視覚障害教師の歴史(1) ――明治期から1960年代まで――
中村雅也(日本学術振興会・東京大学)
1 はじめに
近年、世界的なインクルーシブ教育の潮流の中、日本でも障害のある子どもたちも包摂する学校の重要性が認識されるようになってきた。一方、障害のある教師は長年学校から排除され、あるいは不可視化されてきたし、いまだ包摂されているわけではない。このことは教育制度や学校がもつエクスクルーシブな構造を示すものであり、障害教師の存在は日本のインクルーシブ教育の課題を照らし出す有効な視座を与えてくれる(中村 2020)。しかしながら、障害教師についての研究はまだ端緒についたばかりで、その現状や歴史もほとんど明らかにされていない。日本の近代教育制度は1872(明治5)年の学制発布に始まるが、戦前の障害教師に関する資料はほとんどなく、その実態は不詳である。ただ、視覚障害者については、早くから盲学校教師としての養成が行われており、いくらかの資料をたどることができる。そこで、本報告では明治期から1960年代に至る視覚障害教師の歴史について概観する。
2 戦前
2-1 東京盲学校師範部
近代日本の障害児教育は1878(明治11)年に視覚障害児、および聴覚障害児を対象として開校した京都盲唖院に始まる。明治20年代以降になると、視覚、聴覚障害児への教育が次第に普及し、盲唖学校の数も増加して、盲教育、聾教育に携わる教師の不足が問題となってきた。そこで、1903(明治36)年に官立東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校、および聴覚特別支援学校)に教員練習科が設置され、修業期間1年で盲教育、聾教育に従事する教師を養成した。定員は10名で、主に尋常小学校本科正教員免許の所持者を対象としたが、東京盲唖学校、もしくは京都盲唖院を卒業し、適当と認められる者には特別に入学が許可され、いくつかの科目を履修することができた(東京盲唖学校 1908 pp.15-19)。つまり、視覚障害者にも盲学校普通科教師の門戸が開かれていたことになる。
1909(明治42)年に東京盲唖学校は盲教育と聾教育を分離し、それぞれ東京盲学校と東京聾唖学校として独立した。1910(明治43)年に同教員練習科は東京盲学校師範科に改組され、普通科、音楽科、鍼按科の3科が置かれた。普通科はすでに教員資格(尋常小学校本科正教員以上)を持つ者を対象としたが、筝曲、三弦などを教える音楽科、および按摩、鍼灸などを教える鍼按科は5カ年以上の盲学校卒業者を入学資格とした(大河原 1938 pp.181-182)。つまり、普通科は主に健常の教師を対象にして原職教育を行い、音楽科と鍼按科は視覚障害者を対象として、盲学校に勤務する教師を養成したのである。
1923(大正12)年8月には「盲学校及聾唖学校令」が制定され、各道府県(当時、東京都は東京府)に盲学校、および聾唖学校の設置義務が課された。また、教員資格についても規定された。この法規改正に応じて、東京盲学校は師範科を改めて師範部とした。甲種普通科は入学資格を小学校本科正教員免許状を有する者、乙種普通科は尋常小学校本科正教員免許状を有する者とし、甲種音楽科第二部は入学資格を小学校専科正教員免許状を有する者とした。修業年限はいずれも1年である。他方、甲種音楽科第一部、および甲種鍼按科は入学資格をそれぞれ盲學校中等部の音楽科、鍼按科の卒業者とし、修業年限は3年だった(大河原 1938 pp.182-183)。つまり、普通科、および音楽科第二部は主に健常の教師への原職教育であり、視覚障害者に対する普通科教師の養成は行われなかったのである。
2-2 傷痍軍人教員養成所
1937(昭和12)年の日中戦争勃発を契機に日本軍の戦死者、戦傷者は一挙に増加した。政府は戦傷者の生活保障のためさまざまな職業補導事業を行い、その一環として1939(昭和14)年に傷痍軍人小学校教員養成所、および傷痍軍人中学校教員養成所を開設した(逸見 1982)。傷痍軍人小学校教員養成所は全国5カ所、傷痍軍人中学校教員養成所は1カ所の師範学校に付設され、それぞれ1年と2年の養成教育で資格付与し、小・中学校に服務させた(山田 1997 p.39)。ただし、入所資格として傷病の要件が細かく規定されており、介護を要するような重度の障害者は対象とならなかった。たとえば、視力0.6未満の者は欠格とされ(逸見 1982)、実質的に視覚障害者は排除されていた。なお、同事業は傷痍軍人の生活保障が目的ではあったが、国家のために身を挺して戦った傷痍軍人を通して、児童、生徒に戦争への志気を涵養することも意図されていた。これらの教員養成所は1939(昭和14)年に発足し、戦後の新学制が始まる1947(昭和22)年まで存続した。
2-3 失明傷痍軍人教育所師範部
傷痍軍人教員養成所に先立つ1938(昭和13)年、失明傷痍軍人に対しては失明傷痍軍人教育所、および失明傷痍軍人寮が設置され、独自の職業再教育が行われた(山田 1997 p.39)。失明傷痍軍人とは両眼の視力が0.02に達しない者、および一眼の視力0.02に達しない者で他の一眼の視力0.1に達しない者、もしくは両眼の視力0.05に達しない準失明傷痍軍人を含むとされ(牧村・辻村 1997 p.248)、比較的重度の視覚障害者である。同教育所は東京盲学校内に設けられ、師範部と中等部が置かれた。師範部では2年間の教育で盲学校普通科教師の養成が行なわれた(山田 1997 p.39)。
1935(昭和10)年に満州での戦闘で失明し、後に名古屋ライトハウスの理事長となる近藤正秋(1913-1997)がこの師範部に第1期生として入学している。近藤は1940(昭和15)年、同所卒業と同時に愛知県立盲学校に赴任し、歴史と数学を担当した。だが、1945(昭和20)年4月に同校を退職、その後は社会福祉事業に力を尽くした(谷合 1998 pp.102-108)。
3 戦後
3-1 国立盲教育学校・東京教育大学教育学部特設教員養成部
戦後、東京盲学校師範部は1949年6月から国立盲教育学校に、1950年度には東京教育大学国立盲教育学校になり、翌1951年度からは東京教育大学教育学部特設教員養成部盲教育部となった。国立盲教育学校には本科、理療科、音楽科、また、その後の特設教員養成部盲教育部には普通科、理療科、音楽科が置かれた。国立盲教育学校の本科、および特設教員養成部の普通科は、小学校、中学校、または高校の教員免許を有する者を入学資格とし、修業年限1年で盲学校教諭一級普通免許状が取得できた。他方、理療科は主に盲学校高等部専攻科理療科卒業者を入学資格とし、修業年限2年で盲学校高等部特殊教科(理療)教諭一級普通免許状が取得できた。また、音楽科は主に盲学校高等部専攻科音楽科卒業者を入学資格とし、修業年限2年で盲学校高等部特殊教科(音楽)一級普通免許状が取得できた。その後、特設教員養成部は1968年度をもって閉鎖され。同養成部音楽科は廃止、普通科は1969年度から東京教育大学教育学部附属リハビリテーション教育研究施設視覚障害研究部門に改組された。他方、理療科は1969年度に東京教育大学教育学部理療科教員養成施設(現・筑波大学理療科教員養成施設)に改組され、盲学校理療科教師の養成を続けた(東京教育大学教育学部雑司ケ谷分校 1976 pp.311-312)。同施設は盲学校理療科の教員免許が取得できる日本唯一の機関であり、卒業生の大半は特別選考試験などで全国の盲学校の理療科教師として採用されている。
3-2 盲学校小学部教員臨時養成所
1948年4月から盲学校小学部の義務化が始まり、盲学校教師の需要が増大したため、文部省(当時)は盲学校小学部教員臨時養成所を開設した。これは盲学校内に2年度間だけ設置されたもので、中等学校卒業以上の者を対象にし、点字使用の視覚障害者も受け入れられた。1948年度には7カ所で6カ月の課程を2期、1949年度には3カ所で1年間の課程を1期開催している(東京教育大学教育学部雑司ケ谷分校 1976 p.309)。当時、京都府立盲学校高等部普通科2年だった永井昌彦(1924-2003)*1)は1948年度に同校に設置された盲学校小学部教員臨時養成所にも在籍し、盲学校小学部教員免許を取得している(加藤 2009、菊島 2000 pp.130-131)。
3-3 新制大学と盲学校普通科教師への就職
戦後の学制改革により、1948年度から新制大学が発足し、教員養成は主に新制大学において行われるようになった。すなわち、教員免許を取得し、学校教師となるためには、新制大学に入学することが必要となったのである。新制大学の入学資格は新制高等学校(新制盲学校高等部を含む)の卒業者が原則だが、文部省は1948年9月に東京盲学校師範部甲種音楽科第一部第1学年、同鍼按科第1学年を修了した者にも入学資格があると
発表した。翌1949年度に少なくとも6人の視覚障害者がはじめて3校の新制大学に入学したが、そのうち4人は東京盲学校師範部甲種鍼按科第1学年修了の資格を持つ点字使用者だった(菊島 2000 p.33)。このとき同志社大学に入学した永井昌彦もその一人である。永井は1944年に京都府立盲学校中等部鍼按科を卒業し、東京盲学校師範部甲種鍼按科に進学した。戦況の悪化や健康上の理由で中途退学したが、同師範部1年の修了により戦後新制大学の受験資格を得ることができたのだった(加藤 2009、菊島 2000 pp.130-131)。
新制大学を卒業した視覚障害者の有力な就職先となったのが、盲学校の普通科教師である。1954年度には永井が京都府立盲学校で英語科の非常勤講師となり、翌1955年度に教諭として採用されている(加藤 2009、菊島 2000 pp.130-131)。また、1951年度に同志社大学に入学した富田伴七(1931-2011)*2)は、1955年度に愛知県立名古屋盲学校で社会科の非常勤講師となり、翌1956年度に教諭として採用されている。当時、視覚障害者を盲学校教師として採用する場合、一般の教員採用試験ではなく、校長の推薦による特別選考試験によって採用されていた。富田も採用を前提として同盲学校の校長から指示され、愛知県の特別選考試験を受けている。試験は論文のみで、問題は口頭で伝えられ、点字で解答を書いて、終了後にそれを自分で読み上げた。特別選考試験の方式は各自治体で異なり、口頭試問や面接試験という例もあった(菊島 2000 pp.113-114)。
1951年度には東京教育大学教育学部特殊教育学科が盲学校普通科教師の養成を始めた。入学資格は他の新制大学と同じで、盲学校高等部卒業者を排斥するものではなかった。これを東京教育大学国立盲教育学校附属盲学校高等部専攻科理療科1年だった尾関育三(1929- )*3)が受験し、第1期生として入学している。これが国公立大学で最初の点字入試だった。尾関は同大学大学院教育学研究科修士課程数学教育学専攻を修了し、1958年4月に東京教育大学教育学部附属盲学校高等部の数学科非常勤講師となった。その後、1961年4月に同校教諭に採用されている(菊島 2000 pp.132-133、長岡 2006)。
1949年度以後も視覚障害者の大学入学は続き、1950年度には2校に3人、1951年度には4校に4人が入学している(谷合 1995 p.13)。1951年8月31日から9月2日には東京で第1回全国盲大学生大会が開催され、日本盲大学生会が組織された。1955年度には点字使用者が14人も大学に入学したが、1950年代後半になると視覚障害者の大学入学が激減し、年に数人程度になる。その原因は大学を卒業しても就職先がなかったことだと考えられる。盲大学生の有力な就職先だった盲学校普通科教師の限られた席もそれまでの大学卒業者によってすでに埋まっていた。全国盲大学生大会も1957年の第7回を最後に開催されなくなり、日本盲大学生会も休業状態となった。この状態を改善するために、大学を卒業した視覚障害者が中心となって、1961年7月に大阪で文月会を結成した。同会は1964年7月に日本盲人福祉研究会と改称した。1965年頃から視覚障害者自身による大学門戸開放要求活動が活発になり、日本盲人福祉研究会が中心となって大学進学促進行事も開催された。1968年7月に開催された第2回盲人の大学進学促進大会で採択された決議には、大学入試や学習環境の改善とともに、就職の課題として、国家公務員採用試験、司法試験、教員採用試験などの点字実施、および盲学校や盲人福祉施設における大学卒業盲人の雇用が掲げられた(菊島 2000 pp.38-42)。
この後、1970年代に入って点字使用者にも教員採用試験の門戸が開かれ、盲学校や通常学校に視覚障害教師が採用されるようになるのである。
4 まとめ
戦前、視覚障害教師たちは盲人の伝統的職業である鍼按、および邦楽の分野で盲学校教師としての地位を確立した。戦後、1968年に邦楽分野での教員養成は途絶えるが、理療分野は継続し、盲学校における視覚障害教師の存在を確固たるものにした。他方、新制大学が視覚障害者に門戸を開いたことで、1950年代に盲大学生が普通教科の教員免許を手に入れ、盲学校普通科教師という新たな職域を切り開いた。1960年代には盲学校普通科教師の実績は着実に重ねられ、1970年代の教員採用試験の点字試験実施、さらには視覚障害教師の通常学校進出への地盤が整えられていくのである。
【註】
*1)永井昌彦は1924年3月、兵庫県出石郡但東地域(現・豊岡市)に生まれた。先天性の弱視で尋常小学校に入学したが、視力低下のため3年生のときに退学、その後は自宅で3年間過ごした。1935年、11歳で京都府立盲学校初等部に入学し、1944年に同校中等部鍼按科を卒業、東京盲学校師範部甲種鍼按科に進学したが、病気のため中途退学した。
戦後、1947年に京都府立盲学校中等部研究科普通科に入学、翌年には新学制の施行に伴い、同校高等部普通科に編入、同時に同校に設置された盲学校小学部教員臨時養成所にも在籍し、修了して盲学校小学部教員免許を取得した。1948年、戦中戦後に徴兵などで十分な教育を受けることができなかった時代背景から、全国一斉大学進学適正検査が始まった。同年11月には点字受験も認められることになり、永井も願書を提出した。翌1949年、6人の視覚障害者が大学に合格し、25歳の永井は同志社大学文学部に入学した。
その後、永井は同大学大学院文学研究科修士課程に進学、在学中の1954年に京都府立盲学校の英語科非常勤講師となり、翌1955年には31歳で教諭として採用された。大学は盲学校に勤務しながら大学院に在籍することを認め、永井は1957年に修士課程を修了した。1959年の夏から1年間はアメリカ合衆国ボストン市にあるパーキンス盲学校の盲学校教員養成課程に留学し、教員資格も取得した。帰国後は京都府立盲学校に復帰し、英語教育に携わるとともに、点字指導の研究に取り組み、1966年に発足した日本点字委員会には中心的なメンバーとして参加した。また、ライフワークとして理療への就労が困難な盲重複障害児の進路保障に取り組み、1984年に定年退職した後は授産施設「アイアイハウス」の初代運営委員長として事業に心血を注いだ(加藤 2009、菊島 2000 pp.130-131)。2003年1月29日逝去、享年79。
*2)富田伴七は1931年10月、愛知県常滑市に生まれた。先天性白内障、小眼球、眼球振とうがあり、愛知県立盲学校(現・愛知県立名古屋盲学校)初等部に入学した。1948年3月に同校旧制中等部鍼按科を卒業、東京盲学校師範部甲種鍼按科を受験するが不合格となり、京都府立盲学校高等部普通科に入学した。同校の先輩だった永井昌彦の大学入学を身近に見て、自分も社会の変化を勉強したいと思い、1951年4月、同志社大学文学部社会学科に入学した。
就職は愛知県立名古屋盲学校と交渉し、愛知県の特別選考試験を受けた。卒業した1955年度は定員の関係で非常勤講師だったが、翌年には教諭に採用され、社会科を教えた。数年後には南山大学2部(夜間部)で英語科の教員免許も取得し、十数年後には担当教科を英語科に変更した。1991年3月で定年退職したが、1994年12月まで非常勤講師を続けた。その後も東海地区大学入試点訳事業団理事長として、点字使用者の大学進学を支援した(菊島 2000 pp.134-135)。2011年12月19日逝去、享年80。
*3)尾関育三は1929年11月、愛知県名古屋市に生まれ、1935年に長野県松本市に移り住んだ。1940年、尋常小学校5年生の1学期にけがで失明し、翌1941年、長野県立松本盲学校初等部第5学年に編入学、1947年3月に同校中等部鍼按科を卒業し、同校中等部研究科鍼按科に進学した。1949年4月に東京盲学校師範部甲種鍼按科に入学したが2カ月で廃校になり、同年6月から新制の国立盲教育学校附属盲学校高等部理療科第3学年に編入となった。翌1950年4月に東京教育大学国立盲教育学校高等部専攻科理療科に進学。当時の同校高等部には普通科はなく、職業教育しか受けられなかった。
1952年度から東京教育大学教育学部が特殊教育学科を設置することになり、その前年度の1951年度に教育学科特殊教育専修生を募集した。新制大学に全盲者が入学したことを聞いていた尾関は、自分も大学に進学したいと思い、同特殊教育専修に出願したが、普通教科の受験勉強は自分でやらなければならなかった。入学したときには盲学校の普通科教師になれると思っていた。だが、就職先を求めていくつかの盲学校と交渉したが、採用してくれるところはなかった。就職先がなかったこともあり、1955年4月に尾関は同大学大学院教育学研究科修士課程数学教育学専攻に進学した。同大学院を3年かかって修了し、1958年4月に東京教育大学教育学部附属盲学校高等部の数学科非常勤講師となった。正規教員のポストが空くのを3年間待ち、1961年4月に同校教諭に採用された。1990年3月に定年退職し、その後、1992年10月に発足した全国高等学校長協会入試点訳事業部の専務理事として視覚障害者の大学進学促進に尽力した。また、数学の研究論文を京都大学に提出し、1990年11月に理学博士号を授与されている(菊島 2000 pp.132-133、長岡 2006)。
【文献】
逸見勝亮、1982、「傷痍軍人小学校教員養成所の設立」『北海道大学教育学部紀要』40号、pp.1-29。
加藤俊和、2009、「先達に学び業績を知る 大学進学から米国留学した永井昌彦」『視覚障害――その研究と情報』257号、pp.31-40。
菊島和子、2000、『点字で大学――門戸開放を求めて半世紀』視覚障害者支援総合センター。
牧村進・辻村泰男、1997、『傷痍軍人労務輔導 復刻版 戦前期社会事業基本文献集 58』日本図書センター。
長岡英司、2006、「先達に学び業績を知る 数学を教え視覚障害者に新たな可能性と勇気をもたらした尾関育三さん」『視覚障害――その研究と情報』216号、pp.20-29。
中村雅也、2020、『障害教師論――インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』学文社。
大河原欽吾、1938、『盲教育概論』培風館。
谷合侑、1995、『進めよう視覚障害者の大学進学と職域拡大――そのQ&Aと資料集』視覚障害者支援総合センター。
谷合侑、1998、『盲人福祉事業の歴史』明石書店。
東京教育大学教育学部雑司ケ谷分校、1976、『視覚障害教育百年のあゆみ』第一法規出版。
東京盲唖学校、1908、『東京盲唖學校概覽』東京盲唖学校。
山田明、1997、「(解説)わが国傷痍軍人問題と職業保護の歴史」牧村進・辻村泰男『傷痍軍人労務輔導 復刻版 戦前期社会事業基本文献集 58』日本図書センター。
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