萩原昌子
ろう者・聴覚障害者にとっての“音楽”を考える 〜カナダSigned Music 体験レポート〜
報告要旨
ろう者や聴覚障害者を対象とした音楽の鑑賞をめぐり、近年、欧米におけるポップスミュージックのコンサートにおける手話通訳や、ミュージックビデオへの手話通訳参加、字幕付与などの鑑賞サポートが話題になっている。
また、日本フィルハーモニー交響楽団と落合陽一氏の「耳で聴かない音楽会」など、クラシック音楽の分野においても、聴覚障害のあるなしに関わらず楽しめるとされるコンサートが開催されている。
一方で、2016年に上映された「LISTEN」という映画は、ろう者・聴覚障害者にとっての“音楽”は音のない世界に存在するというひとつの提案を示した。また、アメリカやカナダでは、Jody Cripps氏が提唱する「Signed Music」という概念のもと、Signed Musicianと呼ばれるろうの音楽家も存在する。
日本ではまだ馴染みのないこの「Signed Music」について、この夏カナダで開催されるDeaf Arts Academyで学ぶ機会を得た。その結果を報告するとともに、ろう者・聴覚障害者にとっての“音楽”の概念がどのようなものであるかを考察する。
報告概要
サイン・ミュージック体験レポート
九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程 萩原昌子
【出発点】
発表者は、右耳は聴力がなく、左耳で補聴器を用いているが補聴器を取れば両耳とも完全に音がないろう者である。
ろう学校の経験はなく、学校生活から就労まで聴者の世界で育ってきている。また、日本語を母語とし、手話を言語として獲得したのは成人後という背景がある。 聴者の世界ではピアノと親しみ、いわゆるクラシック音楽を好んで感じる時間を持っている。
一方で、奏でられる音楽の響きを楽しむ時には、聴覚以外の視覚や触覚、雰囲気など感覚をフルに稼働させて音楽を楽しんでいる。 しかし、自分が好ましくかつ心地よく感じている響きと聴者の世界で「用意されている」振動などの鑑賞サポートによって感じる音楽との差異に違和感を持ち、「音楽の享受の多様性と鑑賞環境」をテーマに研究をしている。 この夏、カナダでサイン・ミュージックの研修に参加する機会を得て、音がない視覚的な表現を音楽と感じるコミュニティがあること、ろう者のコミュニティの中に視覚的に享受する音楽文化が存在することを体験した。
また、視覚的な音楽の享受の感覚は、少なくともカナダにおけるろう者の世界の一部では一般的であった。自分自身の音楽感性を振り返る機会ともなったことから、さらに今後の研究課題を深めていきたい。
【定義について】
ろう者として視覚的な音楽の鑑賞を考えるにあたって、視覚を通じて享受するろう者の世界で表現される“音楽”の概念を考える必要がある。
サイン・ミュージックの研究では次のように定義されており、聴者の世界の音楽の概念とは異なる。
・サイン・ミュージックの実践における音楽とは、
・ 原則として、「音」は存在しない。
・手話をベースに音楽的要素を視覚的に表現する芸術形式であり、特にろう者、聴覚障害者によって実践されるもの。
・ 手話の言語的特性を利用して音楽的表現を作り出す。
・ リズム、メロディー、感情を視覚的に伝えることを重視している。 (Cripps,2017)
・聴者の世界の音楽とは、 「音による芸術」(広辞苑) 「人間の声音および楽器音の組み合わせによって実現される芸術」(新編音楽中辞典) とそれぞれ定義されている。
【カナダにおける「障害」の概念の背景について】
カナダでは、そもそも、ろう者は他の障害とは異なる文化を持つと認識されており、
いわゆる障害者アートは「聴覚障害」「身体障害」「精神疾患」の3つのジャンルに分類されている。
カナダではアメリカ手話、ケベック手話、フランス手話及び先住民の手話など多様な手話が使用されており、フェスティバルや公演などを行う際には必要に応じて複数の手話通訳(主にろう者の手話通訳)が配置される。
ろう者のアート、聴覚障害アートはそれ自体一つのジャンルと見做され、視覚芸術、視覚文化など特有の芸術表現として評価されている。
【アメリカ・カナダにおける研究の概観】
「音楽はどこにでもある」という考え方から「音楽研究」の分野に位置付けようとしている。 サイン・ミュージックはリズム、音色、テクスチュア、メロディ、ハーモニーという音楽の5要素を持ちうるとしている。 ろう者特有の抑圧の歴史や差別の経験などを反映することのできるろう文化の中の一つの芸術表現と位置付けられている。
【サイン・ミュージックの“作曲”の体験】
1 作曲にあたってイメージしたこと
まず、自分のろう者としての経験、自分のアイデンティティの形成の過程を振り返って手話による“歌”を作る。
アイデンティティは必ずしもDEAFであることのみに限らない。
国籍や、自分の愛するものなど、自分自身のルーツについて振り返り、生まれる表現を表象する。
2 構成を考える
・ オリジナルのリズムを見つける
・ 言語を用いないで表現する
・ 同じ方向に向かってひとつの表現を繰り返し強調する
3 研修中に指示されたこと ・ 物語性は持たせない
・ 手話をベースに奏でるものとして構成する
・ 自分のコミュニティの手話をベースにすること
4 楽奏(演奏)にあたって
自分の中のリズム、メロディ、音色(に該当する強弱)、表現の質感(テクスチュア) 他のメンバーとのハーモニーを意識して奏でる。 手話をベースにしているが、上半身だけでなく、全身を用いて表現する。
【サイン・ミュージックの鑑賞について】
・音はないが、明らかにそれらが“音楽”として感じられる(複数のろう者へのインタビューによる) ・複数人によって共有されるリズムや動作がある。 ・音楽として描かれている世界、特にろう者としての経験から生まれた表現に共通感、共通認識を持つことができる。 ・
【ろう文化の中に存在する他の文化的表現との違いについて】
1 サイン・ポエトリー
・ 異時同図的に時系列で視覚的に表現される物語性を持つ。
・ 一部、表現を繰り返すなど音楽的な表現を取り入れることもある。
・ 手話の韻律を生かして表現し、手話そのものの音楽性や暗示的な意味合いを最大限に引き出す。 (米内山,2001)
2 ダンス
・ 聴覚的音楽をベースにした動きで表現する
・ 身体全体、頭の先から足のつま先まで動かす(雫境,2022)
・ 動きやリズムなどを何らかの形で記譜することができる
※サイン・ミュージックの特性 ・ 物語性をほとんど持たない
・ 手話の持つ音楽性をベースに構築される
・ 聴覚的な音楽をベースにしていない
・ 身体全体を使うが主に上半身を中心とした表現 (Cripps,2017)
【サイン・ミュージックの例を鑑賞する】
Tick tock : Ian Sanborn ※日本の検討でもろう者の音楽の例として挙げられており、ろう者コミュニティの中で「サイン・ミュージック」として認知されていると考えられる作品
【ろう者にとっての音楽について】
これまで、発表者がろう者や聴覚障害者に対して行ってきたアンケートやインタビューでは
・音楽は敷居が高く感じるもの
・音楽は自分とは関係のない世界のものという意見も多く見られた。 聴者社会によって定義された「音楽」の社会的概念は、ろう者社会にも影響を与えていると考えられる。
(参考)
(社会がろう者を「静寂」と結びつけ、音楽は「聴こえる形」でしか成り立たないと認識していることが、ろうコミュニティの音楽に対する意識に明らかな影響を与えている。)(J.Cripps, 2017)
【今後の研究課題】
・なぜ発表者は、聴者の世界に生きてきているにも関わらず視覚的な音楽を受容する感性を持ち得ているのか。(自己エスノグラフィを行っていく必要性)
・日本のろう者は、音のない音楽やサイン・ミュージックをカナダやアメリカのろう者と同様に視覚的な音楽として認識するのか。(質的調査の必要性)
・音楽の定義や認識について、ろう者として独特の感性を持つのであれば、聴者の音楽を鑑賞するときにもその独自性を生かした鑑賞環境を整えていくことの検討が必要になるが、どのような鑑賞環境の構築が考えられるか。(実践研究に向けた課題)
・“音のない音楽“を認知する感性を、聴覚以外の感覚を通じた音楽鑑賞の実践にどのように繋げていくか。(実践研究に向けた課題)