1980年代三重県あすなろ学園とその周辺からみる自閉症児・者の親の会の活動——
「自閉症施設法人(社福)おおすぎ・れんげの里資料室」(仮称)設立準備室の担い手、宮本隆彦の所蔵資料集から
植木是(大阪大谷大学/立命館大学大学院)
1.はじめに
2022年7月、筆者は「自閉症施設法人(社福)おおすぎ・れんげの里資料室」(仮称)設立準備室の担い手である宮本隆彦★1より、宮本氏宅資料室で、新たに山積みで発見された段ボール箱内の資料整理を託された。そのなかで、貴重な資料がみつかったため本稿ではそれについて報告する。
具体的には、宮本が直接運動を牽引してきた①地域の障害児・者の親の運動、②自閉症施設づくり運動、に関するもののほかには、以下のようなものがあった。
具体的には、多くが自閉症児が成人していく過程のもので、次のAB2つに分けられる。自閉症に関する法制度がなかった当時、1964年1月15日設立の日本初の自閉症児施設、三重県あすなろ学園(三重県立高茶屋病院内、児童病棟)が「自閉症のメッカ」(宮本 2017: 3)といわれていた時代——日本唯一の治療、教育、福祉の3機能を併せ持つ自閉症専門の「病院施設」「学園」でもあった時代——に、単発の診療、継続の治療・療育、あるいは一時的な連携、短期・中期・長期の入院・連携指導等、その利用形態にかかわらず、A. 全国各地から、当時いわゆる「あすなろ詣で」(宮本 2017: 3)をしてきた親の会の活動★2の資料と、B. 1980年代の年長児・者および成人を対象にした新たな「自閉症者施設」づくり運動の資料である。それらは、宮本が自閉症児の親として保存してきた、a. 地域の小・中学校のもの、b. 地域の障害児の親の会の活動に関するもの、c. 養護学校、d. 通所作業所、e. 障害児・者問題、f. 自閉症児・者親の会(現・日本自閉症協会)の活動に関するもの、に分類される。
本稿では、上記の「f. 自閉症児・者親の会の活動に関するもの」の資料を使い、三重県あすなろ学園とその周辺の自閉症児・者の親の会の活動と、三重県を拠点とした親の会の運動および全国的な動き・ながれとを比較して、分析し、報告する。なお本稿で取り扱う情報・資料の提供者である施設・親の会関係者の宮本隆彦氏には、公知の許諾および資料を使用する研究の意義、資料の公開方法、本学会発表にける資料の利用について説明して同意を得ており、障害学会の定める倫理的配慮が適正になされている。
2.自閉症児・者親の会の活動に関する資料
年代順に並べると、つぎのとおりである★3。なお、本稿で取り扱う資料における全国組織の名称は「自閉症児者親の会」であるが、他方、三重県組織の名称は「自閉症児・者親の会」となっている。ちなみに児と者の間に「・」が入る場合は、地方組織のみならず全国組織の資料においてもしばしばみられ、表記は統一されていない★4。
2.1. 資料の特徴
上記でみた資料の特徴を分類すると、次のとおりである。
2.1.1. 共通する特徴
資料を精査すると、以下のとおりである。
① 事務局・編集元および発行人・発行責任者による自主製作物である。
② 親の会の活動の一環で、関係者に配布されたものである。
③ この前後に関する資料は、散逸された状態にある。
上記について補足する。資料を精査しつつ、宮本他親の会関係者への聴き取りを参照にすると、以下のとおりである。
①-1 出版社や印刷業者は関わっていない。
②-2 無償である。
③-3 当時、関係者の間ではこれらの活動自体はわりと知られていたものである。関係者にとってはわが子との生活を守ることが最優先であったため、多種多様かつ雑多な資料を保存し活動を引き継いでいくということについては、あまりあるいは殆どの場合がこだわりなく柔軟にやってきたと思われる。なぜなら、発行人・発行責任者、事務局・編集元は、このような家庭の状況に加えて各地と各世代間をつなぐボランタリーな担い手であるからだ。
活動としては現在にいたるまで、名称や各種の組織・団体登録の変更(任意団体や非営利活動法人、一般社団法人などの法人格取得など)を経ながら継続してきている。組織・事務局機能は、一貫した所在地がなく各家庭で引き継いできた。そしてその中で多種多様な資料が十分に保存されず引き継がれてこなかった。このような点がこの種の活動体(親の会など)の特性だと考えられる。
2.1.2. 分類される特徴
資料を精査すると、概ね以下のように分類される。
A. 手書き、藁半紙、ホッチキス止め、冊子化され配布されたもの
資料①、資料④
B. ワープロ、複数枚を重ねて折り畳まれ配布されたもの
資料②
C. ワープロ、一枚刷りで折り畳まれ配布されたもの
資料③
上記について補足する。資料を精査しつつ、宮本他親の会関係者への聴き取りを参照すると、以下のとおりである。
Aは、資料①と資料④で同じ発行物ではあるが、a. 発行所、b. 発行人、c. 編集ともに同一ではない。つまり、各地と各世代をつなぐボランタリーな活動によるからである。aはbの自宅、cはbの所属元である。
資料①の編集元「三重県自閉症児・者親の会 四日市ブロック」、資料②の編集元「三重県自閉症児・者親の会 津ブロック」を引き継ぐ現在のブロック事務局にも、これらの資料は残されていない。また、その本部にあたる三重県自閉症協会事務局についても同様、これらの資料は残されてない★5。
Bは、事務局・連絡先としては「編集発行 自閉症児者親の会全国協議会 会長 淀野寿夫」(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 1)とあり、住所は「……東京都新宿区……全国心身障害児福祉財団内」とある。このため、Aと比べると、この活動体は、事務局・連絡先については1968年の発足以降変更することなく継続されてきた。しかしながら、黎明期の自閉症児の親の会の多くと同じように、この資料についても、会長・淀野(大阪府、自閉症児の父親)★6が、いわゆる手弁当で作成をしていたようにみうけられる★7。
資料の内容をくわしくみると次のようなものがある。「吉川」(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 1)★8の発言として「自閉症児剛ちゃんが母親によって殺害された事件」に関するもの(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 1-2)、「横山」(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 2)の発言として「茨城で施設作り」=自閉症者施設あいの家(茨城県、1988年設立、全国8番目)★9に関するもの(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 2-3)、「地域に生きる」★10という小見出しに関するもの(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 3-6)などがある。
Cは、「十亀記念事業委員会事務局/三重県三重郡菰野町……発行責任者 奥野宏二」と右上にあるが、住所は、三重県あさけ学園(1981年設立、日本初の自閉症者施設)の所在地であり、「奥野宏二」はあさけ学園園長(当時。元あすなろ学園児童指導員、元全国自閉症者施設協議会会長。社会福祉士)である。こちらも上記でみてきたものと同様に、奥野による手づくり感があふれるものである。
資料の内容をくわしくみると次のようになっている。見出し順に、「第1回十亀賞受賞式/盛大に行われる!」→「受賞者のプロフィール」→「十亀賞選考委員」→「第2回十亀賞」→「委員会記録/第1回(昭和62年11月28日)/於 あすなろ学園」→「基金総額」→「第3回十亀記念会」→「事務局より」→「エピソード」、となっている。
「十亀記念事業委員会」にある「十亀」とは、あすなろ学園創設者で初代園長の十亀史郎(そがめ しろう。児童精神科医。1932年3月7日生―1985年9月13日没。京大卒。愛媛県西条市生まれ)のことである。あすなろ学園の高茶屋病院からの分離独立の開園式典は1985年4月であったが、病魔(肝硬変)に侵されつつ我が身に迫りくる死期を悟りながら十亀は演壇に立ったという。
同年9月に志半ばにして倒れた十亀の遺志を自閉症児・者とその家族、そして支援の現場でつないでいくために、組織されたのが同委員会である。「発起人代表」は、十亀記念事業委員会(1986a)の資料には「発起人代表 牧田清志」とある。牧田は、自閉症の発見者でアメリカ児童精神医学の第一人者であったカナー,L.に師事し、アメリカ児童精神医学とカナー直伝の自閉症概念を日本に導入したことで知られる。牧田は当時、日本児童精神医学会理事長であった。
3. 十亀記念事業委員会に関して
十亀記念事業委員会(1986a)に関して、関係者へ配布された3つ折りのレター(*宮本氏宅所蔵資料、十亀記念事業委員会(1986b))をみてみると、「十亀基金趣意書」の終わりには「発起人代表 牧田清志」とあり、他方、その折り目からの続き頁にある「発起人代表(四角カッコ囲い)」の並びには、15名が名を連ねている。以下のとおりである。
厚生大臣 斉藤十郎/ 三重県知事 田川亮三/ 子どもの城理事長 竹内嘉己/ 百五銀行頭取 金丸吉生/ 東京大学名誉教授 吉武泰永/ 三重県医師会会長 松本俊二/ 日本児童精神医学会理事長 牧田清志/ 高木神経科医院院長 高木隆郎/ 京都大学教授 木村敏/ 京都大学教授 水垣渉/ 三重県立高茶屋病院院長 若生年久/ 三重県立小児心療センターあすなろ学園園長 稲垣卓/ 自閉症児者親の会全国協議会会長 淀野寿夫/ 三重県立小児心療センターあすなろ学園親の会会長 中山昭治/ 埼玉医科大学教授 土肥豊(十亀記念事業委員会 1986b)
4. 十亀記念事業委員会と親の会、および自閉症施設づくり運動の関係性
1985年10月19日に十亀追悼会が行われ、全国から集まった関係者の提案と賛同により、追悼の意を超えて、自閉症児・者とその家族のために人生をかけた十亀の遺志を継承・発展させていくため、十亀記念事業委員会が設けられた。
先にみた十亀基金の発端は、自閉症施設の職員研修の必要性を常に提唱していた十亀の意を受け、1978年よりあすなろ学園の職員有志により始められたダンボール回収活動による収益200万円であった。この活動には十亀とその妻である光子(元高茶屋病院ソーシャルワーカー。「あすなろ」の名付け親)も協力し、元気な頃には廃品回収のトラックに乗って活動していた(十亀記念事業委員会 1986b)。発起人の多くは専門家・支援者、親の会黎明期の自閉症児・者の親たちである。
5. おわりに
自閉症児者親の会は、自閉症児・者への理解を求めた組織・活動体の1つであったことは確かである。その担い手たちは、自主的かつ積極的な活動の連なりであった。各地・各世代間をつなぐボランタリーな活動特性があったがゆえにわかっていないことも多い。親の会黎明期を知る親が会の活動から離れていったり、高齢化していたり、場合によっては死去したりするといった現状を鑑み、現在につながる過程について、その連続性を明らかにしておくことが今後の課題である。またそれは今後の実践にも役立つものと思われる。
本稿では資料の検証の一部を報告したが、字数制限の都合上、これ以上、資料の詳細および分析を報告することができない。このため、別途(HP上で)、資料として掲載していく。
註
★1 筆者は、あすなろ学園の最後の親の会会長西村博機(現・おおすぎ理事)が会長をつとめ、宮本(現・おおすぎ評議員)が副会長・事務局長・連合保護者会会長をつとめる「おおすぎ・れんげの里」の立ち上げスタッフとして活動してきた。
あすなろ学園と親の会およびそれら周辺とその資料については植木(2021、2022)を参照のこと。さらなる詳細な経緯の検証は別の機会とする。親の会・施設関係者の皆様から資料などを頂いたことには記して感謝申し上げ、今後の活動・研究へとつなげていきたい。
★2 詳細は植木(2022)を参照。
★3 なお、本節で紹介する資料の詳細については、別途、HPに掲載する予定である(HPアドレス;『遡航』刊行委員会編(2022))。
★4 詳細は植木(2021)、他別の機会とする。
★5 これらに関する資料について、何らかの情報をお持ちの方、当方までお寄せいただけますと幸甚です。
★6 淀野は大阪府親の会の会員であったが、子ども、淀野智弘が黎明期のあすなろ学園を受診し、また通所・入所していたため、親であった淀野寿夫・員代は同学園親の会の活動にも1980年代当時から関わっていた(淀野 1986)。
★7 家庭用のワープロで作成されたとみうけられる。当時、親の会の活動を報告するものとして、出版社や印刷会社によって製本化され販売価格も設定されたうえで、全国的に流通したいわゆる「機関紙」(『いとしご』)、「研究誌」(『心を開く』)などがあった。これ以外に、宮本ほか当時を知る親の会の担い手からの聴き取りによると、草の根の活動として地域や関係者に配布されていく各種の資料は、そのほとんどが親の会の活動の担い手による手づくり(時には、一部、支援者の手も借りながら)で、手書き、あるいは、家庭用ワープロで作成されていたようである。
★8 読売新聞記者であった吉川正義のことと思われる。著書に、自閉症・発達障害とその社会問題を取り扱ったルポルタージュとして、吉川・向井(1979)、吉川(2002)がある。
★9 あすなろ学園由縁の自閉症施設づくり運動は、法人名に各県由来の木の名称を入れることで全国各地につながっていこうとした。あいの家の運営母体の法人名は、社会福祉法人「梅の里」(下線部筆者)である。全国親の会初の陳情書の代表・横山佳子(あすなろ学園資料1967: 表紙)は、あいの家設立発起人をつとめた。ほかの法人名については、植木(2022)を参照。
★10 ここにでてくる人名の情報として、「大野」は最終頁の「監事」の箇所に「大野智也」(自閉症児者親の会全国協議会 1987: 5)とあるが詳細は不明。また「市毛」、「堤」、「三宅」、「根岸」もフルネームを含めて詳細不明である。
「姜」は、姜春子のことである。姜は、あすなろ学園黎明期に子どもが短期間の入所をしており、また、東京親の会および全国親の会設立時の主要なメンバーであった。さらに、姜は、十亀記念追悼集(1986)の「発刊協力者」(十亀記念事業委員会 1986: 394)であり、黎明期のあすなろ学園、親の会の活動に参加していた。黎明期のあすなろ学園に関して、全国機関紙『いとしご』創刊号へ寄せ書きとして寄稿しており(姜 1967)、また親の会研究誌『心を開く』にも編集あとがきなどを書いている(姜 1980)。
姜(1980)にはつぎのようにある。
自閉症児が自閉症児と処遇される、当然のことが実現するのに10年余の月日が必要であった。ともあれ自閉症児対策の法制化が成ったことは、かって(ママ)ないビッグニュースである。これからの運動のあり方も新しい展開を要求されることになるであろう。……やはり物言うことを表現することは必要だ。人さまの理解を坐して待つのみでは福祉は少しも進展しない(姜 1980: 64)。
自閉症児施設が1980年に児童福祉法で知的障害児入所施設種別の1つとして法制化され、まさに1980年代の幕開けを象徴する全国機関紙の「あとがき」である。
■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。
①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。
報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。