自由報告2-2

香田潤
樋下裁判と荒木裁判闘争
報告要旨

2002年道交法改正以前は障害における運転免許の絶対的欠格条項が存在した。現在も相対的欠格条項が存在し、障害者は法的差別に曝されている。欠格条項の運用もあいまいで適切に運用されているとは言い難い。この一方で自動車運転補助装置の進歩は目覚ましく、現行の欠格条項が妥当か疑問である。1960年代後半から70年代初頭に展開された、聾唖運転免許裁判運動の樋下裁判と脳性まひの荒木裁判闘争の判例を振り返り、1960年代後半から70年代初頭における福祉工学・自動車工学の進展と絶対的欠格条項法制度の動きを検討する。さらに現在も続く相対的欠格条項法制度を1970年代から現在までの福祉工学・自動車工学の進展との乖離について筋ジストロフィーやALSと似た難病・重症筋無力症当事者として「批判法学」の手法を用いて検討する。

報告概要

樋下裁判と荒木裁判闘争

重症筋無力症・難病当事者 香田 潤です。よろしくお願いいたします。

まず、最初に申し上げておきます。
本発表は、当事者視点で論じるアメリカ黒人差別の批判法学の応用の形式で行います。
批判法学の醍醐味は、当事者しか知り得ないリアルな差別を広く知らしめ、問題提起することです。
発表者自身が、これに値するキャリアの持ち主かどうか、セルフ・イントロダクションいたします。

私の母方の祖母は、筋ジストロフィーでしたが90歳まで頑張りました。父方の伯母は自力で這うことすら困難な重度の身体でした。しかし、祖母も伯母も病人生活をしないで短歌集を出筆するなど文化的でした。私自身もいずれ筋ジストロフィーを発症するのではと気がかりでしたが、専門医に重症筋無力症と診断され現在に至ります。

私事で恐縮ですが、重症筋無力症であっても病人生活をせず、学士会の会報誌に「難病のサムライ」として紹介されるなど、リアルファイターでもあります。では、本題に入ります。

2002年改正以前の道交法に、耳がきこえない者又は口がきけない者の絶対的欠格条項がありました。

現在も、てんかんの他、筋ジストロフィーやパーキンソン病等の難病が相対的欠格事由に該当します。

発表者は重症筋無力症当事者として難病患者団体に所属していました。

北海道で唯一、重症筋無力症・当事者として法に則り持病を申告し、適正に運転免許を有します。
しかし、2013年の運転免許更新時に

「サーキットを走れる特別な人の免許を認めなかったら、大問題!でも、あんたさんが、そんな特別な人であるはずがない、よって、免許の更新を諦めてください・・・」と公安担当者から妄言を受けました。
2011年4月18日「鹿沼市クレーン車暴走事故」、2012年4月12日「京都祇園軽ワゴン車暴走事故」が相次ぎ、妄言を吐くほど担当官が敏感になるのは時期的にやむを得ないのかもしれません。

しかしこちらも、自動車関連の論文が多数あり、当然、モータースポーツやサーキット走行経験はあり、FIA規格不燃スーツ

そして、NASCAR規格不燃スーツも持っているわけです。

最高難易度の高速テクニカル・サーキット、クラッシュ率が高く、多数の死亡事故のあった、現在は無き白老カーランドの成績証明を添付して運転免許を更新しました。一方通行の技量の証明にしかならないサーキットを走り走れるだけで特別とは、低すぎるハードルと言わざるを得ません。しかし、法に反した欠格条項障害者差別闘争として「荒木義昭・オーラルヒストリー:無免許運転68,000キロが意味するもの」は今や伝説ですが、逆に法律を守っても障害者差別闘争となるとは法制度に欠陥があると言わざるを得ません。そもそも前例がないという理由で、ハードルを上げて運転免許を諦めさせようという発想がチープで、医学のプロが運転免許の可否を判断する法制度になっていないところに過ちがあります。

では、他の難病障害者の方が、どのように運転免許を取得更新しているか、難病患者団体に所属して知りえたリアルですが、難病患者団体の会合で、会員同士で、持病を隠す方法の教えあい、会員のほとんどの方が持病を申告しないで運転免許を取得、更新を行っている実態がありました。

杖や歩行器を用いていると運転免許の担当官に制止され運転免許を諦めるよう言われかねないため、持病を隠す具体的手段として、運転免許試験場では杖や歩行器を使わずに、パートナーと手を繋ぎ歩行困難を隠す、家族が車で出入り口まで送り歩行困難を隠す、ゴスロリ、アマロリファッションをしてキャリーケースを歩行器代わりにして歩行困難を隠すなどのリアルを目のあたりにしました。

しかしこのような難病障害者団体会員の多くに、罪の意識はないようで、「みんなやっている」という発想なのでしょう。考えてみれば小学校から高校まで学んでいても、この子は病弱だからしょうがないと、まともな教育指導から外れがちな現実があり、罪の意識が芽生えないのもやむを得ないのかもしれません。これも十分に障害者差別ですが、これ以前の問題として、運転免許がないと生きられないのが現実です。

ただし、この一方で、マイカーを運転しない難病患者の敵はマイカーで通院する難病患者という皮肉でしょうか、ふらつき運転の難病患者のクルマに跳ねられることをおそれ、マイカーのない生活保護の難病患者が、医療機関のもより駅から病院玄関口まで、食費を削ってタクシーを利用し身を守らざるを得ない理不尽な状況が生じているのも、これまた事実です。

さらに、2015年8月には、北海道大学医学部生が立て続けに、大学病院前でふらつき運転の難病患者のクルマに跳ねられる事故が複数発生し、脅威は現実のものになっています。
これをさらに複雑化させているのが、母方の祖父が上記大学胸部外科医として知られていることです。

学士会の会員たる発表者は、難病患者団体から、たびたび法の悪用の知識を求められています。この一方で、大学病院関係者からは、大学の先輩の孫ならば当然に大学側の人という目で見られ、虎の子たる医学部生をふらつき運転の難病障害者に跳ねられた、よってあらゆる難病障害者憎しと、明言され、難病患者側と大学側の両面から板挟みに苦しめられることになりました。
結局、欠格条項という法律が作り出した障害者差別とは言え、難病障害団体でリアルに発生している「匿病」犯罪行為に巻き込まれる危険性があり、医学部生の事故をきっかけに患者団体とは距離を取ることにしました。

なお、だからといってバリアありすぎの世の中、ただ単に運転免許を取り上げるのは如何なものか、
地元北海道では、冬季にはバス停は雪に閉ざされ、過疎化による通院距離の増加、そもそも公共交通機関は未だにバリアがありすぎ、障害者にとってマイカー以外に交通手段がないと言っても過言ではありません。
運転免許の欠格は「障害者は死ね」と言われているのと同義語に等しく、令和になって公共交通機関の衰退が加速化し、よりリアル化している問題です。運転免許の欠格は過去のモノではありません。

ゆえに道路交通法88条の欠格条項が、憲法14条と22条に反するか否かを世にと問いただした1960年代のレジェンドと呼ぶべき、2大裁判闘争を見直す価値は大いにあります。

樋下光夫氏は、樋下建設役員で自らも貸ビル業やサウナを経営、ろうあ連盟役員、聴覚障害者(3級)、1967~68年、9回にわたり自動二輪車の無免許運転で検挙され、当時、運転免許時の聴力検査に補聴器使用が認められないことを世に問いました。

結果は、全日本ろうあ連盟の役員として欠格条項への抗議が、情状されたものの、懲役6か月執行猶予2年でした。

荒木義昭氏は、自宅でテレビの修理業を自営、後に練馬区介護人派遣センターを開設したことで知られています。原付免許を有し、原付で営業していたものの、電子部品は雨に弱く、自動車運転免許の受験を申請したが、「口がきけないこと」(発声はできるが、常人では聞き取りにくい)、体幹、四肢に麻痺があることを理由に、十数回にわたって申請するも適性不合格で、免許試験を受けさせてもらえず、やむを得ず1968年から軽自動車の無免許運転し、さらに全国を走り抗議のビラを配り、3年あまりの走行距離が68,000km。この間、8回検挙されました。

結果は、懲役3か月執行猶予2年でした。

法学的に見るならば、本来、行政訴訟で争うべきであり、無免許運転は本末転倒、両裁判の結果は妥当です。しかし、道交法88条「欠格条項」問題を多くの国民に知らせ、世論を動かした点では評価でき、

大きなムーブメントになったことは周知のとおりです。

樋下裁判闘争と補聴器の進化と法改正について、ごらんの通り、カタログスペック的には1960年代に補聴器は目覚ましく進化しました。

しかし商品テスト

雑誌の評価では

調節など使い勝手は酷評され、

1971年登場のグッドデザイン賞の補聴器、このシリーズの廉価モデルが、いまなお現行で残るほどの完成度です。

ろうあ者連盟等の運動に推され、1973年8月28日の警察庁通達により運転免許聴力検査で補聴器の使用が認められ、さらに意思疎通できれば「口のきけない者」に該当しないとされ、技術と法改正の差が2年以内は非常に早く、評価に値します。

裁判では負けて有罪になったけれども、実たる免許は取れたとして、後に表彰されています。聴覚障害は、運転免許の欠格と闘う先兵的な役割を果たし、大いに参考になります。現在、多くの難病患者が病気や障害を隠して運転免許を有するのと同様に、

樋下裁判でも触れられていますが、運転免許聴力試験で補聴器の使用認められなかった1960年代、密かに補聴器を用いて聴力検査をごまかし免許を得た人が数名存在し、今も昔も障害を隠さないと生きていけないのが現実です。運転免許の道が開かれましたが、3級くらいまでが限界でした。聴覚障害2級の免許取得が可能になったのは、表のとおり2008年以降です。障害年金の不正受給は、障害等級が高ければ高いほどお得なはず、障害を偽装して福祉の不正、というのは障害の欠格条項を知らないシロウトの発想です。

北海道では2007年一部のマスコミが、医師と社労士がグルになって、過疎化の進む産炭地の多くの人に聴覚障害2級を取らせたとセンセーショナルに報道し社会問題になりました。

しかし、医師や社労士のような専門家は運転免許の欠格について熟知しているため、このグルの構図は法学的に成立しません。

くだんのマスコミは、ベテラン看護師さえ聴覚障害2級を不正取得していると鬼の首を取ったかの如く大々的に報じましたが、この看護師は2級ではなかったものの高重度難聴で、そして2002年以前は、看護師には聴覚障害の欠格条項があったため、これにあらがい、1970年代に聴覚障害を隠して旧看護婦資格を取得、職員健診では聴覚異常が指摘されたものの、公立病院に30年近く同僚にも患者にも耳の不自由さを悟られることなく健常者の看護師同様に勤務ダイヤをこなすベテランでした。欠格条項と長きにわたり闘ってきた英傑と言えます。欠格条項がある以上、障害のあるふりはありえず、障害のないふりが基本です。これを知らずしてマスコミが報じる行為は、ウソあるいは誤った情報を広く伝えるだけです。いずれにしても障害を有して運転免許を有する者、まして障害を悟られることなく健常者同様に働く者を、単に厳しく取り締まるだけの政策は適切ではない、あってはならぬ、と、考えます。

では、次に、「私は運転できる」と主張する荒木義昭氏の運転能力について

資料、荒木裁判闘争

フロントガラスに頭をぶつからんとばかりに、最大限前に座席を送り出し、ステアリングを抱きかかえるような運転姿勢。これではステアリングを握る位置は上部となり、一度に切れる舵角が限られ適切な操作は出来ません。

免許試験合格は、ほぼ不可能で、

高裁でも指摘されています。

この時の試験車はマツダR360クーペで、躰を支えることが難しいベンチシートで、この時代まだシートベルトはありません。

このような極端な前屈み運転姿勢、

高裁では、頭部が、

運転席計器板下方まで沈み危険なため、運転適正・不合格となったことが示されています。これでは交差点で安全確認をすることは不可能で、68,000キロ無免許運転で人身事故を起こさなかったのは運がよかっただけで、運転技術的に合格できません。

資料、荒木裁判闘争でも、本人がハンドルさばきの悪さやブレーキングの遅れで合格できないことを自覚しています。

現在のいわゆる自動車教習所の卒業検定は、客観的な減点方式による採点基準です。

このため、もし荒木氏が現在の運転免許試験を受験した場合、運転姿勢や安全不確認で多数減点され、他に減点されるところがなくても、マイナス95点くらいしか取れません。

ところで、荒木義昭氏の愛車は、特徴的なATレバーとウィンカーランプから

1968年4月発売のN360ATです。小型車スポーツATミッションの祖というべき名車で、

軽自動車は16馬力があたりまえだった時代に、脅威の31馬力でした。

このエンジン、広く世界中でハイウェイパトロールに採用された性能・耐久性抜群の

オートバイの王様CB450のエンジンを360ccにデチューンしたものです。

1960年代後半のカー雑誌にはホンダN360のレース用チューニングパーツが満載です。

エンジンを360ccから450ccに戻すパーツもあり、カムとツインキャブを調整するとF1並の11,000回転を超えてブン回ります。

現在でも、ホンダN360はクラッシックカーレースの常連で、ENDLESS社から

最新技術を投入したレース用部品が供給されています。レース用チューニングパーツが多数あることは、選択肢の幅が広がることを意味し、福祉車両にも応用可能です。ここからは1968年当時に入手可能なパーツで荒木義昭氏の運転免許試験合格仕様N360のチューニングを考えてみましょう。

レースで勝つためのチューニングと異なり、ブレーキが遅れがちな人向けに絶対的な制動力重視のブレーキ強化は容易です。ENDLESS社は1987年創業で当時はまだありませんが、1968年当時、今はなきTOKICO社がブレーキ・チューニングパーツを扱っていました。

体幹が悪いならば、バケットシートがお勧めです。

ただ1960年代後半、バケットシート市場においてオートルック社等のモノが主流で

これは、屋根を低くして空気抵抗を減らすために、良くも悪くもふんぞり返りになるタイプです。

このため衝突時に四肢を粉砕骨折の恐れがあり、

体幹が悪いとサブマリン現象で死亡事故もありえます。

ただ当時はマイナーだったものの、1965年には初代レカロシートが発売され、アンチ・サブマリンと体幹保持機能を有しています。

これに4点式シートベルト、値段の手頃なサベルト社は1972年創業のため、まだないですが、シュロスとウィランズは1960年代から広く流通しています。

3点式シートベルトに加え4点式シートベルトを、後ろを振り返れるように1割程度緩めて装着すると体幹保持は可能で、乗車姿勢が改善されれば運転免許試験合格の可能性は一気に高まります。

またハンドルさばきが悪いならば、自分に合ったステアリングに交換する手法が有効です。特に、バブル期以前の日本車のステアリングは概して細く、握り難く、加工も悪く、一流品のステアリングに交換するだけで運転が見違えることは珍しくありません。シフトノブも選択肢の一つです。これにくわえ、自己流の運転ではなく、採点基準を分析して試験対策をすれば、合格の可能性は極めて高いと思われます。これで合格できなければ、

1970年10月発売のホンダZのディスクブレーキと弱い脚力でも強力に制動するブレーキサーボはホンダN360とアセンブリーの互換性があり、これを移植する方法があり、これでダメならば、

ABSと速度対応式パワーステアリングの設定のある1982年発売の2代目ホンダ プレリュードを待たねばなりません。さすがにこれを待たなくて「口がきけないこと」以外はクリア可能と思われます。

かりに「口がきけないこと」を理由に自動車の運転免許が認められなくても、荒木氏は原付免許を有していたので、1985年の道路交通法改正までは、いわゆるゼロハンカーやミニカーは運転可能で、輸入車は1960年にピール・P50が存在していました。荒木氏は、電子部品は雨に濡れるとダメになるから四輪車を求めましたが、これならば雨に濡れません。

国産としては、現在、北海道で障害者がツーリングを楽しむことがブームになっている、ホンダ・スパーカブ・ベースのカブトライク。現在では、ウェルキャブの発達により重度脳性マヒの方も運転免許を取得できるようになり、カブトライクはどちらかというとシュミ的な乗り物になりましたが、かつては障害者の数少ない個人移動手段を担っていました。

1980年代前半まで、(福岡県・タキ商会)で製作され、現在はこの復刻版が舞岡ベースで作られ販売されています。これは解放感重視であえて屋根を付けていませんが、

トライクも雨除けに屋根を付ければ雨に濡れません。

障害の欠陥条項のない原付免許で運転できるクルマとして、1960年代には超小型モビリティーピール・P50が存在し、国産としてはカブトライクがあり、1970年代にはイタリア製の今でもクラシックカーの定番として有名な日本名「タイガービート」、イタリア名「チャーリー」が登場しました。1980年代初頭には国産として光岡社が参入し、一世を風靡しました。
しかし、1985年の道路交通法改正により原付免許で運転できるこれらの小さなクルマは絶滅させられます。
当時の新聞はこう報じています。

身障者、老人、主婦、交通弱者いじめと、
結果的に1985年から2002年の17年間にわたり、口がきけない者は普通自動車免許の絶対的欠格条項により雨に濡れないクルマという個人移動手段を失ったのです。

最近、この10数年間にわたり高齢者や障害者の個人移動手段として超小型モビリティが注目され、

実証実験ばかりが盛んにおこなわれたものの

普及せずに生産終了です。たとえどんなにテクノロジーが進歩しても、高齢者や障害者のことを考え、原付免許と普通自動車免許の中間に相当する限定免許や事故を回避するサポカー限定免許を作り出さなければ無意味です。

1985年に障害者や高齢者が原付免許で運転できるクルマを取り上げられて以来、救済されていません。伊丹空港の不法占拠が権利として救済された「生きられた法の社会学」とは真逆です。

障害者の移動・交通権が法制化されていないことが問題であり、樋下裁判は決着しても、荒木裁判闘争は未だ終わってはいないのです。

障害者の移動・交通権が法制化されることに期待し、締めとします。
次回は、ふらつきがちな運転をしている難病患者を救済する現在の自動車工学の進展と法の乖離について論じます。
ご清聴ありがとうございました。