自由報告2-2

報告要旨 「精神障害者と戦争―太平洋戦争下の精神病院の実態から」
東海学園大学 早野 禎二

近代の戦争は国家の総動員体制の下で行われ、国民は戦場には兵士として、銃後では武器、食糧の生産者として動員される。このような戦時体制の中に障害者も組み込まれ、働けるものと働けないものに振り分けされる。生産能力を持つかどうかが、その振り分けの基準となる。働けない者は「穀潰し」と言われ、戦時下において肩身の狭い思いをしなければならなかった。
精神障害者は継続的に労働するということに困難を抱えるという障害特性があり、精神障害者への差別と偏見が合わさって、戦時下において、障害者の中でも特に弱い立場に置かれていたのではないかと考えられる。
このような状況は戦時下の精神病院の実態にも表れている。立津政順氏の論文「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」(1958年)によれば、東京の松沢病院では、昭和20年には死亡率が40%を超え、その多くが栄養失調が原因であったことが明らかにされている。精神病院の入院患者の大部分は病室外に自由に出ることは許されず、頼りとなる食糧はほとんど決められた配給量だけで、それだけでは最低栄養量に達せず、多くの人が亡くなっていった事実が述べられている。
このような戦時下の精神病院の死亡率の高さは構造的暴力の観点からとらえることができる。構造的暴力とは行為を誘発する原因が明確な個人や集団に特定できない社会構造を起因とした間接的・潜在的な暴力の形態をさすものである。
報告では、戦時下の精神病院の実態について立津政順氏、岡田靖雄氏などの先行研究、当時の精神医療関係者の座談会記録を検討し、戦時下の精神病院に働いていた構造的暴力とはどのようなものであったかを明らかにしていきたい。
岡田靖雄氏は戦時下の精神病院における死亡率が、一般の病院と比較してだけでなく同じく強制隔離施設であったハンセン病療養所と比較しても高くなっている理由として次の三点をあげている。
① 精神病院は郊外に作られていたが、ハンセン病療養所は僻地に作られ、農耕地にでき
る土地を多くとれたこと、②精神障害の人は作業ができない人が多かったが、ハンセン病療養所の人は手足が不自由な人でも畑作業ができ、農耕によって配給量の不足を補うことができたこと、③ハンセン病療養所には自治会活動があり、患者は声を上げることができたが、精神病院にはそのような活動組織がなかったこと。
また、当時の精神病院の関係者が戦後に行った座談会記録には、患者の労働能力、生産性を外にアピールせざるを得なかったという証言があり、戦時下において生産性を求める圧力を精神病院の職員も感じていたことが事実として確認できる。
結論としては、戦時下の精神病院の死亡率が高いものになったのは、精神病院の入院が強制隔離であったこと、患者は病気の特性から農耕作業に従事できず、また、周辺に農耕地となる土地も少なかったため、食料を自給する体制を病院として作れなかったこと、病院内では患者は医者や職員の下に置かれ、患者の声を反映させる組織がなかったこと、戦時下で生産性がないものは存在価値がないという暗黙の圧力があったこと、これらが複合的に構造的暴力として働いた結果であると言える。
このような構造的な問題は、過去の戦時下だけでなく現在も続いている問題であり、この問題の考察を深めていく必要があると報告者は考える。

参考文献
立津政順著「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」精神神経学雑誌 60(5)
日本精神神経学会 1958年
岡田靖雄著『戦争の中の精神障害者』青柿舎(小冊子)2011年
岡田靖雄編著『もうひとつの戦場―戦争のなかの精神障害者/市民』六花出版 2019年
清水寛著『太平洋戦争下の国立ハンセン病療養所⁻多摩全生園を中心にー』
新日本出版 2019年
遅塚直樹遍『声なき虐殺⁻戦争は「精神障害者」に何をしたか』BOC出版部 1983年
「座談会 戦中・戦後の精神病院の歩み(第一部)」精神医学 14 (8) 1972年