ポスター報告 20

長谷川唯
消極的安楽死と障害者権利条約第10条との関係 ――人工呼吸器を装着しないという自己決定
報告要旨

本報告の目的は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人の人工呼吸器の選択における自己決定について、障害者権利条約第10条に照らすことで、本人の視点から問題や課題を探ることである。ALSの人たちは、人工呼吸器を装着すれば長期生存が可能である。だが、医療において人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られ、ほとんどの人が装着をしない。こうした医療のあり方が延命治療に対する消極的安楽死と捉える向きもある。障害者権利条約では、消極的安楽死を含む安楽死について、態度が明確に示されていない。人工呼吸器の装着の選択は、生き死に直接的に帰結する。人工呼吸器を装着すれば生きられる人に対して、その選択を迫ることは、障害を理由とした差別であるといえる。少なくとも、そこでの自己決定は、障害を間接的な理由とした生命の否定で違反する。間接的差別によって自らの決定で生命を奪われている実態に目を向け、議論を蓄積していく必要がある。

報告概要

消極的安楽死と障害者権利条約第10条との関係――人工呼吸器を装着しないという自己決定

長谷川唯

・研究目的
本報告の目的は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人の人工呼吸器の選択における自己決定について、障害者権利条約第10条に照らすことで、本人の視点から問題や課題を探ることである。

・安楽死・尊厳死の本質
▶生きることに値しない命がある
▶ 障害・疾病のある状態で生きていたくないから死を選ぶ。
安楽死と尊厳死に背景には、そうまでして生きていたくない/生きなくていいと思わせる社会がある。

・積極的安楽死/消極的安楽死≒尊厳死の本質
▶ 積極的安楽死(active euthanasia)「死なせること」
患者に致死薬を投与する作為によって死なせること。
▶ 消極的安楽死(passive euthanasia)≒尊厳死 「死ぬにまかせること」
延命治療を行わない、あるいは中断するという不作為によって患者を死に至らしめること。

◇生き死にを決める自己決定としての安楽死の解釈の可能性
障害者権利条約第10条 生命に対する権利
締約国は、全ての人間が生命に対する固有の権利を有することを再確認するものとし、障害者が他の者との平等を基礎としてその権利を効果的に享有することを確保するための全ての必要な措置をとる。

第10条だけでは、安楽死は、ありのままに生きるという「生命に対する固有の権利」を脅かすものなのか、それとも「生命に対する固有の権利」の一部として生き死にを選べることであるのか、二通りの解釈が存在し得る。
さらに、第12条「法の前の平等」では、「障害者がその法的能力の行使に当たって必要とする支援」、
「法的能力の行使に関連する措置が、障害者の権利、意思及び選好を尊重すること」が求められている。法的能力の制限を受けず、治療拒否権がそのまま認められることで、死ぬという権利として解釈する余地が残る。生き死にを決める権利としての安楽死の理解が強められてしまう。

◇侵襲行為である医療の立ち位置
侵襲行為→違法。
他者の身体や権利に対して直接的に侵害する行為は、国際法や国際条約(拷問等禁止条約など)で禁止されている。各国はそれに基づいて国内法を整備している。
医療における侵襲行為
本人の同意に基づいて、医療の必要性が認められ医療の専門的な基準に従い適切に行われる行為については、違法性が阻却される。
ただし、本人の同意については、医療の必要性が判断されれば緊急時や本人の意思確認ができない場合でも推定同意によって、医療を実施することは可能とされている。

◇人工呼吸器の装着を選択させる社会――自己決定という名の“生き死に”の選択
ALSの人たちは、人工呼吸器を装着すれば長期生存が可能である。
だが、医療において人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られ、ほとんどの人が装着をしない。

生きるためには人工呼吸器の装着が必要不可欠なことがわかりながらも、本人に装着するかしないかの選択をさせる。
→“生き死に”の選択を自己決定として求めている。

◇ALSの人が抱える相反する二つの気持ち
「生」と「死」のあいだで揺れ動く。
「死」の部分だけを切り取って、優先して、「意思決定」「自己決定」とするのなら、ALSの人はほぼ全員が「死」を希望した(している)ことになってしまう。
人工呼吸器を装着しないことが「死」を意味することをわかりながら「自己決定」を求め、装着すれば生きられることがわかりながら、そうではない「選択」(装着しない)を尊重するという態度。
→人工呼吸器を装着する/しないの自己決定を求める時点で、生命を尊重しなくてもよいものと位置付けている。
→本人が自ら死を選択したと捉えること自体が差別。

◇人工呼吸器装着を選択させる社会、医療の在り方の問題。
侵襲行為である人工呼吸器の装着については、説明と同意が必要である。
しかし、医療者による中立的な立場で公平な支援――生きるためには人工呼吸器の装着が必要不可欠なことがわかりながらそれを本人に選択させること――が、ALSの人たちは生きるという当たり前の権利さえも、選択をしないと得られない存在にさせられてしまっている。
→本人を生きなくてもよい存在として、本人の生を否定してしまっている。
生きる権利が当たり前に認められていないからこそ、死ぬ権利が主張されてしまう。
→生きることが当たり前の社会で、“生き死に”の選択を本人に迫る。
→生きていなくてよい存在であることを突き付けている。

◇意思決定支援の手前の問題
様々な意思決定支援の形がありますが、医療における意思決定支援といわれるものは、生きるために必要な治療をしないという選択が正当化されてしまう点では同じ。
・意思決定支援の不具合
手続きによって決定や選択の負担が分散されても、それ自体の効力は本人にしか及ばない。

◇生きてありのままでいることを脅かす差別としての安楽死の解釈
障害者権利条約第25条「健康」では、他の者と同質の保健サービスを求めている。そのため、障害や疾患による苦痛を要件として安楽死を法的に認めることは、障害者を他の者と同一の範囲の保健サービスによらず死なせるものである。第25条の趣旨に反することになる。
それによって、第10条の「生命に対する固有の権利」がありのままに生きる権利として存在することになる。そして、安楽死は「生命に対する固有の権利」を脅かすものとして位置づけられる。
障害者権利条約第5条は、障害に基づくあらゆる差別を禁止している。障害のある人を社会の負担とみなす、永続的かつ屈辱的な定型化された観念、スティグマ及び偏見を取り除くことを求めている。ここからすれば、「生命に対する固有の権利」を脅かす安楽死は差別であり、第10条の趣旨にも反する。
さらに、障害を直接的な要件にしていない生命の剥奪も差別になり、第10条の趣旨に反することになる。
ALSの人の人工呼吸器の選択における自己決定は、障害によって存在が否定されている中での自己決定。
→障害を間接的な理由とした生命の否定であり、第10条の趣旨に反する。
そもそも、人工呼吸器を装着すれば生きられる人に対して、その選択を迫ることは、障害を理由とした差別である。ALSを理由に――障害や病を理由に、「生」と「死」のあいだで揺れ動いているなら、第12条に基づき法的能力の行使にあたり必要な支援をしながら、生存に向けた意志及び選好を可能にしていく必要がある。障害者権利条約は、障害者が他の者と平等に生きる権利を保障するものであるから、間接的差別によって自らの決定で生命を奪われている実態に目を向けて、生きる権利の保障の在り様について議論を蓄積していく必要がある。