神経難病患者の自立生活ー他者からの承認に着目して
坂野久美(岐阜医療科学大学/立命館大学)
キーワード
神経難病 自立 承認 地域移行 施設
【背景】
一人の人間が社会生活を営むうえで、「自立」は重要な要素である。一般的にはこの「自立」の定義について、「他の援助者や支配を受けず、自分の力で身を立てること」「ひとり立ち」といった意味で用いられる(広辞苑)。社会福祉領域では、立岩真也の定義を用いるならば、①「職業自立」・「経済的自立」、②「身辺自立」・「日常生活動作」の自立(「ADL自立」)、③「自己決定権の行使としての自立(自己決定としての自立)」・「自己決定する自立」、である(福祉社会辞典)。
これまで、研究者は施設生活経験のある神経難病患者を対象にインタビューを行ってきた。地域移行後のインタビューで語られた内容からは、「自立」に関する内容が幾度となく語られてきた。特に、地域移行が比較的スムーズであった患者は、退院時の自立度が高い印象があり、自立度と早期退院とは関係が深いと推測された。
神経難病患者にとっての「自立」とは何なのか。また、それは意識的に作られるものなのか。それとも無意識のうちに作られ表面化されるものなのか。また、「自立」が医療者の中にどのように印象づけられ、結果的に「自立」の承認が得られるのか。本論では、比較的スムーズに地域移行に至った神経難病患者1名のインタビュー内容をもとに、地域移行に重要とされる「自立」について、神経難病患者をとりまく他者の承認に焦点をあて分析する。
なお、本論で取り扱う「自立度」とは、立岩の定義による③「自己決定権の行使としての自立(自己決定としての自立)」・「自己決定する自立」に関する行動や言動に着目する。
【目的】
インタビューデータをもとに長期入院中の神経難病患者の「自立」につながる行動や言動を拾い上げ、他者からの自立承認につながる背景を明らかにする。
【方法】
(1) 調査対象者(中西竜也氏)の背景
1974年11月5日 兵庫県西宮市で生まれる
1976年 脊髄性進行性筋萎縮症(現:脊髄性萎縮症SMA)1)と診断される
1981年1月 国立療養所兵庫中央病院病院へ入院、療養生活が始まる
1981年4月 兵庫県立上野ヶ原養護学校・小学部へ入学
1993年3月 同校・高等部を卒業
1999年 夜間のみ人工呼吸器を使い始める
2009年9月 独立行政法人国立病院機構兵庫中央病院を退院(34歳)
西宮市で自立生活を始める。
2010年5月 生活介護(週1回)でメインストリーム協会へ通所
2018年6月 24時間、人工呼吸器を使い始める
(2) 調査方法
研究対象者の抽出および研究協力については、自立生活センター職員により研究対象者の紹介を依頼し、研究対象者に研究の趣旨を文書と口頭で説明し同意を得た。面接場所は、プライバシーが確保でき、対象者が負担にならない場所を対象者本人に選択を依頼した。退院後の地域生活歴が約10年となる研究対象者が、約30年にわたる筋ジス病棟での療養生活のなかで、どのようなプロセスを経て地域移行を実現させたのか、具体的な経緯および個別の複雑さを捉えるために、2021年1月に筆者の調査目的に従い作成したインタビューガイドを用いた半構造化面接を行った。コロナ禍の状況を考慮し、オンラインにて実施した。インタビューの所要時間は82分であった。研究対象者は、鼻マスク人工換気法(NIPPV)を使用しており、発声可能な状態であった。自宅には交代でヘルパーが常在し、日常生活援助を受け、1週間に2回の訪問看護を受けている。インタビューの内容は、研究対象者の了解を得てICレコーダーに録音、文字化し、特に自立に関するデータに着目し分析した。
(3) 調査対象者への倫理的配慮
調査の実施前に、対象者に対して調査の趣旨、内容や目的について文書と口頭で説明した。また、調査のどの段階であっても協力を撤回し離脱することが可能であり、その場合においても不利益を被らないことを説明した。データの適正な扱いと厳重な保管・破棄の方法、データ公表が予測される媒体等の明示、個人への調査結果のフィードバックについて説明した。インタビューの内容については、文字化後に対象者に内容を開示し確認をとり、実名表記についても説明した。以上について、同意書への記名により承諾を得た。
【結果】
(1) 「ませガキ」と言われて
中西が最初に入院したのは「小児センター」と呼ばれる建物、いわゆる筋ジストロフィー病棟(略:筋ジス病棟)であった。そこには神経難病患者対象の病棟が2病棟あり、成人になるまでの20歳未満の患者が入院する病棟と、20歳以上の成人患者が入院する病棟があった。当初6歳の中西は、20歳未満の患者が入院する病棟で暮らしていた。
ませた子どものことを「ませガキ」って言うんですよ。目上の人とばっかりしゃべってたんで。小学校入って入るから、僕が一番年下になるから、患者の中でも。当然職員は全員大人やからね、大人としゃべることになるから、それで自然と口調もなんか大人っぽくなる。
入院当初の中西は、病棟内で年齢が一番低く、自分より年上の患者に囲まれた環境で育った。そのため、低年齢のわりに「ませた子供だった」と当時を振り返っている。
(2) 趣味を持つ
筋ジス病棟には、複数の神経難病患者が暮らしている。中西は、四肢の筋力が低下しても楽しめる遊びを同室患者と模索していた。
当時は今みたいにスマホもなければインターネットもないし、何して遊んでたかっていうと、トランプやったり、オセロやったり、あとはプラモデルが好きでプラモデル作ってました。
中西は、年上の患者らに囲まれた環境のなかで距離感をはかりながら暮らす一方で、年上の患者とも友達のような付き合い方ができたと感じていた。中西が小学生時代よりプラモデルに興味を持ったのも年上の患者らの存在が影響しており、限られた環境下で夢中になれるものの一つとして他の患者らとともに楽しんだ。その趣味は高校生まで続く。こうして同じ趣味を持つ異なる年齢の患者との関係の持ち方を、施設という限られた空間のなかで育んでいった。
また、中西はもう一つの趣味としてラジコンに没頭していた。ラジコンは、入院中であってもインターネットを利用して購入することができた。
4年生からラジコンが趣味で、外で走らすんです。すごいスピードが出るんで、大人が遊ぶおもちゃです。ホビー。子どもが遊ぶようなトイラジじゃなくて、全長30㎝ぐらいある大きな車で、昔、大会とかも出てましたね。だから基本、外で走らせて、作業棟でセッティングなんかいじったりしてましたね。
ラジコンも趣味の一つと語る中西は、セッティングの場として作業棟を利用し、一般の大会にも出場した。障害のない人々や初対面の人々と積極的に交流する姿から中西の社交的な性格がうかがえる。
(3)スポーツ参加
高校時代の中西は、自力で更衣ができ、手動車椅子の操作ができたため、積極的に障害者スポーツにも取り組んでいた。
車いす野球やってました。虫捕る網あるでしょ。その網を使ってボールを拾うんで
す。当時は、手が上がる子どもはピッチャー。庭球ですね。ゴムのボールですね。
だから手動の車いすの人はこいで、網を膝の上に載せて、車いすこいで、網でボール
を拾う。
当時、近畿の4つの国立療養所に併設された刀根山、鳴滝、七条、上野、杉の子養
護学校2)の生徒が、地域的に中心である大阪に集合し、毎年5月にスポーツ交流会を行っていた。スポーツを通して交流を深めることが目的であり、卓球バレーや野球といった種目を障害に応じて選択できた。病院外の人々と関われる貴重な機会でもあり、スポーツを通して勝負をかけた楽しい時間でもあった。中西は、1年に1度のこのイベントをとても楽しみにしていた。
(3) 患者組織
筋ジス病棟には、生活連絡会と患者自治会3)という組織があり、役員は縦割りで配置されていた。いずれの組織の役員は、どういうわけか同じ患者が選出されることが多かった。
部屋長はね、「誰がやる?」みたいに部屋の中で話し合いするんです。だからもう持ち回りでやったこともあったし。おとなしい人もけっこういるんですよね。自分のことを発信しにくい人。問いかけてもだまーってしまったり恥ずかしがったり、社会経験がやっぱり少ないから、あんまり人と接するのが苦手な人もいてはるから。そうなってくると同じ人がずっとやる感じです。だから僕がほぼやってましたね。やりたくなかったんですけど、やる人がいないんで。
部屋長の任期は1年で、主な活動は毎月開催される生活連絡会に出席するというものである。会議は各病室の部屋長、病棟師長、指導員で構成され、生活面での困りごとを議題として提示したり、行事の報告などが行われる。部屋長の役割は、会議の内容を各部屋に持ち帰り、同室患者に伝えるというものであった。中西は、この役割を自ら引き受けていた。
2病棟の合同行事として、カラオケ大会やクリスマス会が開催されていた。それらの行事進行の主体となるのは自治会であり、会長、副会長、書記と会計から構成される。ひと月に1回程度会議が開催され、役員は総会において選挙で選出される。中西は、この自治会においても自治会長や会計を就任していた。
(4)準備は用意周到に
高等部を卒業した中西は、暇をもて余すことになる。徐々に悪化する入院環境に対して窮屈に感じるようになった。そして、既に地域生活を実現している先導者である田中4)と連絡を取り合い、粛々と退院の準備を始めた。
一番は介助ですね。介助者、介助がいないと地域で暮らせないから。その介助者の
確保ができるのを待ってたんです。「介助の確保ができたからいけるよ」って。それ
までできることはすべてやって。医療的な面も自分で電話して、病状とか言って「診
てほしい」って話をして。一回外泊したときに病院も受診し「診ましょか」ってな
ってやっと整えて。1か月前ぐらいかな、病棟師長に「話があるから時間作ってく
れ」って。病棟師長とドクターとうちの両親と、僕と五者で面談時間取ってもらって。師長さんが「何?」ってなって、「いや実は」って。「ああ、いつかやるんちゃうかなーって思ってた」って言われたけど。僕の中では全部できてきて、もう「いついつで退院したい」って。
中西は、地域移行の準備を外出や外泊の際に進めており、ほぼ整った状態で関係者に伝えた。病院関係者との関係が気まずくなるのを避けるため、準備中は情報が漏れないように細心の注意を払った。これは、彼なりの配慮であった。地域移行の意思を告げたとき、意外にも病棟師長からの肯定的な言葉に中西は安堵した。
(5)「お前の人生、好きなように」
両親には、退院9か月前から地域移行の意思を伝えていた。地域移行の先導者である田中とは以前から親同士の付き合いがあり、地域移行のロールモデルとして両親からも信頼を得ていた。
田中くんという事例があること、それも大きいかな。あとは僕が一回「やる」って言うたらもう聞かへんのわかってるっていうか。親父が「お前の人生やから、お前が好きなようにしたらええ」とか、「体だけは心配や」とか。
僕がもう全部材料そろえて全部提示して、「これはこうで、これはこうで」。ちゃんと訪看(訪問看護師)も24時間電話一本で何かあったら来てくれるし、重度訪問介護取ってることとか。医者も電話したら来てくれるし、点滴も家でできるし。何かあったら入院も近所の病院でできる。
両親は中西の初志貫徹の性格を理解していた。時には喧嘩や言い合いになることもあったが、両親は早い段階から中西の地域移行を後押ししていた。また、中西は日頃から行きたいお店の日程を両親に伝え、実際に父の車で外出することも多く、父のサポートに感謝していた。そのような両親の心配を最小限にしたいと考え、地域移行後のマイナス面の生活については説明を避けていた。。
(6)「呼吸さえできたら何とかなる」
中西にとって、呼吸器は命につながる重要なものである。地域移行後もコンパクトな呼吸器を在宅で使用できるというのは、一番の安心材料であった。
呼吸できたら基本死ぬことないからね。1年、春夏秋冬通してどうなるか、一番最初の1年間が勝負。その1年間無事に終えて。それがまた一つ自分の中で自信になる。
風邪をきっかけに肺炎を発症することが多かった中西は、呼吸状態の悪化を心配していたが、最初の1年を乗りきったことが現在の中西の自信にもつながっている。「呼吸できたら基本死ぬことないから」は、中西らしい前向きな言葉である。
(7)「ある程度勢いも大事」
地域移行終盤の段階において、看護師長の後押しが得られるか否かで中西のその後の進展が大きく変わる。看護師長の「いつかやるんちゃうかなーって思ってた」の真意を中西は探り次のように振り返った。
(僕は)部屋長もやるし、自治会長もやるし、まあ自分で言うのもおこがましいで
すけど社交的って言われるんで。自発的ではあるし、自分がリーダー的な感じでずっ
と病棟でもやってきたんで、自己管理能力が高いっていうのもたぶんわかってくれ
てはったんかなって思う。その点かなと思いますけど。
相談事業所、使うのメインストリーム5)って決めてたんで。実家、メインストリームも西宮なんで、実家、地域に戻りたいってのがあった、西宮に帰りたかった。田中も使ってたっていうメインストリームで相談したら、交渉力とか実践力とか行動力とか、(僕は)基本、石橋を叩いて渡るタイプなんですけど。(地域移行には)やっぱりある程度勢いも大事だから。そこはバランスですかね。人見知りやけど、基本的に人としゃべるのは好きなんです。
看護師長に「いつかやるのでは」と納得させ否定されなかった背景には、患者である中西の自立性が総合的に承認された結果であろう。看護師長の意見や見立てというものは、個人の独断と偏見から生まれるものではなく、病棟看護師の大半の意見が反映される。すなわち中西は、地域移行について大半の病棟看護師からも承認されたのだ。承認というのもおかしな話だが、実際はこの部分が障壁になる場合が多いのだ。自分を信じ意思を貫き通した中西だが、不安が決して皆無であったわけではなく、だからと言って今さら後戻りすることもできない。この壁を乗り越えるためには、ある程度の勢いが必要であった。
(8)「それはちょっとかっこ悪い」
退院当初は介護認定時間に2時間の空白があった。母親が付き添うと言ってくれたが、中西はあえて断った。
メインストリーム協会は自立生活を掲げているところやから、だから「それはち
ょっとかっこ悪いやろ」って。まあプライドですね、早い話が。自立障害者運動っ
て、結局そういうとこみたい。今はたぶんそんなことはないと思うんですけど、た
だ僕が出てきた頃はそういうのがすごく強かった時代で。身を削って自分の生活
をつくるっていうスタンスがあって、ほんと、事業所の当事者が言ってたんですよ。
「かっこ悪ないか?」っていう話です。たしかにかっこ悪いなと思って。だからま
あその2時間ほど、じゃあ過ごそかなって。それやったら交渉して、必要な時間を
取りに行くっていうほうに力を注ごうということになって。だから交渉、交渉、交
渉。だから親は一回も来てないです。
交渉について、中西は相談事業所の先輩と一緒に行いその手法を学んだ。
両親には今でも会っているが、介助を理由に会うことはない。これには、中西の「自立」に対してのプライドをかけた強い信念が示されている。
【考察・まとめ】
中西は、約30年もの間暮らした筋ジス病棟で、彼なりにも成長を遂げていった。そのなかで、いくつか「自立」の評価につながるものが確認された。小学生の頃に周囲から言われていた「ませガキ」は、決して否定的なイメージとして捉えられてはいない。年上の患者らと長年暮らすなかで、中西自身が人間関係の構築方法を習得した末のほめ言葉であるととらえることができる。年齢層の異なる人々に囲まれた生活環境というのは、病院外でもあまり例を見ない特殊な環境といってもよいであろう。おそらく中西自身、逃げ場のない場所でそれなりの苦労もあったであろう。そのような環境のなかで、プラモデルやラジコンといった趣味にも出会い、夢中になって楽しむことができた。また、障害者スポーツにも積極的に参加し、養護学校対抗のゲームや患者同士の出会いを楽しんだ。特にラジコンについては、自ら一般大会に参加し、障害のない人々とも交流の輪を広げた。こうした場でのコミュニケーション能力は、中西にとっての強みであり、そうした姿はまさに行動力と社交性を実証するものである。筋ジス病棟の患者自治会や生活連絡会などでは、患者の代表としての役割を自ら引き受けるといった主体的な行動をとってきた。地域生活という人生の目的に向かい、決意後も決して他人の意見に流されることなく、自分の意見や行動には責任を持って取り組んできた。また、自分の考えには自信を持ち、会議の場では他者に対して意見してきた。さらに、前向きな姿勢、プラス思考といった中西自身の性格も、周囲から好感が持てる一面であろう。以上のことから両親はもとより、病院関係者の地域移行の容認に至ったと考える。
施設療養患者が地域移行に必要なものとして、当事者の自立性が問われることが多い。この問題を打破するためには、患者はもとより医療職者からの自立の承認が得られることが求められる。
本論では、地域移行に至った患者の他者からの自立承認について、1人の対象者をもとに分析、考察した。より具体的な分析・考察については、別稿を要する課題である。
【注】
1)脊髄性萎縮症SMA〔指定難病3〕:脊髄の運動神経細胞(脊髄前角細胞)の病変によって起こる神経原性の筋萎縮症で、体幹や四肢の筋力低下、筋萎縮を進行性に示す。男女差はなく、I型は乳児期、II型は乳児期から幼児期、III型は幼児期から小児期、IV型は成人期に発症する。乳児期から小児期に発症するSMAの罹患率は10万人あたり1〜2人で、国内の患者数は858人と言われている。本症では根本的治療はいまだ確立していない。
2)大阪府立刀根山支援学校:独立行政法人国立病院機構大阪刀根山医療センターに隣接(大阪)、鳴滝総合支援学校:独立行政法人国立病院機構宇多野病院に隣接(京都)に隣接、七条養護学校(現奈良県立養護学校):独立行政法人国立病院機構奈良医療センターに隣接(奈良)、三重県立杉の子特別支援学校:独立行政法人国立病院機構鈴鹿病院に隣接(三重)。
3)会費は1年に1000円で、その主な内訳は、ボランティアの謝礼や交通費とか,行事関連物品、景品や参加賞などである。
4)田中正洋:筋ジストロフィー患者、2006年9月に国立兵庫中央病院を退院し地域移行を開始。2009年1月他界。
5)特定非営利活動法人 メインストリーム協会:障害者自身が運営する障害者のための「自立生活センター」所在地は兵庫県西宮市。
【文献】
前田拓也:2009,「介助現場の社会学―身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ」
生活書院
全国自立生活センター協議会:2001,「自立生活運動と障害文化―当事者からの福祉論」
現代書館
星加良司:2001,「自立と自己決定―障害者の自立生活運動における「自己決定」の排
他性」『ソシオロゴス』vol.25:160-175
■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。
①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。
報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。
女子栄養大学 深田耕一郎
女子栄養大学の深田耕一郎と申します。
匿名でなく実名で当事者の方の語りを聞き取り、個別具体的な経験やその方のパーソナリティーが非常によく伝わってくる貴重なご報告と思いました。どうもありがとうございました。
ご報告では、日常の生活実践のなかから「他者からの承認」を獲得していった当事者の方の個別的な実践がよくわかりました。
本事例から、地域移行を実現するための普遍的な条件を抽出するとしたら、どのような条件が整うことが、地域移行には大事だといえるでしょうか。ご教示いただけると幸いです。
〈2022.9.19 報告者から〉
ご質問ありがとうございました。
以下、回答させていただきます。
本事例の研究対象者は、入院中に社会とのつながりの機会を大変多く持っておられました。幼少期より病院関係者以外の健常者、障害者問わず様々な人々とかかわりを持つことで、心理社会的発達において最も重要視される青年期において、自分に合う生き方を模索し、人生について主体的な選択ができたと考えます。つまり、自己決定に重要なアイデンティティの確立がなされたものと思われます。
アイデンティティは、他者や社会との関係の中で構築されていくものです。神経難病患者が地域移行を実現させるためにはアイデンティティの確立が重要であり、そのために社会とのつながりや接点が日常的に持てるような環境や制度が整うことが重要であると考えます。
本事例からの普遍的条件の抽出につきまして、ご指摘くださりありがとうございました。今後、他の事例についても分析をすすめ、より具体的な条件の抽出に努めてまいります。