ポスター報告 15

山口和紀
関西「障害者」解放委員会からみた「全障連」結成史——「発達保障」論への対立を軸として
報告要旨

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の結成は、障害種を横断した障害者本人による全国的組織の結成という点において、日本の障害者運動の展開においてきわめて重要な意味を持っている。この全障連の結成は(関西)青い芝の会と関西「障害者」解放委員会(障解委)の結びつきによって成立したものとおおむね考えられる。既存研究では、青い芝の会側から見た経緯については検討・記述がなされてきたものの、障解委側の動きについてはほとんど検討の俎上に載せられてこなかった。そこで、本報告では関西「障害者」解放委員会の発行していた機関紙『「障害者」解放通信』の記述から、障解委側から見た「全障連」の結成史を検討する。関西「障害者」解放委員側は、とくに「全障研」への対抗組織を立ち上げるために、全国的な障害者運動組織の結成の必要性を強く主張していた可能性が示唆される。

報告概要

【目的】
1976年の全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の結成、1970年代において当事者主義的な障害者運動の全国的な組織が結成されたという点で重要な到達点であった。この全障連は、主として青い芝の会と関西「障害者」解放委員会(障解委)が協働して組織したものであることが知られている。このうち、青い芝側の経緯については、立岩[1990]などである程度論じられてきたが、障解委側の結成に向かう経緯はほとんど議論がない。全障連は、のちに養護学校義務化反対を組織的に主張するが、その「全障研」への反対の基礎は八木下をはじめとする青い芝の運動のみから持ち出されたものではなく、むしろ障解委が「全障研」批判を強く主張していた可能性がある。そこで本研究では、障解委が発行していた機関紙『「障害者」解放通信』の議論の分析を通して、障解委が全障連結成へと向かった経緯を分析する。
【方法】
文献調査を行った。障解委が発行していた機関紙『「障害者」解放通信』の1974年6月発行号(17号)から、1977年11月発行号(35・36合併号)までを分析の対象とすることができた。なお、いずれも、立命館大学生存学研究所所蔵資料であり、目録はarsvi.comに掲載されている。
【結果】
1974年6月刊行の17号には八木一吾(やぎ かずお)名義で「「全障研にかわる「障害者」解放をめざす強固な組織を建設するための覚え書」(八木[1974])という文章が掲載されている。この八木については、おそらくは健常者であったようだが、来歴等は不明である。23号(1975年2月刊行)には同著者による「日共=全障研にかわる「障害者」解放をめざす強固な組織を建設するための覚え書ー「障害者」解放のためにえへの(ママ)解説(8) 」という論考が掲載されている。なお対象とした各号すべてに同様の趣旨の論考が掲載されている。いずれもタイトルにある通りではあるが、「全障研」(全国障害者問題研究会)への対抗のために、障害者解放の「強固な組織」づくりが必要であるという趣旨が述べられている。
以下にそのうちから「覚え書き」(八木[1974a])の文章を引用する。
” 最近我々は「全障研の基本的な立場は?」という質問をよく与えられる。「さぁ私にはよく判りませんが、我々は我々の経験から全障研活動では勝利しえないことをいやというほど知っているのです」と答えるのでは、ダメなのである。[…]「我々と全障研との関係は、単に我々に対して反トロキャンペーンをしてくれるだけでなく、数か月先には大衆闘争の只中で徹底した論争として、そしてどちらがどちらを解体するのか、という段階に突入するであろう”(八木[1974a:6-7])
また、八木は八木[1974b:2]において「[…]そして、日本共産党のセクト的利用主義であることをビラをもって明らかにした。[…]8回大会はこの関係をますます明らかにするものであった。全障研改良主義をのりこえる。≪第2回、「障害者」解放全国討論集会≫の開催を組織しよう!(八木[1974b:2)」ともしている。のちにこの全国討論集会は実際に開かれ、全障連結成へとつながっていく。
こうしたアジテーションの色の強い文章が『障害者「解放」通信』の各号には八木の名義において掲載されていたが、代行主義・改良主義的な「全障研」に対抗する必要があるとする観方に立ち、「全障研」を否定し、障害者解放のための(全国的な)組織掲載の必要性を説くものであった。
【考察】
全障連において「全障研」への対抗という意識があったとする観方は従前示されてきた。例えば小国[2019]は、「全障連は、結成当初から全障研への対抗姿勢を鮮明にしていた」(p.25)と指摘する。このような「全障連」における「全障研」への対抗という意識は、そもそも障解委においては、当初から組織結成のモチベーションとなっていたことが本結果から示唆される。そこで、今後の研究課題として、障解委において「全障研」への対抗意識がいかにして生じたのかという点を今後の研究課題としたい。
【文献】
◇小国喜弘 2019 「障害児教育における包摂と排除——共生教育運動を分析するために」,小国喜弘編『障害児の強制教育運動——養護学校義務化反対をめぐる教育思想』,東京大学出版 ◇立岩真也 1990 「はやく・ゆっくり一一自立生活運動の生成と展開」安積他 [1990 165-226→ 1995:165-226」 ◇八木 一吾 1974a 「全障研にかわる「障害者」解放をめざす強固な組織を建設するための覚え書」,関西「障害者」解放委員会 『「障害者」解放通信』17:6-8
◇八木 一吾 1974b「日共=全障研(障連協)改良主義の道か多数派をめざす我が「障害者」解放斗争の路線か(上)」,関西「障害者」解放委員会 『「障害者」解放通信』20:1-3