houkoku/tanemura

自由報告一覧に戻る
質疑応答は文章末です


1970年代の京都大学の公費支援要望運動における聴覚障害学生の役割

種村光太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫博士課程)


1 はじめに
1.1目的
本報告は、聴覚障害学生が学習権保障を求める活動にどのように参画していたかについて、1970年代の京都大学の難聴問題研究会の事例より分析するものである。京都大学には難聴学生への支援、ひいては全学的な支援体制構築を目的とし、1976年に発足した「難聴問題研究会」があった。難聴問題研究会の運動によって、支援器具の設置を可能にするなどの当時としては画期的な成果があったが、こうした京都大学の障害学生支援の草創期において、聴覚障害学生当事者はどの程度この動きに関与していたのか、本報告はその様相を明らかにするものである。

1.2 問題の背景と先行研究
2006年に国連の「障害者の権利に関する条約」の批准に伴い日本は 「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」の施行をはじめとして様々な国内法を整備してきた。このような世界の大きな動きも大きな背景とし、現代では高等教育機関で障害学生への支援を行うことが社会的に喫緊の課題として顕在化してきた。その中で、聴覚障害学生と視覚障害学生は、情報収集に問題が生じるため、講義及び学生生活での情報保障を行い、学習条件を整えることが重要となる。
近年の障害学生支援に関する研究の多くは、学内の支援方法の紹介や、良い支援のための改善策がどのようなものであるかという点が議論されてきた(座主 2009)。そのため、組織的な障害学生支援が行われる以前の情報保障に関する記述、つまり栗川(2022)が提示するような研究領域「情報保障の歴史的記述」が不十分である。
わずかにある研究とすれば、例えば視覚障害の場合、当事者が積極的な活動を行う中で情報保障を求めていたことが明らかになっている。日本盲人福祉研究会盲学生情報センター(1990)は、1949年以降に盲学生の大学門戸開放がどのように実現してきたのかということを記述してきた。そこでは、当事者自らが自己責任の元で点訳できる人間を探し、自ら高等教育における学習環境を整えようとする様子が描かれている。また、広瀬(2005)は、1960年代から80年代においては、「盲大学生とOBの相互扶助、親睦を」目的とした文月会や、「盲学生の盲学生による盲学生のための当事者団体」である関西SL(スチューデントライブラリー)など、視覚障害当事者によって学習環境を保障してきたことを記述してきた。
一方で、聴覚障害の場合はどうだろうか。高等教育機関では、聴覚障害当事者が自身の大学生活を書き記したもの(例えば、脇中2009)や、制度化以前の情報保障の実態を調査したもの(筑波技術大学2009)などがある。この様な記述では学内での情報保障の実態などを断片的に見て取ることができる一方、聴覚障害者が学習権保障を獲得してきた歴史にどのように参画してきたか、学術的に十分明らかになっていない。
しかし、聴覚障害者に対する情報保障が戦後日本の歴史においていかに行われてきたかを知ることは、現在の聴覚障害者への「合理的配慮」の在り方を考えるうえでも、また今後のインクルーシブ社会を目指す社会においても重要な指針となりえるものと考える。
そこで本報告では、聴覚障害学生が学習権保障においてどのような役割を果たしてきたかを明らかにするため、1970年代の京都大学で学生団体が公費支援を要求する過程を事例とし、調査を行う。この事例に注目する理由としては、当時、京都大学文学部内部の有志団体「難聴問題研究会(以下、難問研)」の運動が公費支援の発端の出来事となっているからである。

1.3 研究方法
本報告は、これまで詳細が明らかになっていない難問研の活動を跡付けつつ、聴覚障害学生が情報保障を求める運動にどのように参画していたのか分析するものである。当該領域について、先行研究は事実上存在しないといってよい。そのため、本研究は一次資料を基礎資料とする。利用したものとしては、京都大学大学文書館に所蔵されている1976年から78年までの文学部の予算案に関する公文書や、難問研が作成したビラ『聴覚障害者とコミュニケーションー新歓講演集会報告と難聴研運動』(著:京都大学難聴問題研究会)、難問研のメンバーが当時の制度を歴史的に記述した『京都大学障害学生支援室の「設置」―「相談」から「支援」へ』(著:松延秀一)である。また、当時の難聴学生松延秀一氏への聞き取り調査を行った。このような一次資料は、難問研あるいはそのメンバー自身が、当時の状況を記述しているため、すべてを鵜呑みにすることが出来ないが、上記資料を中心として分析する。なお、本研究は、「立命館大学における人を対象とする研究倫理審査」の承認(衣笠‐人‐2021‐77)を受けている。
以下、本報告における新規資料の概略を述べる。
まず、難問研についての情報を集めるため、難問研のメンバーである松延氏に調査協力依頼を行い、了承が得られた。松延氏は、1974年に京都大学文学部に入学し、難問研の発端の人物となる。そして、聞き取り調査時、松延氏より自身が記した資料『京都大学障害学生支援室の「設置」―「相談」から「支援」へ』を頂戴することができ、当時の実態を具体的に知ることが出来た。また、「京都府部落解放センター」に難問研が発行したビラが所蔵されていることが判明し、同資料についてセンターより閲覧および複写の承諾を得た。
なお、本報告内で「手話」という言葉が使われる際、その「手話」が「どのような手話なのか」という点には言及しない。そのため、資料や聞き取り調査内で「手話」という単語が使用される場合は、そのまま扱うものとする。

2 難問研の活動の展開
2.1 難問研はどのようにして生まれたのか
そもそも難問研は、1976年に文学部現代史学科に所属していた難聴学生M(当時3回生)の困りごとを解決しようと結成された団体だった。Mは生まれつきの難聴であり、両親と補聴器を使っての音声コミュニケーションを行っていた。そして、幼稚園から高校まで健聴者と共に生活し、困難を感じずに過ごしていたという。その後、1974年に京都大学に入学し、1・2回生時に何も情報保障を受けることなく過ごしていた。
そして1976年、Mは3回生になり、専門課程でのゼミが始まった。5月20日、Mは独書購読の授業にて教官よりテキストを訳すように命じられたが、なかなかコミュニケーションを取ることが出来なかった(京都大学難聴問題研究会 1978)。
6月3日の独書購読の授業後、Mは、同じ現代史学科3回生のQより「読んでいる本や問題意識について問いただし、歴史を学ぶためには、もっと人と議論しなければならない」と言われ、「授業でワイヤレスマイクectの機器を使ってみてはどうか」と提起された。このことにMは「乗り気ではなかった」が、Qが強引に主張したことで当局に要求するに至った(京都大学難聴問題研究会 1978)。これが、運動の発端だったという。
翌日から、文学部の学友会と現代史学科の有志のメンバーらは、当局と交渉を行った。その結果、3日後にはワイヤレスマイクの機器を獲得し1)、Mはマイクの使用による授業参加を試みた。この時授業において話し手が、必ずマイクを使って話すことが必要となる。これを実現させるためにQは、Mの授業に参加し、健聴者と難聴者の間にある壁についてアピールを行った。

これまでの状況では、難聴者は、授業をうける権利、ゼミに参加する機会を奪われていた。同時に、健聴者にとっても難聴者とのコミュニケーションが円滑に進まないという不利益をこうむっていた。ワイヤレスマイクを使用することによって両者のコミュニケーションが回復する。従って、マイク装備は、難聴者が利用するというよりも、両者が共同で利用するものである。(京都大学難聴問題研究会1978)

 その結果、授業内でワイヤレスマイクの使用が認められ、Mは授業についていけるようになった。そして、6月8日、Mの問題を契機とし、現代史学科の3回生を中心とした約10名のメンバーが集まり、難問研が発足した。

2.2第一次要求
6月23日、難問研に哲学科大学院修士2回生の難聴者Fが参加した。そのFは、Mよりも重度の難聴で、読話中心のコミュニケーションを取っており、補聴器も補助として役立つだけであった。従って、ワイヤレスマイクだけではFの授業参加上の問題が解決さないため、難問研は自主ゼミ等によって解決方法を模索しつつも、新たにFの講義保障活動を始めることとなった2)。
その後、難問研は京都市内の難聴生徒を受け入れる設備のある学校を訪問するなど、Fに適した講義保障の在り方の検討を行った。その結果、難問研は9月13日に、難問研と文学部自治会学友会の連名で、M・F両名に対する個別保障の要求を中心とした要求書を提出するに至った(京都大学難聴問題研究会 1978)。以下に目次を記す。

(1)大学における難聴者の苦しみ
(2)「難聴者」にとっての大学生活
(3)FMラジオ・ワイヤレスマイクの追加要求
(4)FM補聴器 3)要求
(5)OHP 4)設備の要求
(6)文学部における照明設備改善の要求
(7)音響効果改善要求の説明
(8)「障害者」に対する制度的保障とは何か

この要求書の末尾には、「大学の構成員の一人一人の自覚を促し、大学が『障害者』に対して持っている歪みを是正し、設備の改善などにも『障害者』の要求を正面から受けとめて、積極的に取り組むべき(松延 2011:19)」と書いてある。これより難問研は、難聴者の経験する困難は、大学側の誠実な対応によって変革しうる問題であると考えていると分かる。そして、当局はこの要求に対し、医学的な診断に基づく支援制度を確立しようと、以下のように応答したという。

文学部当局は、我々の要求をそのままの形で受入れる、あるいは拒否するというのではなく、問題の所在を一応認めた上で、「同じやるなら、医学的にオーソライズされた機関による診断に基づき、最も適した設備を整えよう」と独自の方法で解決しようとして来た。そしてまた「難聴研(難問研と同意味:報告者注)のようなサークルがなくとも、障害者の要求を機敏にとりあげ、最も適当な施策を検討、実行できるような、恒久的制度の確立が必要である」とし制度の検討をはじめた(松延 2011:20)。

 この応答に対し難問研は、当局の責任によって組織的な支援を行おうとする姿勢を評価しつつも、①医学診断だけでは必要な設備の確定はできないこと5)、②設備の整備だけでは問題は解決しないとし、当局に対し以下を述べる。

当局のすべきことは何か。それは試行錯誤のために必要なさまざまな設備・機器と、責任のスタッフをそろえた行動する機関の設置である。これが欠けていたことが、〈制度案〉の欠陥である(京都大学難聴問題研究会 1978)。

 そして難問研は、独自に調査を行い、新たな要求を提出するに至る。

2.3 第二次要求
難問研は、今後の方針として制度的保障の確立が必要だと考えていた。そのため、制度の基盤を模索すべく難聴学級のある学校や、日本福祉大学などを調査した。そして、アメリカで聴覚障害学生が聴者と共に学ぶ例として、カルフォルニア州立大学ノースリッジ校の情報を参照した。その実態調査を踏まえ、難問研は12月5日に、①全学的な制度の要求、②文学部における個別要求、③入学試験時の配慮の要求、の3点の要求を行った。具体的な記述は紙面の都合でかなわないが、概要を述べる。
①について。この全学的な制度というのは、学内の聴覚障害学生だけでなく、学外の聴覚障害学生をも対象としている。それは、難問研が、難聴者をはじめ障害者を排除し続けてきた社会こそ問題であり、「何の保障もないまま放置されている難聴者たちがこのセンターで開発された技術(手話を含め)を利用できる体制を整えておかねばならない(松延 2011:32)」と考えていたからである。そして、この要求は、さらに3つの区分に分かれている。
A.聴覚障害の状態を的確に速やかに診断し、最適な機器の使用についてアドバイスする専門家がスタッフとなること
B.手話通訳、ノートテイク、OHPなどによる「情報への対等な機会」の保障を可能とする手段を大学の責任の元で用意し、有給によって持続的なシステムとすること
C.制度化されても障害者に残る個人的、精神的問題を解決するためのカウンセリングを設置すること
つまり、難問研は、現代で言う「障害学生支援室の設置」、および「障害学生支援のセンター的役割」をセンターに求めていたと考えられる。
②について。第一次要求からの3か月の間に行った調査を含めた機器要求であり、基本的に一次要求の内容と同等のものである。
③について。当時の京都大学の学生募集要項には、「履修上著しい支障があると診断された場合」、および「合格者全員に対し、三月下旬にあらためて健康診断を行ない、その結果、就学に支障があると判定したものには、入学を許可しないことがある(松延 2011:38)」という文言、いわゆる欠格条項があり、また入試の際に配慮がない状態であった。その原因として、難問研は「大学当局は、個々の学生の障害に応じた勉学条件を整える責任を放棄し、その上、現在の大学の体制を固定したものとし、『履修上著しい支障がある』という理由によって、障害者の入学を拒否せんとしている(松延 2011:39)」と考えていた。そのため、欠格条項を撤廃し、「大学生活に必要な設備・施設の保障を確約する」旨を明記するように要求した。
この第二次要求について、当局は複数回難問研に対案を提出し交渉するなど、学内の制度化や有給の支援者派遣、予算案などを準備しようとした6)。しかし1977年8月ごろ、難問研は当局が出した対案を「センターを通じて、一人一人の障害者を個別に管理、指導していくためのものである」と評し、「エリート・インテグレーションを実行していくための相談室を断じて許してはならない(松延 2011:58)」とした。そして、難問研は第三次要求をまとめようとするが、運動の中核を担った学生の卒業などにより、活動停止状態になったという。

3 おわりに
3.1結論
本報告は、京都大学で行われた公費支援を求める難問研の運動に、聴覚障害当事者がどのように参画したのかについて分析を行った。まず、難問研は、1976年に難聴学生Mと聴者学生Qの呼びかけによって結成された団体であった。難問研の活動は、聴者学生(本報告ではQ)の積極的な呼びかけで牽引された運動であり、聴者側から「難聴学生と聴者学生との壁を取り払う」という理念が提示されていた。松延氏への聞き取り時、「学内のことをよく知る聴者が牽引していた」と答えていたことから、聴者学生が牽引したと考えて間違いないだろう。
これらから、本報告は、十分着目されなかった「聴覚障害学生の学習権保障の歴史研究」の一端を明らかにした。そして、視覚障害の事例とは異なり、聴覚障害の場合は当事者以外が情報保障の運動を先導していたことがあると示したと考えられる。

3.2考察
本報告では、視覚障害学生の運動との違い、つまり難問研の運動は聴者学生が牽引していたことが明らかになった。このことが可能になった可能性として、京都大学の学生運動が盛んだった伝統や名残によって、難問研の中に左翼系の思想を持つ学生がいた可能性が考えられる。そのような学生は、当局に対し要求を行うノウハウを持っていたことが推察される。難問研の聴者学生の背景について、今後調査が必要であるだろう。
また、聴覚障害学生が難問研の活動を牽引していなかったことについて、補聴システムや手話など、聴覚障害学生自身が、自身に適した情報保障を求めることが困難であった可能性が考えられる。本報告には十分掲載出来なかったが、1976年の第一次要望以降、Fは、難問研の自主ゼミで手話を習得し、手話での講義保障を求めるようになった7)。当初読話などによってコミュニケーションを行っていたFにとっても、聴者の様々な提案によって自らに適した情報保障を模索していた日々であったと言えよう。このことは、他の聴覚障害学生が学習権保障を求める運動にどのように参画してきたのかについて分析する中で、聴者が引っ張った難問研の活動が特徴的か否かを具体的に検討する必要がある。
障害者の「情報保障の歴史研究」は、今後社会的意義、学術的意義において発展することが望ましいものであり、本報告で新たに生じたクエスチョンを、今後より具体的に調査していきたい。

〈註〉
1) 松延氏への聞き取りによると、ワイヤレスマイクは文学部の予算によって購入され、学部内で管理されていた。
2)難問研は、難聴者と聴者のコミュニケーションの困難を、日常生活において両者が断絶していることを基づいていると考えていた。そのため、難問研は夏休みの自主ゼミにて手話講座を開催し、手話を知らない聴者・F・Mともに手話の習得を目指し、両者の壁を取り払おうと考えた。そして会議や自主ゼミ、日常会話に活かしていたという。
3)受信者はFM受信機を補聴器に接続、話者はFM送信機を持ち話すことで、補聴器を通じて話者の声を聞くことが出来る機械。
4)オーバーヘッドプロジェクターの意味。
5)要求の提出先では、M・Fの適切な機器の在り方について検討するため、独自に両名の聴覚の精密検査を実施したが、十分な結論を出せなかった。このことを踏まえ難問研は、医学的診断のみではなく、実態に即した支援が必要であると考えていた(京都大学難聴問題研究会 1978)。
6)京都大学大学文書館にて、1976年~1978年までの文学部の「概算要求」や「増額要求」の公文書を閲覧したが、障害学生支援という名目で計上されている予算枠は見当たらなかった。当時は、障害学生支援としての輪郭をもって支援が行われておらず、どこかの予算枠の中に組み込まれている実態であったことが考えられる。
7)松延氏への聞き取り調査より参考。

〈文献〉
・京都大学難聴問題研究会,1978,『聴覚障害者とコミュニケーションー新歓講演集会報告と難聴研運動』京都部落解放センター
・栗川治,2022,「点字図書館運動勃興期における『姉崎文庫』の設立と郵送貸出による事業展開─柏崎の姉崎惣十郎と新潟県盲人協会による情報保障の実践の歴史的意義」『社会事業史研究』社会事業史学会,62,掲載決定.
・座主果林・打浪(古賀)文子,2009,「高等教育のユニバーサルデザイン化における課題――奈良女子大学の聴覚障害学生へのインタビュー調査から」『人間文化研究科年報』24:115-126.
・日本盲人福祉研究会盲学生情報センター,1990,『視覚障害者と大学 シリーズ1門戸開放40年の歩み』日本盲人福祉研究会盲学生情報センター.
・広瀬浩二郎,2005,「バリアフリーからフリーバリアへー近代日本を照射する視覚障害者たちの“見果てぬ夢”」,『文化人類学』70(3): 379-398.
・松延秀一,2011『京都大学障害学生支援室の「設置」―「相談」から「支援」へ』松延秀一
・脇中起余子,2009,『聴覚障害教育 これまでとこれからーコミュニケーション論争・9歳の壁・障害認識を中心に』北大路書房.
・日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク PEPNet-Japan,2009,『資料集合冊 聴覚障害学生支援システムができるまで』日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク PEPNet-Japan.


■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。


自由報告一覧に戻る