アフリカ研究で感じる後ろめたさ

伊東香純

私は、調査のフィールドを西洋からアフリカに変更した。そのときから、非西洋地域をフィールドとしている他の研究者に対して、どうにも拭い去れない後ろめたさを感じ、一方でそんなことは不要ではないかと感じながら、他方で弁明を止めることが今に至るまでできないでいる。
同業者に対して感じ始めた後ろめたさについて書く前に、精神障害者に対して、また、アフリカの人たちに対して、抱いている後ろめたさにも触れておきたい。私の研究対象は、精神障害者のグローバルな社会運動で、研究の目的は、多様な状況におかれ、時に対立する主張をもつ人々がどのように世界組織として連帯してきたのかを明らかにすることである。そのための方法として、「世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワーク」やその関連組織に関わった人たちにインタビュー調査を実施してきた。この大きな研究の枠組みは変わらず、博士課程のときには、西洋――特にニュージーランド、西欧、北欧――を中心としてきた調査のフィールドを、2021年度からアフリカに変更した。

私は、精神障害者を抑圧する「健常者」の立場から調査協力を依頼してきた。西洋での調査で、「精神医療のユーザー・サバイバー」かどうかを頻繁に尋ねられ、相手の反応に緊張しながらNoと答えてきた瞬間を今も忘れることができない。私は、日本の精神科病院の状況に疑問を抱いてこの調査を開始した(伊東 2021: 344-345)にもかかわらず、精神障害者に協力を依頼して迷惑をかけ、精神障害者の組織で起きたことを聞き出そうとしているのだ。

調査地をアフリカに変更してからは、低開発地域の人を抑圧する先進開発地域の人という、もともと持っていた属性を、強く意識するようになった。これまで訪れたアフリカで、私はお金持ちの「白人」として扱われ、街を歩けば高額なお土産を買うようしつこく勧められるし、日本車を安く輸入するルートを相談されたりする。私の調査地域の中には日本と同じかそれ以上の物価の場所もあり、自分より貧しい人ばかりではないのだが、今日の食事に実際に困っている様子を目の当たりにすると、ホテルで提供される食べきれないほどの朝食に飽きている自分が恥ずかしくなる。他方で、アフリカの調査においては、精神医療のユーザー・サバイバーかどうかを尋ねられる場面は各段に減少したように思う。

このような健常者としての、また、先進開発地域の出身者としての後ろめたさは、当初から予想していたし、変えられないから仕方ないと割り切ってしまってよいものではないと考えている。しかし、アフリカをフィールドにしている他の研究者に対する後ろめたさは、当初はまったく予想していなかったものであった。アフリカをフィールドとするようになってから、意識的にアフリカをフィールドとした先行研究や調査の教科書を読んだり、実際に現地に行った人に話を聞いたりしている。すると、年単位で現地に住んだ経験や、現地語の技能、現地の人と深く関わっての成功や失敗の体験に出会って圧倒されてしまうのである。

私の調査は、特定の地域や民族を対象としたものではない。グローバルな社会運動を対象として、そこに関わってきた人に主に英語でインタビューをおこない文書資料を収集して、運動の歴史を記述するというものである。これまでの調査では、同じ国に留まる期間は長くて3週間弱、短いと2、3日である。しかも、同じ国にいる間にいくつかの地域を訪問する場合も少なくない。そして、宿泊するところはたいてい電気も水道も通ったホテルであり、現地の人はあまり使わないタクシーを交通手段とし、調査対象者にホテルに出向いてもらうことさえある。この研究方法は、研究の目的に適っていると今のところ考えている。それにもかかわらず、自分の調査地域を説明する際に、「この地域の専門家ではないんですが」とか「数日行った程度ですが」とか、相手から何も尋ねられていないのに前置きしてしまう。

ただし、この後ろめたさは、単に、低開発地域での調査は、民族誌的方法が適していて、長期間滞在して現地の暮らしに慣れるのが一般的なのだという思い込みによるものではないように思う。これまでの調査でわかってきたのは、アフリカにおけるトランスナショナルな社会運動を記述する難しさである。アフリカでは、EU圏内のように国境を越えることはできないし、社会運動に必要な資金を国内の政府や慈善団体等から調達することが難しい。このため、トランスナショナルな活動は間違いなくおこなわれているのだが、それをアフリカの社会運動の歴史として一つにまとめることは、難しく、加えて望ましくないかもしれないとも思い始めている。だからといって、各地域について別々に民族誌的調査をおこなうことが、研究目的に照らして適切であるようにも思われない。この後ろめたさは、障害学に限らず、西洋を主な研究対象として議論を進めてきた研究分野のグローバル化で必然的に生じる問題と関わっているのかもしれない。未だ答えは出ていないが、このような後ろめたさを感じる研究者は私だけではないようである。

[文献]
伊東香純,2021,『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』生活書院.