分離教育システムに抗する実践と社会モデル
――普通学級就学運動における「同一空間・同一教材」「共育」に注目して
藤原良太(立命館大学 生存学研究所客員研究員)
1.はじめに
本論は、分離教育システムに抵抗する実践を障害の社会モデルの視点で考察する。
堀正嗣が指摘するように、日本は未だ分離教育システムが維持されている(堀 2018)。障害のある人の権利に関する条約の要請に応じるには、現行の教育システムを捉え直し、再構築していく必要があるのではないか。
本論では1979年の養護学校義務化による分離教育システムの完成以降も、「障害児」とされる子を普通学級で受け入れてきた教師たちの実践を取り上げ、社会モデルの視座を踏まえて社会的状況を考察することで、分離教育システムから距離を取って、捉え直す方途を探る。
1.1 障害の社会モデル
障害の社会モデルは、「障害」を社会による作為、不作為的な障壁として捉え、その解消責任を社会の側にあるとする(立岩 2002)。
星加良司は、社会的価値、個体的条件、個人的な働きかけ、利用可能な社会資源の相互作用によって生じる社会的状態が不利益として、人生の多くの期間、様々な場面で集中的に経験されていることが、障害当事者が被る問題の固有性であることを指摘した。
また社会モデルが社会的に価値が認められる活動が「できない」という事態に焦点を当てていたのに対し、三井さよは「できなさ」という概念では「知的障害者」とされる人たちが痛みやしんどさを押しつけられている事態を捉え損なうと指摘し、相互行為の結果生じる「わからなさ」として捉えることを提案する(三井 2010,2011a,2011b)。
その人が「わからなかった」という事実は、私が「伝えられていなかった」という事実のもうひとつの側面であるが、「わからない」が生じている状況では、その場で何が起きていて、どのような問題があるのかもわからない、という性質がある。「知的障害者」とされる人は「わからない」という事態の先にある弊害や痛みが一方的に押し付けられ、それが集中的に経験されている(三井2011b:228-230)。
就学において教育システムが問題とするのは、普通学級の教育条件における「障害児」とされる子の習得や集団適応の可否である。習得や適応は周囲の働きかけや環境設定を工夫したとしても限界があることを想定し、本論ではとくに問題とされうる「知的障害」を念頭に議論をしたい。
1-2.就学運動
本論でいう普通学級就学運動とは、「障害児」とされる子を特殊学級や養護学校に振り分けるのに抗し、実際に、「障害児」とされた子も普通学級で学ぶことを実現させてきた、1970年代の日本で広がった運動である。
東京の運動で中心となったのは、主に親や教師、自らの専門性の根拠や社会での用いられ方に疑問を持ち、問い直していこうとした専門家という立場にあった人たちだった。心理臨床や特殊教育の差別性に気づいた専門家が中心となったものとして、渡部淳らによる「がっこの会」(1971年~)(渡部編 1973; がっこの会編1977)、篠原睦治らによる「子供問題研究会」(1972年~)(子供問題研究会編 1974, 1976, 1980)が挙げられる。これらに呼応して各地で運動がなされ、1981年には全国組織として「障害児を普通学校へ・全国連絡会」も立ち上げられた(障害児を普通学校へ・全国連絡会 1985)。
本論では、「障害児」とされる子を受け入れてきた場に焦点を当てるため、教師たちの経験を取り上げたい。そのため、教師という立場にある人たちの著作物、手記、インタビューで得られた情報を資料として用いる。インタビューは教師である片桐健司氏に2018年6月14日に、名谷和子氏に2018年8月30日に実施している。インタビューは録音し、後で文字起こしをしている。両氏にはその内容を確認いただき、インタビューで得られた情報は研究目的でのみ使用することについて許可を得た。子どもたちの個人名についてはプライバシーに配慮された著作物中の記名の仕方を用い、インタビュー中の個人名についてはアルファベットを当てた。
2 「同一空間・同一教材」、「共育」の実践――教師たちの経験
2.1片桐健司氏による「同一空間・同一教材」の実践
片桐健司氏(以下、敬称略)は教師であり、「障害児」とされる子の就学や学校生活について教育委員会と交渉する品川・地域で共に生きる会の代表や「障害児を普通学校へ・全国連絡会」で運営委員を務める。
2.1(1)「同一空間・同一教材」の実践でつくられる共有する空間
片桐が教師として最初に勤めた大田区のA小学校では、がっこの会に関わっていた教師たちがおり、特殊学級籍の子も普通学級で受け入れて行く取り組みが始まろうとしていた(島田・片桐 1980)。また、大田区では北村小夜が「未就学の会」や「特殊教育を考える会」で活動していた(北村 1987)。同時期には子供問題研究会も発足しており、後にA小学校の実践を「同一空間・同一教材」として概念化した(片桐 1986, 2009; 篠原 2011)。
そのような環境で片桐は、習得が困難な子も授業に参加できるように工夫していく。たとえば算数の授業では、縮尺の計算ができなかったとしても、その子が巻き尺をつかって測ることはできた(片桐 2009: 28-9)。
そのようにして片桐は習得の可否とは別に、授業の仕方を工夫することで、子どもたちが授業に参加する機会をつくった。そして子どもたち同士の関わりから、授業に留まらない学校における意味空間も見いだしていく。
例を挙げよう。片桐は休み時間に和彦君をトイレに連れて行くことにしていたが、失敗することもあった。あるとき、同じクラスの子が、和彦君は排泄をしたいときは「手を前の方にやる」ためわかると片桐に伝え、トイレに連れていくようになった。それ以後、同じクラスの何人かの男子生徒がそのしぐさを発見するとトイレに連れて行っていっていたという(ibid: 102-3)。
和彦くんが「手を前の方にやる」のは誰かに向かって何かを伝えているわけではなかったかもしれない。それでも、「手を前の方にやる」ことが教師の思わぬかたちで受け取られ、応答がされる意味空間が発見された。
片桐は、授業中に習得に結びつかなかったり、参加したとは言いがたい状況であったとしても、教室は子どもたちが様々な状況を共有する空間であり、その中で子どもたち同士が付き合い方をわかっていく過程が生じてくるのだという(ibid: 129)。
和彦くんはよく他の子に頭突きをしたが、片桐がいくら考えてもその理由はわからなかった。周りの子たちの避け方が上手くなり、片桐も「当初に『どうしよう!』と思うほどには、いつの間にか感じなくなった」という(ibid: 97-8)。付き合い方がわかるというのは、必ずしもその子を理解できるようになるというわけではないが、わからないなりに関わったり、居合わせざるを得ない状況をうまくやり過ごすようになった可能性はある。その中で、「わかる」関わりも生じ得た。
共有する意味空間では、授業の内容も含めて、その空間への関与の仕方から、個別具体的な子どもたちがいることや、発すること、見られたり、聞かれたりすることが様々に感覚され、それに対する様々な応答が生じうる。子どもたちの関わり方は、必ずしも理解し合うような関わり方では無かったが、わからなくても関わったり、「わかる」関わりも生じ得た。
それは片桐が予期して仕向けていたわけではなく、偶然的に生じたものであったが、そうした関わりが生じる余地が共有する空間には見いだされていたといえるだろう。
2.1(2) チームティーチングにおける距離をとる介助
その後片桐が異動した品川区のB小学校は大田区とは異なる環境だった。
片桐が赴任した当時の品川区では「障害児」とされる子には親の付き添いが求められていた。そのため、片桐は既に行政との交渉を経験していた地域の人たちからノウハウを学び、「品川・地域で共に生きる会」を発足して区教委と交渉し、親に付き添いを強制しないことを確認した。確認後、学校が選定した介助員に対し区が給付を行なう介助員制度が制定された(品川・地域で共に生きる会 2014)。
学校はこの制度を利用していたが、片桐は担任した学級において介助員も学級全体をみる先生として位置づけることで、介助を必要とする子との距離をつくった。そうすることで、他の子がその子と関わる余地やきっかけをつくった(片桐 2009: 138-40)。
介助者との距離があることで、りささんは他の子の頭を叩いたり、髪をつかんでしまうことがあった。それに害意があったのか、手を動かそうとしたときにうまく動かせずに当たってしまうのか、定かでなかった。りささんがしばらく休んだ後、登校を再開したときにある子は「叩かれるから嫌だ」と言うこともあったが、りささんが泣いていると心配して声をかけることもあった(ibid: 150-3)。
介助者と距離が開いたことで、子どもたちの間には害されたと思ったり、嫌われたりする関係だけでなく、心配し、気にかける関わりも生じえた。
2.2 名谷和子氏による「共育」の実践――葛藤や衝突を含んだ場としての学校、教室
名谷和子氏(以下、敬称略)は1978年に世田谷区で教員となる。その頃、少数派ではあったが区教組等で養護学校義務化に反対する人たちと出会う。
世田谷区ではがっこの会や世田谷こぶたの学校第四日曜の会、佐野雄介の運動の影響で普通学級に「障害児」とされる子も普通学級に就学しており(がっこの会編 1977, 佐野 1989, 世田谷こぶたの学校第四日曜の会 1980)、名谷も担任として受け入れていった。その後「普通学級で『障害』児を受け持つ担任と親の交流会」を発足し、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」では運営委員を務めている。
「障害児」とされる子を普通学級で受け持つ実践は教師たちが行な各々行なっていたが、教組や学習会は教師たちが実践を共有していく場だった。その場に参加する中で名谷は、例えば、国語のひらがなの授業では「あ」のつくものを持ってくる活動をすることで、文字と言葉、意味、具体と結び付けられるようにし、子どもたちが興味をもって参加できるように工夫した。
「障害児」とされる子も普通学級で受け持ち、他の子たちにも開かれた授業を先達者に倣い「共育」として試み続ける名谷だが、「共育」にノウハウは無く、実際に出会う個別具体的なその子や周りの子から教えられることであるという。
そしてそれはある意味での葛藤や衝突、うまくいかなさも含んだものとして想定される。
Cくんの掃除を名谷が手伝ったり、わずかでも掃除したCくんを褒めながら、他の子どもたちには丁寧に掃除をすることを求めていたところ、他の子から「何でCくんは特殊学級にいかないの?」と問いかけられた。名谷は大多数のペースに合わせた方が楽であり、「障害児」とされる子のペースを待っていると大変なことが出てくることを認めている。
教師の評価の仕方や、その子のペースへの合わせ方によっては、他の子たちから疑問や不満が出てくることがある。
別の例も挙げよう。車椅子を使うEさんと他の子たちとの関係は大人になっても続いており、名谷のもとを訪ねることもある。小学生の頃、Eさんの介助はすすんでしていた子が、状況に応じた言動ができないFさんの物を捨ててしまうことがあり、名谷が話し合ったときに「Eちゃんには優しくできるけどFちゃんには意地悪したくなる」と話したという。
この出来事について名谷は、自身がEちゃんのみを優しくするべき対象として個別の同情的な関わり方をしてしまっていたのではないかと振り返り、この出来事によって「振り出しに引き戻された」という。そして、これに対応する一般化可能なノウハウは無く、そこに居合わせる個別具体的な子どもたちの状況に応じる関わりを、どの子にも開かれたものになるように工夫しながら、繰り返し、続けてしていくしかないと言う。
名谷は分離に反対する社会関係の中で、授業のあり方や子どもたちへの関わり方を問い直していった。その上で、教職員による組織は基盤として重要であったが、普遍化可能なノウハウは存在しなかった。それでも、子どもたちの個別具体性に応じていくことと、それを他の子どもたちにも開かれたものにしていくことを、普通学級という教育条件とときに衝突しながら繰り返し、続けていった。それは葛藤を伴うものでもあったが、それによって名谷自身の関わり方や授業、活動のあり方を問い直していったのである。
3.考察
「知的障害」の社会モデルにみる不利益の回避は、①わかるように伝えようとすること、②わかろうとすること、③わかってもわからなくても不利益が生じない仕組みをつくること、で回避される可能性がある。
では分離教育システムに抗する普通学級就学運動の実践は、社会モデルの視点からみて不利益を回避する試みと捉えうるのか。捉えられるとすれば、それはいかなる仕方で、いかなる社会関係においてなのか。
本論で取り上げた教師たちは、習得の意味空間と重なって存在している、子どもたちが共有する意味空間を見出した。授業や活動の参加の仕方で意味空間から排除されないように工夫した。
①や②としての関わり方や授業の仕方はその子の個別具体性に応じようとするものであったが、関わり方自体が個別的なものになると、その子が共有する意味空間から排除される可能性を伴った。そこで、①や②を他の子どもたににも開かれたものにしていくことが試みられた。それは習得すべきと定められる内容、その総量、その教授にかかる時間、評価の仕方といった要素からなる既存の教育条件との衝突や葛藤を伴うものだったが、それによって共有する意味空間への参加という意味で③に開かれた。③の場は、子どもたちの偶発的な関わりによって、①や②に開かれる可能性も生じていた。
そして、分離教育システムから距離を取ろうとする実践がなされる社会関係に注目すると、次の三点の要素が実践を創造したり、実践に影響を与えるものとして浮かび上がる。
一点目は、地域や社会的状況に応じて教育システムと交渉し、誰が、どんな責任を負うのか調整していく役割を担う行為者の有無、又はそれへのアクセスである。二点目は、個人が実践の場に臨んだり、実践例にアクセスする機会や、個人、組織を超えて実践が蓄積され共有される仕組みの有無、又は多寡である。三点目は、一点目、二点目も含め、「障害児」とされる子も普通学級で学ぶことを肯定し、あるいは否定せず、物理的、意味的に分離することを問い直していくことが可能となる関係性ないしはネットワークへのアクセスである。
4.おわりに
本論は取り扱う対象の限定性から仮説的な考察に留まるが、分離教育システムから距離を取ろうとする実践との関係で葛藤や衝突をもたらす既存の教育条件や、それを要請する社会の構成要素との相互作用について障害の社会モデルの視点から検討していくことは、分離教育システム、あるいは教育における「障害児」とされる子とそうでない子との分離を問い直していくことにつながりうるのではないだろうか。その上で、実践の場がもつ個別具体的な要素も含めて検討していくことで、個々の場が置かれた社会的状況に対応する課題が示唆されることは本論を通して示されたのではないだろうか。
■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。
①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。
報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。