自由報告2-5

種村光太郎
障害学は「ろう者」をどのように捉えることができるのか――「ろう」を巡る葛藤を通じて
報告要旨

「ろう者」という存在を巡って、障害学とろう者学では何度か学問的対話が試まれてきた。しかしその試みは、うまく行っていないのが現状である。その背景として、ろう者の「文化的側面」、つまり「ろう文化」を障害学がいかに捉えることができるのかという問題がある。
従来「ろう文化」を明らかにする研究では、聴者とろう者を比較し、「ろう文化」を明らかにしてきた。なぜなら、聴者とろう者という背景が異なる人々の比較を通じて、それぞれの文化の特徴を明らかできるからである。しかし、「ろう者」と同じ聞こえない人であっても、「ろう」という言葉を「障害」であると捉える人が一定数存在する。だとするならば、「ろう文化」を捉える時、聴者とろう者という対立軸から見出されるものだけでなく、「聞こえない/にくい」当事者同士の関わりの中でも別様の「ろう文化」を見出せる可能性がある。そこで本報告では、「聞こえない/にくい」当事者同士の対立軸の中からなにが「ろうである/ない」とされるのかを見出し、別様の「ろう文化」の提示を目指す。そしてその別様の「ろう文化」を障害学がいかにして捉えることができるのか検討する。

報告概要

1はじめに

戦前から現代にかけて,聞こえる人(聴者)たちは耳の聞こえない人たち,すなわち「ろう者」に対し聴者側の利便性に合わせ作られた読唇などのコミュニケーション方法を強いてきた(金澤 2013).そのような聴者優位の考えに対し,1995年に当事者たちは,ろう者ならではの文化やろう者が使う自然言語としての「日本手話」の存在を主張する「ろう文化宣言」を発表した(市田・木村 1995).「ろう文化宣言」は,従来「聞こえる/聞こえない」という関係で捉えられていた聴者とろう者の関係を,「言語的少数者でない/言語的少数者である」と新しく定義したことで「ろう者アイデンティティ」の基礎を作った.すなわち,この新しい定義付けは,聞こえないという病理的視点から定義されたろう者像を否定し,聴者と対等な文化を持つ「言語的少数者」としてポジティブに語り直す点で,大きなインパクトを社会にもたらした.

その一方,このような主張に対して,「ろう文化宣言」が聞こえない当事者の中で「分断」を生んだとする主張(e.g.中川 2017)や,障害学からの批判(e.g.長瀬 1996)が起こった.そして,それらの批判に対するろう者側からの応答もなされている(e.g.木村 2020).

では,この「分断」は,いかなる争点で引き起こされるものなのか.本報告では,実際のろう者同士の対立の具体的な事例から,改めてろう者の対立の争点を析出し,障害学から「ろう文化宣言」に対する批判が起こる原因について検討する.

2.1調査対象と研究手法

本報告では,聞こえない当事者のなかで「ろう者らしさ」を巡る対立を具体的に調べるため,「近畿ろう学生懇談会」を対象として争点を析出する.

近畿ろう学生懇談会(以下,近コン)は,1959年に設立され,現在も活動を続けている学生の運動団体である.近コンは,何らかのタイミングで一度「近畿聴覚障害学生懇談会」という団体名に変わったのだが,1995年のろう文化宣言を発端とする「ろう文化」や「言語的少数者としてのろう者」を重視する考えに影響を受け,1997年に再度「近コン」という名称に変更した.名称変更の前後には,「ろう」「聴覚障害」に関する激しい議論が行われ,「ろう」という言葉に馴染めない聞こえない人や,聴者が退会していったという.今回調査の対象としたのは,日本でろう文化の運動が活発になっていく1992年頃から1997年頃にかけて,近コン内部で「ろう」という言葉に馴染めなかった聞こえない人たちである(なお,以下の語りでは全て仮名を用いている).

本研究の遂行に際して,筆者は,手話(主に日本語対応手話¹⁾.場合に応じて「日本手話」)を用いて,当時の関係者6名に半構造化インタビューを行った.なお本研究は,「立命館大学における人を対象とする研究倫理審査」の承認(衣笠‐人‐2023‐68)を受けて実施した.

2.2ろう者の「固定性」

 インタビューの結果,「ろう者」の対立の争点は,以下の2点であると考えられる.

(1)「日本手話」の使用を求めるコンフリクト

 インタビュー対象者が違和感として語ったもののなかで多く見られたのが,団体内部で「日本手話」を絶対的なものと考えていたこと,「日本手話」を徹底的に追求したことである.

遠藤

前も言ったけど,(近コンのなかで話してたこととして)「聴者がいると手話が汚くなる」とかね.

種村

「汚くなる」っていうのは….日本語の影響を受けるから?

遠藤

そうそう.「対応手話が入ると汚くなるから,やめろ」って.そこまで言うかって思ったけど(笑)

野口
「(日本手話を)身につけたほうがいい」っていうか,「(日本手話が)できないとろう者じゃない」って.結構過激な言い方をされた覚えがありますね.
種村
あー.「身につけろ」みたいなことは言われないんですか.
野口
「身につけろ」っていうより,「こうじゃないといけない」みたいな.

以上の遠藤さんの語りからは,聴者が近コンに来ることで「日本手話」が日本語に影響され,「日本手話」が汚されることへの危惧が語られている.また,野口さんの語りでは,「日本手話」を身につけることが,「聞こえない人」から「ろう者」になるために必要であるという強い主張が語られている.これは,聴者が日本語,ろう者が「日本手話」という「それぞれ異なった,独自の言語」を用いる存在だという前提の上で,言語間の影響によって,ろう者の言語「日本手話」が聴者の言語「日本語」に近づいてしまうことへの危機感だと捉えられる.したがって,近コンの中では「日本語」を徹底的に排除することで,「日本語」とは異なる言語,すなわち「日本手話を使う」ろう者の存在を固定化しようとしたのだと推測される.

(2)「音」を巡るコンフリクト

 また,インタビュー対象者の語りで葛藤があった点として,「音」に関する違和感があった.例えば,以下のようなものである.

遠藤

「声やめろ」「難聴はやめろ」って話があって.

種村

難聴やめろっていうのは….声を出すのと手話が同時に出ているから,それをやめろって?

遠藤

それもあるし,「お前ろう者か,聴者かどっちやねん!」「どっちか決めろ!」っていう.

種村
家族でのコミュニケーション方法がキュードって近コンで言ったら,怒られる?
野口
そうですね.キュード²⁾と声はだめだ!って.でも,自分の家族と話すためにはその手段が必要だし,それを捨てるつもりもないし,それを正直に言ったら,ダメだと言われるし.「ろう者じゃない」とか「偽ろう者」だとか言われるし.

聴者とろう者は,それぞれ音声言語と視覚言語を母語としており,言語文化的に異なる存在である.しかし,従来のろう者教育では,ろう者に対して聴覚を活用させ,音声日本語を習得させることを目指してきた.そのため,聴者の文化であるはずの「音」が,補聴器という機器や,教育方法という形でろう者の世界に入ってくることになった.そのため,聞こえない当事者であっても,声を使用する人がいたり,補聴器によって「音」に頼る生活を行う聞こえない人が生まれた.これは,ろう者と聴者の関係に,「音を活用する難聴者としての聞こえない人」を生み出すことにつながった.すなわち,「聞こえない存在である」「使用する言語が別である」にも関わらず,補聴器を使う,あるいは音声を用いようとすることで,「聞こえ」「使用言語」において「可変性」を生み出すことにつながったのである.

そこで近コンでは,「ろう者」としてのあり方を示すために,「声」の使用や,補聴器の使用という可変性を拒み,「音」という概念がろう者の文化に不要であることを示した.つまり,ろう者の文化として「音が不要であること」を固定化しようとする主張だと捉えられる.

では,近コンのなかで行われた「ろう者の固定化」を目指すこの2つの活動や言説をいかに捉えることが出来るか.そして,それがなぜ「対立」を生み出したのか.

3,1承認論について

本報告では,この対立の議論を理解する補助線として,アクセル・ホネットの「承認論」の議論を参照する.ドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは,「愛」を相手を自分にとって大切な存在として認める,ということであり,その意味で承認の一つの形(越智・河野 2015:23)」であると述べる.そしてホネットは,「愛」という言葉をキーワードに,承認論を「愛」「人権尊重」「業績評価」の3つに分類する.そして越智・河野は,このホネットの承認論に対応する形で,「愛」を「徹底して差異性の承認」を目指すもの,「人権尊重」を「同一性の承認」を求めるもの,「業績評価」を「同一性を基準としつつ結果として差異を志向するもの」に整理を行う(越智・河野 2015:28-9).

まず「徹底して差異性の承認」を目指すとは,ホネットが述べる「愛」のように,一人の人間を尊重するということであり,個人への関心に目が向けられる.そこでは個人の差異にこそ関心が向けられ,同一性・共通性・普遍性への関心が希薄になる(越智・河野 2015:30).

次に「同一性の志向」とは,普遍的志向を特徴とし,一切の差別を峻拒するものであり,公平な基準に則り他者を評価することが求められる(越智・河野 2015:28).例えば,女性であろうと男性と同様の人権を持つのだから,女性にも選挙権があるべきだ,というような思想である.また障害の分野で考えるのであれば,健常者並みの暮らしを求める障害運動などがこれにあたる.

 そして「同一性を基準としつつ結果として差異を志向するもの」とは,「同一性」を認めつつも,個人への評価を正しく可能にするには,その差異を検討し,適切な評価を行わなければならない,とするものである.例えば,アファーマティブ・アクションのような積極的な格差是正措置や,社会モデルの視点に立ち障害者への合理的配慮を行うことで,個人の力量に応じた分配を行う,というようなことである.

本報告では,この3つの視点に基づき,近コンの活動を「徹底的な差異性の志向」「同一性の志向」「同一性を志向しつつ差異の志向」という観点から分析を試みる.留意しなければならない点として,本報告にて用いるホネットの承認論は,個人レベルの話を対象として議論を展開している(越智・河野 2015:23).したがって,すぐさま障害学の議論に援用することは難しいが,今回の報告では,近コンの活動をホネットが説明する承認論の議論枠組みを用いることで整理可能であると考え,用いることとする.

3,2近コンにおける承認論について

なぜ「固定化したろう者像」を主張する必要があるのか.それを理解するための手がかりに,「障害のアイデンティティ・ポリティクス」の有効性に関する議論がある.牧田(2024)は障害を巡るアイデンティティ・ポリティクスについて,①障害を有するがゆえの切迫した状況から身を守る場合,②障害者が自ら「主体性」を獲得する場合,③障害を個性・文化として保存する場合の3点において有用であると述べている.この話を「ろう者」の話に置き換えて考えてみよう.すると,近コンが行った活動を,以下のように整理できる.

近コンでは,「病理的なろう者像」や,「音」を活用することで「聴者社会に従属的なろう者像」が団体内に多くいることに危機感を抱いた.そしてその状況打開するため,ろう者の集団のなかで意識改革が試みられた.そのため,「ろう者」と「聴者」の間に優劣がないという前提,すなわち同一であることを前提に,「ろう」が持つ固有性を主張し,主体性を主張しようとした.その結果,意図的に「ろう者像」を本質化,つまり「固定化されたろう者像」を押し出すことで聴者との「差異」を示そうとしたのである.

このようなろう者像の固定性は,別のろう者に関する議論でも同様の傾向を見て取れる.以下は,1990年代に「言語文化的少数者としてのろう者像」を広めた中心的な団体「Dプロ」メンバー,木村晴美と米内山明宏が,「Dプロ」が果たすべき役割について語る様子である(木村・米内山 1995:377-8).

米内山「それでは,お聞きしますが,ろう者の全国組織の理事たちは平均的なろう者と言えると思いますか?」

木村 「全然!」

米内山「実際には中途失聴者が多いですね.これは問題だと思います.平均的なろう者が理事になれば,状況も見方も変わるかも知れません.中途失聴者は,自分が何かを欠いているという意識,聴者よりも劣っているという意識,というより不当な扱いをされているという意識が強いから,熱心に活動するのかも知れません.(聴者の時からもっていた能力が発揮できなくなった)だから援助がほしい,そうして,聴者と対等になりたいというようにね.平均的なろう者はそんなふうにはあまり感じていないのです.その点で,私たちのグループDプロは平均的なろう者が集まっているといえるかもしれません.

…(中略)…

彼らがふつうのろう者の「真の代表」だと私は考えていません.今後,このあたりのことがどう整理されていくのか,ということを挙げると,Dプロの果たす役割は非常に大きいと思いますね.

木村 「Dプロでは,平均的なろう者像というものを,はっきりと出していきたいで

すね.」

この二人は,従来のろう者の全国組織が「聴者と対等になること」を求めて運動してきたことを問題とし,「平均的なろう者」が「聴者と平等」であることを志向していない,つまり聴者とは異なる存在であるとする「相対主義的」な視座に立っている.つまり,Dプロは,「聴者社会に従属的なろう者像」を改善しようとする従来のろう者の運動が,逆説的に「いまだ対等ではないろう者像」を定着させることを危惧した.そのため,聴者との比較の困難性による「同一性」を主張するべく,聴者との「差異」を前提として「真の代表」,「平均的なろう者」という形で「ろう」という個性や文化を示そうとし,固定された「ろう者」モデルを主張した.しかしそれは,近コン,または「ろう」というコミュニティにおいて,ホネットのいう「愛」,すなわち「相手を自分にとって大切な存在」だとして,仲間としての承認を求めた「ろう文化に馴染めない聞こえない者たち」を排除することとなった.

3.3「障害学」が抱えるジレンマ

 上記では,ろう者同士の対立がいかなる争点のもとで引き起こされたものなのかについて検討した.ろう者は「音の否定」と「日本手話の使用」を強く主張することで固定性を示し,「障害者」であることを否定する,つまり「ろう者」を強く主張していた.すなわち承認論のタイプとしては,異なる存在であるゆえ優劣を測ったり比較したりできないという意味での「同一性の承認」を求めるものであったと言えるだろう.

それに対し障害学では,「同一性を志向しつつ差異の志向」をする運動を展開してきた.すなわち,現在の障害学は「障害の社会モデル」を切り口として,個人化されてきた障害者の不利益を社会構造の不備であると指摘してきた.それは,障害者にも健常者同様の権利があるという同一性の視点に立ちつつも,社会構造の改革を行うことで障害者それぞれの身体的差異に応じた分配を目指してきたのである.

では,障害学は「同一性の承認」を求める運動を展開することが可能なのか.障害学には,単純に「差異」の上での「同一性」を強く主張できないジレンマがあるのではないだろうか.杉野(2007)は,女性運動が展開してきた差異/分配(女性であることにこだわる/男並みであることを求める)に関する議論のように,障害における差異/分配の議論が簡単に二分できないことを指摘する.それは,ジェンダーの差異派は,男を必要としない形で運動を展開し,女性中心社会を築くことが可能である一方で,障害者は生活において介助者を必要とし,健常者と「『同じ』という主張と,『違う』という主張をつねに両方持ち合わせている必要があ」るからであり,「障害差別はそういうかたちでしか抵抗できないもの」だからである(杉野 2007:247).

それゆえ障害学では,まず同じ権利を持つ人間としての「同一性」を志向したうえで,合理的配慮といった形で「差異の志向」を目指してもいる.そしてその上で,障害者は差異/分配のうちいずれかの方法で社会を生きていくのではなく,健常者と同じであること(例えば,人権がある)と,違うこと(例えば,配慮を必要とする)を使い分けながら,生活を営んでいる存在であると理解できる.そのため,ろう者のように「差異」の上に「同一性」のみを主張することは困難である.なぜなら,比較困難な「差異」を主張することとは,健常者の存在や,介助の不要さを訴えることと同義だからである. 

4結論

ろう者の対立の争点は,「日本手話を用いること」,「音を否定すること」という固定性によって引き起こされていることを明らかにした.そして「ろう者」「障害学」は,徹底的な差異の上に「同一性を志向する」と「同一性を基準としつつ結果として差異を志向する」いう異なりがある.以上から,障害学から「ろう文化宣言」に対する批判が起こった背景には,障害学が「差異」を徹底的に志向できないジレンマがあり,それが解決されていないことがあるのではないだろうか.このジレンマは,「障害学」が「ろう者」に留まらず,さまざまな事象を捉えていくうえで乗り越えなければならない課題となるだろう.

[謝辞]

本研究の調査にご協力いただいた皆様に感謝申し上げます.また本研究は,JST 科学技術イノベーション創出に向けた大学フェローシップ創設事業 PMJFS2146,およびJST次世代研究者挑戦的研究プログラムJPMJSP2101の支援を受けたものです.

[註]

1) 手話の文法要素が欠落した日本語ベースの不完全な手話で,手指日本語ともいう.

2) キュードとは、キュードスピーチや、キューサインともいい、「音節を手の形と口型を手がかりにして読み取るもの」である(脇中 2009:43)。

[文献]

杉野昭博,2007,『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会.

金澤貴之,2013,『手話の社会学――教育現場への手話導入における当事者性をめぐって』生活書院. 

木村晴美・市田泰弘,1995,「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」『現代思想』23(3): 354-62.

木村晴美・米内山明宏,1995,「ろう文化を語る」『現代思想』23(3): 363-92.

木村晴美,「ろう文化宣言を振り返る」『手話・言語・コミュニケーション』文理閣,9:103-122.

越智博美・河野慎太郎編,2015,『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」――格差,文化,イスラーム』彩流社.

牧田俊樹,2024,『「障害とは何か」という問いを問い直す――「事実」から「有用性」に基づいた障害定義の戦略的.実践的使用へ』生活書院.

中川綾,2017,「学生懇談会時代の思い出から」『手話・言語・コミュニケーション』文理閣,8: 31-46.

長瀬修,1996,「〈障害〉の視点から見たろう文化」『現代思想』24(5):46-51.

脇中起余子,2009,『聴覚障害教育これまでとこれから―コミュニケーション論争・9歳の壁・障害認識を中心に』北大路書房.