は、ごかいや前進友の会とともに全国「精神病」者集団の大野萠子と山本眞理の方針に反発し、埼玉県下における埼玉県精神障害者団連連合会とのかかわりについて訴えた。主には、埼玉県精神障害者団連連合会の人事、埼玉県精神障害者家族会連合会との関係(当事者としての独立性)、谷中輝雄によるアクション自体への批判、日本共産党系の団体の関与に対するセクト論的な批判であった。ところが、埼玉県精神障害者団体協議会は、ごかい・前進友の会との関係悪化に伴い共闘を解消し、1994年8月8日から全国「精神病」者集団埼玉分会・旬の会を名乗るようになった。
考察
精神障害者の社会運動は、アクター同士が複雑なノームでつながっているものの、全精連の系譜と反全精連を掲げる系譜、大野萠子と山本眞理をはじめとする全国「精神病」者集団の系譜という概ね3つほどの集団にわかれている。これらの集団は、①主張の違い、②セクトの違い、③感情という複数の要因でわかれるかたちになっている。①は、処遇困難者専門病棟や精神障害者保健福祉手帳制度の評価、②は日本共産党系に対する新左翼系の反発、③は感情抑制の低下という機能障害の問題を含んでいる。③については、障害文化として肯定的に捉えるべきものとの位置づけられており、対立という単調な評価を与えること自体が健常者的な社会規範にあてはめたものであり医学モデルの側面を有することになる。