かわぞえ ねむる
アナーキストの しゃかいモデル:こっか および こくさい れんごうの そんざいお かいして、むりょくか/ゆうりょくか している「じんけんの しょうがい うんどう」ひはん
報告要旨
この はっぴょうでわ「2020 とうきょう オリンピック・パラリンピック」と「しょうがいしゃの けんりに かんする じょうやく」に かんして、ひはんてきに けんとうする。しょうがいされた「わたしたち」および「しょうがいしゃ うんどう」(と、されるもの)が、これらと ともに 2020ねん ぜんごで しゃかいに たいして はたしてきた かがい やくわりに たいして、ひはんする。
また さっこん うんどうで もちいられる「じんけん がいねんお きょうちょうしていく」ありかたが、つくる せいじの もんだい について かんがえる。たとえば、これわ「けんりと とっけんの つかいわけ」に ついて ほうちし、かくさ こみの しゃかいお かえたくない という よくぼうの ツールとして きのう している。これわ、わたしたち じしんの しょくみんち しゅぎてきな いきかた でも ある。もうひとつに、「じんけんで こっか ほか しゃかいお かえる」という いみが じじつじょう むりょくか されている。ぎゃくに こっかお せいとうか する ツール、じんけんの「ただしさ」が うんどうの かだいに ついて むげんに じぶんたちお ごまかす ツール として ある うたがいに ついて かんがえる。
こっかや その わるい ありかたお のぞみ りようする わたしたち じしんお かえ、ちがう しゃかいと ともに いきる とりくみ として、わたしたちわ いつでも あいてと かかわらなければ ならない。
りんりてき はいりょ:りんりに ついてわ じりつして はっぴょうしゃが かんがえます。つまり、だれかの はなしに むきあい、じぶんが かわりえる せきむが あります。はっぴょうに こじんの インタビューなどわ、ふくまない よていです。
報告パワーポイントファイル(PPT)
報告概要
はっぴょう げんこう(7000じ *1.5 ばい ばん。)
かわぞえ ねむる
アナーキストの しゃかいモデル:こっか および こくさい れんごうの そんざいお かいして、むりょくか/ゆうりょくか している「じんけんの しょうがい うんどう」ひはん
1 はじめに
きょう わたしが かんがえる のわ、「じんけん」「けんり」という ものに ついてです。しょうがい うんどう という ものの なかで、じんけん あるいわ けんりお「つかう」という ありかた じたいに ついて、かんがえて いきます。
しゃかい うんどうが、しゃかいの あるべき ことと して、じんけんに ついて もちだす ことわ おおいです。こっかや しゃかいに たいして じんけんお つきつける ために こっかと かかわる うんどうも ありますが、いっぽうで じんけん しんがいが いわれつづける なかで それでも こっかが けいぞくして、さらなる しんがいお くりかえしている という めんが あります。
じんけんや けんり という ことお きはんと することわ、「ただしい」ことお かんがえに して いる ようでも ありながら、ぎゃくに その「ただしさ」で、いま わたしたちが こっかや ヘゲモニーとの かんけいの なかで なにお むりょくか されているのか、かんがえお やめる ために「ただしさ」が もちいられて いる ふんいきも かんじます。しょうがい うんどうが こっかお かえて いるのか、こっかが うんどうお きていして いるのか。きんねん あった 2つの できごとお つうじて かんがえて みたいと おもいます。
ひとつわ「とうきょう オリンピック・パラリンピック 2020」つうしょう オリパラの かいさい です。オリパラ にわ りんり てき もんだいが あると ずっと ひはん されて います。しかし、2021ねん にわ 1ねん えんきの のちに きょうこう されました。
わたしわ おぼえています。かんとう ちほうでわ、ぐんたいが こうぜんと どうろお ふさぎ、へいたいで わたしたちお けいかい して いました。ぎょうせいと けいびに よって、せいじてきな だんあつが ありました。しほんわ こうきょうの とちお しゆうか しました。きょういくでも どういんが ありました。この オリパラに、しょうがい だんたいも きょうりょくお しています。あのとき まちが どうで あったのか、どのように ものごとお きめて すすめて いたのか、その けっかとして どのように なったのか。オリパラの かこに ついても げんざいに ついても、かんがえる ことが とまって います。
もうひとつが「しょうがいしゃの けんりに かんする じょうやく」に ついてです。しょうがいしゃ けんりじょうやくわ 2022ねんに たいにち しんさが ありました。けんせつてき たいわが おこなわれて いるのか、うんどうが じぶんじしんの ひょうかお されてしまう ときでも あります。
こくれん しょうがいしゃ けんり いいんかいわ、きんねん「じんけん」お うちだして いるかと おもいます。ただ「じんけん」とわ こっかも ためらわずに きょうちょう する がいねんで あり、そのいみで きぞんの しゃかいお おびやかさない ていどに むりょくか された かたちで「つかわれて」いる どうぐと しても あります。おなじものお「つかう」こと、しゃかいお かえると いってゆく よりも、わざわざ そちらお えらんで いくこと とわ、どのような たいど なので しょうか。このような ぎもんお もちながら、じょうやくの のべる「けんり」という ことがらに ついて、かんがえて いきます。
はっぴょうお とおして「こっか」「こくれん、つまり こっかかん こうそう」そして「ツール という たいど」に ついて、ぎもんお もって いきます。わたしたちわ そのような ものお「そうする しかない ゆいいつの ありかた」である ように しんじようと しなくて いいはずです。「けんり」という ことの ほかにも、しゃかい えと むきあう たいどや うんどうわ そんざいします。そして するべき ことも あります。わたしたちが わたしたち じしんの あいだで どのように ふびょうどうお つくっているのか、そして それお じっさいに かえていく ことです。うんどうで あっても がくもんで あっても ごまかさずに じっせんして いきましょう。
2 「とうきょう オリパラ 2020」 しょうちと しょうがい うんどう
「とうきょう オリパラ 2020」と しょうがい うんどうに ついて ふりかえります。はんせい すべきことわ 2つ あると おもいます。
ひとつわ、しゃかいてきに もんだいが ある じぎょうに きょうりょく・びんじょう する かたち での うんどう である こと。こっかや かいはつ という しゃかいの ヘゲモニーお りようして うんどう すると いうことわ、じっさい にわ これらの ヘゲモニーお せいとうか することに しょうがい うんどうが きょうりょく していた、という ことでも あります。
そして ふたつめ として、していた ときも おわってからも、オリパラ および うんどうに たいしての けんしょう・ひょうかが ないこと です。これわ、オリパラに きょうりょく する りゆう として「しょうがい される ものの けんり じつげん」などが すえられて いても、わたしたちが じぶんたち あるいわ まわりの「けんり」に かんして じっさいわ どうで あったのか きづき、かんがえ、みらいお つくって いくことが、むりょくか されている じょうきょうお あらわして います。
2.1 オリパラの りんりてき もんだいと うんどう えの 3ひはん
オリパラの りんりてき もんだいに ついて かくにんします。
ひとつに、ジェントリフィケーション。きょだいな しほん からの さくしゅと、じゃくしゃに たいして ぎょうせい だいしっこうお おこないたい ぎょうせいが、たがいお りよう しあう ものです。
つぎに、ナショナリズムと プロパガンダ そのもので あること。にほんの しゅしょうが スーパーマリオに ふんした パフォーマンスお おぼえて いますか? とうきょう とちじが しょうかいした「かぶる かさ」の ことわ? そして てんのうに よる かいかい せんげん。これらの すべてが、にほんの かこと げんざいに ついての かがいお けそうと しています。
そもそも オリパラの もくてきとして、「ふっこう ごりん」という テーマが いわれたことお おぼえて いますか? これわ「ごりんの レガシー」なるもの えの ひはんとも かんけい しますが、オリパラに ついてお てきせつに ふりかえる ことが できない ことによって、そこに ひもづけられた かだいに かんしても、ふりかえる ことお むりょくか されている ように おもいます。
このような オリパラですが、DPIほか しょうがいに かんする いくつかの だんたいわ、とうきょう たいかいに きょうりょく しました。「まちの バリアフリーの きっかけに なる」「オリパラの レガシーきょういくで、しょうがい えの りかいが ふかまる」ことお りゆうと した ように おもいます。うんどう だんたい だけでなく、がくしゃ たちも そうでした。しょうがいがくお ふくめて いろいろな けんきゅうしゃ たちが、オリパラに びんじょう して いました。けんきゅう けいかくしょの はじめに「2020ねんにわ オリンピックも ひらかれるが…」と かかれた ものが ふくすう あることお きおくして います。けんきゅうしゃが じっけん きょうりょく しゃお あつめて、じぶんの けんきゅうの いぎお せつめい する さいに、オリパラお ひきあいに だしていた ばにも、わたしわ じっさいに いた ことが あります。いずれに しても「でわ けっきょく オリパラお へて、けんきゅう せいかわ どう えいきょうお うけたのか」に かんしてわ、ほうこくが あまりにも すくなく ふせいじつな ものでした。
しょうがいがっかい でわ 2017ねんに たいかいシンポジウム として、オリパラお テーマとした はなしが ありました。あのとき しつぎおうとうで わたしわ、オリパラ じたいの もんだいに ついて いくつか のべましたが、そのときの ないようお たしょう ついかして もういちど ここで ていじ します。
ひとつわ、オリパラじたいが だれかお よくあつ する もので あり、きょうりょくが ひ りんりてきで あること。ジェントリフィケーションの ほかに こうじ スケジュールが かみつ であり、ろうどうしゃの じこお たはつ させたこと。これわ いま おおさか ばんぱくでも もんだいに なって いますし、ことしの パリごりん でも そうです。
もうひとつわ、うんどう として「とうきょう いっきょく しゅうちゅう」すぎる こと。なぜ「たいかいの ために とうきょうお バリアフリーに こうじ する」という こうそうが、とうきょう いがいに すんでいる もの たちが リソースお いっぽうてきに どういんされて まで なすべきこと なのか、について あまりにも ぎろんが なさすぎました。2021ねんも コロナであり、オリパラの アスリートたちと うんえいの ために、ワクチンや リソースお きょうせいてきに しゅうちゅう させました。これわ わたしたちの トリアージ でした。
さいごに、うんどう として バリアフリーに ついて しょうがい えの せいぎ そのものお どうきと して もとめる のでわ なく、オリパラと いう べつの ものに りゆうお もとめて しまって いたこと。ひとつの イベントお りゆうと したら、それが おわれば せいびも とまる ことと なります。それお ごまかす ための「レガシー」でも あるのですが、だいじ なのわ イベントが あっても なくても、わたしたち にわ わたしたち じしんの かだいが あり、しゃかいお かえる ひつようが ある という ことです。イベントの ために、イベントが ゆるす げんどで わたしたちが いるのでわ ない という ことです。しゃかい へんかくの りゆうお イベントに もとめる のわ、しゅたいの うりわたし でした。
オリパラに きょうりょくした けっかとして すすんだことわ、かなり すくなかった はずです。それが ぎゃくに レガシー という けつろんお はじめる まえから つくった ことに よって、じぶんたち じしんの かこお ひょうか する こと じたいが むりょくか されて いると おもいます。
3 しょうがいしゃ けんり じょうやく たいにち しんさの むりょくか
オリ・パラに かんしてわ、しょうがい うんどうの べつの ばめんでも かんけい しています。しょうがいしゃ けんり じょうやく です。
2022ねんに たいにち しんさが ありました。けんせつてき たいわ の ばでわ ぼうとうで にほん せいふの やまざき たいしが あいさつお しました。「さくねん とうきょうで オリパラが かいさい されました。そのあと バリアフリーかが しんてん しました。」と いったのです。さらに「さいがいや イベントお へるたびに、しゃかいてき しょうへきの かだいお にんしきし、かいぜんお はかってきました。」と アピールしました。にほん こくが これまでの しょうがいの もんだいに どう こたえる べきか という しんさに たいして、オリパラという しょうがい いがいの ださんありきの イベントや、いま なお かいけつ させない げんぱつの じこお つかった のです。わたしわ この スピーチに たいへん いきどおりました。みなさんわ ぎもんに おもわなかった ので しょうか?
あいさつでわ ほかに「じんけんわ ふへんてきな かち」、「じんけん ようごわ すべての くにの きほんてき せきむ」、「たいわと きょうりょくが きほんの じんけん がいこう」という ことばも だされました。それが げんじつでわ ない ことお、みなさん にんしき できて いる でしょうか? にほんわ たいわに たいする せいじつさお ぜんたいてきに かいた おうたい ばかり でした。「ほうりつが ある」「とりくみが ある」などと くりかえし、じぶんたちが ただしい という ぜんていから うごいて いません。
わたしわ にほんに たいして しつぼうお した、という よりわ、いいんかいが これお「たいわが うまく いっていない」と はっきり いわない ことの ほうに とまどう きもちでした。また それ いじょうに、うんどうが ぜんたいとして この ありかたお「くにや けんりょくが おうぼうで あっても がまんしよう。しゃかいお かえるにわ その やりかた しか ない」という ぜんていで、むきあって いる かのような ふんいきに あるように かんじて、ぎもんお もちました。
しょうがいしゃ けんり いいんかいや、かく うんどう だんたいの パラレルレポートの さくせい・ていげんの とりくみ じたいにわ ただしいことが かかれていたり、それお じつげんしたい きもちが ふくまれている ことも しってわ います。しかし しゃかいとの むきあいかたわ それが すべてでわ ないはずです。こっか くぶんで スポーツお する しゃかいに ぎもんお もつなら、こっか くぶんで けんりお ほしょう していく しゃかいに ぎもんお もつことも できます。しょうがいしゃ けんりじょうやく じたいに ついて、その ほしゅせいに ひはんお まじえて けんとうして みましょう。
3.1 「けんり」ろん えの 4つの ひはん
わたしわ しょうがいしゃ けんりじょうやくお よんでいて、それが しょうがい されるものの いきかたお よくあつてきに きてい していたり、きぞんの しゃかいや わたしたちの なかの ふびょうどうに たいして ひはんお かいたままに ただ ほうせつお こうそう しているの でわと おもう ところが あります。
それわ「けんり」という こと そのものに かんして です。しょうがい される ものたちの いきかた にわ「けんりが あり」、それゆえに こうていされる、という かんがえかた だと おもいますが、この いいかた にわ「マジョリティお ふくめた しゃかいに ついて」が かんがえから じょがい されている ように かんじました。
ひはんわ 4つ あります。まず「とっけん」に ついて。よの なかにわ「とっけん」という、げんていてきに だれかお しょぐうする ことが きわめて ひんぱんに あります。じっさいの ところ、かんぜんに「けんり」だけで いきている かたと いうのも いない かも しれません。この だれもが かんけいする「とっけん」に、ふびょうどうや かくさが あります。たとえば、じょうやくでわ 27じょうが「ろうどう および こよう」です。ろうどうが「けんり」であり、ゆえに にほん でわ ハローワーク などの じぎょうに よって、それお「ほしょう」するの でしょう。ハローワークの きゅうじんが すべて れつあくで あると いう つもりわ ありません。しかし いま、この へやの ことお かんがえて ください。ろうどうしゃ でもある かたがたも おおぜい いるかと おもいますが、そのうち「ハローワークに のらない しごと」に ついている かたも とても おおいの でわ ないでしょうか。これが けんりと とっけんの かんけいせい です。けんり あるものと ないもの、とっけん あるものと ないもの、いかにしてか けんりお「つかう」ひつようが ない もの。それら すべてで ひとつの しゃかいが せいりつ している ことお ごまかすな、ということと なります。けっきょくわ「とっけん」の かいたいに ついて ぎろんお する ひつようが あるし、しなければ けんりわ「さいていな ふくし」という いみに なります。
もうひとつわ ぎゃくに、「けんり」と して かんがえられて いる ライフスタイル、その そうていに しょくみんち しゅぎが あたりまえに ふくまれて いることです。ゆうふくな ちいきで いきている しょうがい される ものたちわ、ゆうふくな ちいきに いきている けんじょうと される ものたちの いきかたお きじゅんに して、「ああなりたい。あのように いきられる ように せよ」という ことお もとめてきた ように おもいます。しかし、いま ある ゆうふくな くらしと いうのわ、それ じたい せかいの ほかの ばしょからの さくしゅお ぜんていと して せいりつ する ものです。そこに たいして「わたしたちも そのように いきる けんりが ある」と のべるとき、そのような くらしが「せいとうである」という しゅちょうと して はたらきます。まずしい ちいき、まずしくされた ぶんかの くらしわ、ただ たんに「まだ ゆたかでない もの」かの ように そうぞうされます。しょうがいに かんする ぎろんでも、いわゆる「せんしんこくの くらし」お きじゅんと して、そうでない くらしわ「しょうがい ゆえに けんりが ない」という、ひげきてきで せんしんえと みちびかれる べき もの としての あつかいが あるよう だと、つよく かんじます。ようするに しょうがい される わたしたちの あいだにも しょくみんち しゅぎの せいじが あり、そのことお ごまかすのに「けんり」というのが つごうが よい そくめんが あります。ライフスタイルに たいしての「けんり」ろんわ、さくしゅする しゃかいに ついて ない ことに しています。これわ「かいじょしゃ」お ろうどうしゃ という ことに したこと による たいりつお、あまり そうてんに していない ことも ふくまれます。
さらに「けんり」の なかみに たいしても、きぞんの しゃかい からの かんしょうが あります。「けんり」にわ わざとらしい ものも あると おもうのです。さきに あげた「ろうどう」も そうですし、23じょう aの「こんいん」に かんしても そうです。これわ ライフスタイルに たいする ひはんと かぶりますが、よくぼうの ありかたが きぞんの しゃかい きはんに ほうせつお のぞむ ほうこうせいに すごく げんていされて います。しかし、フェミニズムでも どうせいあいしゃ たちの うんどうでも かこに そうだったの ですが、こんいんお きょうせいする しゃかいお といなおす なかで、こんいん せいど じたいお きょぜつする という かんがえかたも もさくされて います。「けんり」いがいにも「はいし」という かんがえかたが あります。しかし むしろ そのような ぎろんお させたくないが ために、うんどうの なかで「けんり」という ほうこう づけが されていないか、と かんじる ぶぶんが あります。
きんしが マイノリティに よくぼうお つくる という ことも しんじつ でわ ありますが、じつのところ マイノリティの「けんり」お ねがう よくぼう じたいが、ヘゲモニーお いじするのに つごうの よい やくわりお はたす ことが あるのです。
ヘゲモニーと しみん、そして「せいとうせい」に ついて れいお だして せつめいします。「しょう」と いうのが ありますね。だれかお ほめたたえる、けんしょう・ほうしょう です。その「しょう」ですが、「あたえられる がわ」いじょうに「あたえる がわ」お けんい づけていく システム でも あります。にほんの「”こくみん” えいよしょう」や てんのうの「しじゅ ほうしょう」などお かんがえて ください。くにや てんのうせいに せいとうせいわ ありません。そこわ くうどうか、ともすれば すでに してしまった さくしゅ だけが あります。しかし、「しょうお だれかに あたえる」パフォーマンスお つかう ことに よって、「しょうお あげた、あげた あいてより けんいが ある じぶん」、「しょうお あげた ものたち から せいとう だと にんしき して もらって いる じぶん」という、きょこうの ちいお つくって いきます。ヘゲモニーに もんだいが あっても、あるからこそ、だれか から「もとめられている・のぞまれている」という できごとお かたちづくり、いまの じぶんの せいとうせいに していく という ことお もちいて います。これわ ほんとうに かたちだけ で よいので、じっさいに あいての のぞみに こたえて いるか とわ かんけい ありません。あくまで だれかから「のぞまれている」ようで あること、それお まわりに アピールできる こと、ヘゲモニーが じぶんじしんの いじに ほっして いるのわ それです。
これわ こっかと わたしたちに たいしても いえる のでわ ないでしょうか? こっかや せいど えと ほうせつお もとめる ようきゅうわ、ぎゃくせつてきに こっかや せいど じたいの そんぞくお よくぼう している ものだと して アピール できます。つまり マイノリティの みたされざる よくぼう という ものにも、すでに きぞんの しゃかいお いじする やくわりが あります。それお うんどうわ ひはんてきに にんしき すべきだと おもいます。
さいごの ひはんとして、わたしたちわ「ただしく ない」と いうこと、その しゃかいてきな やくわり またわ いみ という ものお、きりすててわ いけないです。「わがまま」で あったり「めいわく」で あったり という かいしゃくが、しゃかいの どのような ありかたお ぜんていに して おきた かんがえ なのかと いうこと。さらに、「ただしさ」の けいざいの なかで、マジョリティにわ ただしさお つねに はいち できます。また しゃかいに おいてわ マイノリティお ひくく あつかう ただしさお さがして くる ことも できます。これらの ことに ひはんが ないままに わたしたちが「ただしさ」えの ほうせつお のぞむ ならば、ちょうど「ふりえきが こうしん」されて いく のと おなじように、わたしたちが せんばつされ「ゆうりょくか して いく」ことに なります。
「ゆうりょくかの こうしん」とわ、しょうがい される ものたちの あいだで、ふりえきが のこる ものも いれば ふりえきお かいしょう される ものたちも でてくる、などと いったこと でわ ありません。いま ある しゃかいお そのままに、ただ「せんお つねに ひきなおしていく」という ありふれた しゃかい やくわりお えて、ヘゲモニーと しょうがい うんどうが おたがいの せいとうせいお かくにん しあう システムに なっていく ことお いみする のです。
「けんり」とわ しゅちょうと せいとうせい との むすびつきの ことお いみする はずです。しかし、わたしたちわ わたしたちに ふよされた「ただしくなさ」という やくわりに ついて、それお ふくめて うごく しゃかいに ついて、「ただしく ない」という ちいより とい、かえる ひつようが あるのだと おもいます。
4 まとめ:「ツール」という たいど ひはん。わたしたち じしんの ヘゲモニーお かえる ための じっせん。
まとめます。オリパラと しょうがいしゃ けんりじょうやくに ついて ふりかえりました。これわ うんどうが こっかや ヘゲモニーと どのように そうたい するのか、じんけんと いうものが ヘゲモニーと うんどうに どのようにして おかれて いくのか という ことでも ありました。うんどうが こっか というものお どこまでも こうてい しつづける ぜんていに あるの ならば、いかに うんどうが こっかや じんけんお りようする つもりで あっても、じっさいにわ うんどうが こっかの せいとうせいの ざいりょうに なって ゆくのだと おもいます。
おもうに、わたしたちが なにかお「つかいこなす」ことで なにかお なそうとする たいど、じんけんに たいして「ツール」という かんけいせいお とろうと することが よくない ように おもいます。これわ、じんけん だけでわなく、しゃかいモデルに ついても そうです。なぜ「ツール」という かんけいが あやういのかと いうと、「じぶん」と「ツール」、そして ツールお てきよう して いく「あいて」の 3つが あったとき、「じぶん」についてわ かわらない ことお のぞんで いるように おもえるから です。ヘゲモニーも じぶんが かわらない ありかたお このみます。そして おなじ じんけんお、うんどうと ヘゲモニーが ともに ツールに しあった ときに おきることが、オリパラや しょうがいしゃ けんりじょうやくで おきたこと なのだと おもいます。
「けんり」という かんがえかたに たいして 4つ ひはんお しましたが、1つ ついか します。「けんり」として かかれて いても、わたしたちが わたしたち じしんの コミュニティーに たいしての はなしだとわ うけとらない ことが ある ことです。これわ 6じょうの「じょせい」・7じょうの「こども」に ついて です。どうも「かいて おけばよい」という むきあいかたお されて いる ように おもえる のです。しかし、これらわ こっか いじょうに わたしたち じしんの かだいで あるはずです。つまり しょうがい がっかいの たいかいちょうの ジェンダーバランスで あるとか、はっぴょうしゃ・フロアからの しつもんの それに ついての はなしです。「けんり」ろんわ もんだいお けんり しゅたい こじんの じょうたい、まわりわ けんりの こうしお まてば よい という かんがえにも ちかいのです。「じょせいの けんりわ ほしょう されている」でもなく「じょせいお ふやす ことが できたら、わたしたちが ただしくなる」と する のでも なく、わたしたちの かいの すすめかた じたいの ヘゲモニーお じっさいに かえて いきましょう。
うんどうの むりょくかと ゆうりょくかに ついても けねんお ていじ しました。これわ わたしたちが「せんもんか」に なって いくこと えの ひはん でも あります。しゃかいモデルの げんそくお あらためて かくにん すべきです。「いりょう」という たいど、もんだいの「こじんか」そして「せんもんか しはい」に たいする かいたい です。わたしたちお「ちりょう」する「ドクター」という たいどお やめて いきましょう。そしてまた、しゃかいお じぶんから きりはなして そうさ しようと すること、「しゃかいお ちりょう」する「ドクター」の こころみも やめましょう。しょうがいがくに たいして、そのように のぞみます。
さいごに けんりと うんどう、そして がくもん そのほかに たいして もういちど メッセージお。
「わたしたちにわ けんりお かくとく するより ほかに ない」として こっかや「けんりの ただしさ」に こだわる ほかにも、うんどうや しゃかいえの むきあい かたわ あります。「はいし すること」「いまある もとのわ べつの ものお のぞむこと」お ひてい しない ように することが、たいせつ なのだと おもっています。
しりょう おきば リンク。
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