瀬山紀子(埼玉大学+α)

障害学の展開に学び、障害学を広げていくために

瀬山紀子(埼玉大学+α)
nseyama@mail.saitama-u.ac.jp

〇自己紹介
・埼玉大学教員(ダイバーシティ推進センター所属・担当授業「障害と社会」、他大で「フェミニズム障害論」)
・同時に、大学生の頃から、現在まで、障害者自立生活センター系の介助者
・加えて、障害者欠格条項をなくす会、DPI女性障害者ネットワーク、優生手術に対する謝罪を求める会に関わってきた立場
・女性のリプロ、非正規雇用問題についての活動にも関わっている
・障害学/障害学会とは、まだ学会が発足する前、東京で障害学研究会関東部会がスタートした頃に、大学院生として関わり、その後も、障害学会が設立されていく流れのなかに身を置いた

・今回、『障害学の展開』を読む機会をいただいた
・全体を通して、「障害学」が一つではなく、様々な文脈を持ち、展開してきたことがよくわかる
・多くの論文が、具体的な応答を求めている(続く、論考、議論、学会の応答への期待が込められている)
・いろいろな立場の人がいろいろな方向から応答していけるとよいと思う
・そのためにも、今回のセッションが、多くの人たちがこの本を読むきっかけになるとよいと思う

以下で、いくつかの共通する論点や関心をもった論点を示しながら、本書を紹介・論評していきたい

〇「障害学」という営み
・障害学=障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動(『障害学への招待』)
・障害学の源流や射程が示され、この先への期待が語られている
・日本における障害学=障害学会、主には大学に在籍する研究者を担い手とする研究、言語化の営み
・では大学などで、どれほど障害学関連カリキュラムが組まれているのか
・大学にどれほどのポストがうまれ、当事者を含む研究者が障害学を展開できる土壌が作られてきたか
・大学には、障害学生支援室などの機構がつくられてきた。ただ、学生支援は行われてきているものの、大学で学んだ障害当事者が、その後、大学を含めた社会に出て、働き、暮らしていくには、就業環境、生活支援にかかる制度に、大きな壁が存在している現状もある
・こうした壁をこわし、障害学を展開していく土壌を耕していくことが、障害学の仕事の一つだろう。その動きは、障害者差別解消法によって、この先、さらに、全大学、研究機関、学会に広げられていく必要がある

¶関連引用(『障害学の展開』からの引用・筆者名、()内に頁数を明記。以下、同様)
杉野「アメリカ障害学会は大学における障害学の地位確立と障害のある大学教員の養成を意識しているが、この点は日本では消極的だったと思う。・・アカデミズムにおける障害学の地位確立は避けられない課題になるだろうし、大学において障害学という名前の科目設置は進めていくべきである。(66)」
高山「日本では障害学がある意味では学際的であり、かつ長い歴史をかけてしっかりとした学問的土台を醸成させてきた。・・障害学はその経験からろう者学を側面支援できる大きな懐や経験を持ち合わせているはずだ(141)」

市野川「日本における障害学の導入は、過去の優生政策の問い直しをその一つの軸としてなされたように思う(15)」
田中「現実のいたるところにエイブリズムの問題を見出し、障害の問題を障害学の外へ拓き、繋いでゆこうとする(45)」視座

飯野「社会モデルの登場と発展に至る歴史的経緯を重視するならば、障害学研究はディスアビリティの解消に、別言すれば、社会の仕組みの変容に資するものでなければならないのではないか(122‐123)」
熊谷「障害学には、状況付けられた障害者の社会的経験を起点に認識的不正義をただす、「認識と倫理のハイブリッドな徳」が要求されている(147)」、「当事者研究とは、状況付けられた固有の自分の経験をもとにして、そこから意味やメカニズムを発見しようという実践(155‐56)」
桐原「筆者は、障害学が疾病経験や解決手段の多様性や複数性に着目した研究に発展していくことで、白田の指摘(引用者註「身体障害を念頭においてはじまった社会モデルでは精神障害を捉えることができない」)に対するレスポンスになると考えている(228)」

〇大きく共通するテーマとしての能力主義
・既存の社会に根ざしている慣行、社会規範、文化的価値の根底にあるものとして能力主義をみる視点
・能力主義は、それと、「できなくする社会」を問題化することとの対立、「できる」「できない」とされてきたことの意味の問い直し、実践的な制度改変といったかたちで、さまざまに問われてきた
・しかし、他の支配的社会規範・文化、例えば、男性中心主義、異性愛主義、排外主義といったことと、障害の問題が関わっていることは、分析の蓄積がまだそれほどない状況。交差性は鍵概念として出てくるが、男性中心主義やジェンダー規範の存在を、障害問題を分析する際の共通する課題として捉える視点は弱い

¶関連引用
堀田「「能力主義」への批判は、「できなくする社会」に対する批判と鋭く対立する面がある(88)」
天畠「重い障がいのある筆者が、自分のやりたいことを、実現させていくとき、そこには介助者の存在が欠かせない。確かに、筆者は介助なしでは何もできないかもしれないが、だからこそ多くの人と関わり、深くつながり、ともに創り上げる関係性を築いていける。それが強みになっている(253)」
土屋「社会的に構築される「親役割」の引き受けを否定し、別様の子育てのあり方を受け入れる。このことは、「できなさ」を再肯定し、自らの障害と再び「折り合い」をつけていくこと、そのなかで子どもと、周囲の人と新たな関係をつくっていくことを意味していた(276)」

深田「「今ふり返ると、本当にひとりの人間として認められる時がどのくらいあっただろうか?とつくづく考えてしまうのです。成績が良い、悪い、仕事ができる、できない、男だから、女だから、などなど(小林由美子:1986)(317)」、「・・まひの身体をベースに進む食事や排泄、そんな時間の流れがゆっくりとした世界がそこにはあり、その世界に出会って、介護者は何か許されるというか救われるというか、「ああ自分はここにいていいんだ」という感覚を抱くのだ。抽象的にいえば、自己を縛ってきた近代的な価値観から解放されていく、あるいは競争原理や能力主義に追い立てられ自己喪失の状況にあった「私」を取り戻し、自己を回復していくのである(320)」
臼井「長年、「障害のある人には無理・できない・危険」とされてきたが、とりわけ困難視されてきた医療分野でも、障害のある人の就学や就業、合理的配慮の提供、環境の調整が進んできている。(376)」

飯野「・・既存の社会に根ざしている慣行や観念、社会規範や文化的価値等も積極的にバリアとして捉えていくことが求められる。障害学研究においては、そうしたバリアのひとつとして能力主義が把握され、それへの警戒や批判が一定程度共有されてきた。これと同様の警戒や批判が、男性中心主義、自民族中心主義、異性愛規範、シスジェンダー規範等に対しても向けられ、それらがどの障害者の、どのようなディスアビリティ経験を、どのように生成しているのかについての分析が蓄積されていく必要がある。(113)」

〇医学モデル/社会モデル
・警戒すべき相手として医学モデルを置く視点はある程度共通している/揺るがない大きな壁でもある
・医療者の認識枠組みを変化させてきたという流れ(当事者研究)は提示されている
・ただ、日常に潜む医学モデルをどれほど揺るがすことができたかについては、大きく疑問が残る
・いかに障害問題の社会性を明示化するかが一つのたたかい
・障害の社会モデルの主張に対して対置されてきた「国民の安全」(欠格条項問題含め)
・それでも、現実的、制度的に、合理的配慮を、その必要性を基盤に広げてきた
・社会モデルは、障害者の連帯を生み出す役割をもってきた(という指摘は重要だと感じた)

¶関連引用
川島「「中立性」は、むしろ医学モデルが支配的なこの社会において医学モデルへの事実上の歩み寄りをもたらしかねない(82)」
桐原「いくら意味づけを多様化させたところで、日常生活に潜む医学モデルに批判的な目を向けることがなければ、社会モデルの観点に到達することはない(229)」

矢吹「社会モデルの枠組みを用いて、手薄だった対象を分析・解釈しようとしてきた当事者・研究者がいたことで、軽度障害やユニークフェイス/見た目問題、アルビノなどの研究が蓄積されてきた。これまでも、そしてこれからも、社会モデルに求められている障害問題の社会性の明示化という課題に取り組むにあたっては、機能的に「できる」インペアメントは好例であり、多様な対象を包摂する社会モデルの射程の拡張を後押しすることが期待できる(245)」
臼井「絶対的欠格条項を削除することについては、国会審議でも異論がなく、「法律になぜ相対的欠格条項を残しているか」「誰がどのように審査して欠格条項に該当すると決めるのか」が議論となった。衆議院の審議で障害のある複数の参考人が立った。政府・与党は「国民の安全」を対置した。(366)」

石川「・・本人のはっきりとした意思表示がない場合でも、今まさに障壁に直面し合理的配慮を必要としていることが明白で、かつ意思表示をしたくてもできないことが明らかな場合は、意思の表明がないというだけで合理的配慮の不提供は免責されず、合理的配慮の提案責任があるという解釈を示す必要もあった。そのため基本方針の該当箇所は委員意見を踏まえて以下のように記すことで合意した。(446)」
長瀬「社会モデルが、障害者の連帯の基盤の役割を持っているのは重要(419)」

〇運動と学問
・運動と学問との関係が論点になる。学問の側からは、「運動」という言葉/記述の仕方を広げていく試みも行われている(河口「ひとり障害者運動」、寺本「その時々の状況の中で、精一杯の抵抗を試みようとする」)
・具体的な社会改変も示されている
・日々の実践に、社会改変の可能性を読み込むこともなされてきた
・同時に、先に存在してきた障害者自立生活運動を源流とする歴史の振り返り、制度化が進んできたなかで出てきている課題の提示がなされる。そして、障害者制度改革をさらに進めていくこと、その際に権利条約やその国内監視の必要が言われる
・一方で、「運動」の側に障害学の言葉が届いているか/届けようとしているか、疑問も残る

¶関連引用
河口「障害女性は、社会からの「ケアが必要な障害者が子育てなんかできるはずがない」「女性障害者は恋愛や結婚の対象ではない」というまなざしに抗して、子育てをしてきた。(中略)子育ての経験を通じて社会への働きかけを行う、いわば「ひとり障害者運動」を行ってきた、と言える。(171)」
寺本「その時々の状況の中で、小田さんは抵抗しようとした。」「その時々の状況の中で、精一杯の抵抗を試みようとするが、それはトラブルに見舞われることと背中合わせでもある。それでもその中で、その場その場で、自分が生き残るにはどうすればいいかを、精一杯、意識的にか無意識的にか、考え続けて生きてきた。(198)」
土屋「彼女たちが日々実践しているのは、自らの障害と向き合いつつ、従来の「親役割」を否定し、他者を頼ることを含めた新たな子育ての方策の模索であるといえるのではないか(275)」
綾屋「・・2015年に実施された、ある英語の試験の際にこれらの条件を合理的配慮として申請し、認められた。こうして約10年にわたる英語の読めなさの当事者研究は、社会側のデザインの変更を促すことにつながったのである。(205)」
廣野「彼らは自立生活に自由に暮らすこと以上の意味を込めている。それは一つには幼い頃から奪われてきた社会経験(社会性)を取り戻すといった意味であり、もう一つは、自立生活の拠点は生活の拠点であると同時に、運動の拠点という意味である。その結果として、ある程度の集団的な生活に一定の意義を見出す。その背景に、横塚であればマハ・ラバ村が、寺田や礒部であれば東京久留米園の共同生活経験が影響しているように思える(298)」
山下「(今、介助関係について課題となっているのは)介助を受ける本人である障害当事者、介護/介助者、事業所の三者による、地域で生きて暮らしていくための協働作業が必要になる(岡部)。この協同作業にあたり、障害者主体という基本は皆で共有しつつも、それぞれの立場で考え、介助場面を作り上げていくことが必要だろう(337)」
岡部「脱施設化ガイドラインと総括所見が求める「パーソナルアシスタンスを活用した脱施設」を「恩恵による福祉/施設収容」から「権利に基づく支援/地域生活」への障害者福祉のパラダイム転換の梃子とできるかどうかが、日本の障害者制度改革を次の段階へとブレークスルーするための鍵となる。(395)」

石川「筆者はかねてより、市民社会にとってはもちろん、政府にとっても、独立した監視枠組みを機能させることは重要なことだと述べ、政策委員会の条約実施に関する見解をまとめて権利委員会に報告することと、建設的対話において独立した監視枠組みの立場で条約実施の懸念事項を報告することをめざして準備してきた。それができたことは、今後につながると信じる。(455)」

〇誰に届いたか/どう広げられるか
・障害学が一定の広がりをもってきた一方で、別の動きも強まっているという指摘は重要だと感じた(堀「分離の圧力が強まる中で、特別支援学校及び特別支援学級が増加している」、杉野「学生たちのなかに非常に強い新保守主義的な価値観を感じる」)
・まだ研究が不十分な分野があることの指摘/本書では扱えていないテーマも当然ながらある(本書全体を通じて、新たな取り組むべきテーマがたくさん示されている)
・障害学の担い手、障害学に関心を寄せる人を広げていけるとよい
・異なる領域の人たちをつなげる鍵概念としての障害学。障害学の射程を広げ、ジェンダー論をはじめとする他の議論に関心を寄せ、より積極的な議論が生まれることを望んでいる

¶関連引用
堀「分離の圧力が強まる中で、特別支援学校及び特別支援学級が増加している。さらには通常学級内分離教育と呼ぶべき事態も進行している。こうした状況に対して障害学及び子どもの権利論に依拠する教育実践研究を通して内在的批判を行うことが求められている(356)」
杉野「2010年前後から、障害の有無に関係なく、学生たちのなかに非常に強い新保守主義的な価値観を感じるようになった。・・そもそも新保守主義的な自己責任論や業績主義こそアメリカ社会の価値観だし、それを前提として反論を組み立てているのがアメリカ障害学である。・・それに対抗するためにはアメリカの抵抗勢力にこそ学ぶべきだろう(67)」
鈴木「病院や施設に収容されている触法障害者、重度知的障害者、重複障害者や障害児の生活実態を解明するための研究は未だ不十分である。あるいは、グループホームや自立生活に移行した本人の生活実態について、規範や制度との関係でディスアビリティの生成や解消の過程に焦点を当てた研究が重要になるだろう。(414)」
長瀬「障害者=「私たち」の声は大きくなり、障害者=「私たち」の意思決定過程への参画は拡大してきた。そして、障害者=「私たち」の範囲も確かに拡大してきた。・・しかし、「私たち」とは誰かが常に問われ続けてきている。(434)」