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質疑応答は文章末です


相互行為過程における「障害」の顕在化/不可視化の諸相
-大阪府の小学校の「ともに学び、ともに育つ」実践から-

中江優花(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程)


1. はじめに
本発表の目的は、大阪府のある公立小学校Aでの「共生共学」の教育実践を事例に取り上げ、特に休み時間や給食時などの生活場面における生徒-加配スタッフ、生徒-生徒間の相互行為に着目し、「支援児童」 をはじめとする多様な生徒が同一学級にともに居ることについて考察することである。
ユネスコの「万人のための教育会議(1994年)」で提唱されたサラマンカ宣言で「インクルーシブ教育」がはじめて規定されたことを契機に、障害児教育における「包摂」は国際的にインパクトのある概念となった。さらに国際連合の「障害者の権利に関する条約(2006年)」の第24条で「インクルーシブ教育」が明記されて以降、国際社会においてインクルーシブ教育を推進する動きが明確になった。ここでのインクルーシブ教育は、障害の有無に限らず様々なバックグラウンドをもつ子どもたちが皆、原則同じ場での教育保障を意味する。
日本においても、「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)-中央教育審議会初等中等教育分科会(2012年)」が提起され、インクルーシブ教育が学校教育の重要な課題として提示されている。しかし文部科学省が提起したインクルーシブ教育は特別支援教育システムと混合されたものであり、年々、特別支援教育の対象者数が増加する傾向から、日本の現状が、規範的なインクルーシブ教育が目指す共生社会とは逆行しているとの指摘が多数ある[e.g. 榊原 2016; 柴垣 2020; 堤 2019]。
そこで本発表では、国際社会や文部科学省がインクルーシブ教育を提唱し始めるよりも前から、「原学級保障」 の思想に基づく「共生共学」の教育実践を行ってきた地域の一つである大阪府の公立小学校Aを事例に取り上げ、「障害者」をはじめとする多様な人々との「共生」 について経験的に論考していく。その際、エスノグラフィーと言う手法を採用し、支援児童と彼(女)らをとりまくアクターとの相互作用において、いかに「障害」が扱われているのかを分析の対象とする。

2. 先行研究レビューと視座
戦後日本の障害児教育における論争は、いわゆる特別支援諸学校に代表される「分離別学派」と「共生共学」を基調とした「統合派」のイデオロギー的対立であったといわれている[佐藤 2015: 15]。分離派は子どもの特別な教育的ニーズに応答することで学習権を保障すべきとし、統合派は等しくすべての子どもが普通学級に就学することが学習権の保障であるという思想が根底にある[伊藤 2019: 24]。つまり双方の立場は互いにインクルーシブ教育の実現を志向するものである。したがって、この二項対立は未だ解消されていないとの見方が強い[堤 2019]。戦後日本の障害児教育運動史を整理した佐藤[2015]は、分離/統合をめぐる対立において、双方は「学校の日常世界それ自体」を十分に顧慮せず、学校現場のリアリティが等閑視されてきたことを指摘している[佐藤 2015: 21-23]。
学校の日常生活に接近した障害児教育研究はいくつかある。特別支援教育の現場を対象とした研究には鶴田[2015]や堤[2019]がある。鶴田[2015]は知的障害児教育の現場を対象とし、教員-生徒間におけるまなざしや泣き声といった非言語的なやりとりから重度知的障害児への教育可能性を導出している。堤[2019]は、普通学校で対処しきれなかったグレーゾーンの子どもたちが特別支援学校に流れ着き、「障害者」として生きることを迫られている現状を描いている。
他方、普通学校の統合教育実践に着目した研究には全盲児の授業参画をめぐる加配スタッフとのやり取りについて描いた佐藤[2015; 2018]や、全盲児-生徒、全盲児-教員の三者間の相互行為を分析した久保田[2019]がある。いずれも緻密な会話分析を行い、普通学校に生きる全盲児の学級活動への参加の可能性を言及している。また、松浦[2015]はMehanの会話分析に基づいた授業分析を行い、発達障害児の授業参画をめぐる授業秩序の形成を明らかにした。
このように分離別学派、統合派の双方の立場から、障害児の授業参画をめぐる研究に蓄積がある。一方で、学校には生活共同体としての要素も多分にある[高橋 1997]が、障害児教育研究の中で休み時間や給食場面といった生活場面に着目した研究は少ないように思われる。授業場面では教師のストラテジーが働きやすいと考えられるが、教師が不在の場面ではより生徒同士の自発的なやりとりが顕われると考えられるだろう。こうしたやり取りにおける「障害」の扱いを分析していくにあたり、障害者研究を牽引してきた障害学での議論を以下に概観する。
障害学は「障害の社会モデル」を中心に発展してきた。そこでは障害をインペアメント とディスアビリティ に明確に区分し、後者によって社会活動が妨げられていると主張した。社会モデルは、医療の対象として障害を捉える医学モデルからの脱却を唱え、「できなくさせる社会(disabling society)」の変革を求めたことに意義がある[星加 2007]。
しかし、フェミニスト障害学をはじめとする立場から、社会モデルに傾倒することはインペアメントを軽視しかねないという批判がなされた[e.g. Crow 1996; Morris 1991]。また精神障害や発達障害といったインペアメントとディスアビリティが不可分なカテゴリーが議論されえていないという指摘もあった [白田 2014: 123]。こうしたインペアメントの扱いに対する問題提起があったものの、障害学の中ではインペアメントを十分に議論するには至らなかった[星加 2007: 311]。
このような障害学の達成と課題をふまえつつ、障害社会学を体系化した榊原は、障害を「断片的身体情報と社会的処遇の関係に帰責された社会的排除」と定義する[榊原 2016: 146]。つまりインペアメントを議論に組み込み、議論の射程範囲を拡大させた。榊原は障害者の日常生活実践の秩序を明らかにする際、エスノグラフィーという手法が一つの手段として有効だとの指摘する[榊原 2019: 155; 164]。
以上より、本研究では鶴田や榊原の視点を参照し、身体的な差異(あるいは属性)としての障害が、人々との相互行為の中で顕在化/不可視化する様相を分析していく。
本研究が「共生」をテーマに掲げていることから、「障害児」と「健常児」がせめぎ合う現場[嶺井 1997: 15]となっている統合教育の実践現場を対象に選定する。「共生共学」の日常世界をリアルに描くにあたり、エスノグラフィーという手法を採用し、人々との相互行為のなかで「障害」がいかに扱われているのかを分析していく。つまり本研究は、障害者の差別からの解放というより、日常のなか(特に学校生活)で「障害者」と「健常者」がせめぎ合いつつ「共生」していく在り方を描こうとする。学校現場を舞台とした生徒-教員、生徒-生徒間における相互行為分析を中心に、「できなくさせる社会(disabling society)」と「できるように強いる社会(ableistic society)」の狭間でせめぎ合う「障害者」について、エスノグラフィーを用いて立体的に描いていく[星加 2013: 36-37; 鶴田 2018: 31]。

3. 方法
3.1 手法
本稿では「相互行為分析」を中心とした民俗誌的記述を行う。相互行為の元となる会話分析は、自然に生起したやり取りを対象に実際に人々がやっていることに即した記述により探求する。基本的な会話分析が対象とする会話は、「日常会話(ordinary conversation)」と「制度的発言(institutional talk)」に大別される。日常会話を基盤としつつもそれぞれの制度に応じて派生・発展してきた制度的発言では、語りの進行に関して、歴史的、文化的に形成された様々な制約がかかるが、日常会話はそのような制約とは異なる秩序をもっている [高田 2019: 21]。
相互行為分析の枠組みには、サックスらと会話分析を創始し、早世したサックスの構想を体系化しつつ相互行為における身体的所作にも言及したシェグロフ[2007]を拠り所にする。シェグロフは「順番交替」「行為の構成」「連鎖組織」「トラブル」「言葉の選択」「相互行為の全体的構造」をもとに相互行為形式を整理している[Schegloff 2007:xiv]。また発話者が視線で相手の表情を確認しながら会話が連鎖する過程を記述したグッドウィン(1981)も参照軸として提示しておく。加えて、数少ない障害児教育研究における相互行為分析の際に身体的所作を議論した鶴田[2007]は「言語のない」児童の泣き声や参与者の視線をも分析の対象とし、教師-生徒間の相互行為によって形成される「障害」という視点を導き出した。本稿においても、参加者の表情、視線、振る舞いなどの非言語的な要素による相互行為を分析の対象に含めることで、支援児童と彼(女)をとりまく人々との相互行為形式の組織化を記述していく。

3.2 研究対象
本調査は202X年4月から2年間、大阪府A市の公立小学校でフィールドワークを行った。その際、書面での学術調査の許可を得たうえで実施した。
大阪府A市は、1980年代頃より「共生共学」の教育実践に取り組んできた地域の一つである。この実践は、重度重複障害児が「就学免除・猶予」によって教育制度から取り残されていた現状を問題視した教員や保護者らによって開始された。現在に至っても、当該地域の公立小中学校では「原学級保障」の思想に根付いた実践が引き継がれている。
以下では、調査者も加配スタッフとして参与しながら場面を記述している。匿名性を担保するため、議論に支障がない程度にエピソードに細工を施している。

4. 事例検討
「子どもは子どものなかで成長する」
「ここでは一緒に居るのが当たり前だから自然に関わっているんだよね」
休み時間に見られる光景は多くの教員の語りの通りである。教室内で誰かの机に集まったり、グランドで追いかけっこをしている様子からは、誰が支援児童なのか見当もつかない。ここでは学校の日常生活でみられた、こうした「支援児童」と彼(女)らを取り巻くアクターとの関りを描いていく。

<事例>休み時間にみせる笑顔-同級生たちの輪の中で
以下の事例は小学3年B組の休み時間の場面である。このクラスは30数名の生徒(支援児童2名)と主担任の佐藤先生で構成されており、1日に2時間の加配スタッフの入り込みが取り決められている。
支援児童のゆうちゃんは2~3語文をゆっくりと話すことができるが、指差しや身振りなどのジェスチャーや、文字盤を併用しながら会話をすることが多い。日常的な関わりが少ない人々にとっては、ゆうちゃんの意思表示を理解することが難しい場合もある。その際、ゆうちゃんの内言を代弁し、加配スタッフに伝達するのは同級生たちである。以下に登場する人物の座席の配置図について、ゆうちゃんの座席は窓側(左側)の前から3番目、生徒1はゆうちゃんの右隣、生徒2はゆうちゃんの真後ろ、生徒3はゆうちゃんの右斜め後ろの席である(図)。
<エピソード>ある日の休み時間
ゆうちゃんが加配スタッフの手を引いて自由帳を指さした。加配スタッフの首からかかっている名札の名前と自由帳を交互に指をさす。
ゆうちゃん「これ、あうあう…」
加配スタッフ「あ、私の名前を書いたらいい?」
ゆうちゃん 笑顔で大きく「うん」とうなずいた。
加配スタッフは名前を平仮名で「さいとう かなこ」と書いた。
加配スタッフ「わたしの顔を描いてほしいな」と大きな声でゆっくり言った。再度、「さたしの、顔、描いて」と区切りながら言い、自分自身の顔と自由帳を交互に指さし、鉛筆で何かを描く仕草を行った。
ゆうちゃんは笑顔を浮かべながら執筆者の似顔絵を描いてくれた。
その様子を見ていた同級生3人が近付いてきて、
生徒1「ゆうちゃん、絵うまいな」
生徒2「先生、似顔絵かいてもらってよかったね」と口々にほめた。
笑顔のゆうちゃんは、別の絵を描こうという様子で再び鉛筆を握った。
ゆうちゃん「い゛えづをヴぁいヴぁ」
加配スタッフはゆうちゃんの発言をくみ取れず、首をかしげて困っていた。加配スタッフが、ゆうちゃんの文字盤を机の上に出し「もう一回、言って」と人差し指を立ててお願いした。
ゆうちゃんは文字盤を見つめて固まった。
その様子を見ていた近くの席の同級生達が「先生、鬼滅の刃って言ってるんだよ!!」と再び加配スタッフに教えた。
ゆうちゃんは笑顔で「うん」とうなずく。続いて両手で〇をつくり、右手でボールをつく仕草を行った。
またしても加配スタッフが首をかしげていると、隣の席の生徒が「先生、朱紗丸のことやで。鬼滅に手毬鬼おんねん。めっちゃ強いねんで」と言った。
ゆうちゃん「うん」
加配スタッフ「あー!!鬼滅みたみた!ほな、みんなで鬼滅の絵を描こうか」
こうして生徒たちは、ゆうちゃんの席でゆうちゃんの自由帳に、ゆうちゃんを囲みながらお絵描きを楽しんでいた。

図.支援児童ゆうちゃん、同級生、SSの配置図

上記の事例では、ゆうちゃんの構音が不明瞭であること、日常的な関わりのない加配スタッフがその表出を理解できないことによって、互いの対話の連鎖が止まっている。つまり、ゆうちゃんと加配スタッフ間のコミュニケーション手段の差異が、ディスアビリティを生み出しているといえるだろう。
加配スタッフは、単語ごとに区切ってゆっくり話したり、言葉に加えて指差しや身振りなどでゆうちゃんと会話をしようとしている。ゆうちゃんの発言をくみ取ろうという態度で向かい、ゆうちゃんの視線や表情、身振りなどから発言を理解しようとしている。それでもなお対話が難しい場合、文字盤でコミュニケーションを図ろうとしている。加配スタッフの入り込み指導や文字盤は、合理的配慮を基調とした支援の一つだと考えられる。
しかし口語でのやり取り場面の中で、文字盤から文字を探し、言葉を作ることがゆうちゃんにとって負担になる場合もある。支援児童を支える役割の加配スタッフが、ゆうちゃんに負担を迫る状況を作っている。すなわち「加配スタッフに伝わる方法へ代替する」ことを強いている。星加の言葉を借りれば「できることを強いている」のである。
この場面において、ゆうちゃんと加配スタッフとの間のギャップを埋める役割を担ったのが、同級生たちである。加配スタッフにゆうちゃんの発言を代弁し、通訳を買って出ている。この同級生たちの通訳によって、加配スタッフと支援児童との間の対話をめぐるディスアビリティが解消されようとしている。ここで重要なことは、同級生たちが通訳を依頼されたわけではなく、支援児童-加配スタッフ間のやりとりに主体的に参入し、自発的に通訳を行っていることである。そうして、「みんなでお絵描きする」という新たな集団形成につながっている。

5.おわりにかえて
ここまで、休み時間に焦点を当てて支援児童-加配スタッフ、支援児童-生徒間の相互行為のなかで、障害がいかに扱われているのかについて経験的に記述してきた。事例では、コミュニケーションの差異が生み出したディスアビリティが、同級生らによる通訳によって解消され、社会的コンピテンスが働いていることが明らかになった。
本研究の問いは、学校現場において障害者をはじめとする多様な人々がいかにして共生しうるのか、である。ここでは「態度の障壁」を一つの足掛かりとして提示しておく。この「態度の障壁」をいかに制御していくのかがカギになっていくのだろう。
紙面の限りがあるため一つの事例しか紹介できなかったが、多様な人々が「共生」できる空間をいかに醸成していくのか、について今後も探求していきたいと思う。


1 支援児童とは、支援学級に在籍する児童・生徒のことであり、その多くの児童は診断がついている。ただし研究対象機関では「障害」を用いず「支援の子」と表象するので、本発表では「支援児童」と表した。
2 原学級保障とは、原学級保障とは、同和教育の理念に基づき構築され、障害のある子どもとない子どもが普通学級で共に学ぶ統合教育実践を指す[原田ほか 2020: 26]。
3 ここでの共生とは、民族、言語、宗教、国籍、地域、ジェンダー、セクシュアリティ、世代、病気、障害等をふくむ、様々な違いを有する人々が、それぞれの文化やアイデンティティの多元性を互いに認め合い、対等な関係を築きながら、ともに生きることを指す[志水ほか 2020: 9]。
4 インペアメントとは「手足の一部分もしくはすべての欠損」状態のことであり、「欠陥のある肢体、器官、または機構を持っているということ」である[UPIAS, Fundamental Principles of Disability, 1976, p.14]。
5 ディスアビリティとは「身体的なインペアメントを持つ人のことをまったくかあるいはほとんど考慮することなく、したがって、社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された、彼等の不利益、あるいは彼等の活動の制約」である[UPIAS, Fundamental Principles of Disability, 1976, p.14]。
6 本研究の対象児童も、発達障害や知的障害を伴う児童・生徒であり、インペアメントとディスアビリティの明確な区分を前提とはしていない。
7 制度的場面のやり取りの基盤として日常会話の規則や規範があり、そのうえで場面の独特さや固有さが他の場面と区別することが認識可能なやり方で組み立てられることから、基礎的会話と応用会話は不可分の関係にある[秋谷 2019: 28]。

参考文献
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久保田裕斗, 2019,「小学校における「合理的配慮」の構成過程―障害児による「再参入の手続き」を中心に―」『教育社会学研究』第105集, pp. 71-91.
原田琢也・濱元伸彦・堀家由妃代・竹内慶至・新谷龍太朗, 2020,「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克―」『金城学院大学論集』社会科学編,第16巻,第2号, pp.24-28.
星加良司, 2007, 『障害とは何か-ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院。
伊藤駿, 2019,「インクルーシブ教育研究の論点整理:インクルーシブ教育の4つの要素に基づいて」『教育文化学年報』第14集, pp. 22-31.
松浦加奈子,2015,「授業秩序はどのように組織されるのか―児童間の発話管理に着目して」『教育社会学研究』第96集,pp.219-239.
嶺井正也, 1997,『障害児と公教育一共生共育への架橋』明石書店.
榊原賢二郎, 2016, 『社会的包摂と身体-障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇をめぐって』生活書院。
──── 2019, 『障害社会学という視座-社会モデルから社会学的反省へ』新曜社.
佐藤郁哉,2002,『フィールドワークの技法―問いを育てる,仮説をきたえる―』
佐藤貴宣,2015,「障害児教育をめぐる「分離統合」論の超克と社会科学的探究プログラム-盲学校での参与観察を起点として」『龍谷大学教育学会紀要』第14号,pp.13-31.
──── 2018,「インクルーシブ教育体制に関する社会学的探求-全盲児の学級参画とメンバーシップの配分実践」『フォーラム現代社会学』第17号,pp. 188-200.
──── 2019,「インクルージョン実践における[排除]の可能性,全盲児の学級参加をめぐる教師の経験とその論理」『教育学研究』86( 2 ),pp. 287-299.
柴田利男, 1993, 「幼児における社会的コンピテンスの諸測度間の相互関連性とその個人差」『発達心理学研究』4 (1), pp. 60-68.
志水宏吉・河森正人・栗本英世・檜垣立哉・モハーチ・ゲルゲイ, 2020,『共生学宣言』大阪大学出版会.
白田幸治, 2014, 「障害の社会モデルは解放の思想か?-精神障害の捉えがたさをめぐって」『Core Ethics』第10巻, 121-130頁.
高田明. 2019. 『相互行為の人類学-「心」と「文化」が出会う場所』新曜社.
髙橋克巳, 1997,「学級は“生活共同体”である」―クラス集団観の成立とゆらぎ」今津孝次郎・樋田大二郎編『教育言説をどう読むか-教育を語ることばのしくみとはたらき』新曜社, pp. 105-130.
東畑開人,2019,『居るのはつらいよ―ケアとセ ラピーについての覚書』医学書院。
鶴田真紀, 2007,「<障害児であること>の相互行為形式能力の帰属をめぐる教育可能性の産出」第80集, pp. 269-289.
──── 2018,『発達障害の教育社会学-教育実践の相互行為研究』ハーベスト社。
堤英俊, 2019, 『知的障害教育の場とグレーゾーンの子どもたち-インクルーシブ社会への教育学』東京大学出版。
UPIAS, 1976, Fundamental Principles of Disability, London: Union of Physically Impaired Against Segregation, (2022年6月7 日取得, http://pf7d7vi404s1dxh27mla5569.wpengine.netdna-cdn.com/files/library/UPIAS-fundamental-principles.pdf).

■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。


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