1980年代の埼玉におけるケア付き住宅建設運動――埼玉県独自事業の「生活ホーム」実現までの推移
増田洋介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
1 はじめに
1960年代の終わりから80年代にかけて、身体障害者のケア付き住宅建設運動が全国各地で一定の広がりをみせた。そのひとつとして、埼玉では1970年代半ばに「川口に障害者の生きる場をつくる会」が運動を展開した。この会は行政に対し、公立公営かつ自主運営によるケア付き住宅の設置を求めた。しかし、結果として建物は完成したものの、運動の要求とは相容れない運営形態のものになってしまった。その後1980年代に入り、埼玉ではまた別のケア付き住宅建設運動が展開され、埼玉県独自の「生活ホーム」事業の実現へと至った。
本研究では、なぜ1980年代の埼玉のケア付き住宅建設運動が実を結んだのかについて考察する。そのために、まずは第2節で全国的なケア付き住宅建設運動の系譜について概観する。次に、第3節で「生活ホーム」事業が実現するまでの推移をみていく。そしてこれらを踏まえ、第4節で考察を行う。
2 全国的なケア付き住宅建設運動の系譜
2.1 公設公営・公設民営
ケア付き住宅建設運動は、1973年5月に東京青い芝の会が東京都に対して小規模な生活の場を要求したのが始まりとされている。1976年5月に「ケア付き住宅検討会」が発足し、1978年3月に報告書がまとめられ、同年4月から「ケア付き住宅建設運営協議会」が設置された。東京青い芝の会はケア付き住宅を都営住宅の一角につくることを求めていたが、都は難しいとの見解を示し、独立した建物として開設されることになった。また運営についても東京青い芝の会が行うことを希望したが認められず、既存の社会福祉法人の中で趣旨に理解のあった東京コロニーが受託することになった。そして1981年7月に「八王子自立ホーム」(定員20名)が開設された(磯部 [1982] 1983: 64; 寺田 1984: 260-4)。
次にケア付き住宅建設運動を始めたのは、脳性マヒ者の小山内美智子らによって1977年1月に結成された「札幌いちご会」であった。小山内らは1980年8月から「ケア付き住宅のための研究生活」に入り、また1983年4月に行われた北海道知事選で革新候補の横路孝弘への支持を打ち出して、ケア付き住宅の実現を公約に盛り込ませた。横路が当選を果たした同年10月に「障害者の生活自立に関する調査研究委員会」が設置され、1985年10月に報告書が出された。そして1986年12月に「北海道営重度身体障害者ケア付住宅」(定員8名)が開設された。しかし、一般住宅とケア付き住宅を同じ建物の中に混在させる要望は叶わず、これも八王子自立ホームと同様、他の道営住宅とは場所も外観も異なる建物として開設された(小山内 1981: 10-3; 2001: 146-50; 西村 1981: 26-31; 鹿野 1988: 30)。
2.2 身体障害者福祉ホーム
仙台市では、1971年ごろから筋ジストロフィー症者によって活動していた「ありのまま舎」が、結成から10年以上経てケア付き住宅の開設を検討し始めるようになった。そうしたところ、1984年4月の身体障害者福祉法改正により「身体障害者福祉ホーム」が制度化される動きになった。運営主体は国や自治体または社会福祉法人に限られていたが、当時、社会福祉法人格を取得するには1億円以上の基本財産が必要であった。ありのまま舎は1984年7月から街頭カンパやバザーを行い、1985年には地元の財界人から協力を得ることに成功して1億7500万円の資金を集めた。そして、1987年4月に「仙台ありのまま舎」(定員20名)を開設した(阿部 1988: 35-6; 山田 1988: 76-86)。
国の制度体系に位置づけられたことにより、身体障害者福祉ホームは徐々に全国各地に作られていった。1990年4月に名古屋市のAJU自立の家が開設した「サマリアハウス」(定員20名)は、「障害者の下宿屋」をコンセプトとして運営されている。このコンセプトはもともと、ありのまま舎の初代総裁であった寛仁親王によって提唱されたもので、AJU自立の家の創設メンバーの一人である山田昭義がそれを取り入れた(山田編 1998: 133-8; AJU自立の家編 2011: 43-4)。
また、札幌いちご会の小山内美智子らは道営ケア付き住宅建設運動の反省から、もっと広い視野で障害者全体の利益になるものを作らなければならないと考え、日中活動の場や介助システムの構築など総合的な取り組みを行うようになった。そして、小山内自らの著書や講演で得た収入1億円を含む3億円の資金を集め、2000年4月に「ステップ6・2」(定員13名)を開設した(小山内 2001: 150; 浅野 2018: 36)。
2.3 民設民営+自治体補助
神奈川県では、1981年に「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した白石清春らがケア付き住宅建設運動を展開した。1984年4月に県が策定した障害者福祉長期行動計画の中にケア付き住宅調査研究事業が盛り込まれ、同年7月に「神奈川県ケア付き住宅基本問題検討委員会」が発足して、白石も委員に加わった。そして議論の結果、1985年10月に「神奈川県ケア付き住宅試行事業」が開始された。白石らは相模原市で「障害者の住まいを考える会」を結成し、1986年7月に「シャローム」(定員4名)を開設した。また1985年10月には藤沢市に「藤沢ふれあいセンター」(定員5名)が開設され、1986年9月には平塚市に「なでしこ荘」(定員5名)も開設された(石本 1988: 28; 白石 1988: 188-96; 辻 1988: 48)。
横浜市では、神奈川青い芝の会の矢田龍司らが1979年に「神奈川県脳性マヒ者会館建設委員会(ふれあいの会)」を立ち上げ、ケア付き住宅建設運動を展開した。1983年9月に市の外郭団体である「横浜市在宅障害者援護協会」が「グループホーム研究委員会」を設置した際に、矢田は委員会の作業班メンバーとして参画した。1984年11月にふれあいの会は、市の制度化に先駆けて「ふれあい生活の家」(定員5名)を開設した。1985年8月に「横浜市障害者グループホーム要綱」が定められ、同年10月に「横浜市在宅障害者援護協会横浜市障害者グループホーム試行事業補助要綱」が定められて、ふれあい生活の家が試行事業の対象に認可された(加藤 1988: 24; 在原 2020: 81-5)。
大阪市では、大阪青い芝の会が1984年12月に立ち上げた「中部障害者解放センター」が運動を行った。1987年6月からケア付き住宅の検討を始め、1988年7月から大阪市障害福祉課と大阪青い芝の会、中部障害者解放センターの合同による「ケア付き住宅研究会」を発足させた。同年9月からは入居予定者会議を開き、制度の学習や生活の具体的なイメージを練った。そして1989年5月に「大阪市重度身体障害者グループホーム運営補助制度」が開始され、この制度にもとづく初めてのグループホームとして「とんとんハウス」(定員5名)が開設された(中部障害者解放センター 1989: 6-13; 定藤 2011: 300-1)。
3 埼玉県独自の「生活ホーム」事業
埼玉県には、1988年4月に開始された県単独事業の「生活ホーム」がある。定員は4名以上で、制度開始当初から身体障害者と知的障害者が対象とされ、また法人格のない任意団体による運営も可能とされている。
1984年11月に「障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会」(以下、障埼連)が県に提出した要求書の中に、「公営2種住宅を増設し、その中に一定の生活援助で生活を営める人たちの自立援助として『ケア付住宅』を位置付けること。また地域に障害者アパート、ケア付住宅の設置をすすめ、福祉ホーム、通所ホームを弾力的に設置、運営できるよう『小規模住宅建設』への補助要綱を設けること」との要望が盛り込まれた(障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会 2003: 35)。障埼連は、1972年5月に開催された「知事候補者に障害者政策を聞く集い」の実行委員会に参加した団体によって結成された団体である(障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会 1974: 11-12)。
1988年4月、県内初の生活ホームとして埼玉県与野市(現・さいたま市中央区)で鴻沼福祉会が運営する「第1たかさご荘」「第2たかさご荘」(定員各9名)が認可され、続いて1990年4月に、越谷市にわらじの会が運営する「オエヴィス」(定員4名)と、浦和市(現・さいたま市桜区)に虹の会が運営する「虹の会生活ホーム」(定員6名)が開設された。
鴻沼福祉会は、養護学校を卒業した知的障害者に働く場や生活の場を保障することを目的として、1982年に任意団体として設立された。同年に「つばさ共同作業所」を無認可で開設した後、1985年12月に社会福祉法人格を取得した(皆川・樫村・藤村 1993: 106-7, 114-5)。また、1986年に無認可の生活の場として第1たかさご荘を開設し、現在はさいたま市内に7か所の生活ホームと2か所のグループホームを運営している。常務理事の斎藤なを子は、きょうされん(全国組織)の理事長を2019年から務めており、障埼連とも強い結びつきがある。
わらじの会は、1978年に親の会や労働組合の有志、川口に障害者の生きる場をつくる会の運動に参加していたメンバーらによって結成された。1981年に「自立にむかってはばたく家準備会」を立ち上げ、1985年から「自立生活演習」を開始した後、1986年頃から「ケア付き住宅研究の家」の開設に向けて取り組み始めた(わらじの会 1986: ページ表記無し; 1987: 19-21)。1987年9月には、わらじの会が事務局を担っている埼玉社会福祉研究会が、県に対して「ケア付き住宅研究の家」にとって利用しやすい制度の実現を要望した。また、わらじの会や埼玉社会福祉研究会は、公開研究会などを通して他地域のケア付き住宅建設運動と情報交換を行った(本田 2010: 318-9; わらじの会 1987: 24)。
虹の会は、1983年に筋ジストロフィー症者の福嶋あき江を中心として結成された。同年2月から「共同生活ハウス」で福嶋ら2名が暮らし始め、1985年頃からケア付き住宅の実現に向けた取り組みを行った。虹の会は、結成当初から障埼連と密接な関わりがあり、1988年に正式加入している(障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会 2003: 45; 佐藤 2013)。また、各地のケア付き住宅を見学するなど、他地域の動向についても情報収集した(福嶋 1984: 272-6; 立岩 2018: 341-4)。埼玉社会福祉研究会とも、1986年に開催された「国際障害者年・サイタマ五年目のつどい」を契機につながりをもつようになった(大阪障害者情報センター 1987: 3)。
4 考察
最初に提起されたケア付き住宅建設運動は公立公営や公立民営を求めるものであったが、完成したものは運動が求めた形とはかけ離れたものになった。公立公営や公立民営にするとなれば、それに見合った行政責任を負わなければならないと自治体が考えるのは必然的な流れであった。行政としては公平性を担保しなければならず、自ずと運動体が運営に関与できる範囲は狭まってしまった。
その点、身体障害者福祉ホームの制度を利用した場合には、運動体が設置主体になることによって自主的な運営を行うことが可能であった。しかし当時、この制度を使うためには社会福祉法人格を得なければならず、資金的な条件が整った団体でなければ困難であった。また1985年の制度開始当初、定員は20名以上と定められていたので、ケア付き住宅とよべるような小規模な住まいになったともいいがたかった。
一方、民設民営+自治体補助の方式を目指した運動は、社会福祉法人格を取得できない小規模な団体でもケア付き住宅を設置運営できるような制度を自治体に求めた。結果としてこの方法をとった運動は、公立公営・公立民営や身体障害者福祉ホームの欠点を回避した形でケア付き住宅を開設させることができた。旧来の入所施設とは異なる小規模な住まいを求めるというケア付き住宅建設運動の趣旨に照らせば、民設民営+自治体補助の方式が最もそれに沿うものであったといえる。
埼玉県独自の「生活ホーム」事業も、民設民営+自治体補助の方式として実現した。「生活ホーム」の特徴は、その制度開始時から対象者が身体障害者に限定されていなかった点である。障埼連やわらじの会は障害横断的な団体であるし、鴻沼福祉会は知的障害者や精神障害者が中心なので、当然の結果であろう。しかし、1984年に障埼連が県に出した要望書には「ケア付住宅の設置をすすめ」るよう明記されており、またわらじの会や虹の会は他地域で展開されていたケア付き住宅建設運動の動向を見ながら自らの運動を展開した。埼玉の「生活ホーム」事業も、各地のケア付き住宅建設運動の趨勢に沿って実現したことは確かである。
[文献]
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■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。
①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。
報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。
女子栄養大学 深田耕一郎
女子栄養大学の深田耕一郎と申します。
貴重なご報告をありがとうございました。ケア付き住宅建設運動をめぐる、全国的な流れと、埼玉県独自の流れが、明確に整理され、その主要な展開過程がよくわかり、たいへん勉強になりました。
2点、質問させていただきます。①すごく基本的な質問ですが、介護人の派遣型ではなく、ケア付きの住宅が希求されたのは、どういった理由・背景からでしたでしょうか。
ケア付き住宅のどのような特性に、利点や可能性があると当事者の方々がお考えだったか、ご教示ください。
②また、埼玉県の独自事業である「生活ホーム」は、鴻沼福祉会の記述のところにあったように(3節4段落目)、現在も継続実施されているということかと思います。「生活ホーム」と「グループホーム」の異同(同じところ、異なるところ)はどのような点か、お教えください。
〈2022.9.16報告者から〉
ご質問いただきまして、ありがとうございます。
大会の期日が迫っていることもあり、やや大雑把な回答になってしまうこと、何卒ご容赦いただければと思います。
質問①について
ケア付き住宅は、住まい単体としてではなく、働く場・活動する場も相まって地域に打って出る拠点として考えられていました。また、個の自立だけではなく「集団的自立」(道野 1985)という考え方もあるといったことが言われたりもしました。
なお、多くのケア付き住宅では、介助は外部調達で行われています。埼玉県や大阪市ではケア付き住宅の制度が始まったのと同じタイミングで、「全身性障害者介護人派遣事業」も開始されています。そういう意味では、「介護人の派遣型ではなく」というより、「介護人の派遣型も同時に」希求されたことも付け加えたいと思います。
質問②について
生活ホームもグループホームも、「ミニ施設」ではない住まいが目指された点で共通しています。しかし、その実現のされ方に違いがありました。
質問①の回答でも述べましたように、生活ホームでは介助は外部調達です。どうすれば「閉じた施設」にならないようにできるか、重度の人も含む障害者と健常者がどうすれば共に地域で暮らすことができるか、模索した結果であったといえます。
一方、現在の国の「共同生活援助」は、1989年に開始された「精神薄弱者地域生活援助事業」を起点としています。こちらは介助は基本的に内部調達です。また、発足当初は「バックアップ施設」が必要とされ、現在でも法人格をもつ団体しか運営できません。このことは、制度制定に携わった人たちの本意ではなかったようですが、安心安全を求める親たちや支援の専門性を主張する既存の施設団体の異論をかわすためであったと、後に当人たちによって述べられています(中澤編 1997)。
このような制定時の相違が、現在でも続いているといえます。
ご質問いただいた2点は、文字数の制約により書くことができなかった内容でもありました。ご質問への回答という形で述べることができ、とても感謝しております。
[文献]
道野孝之,1985,「新たなくらしづくり」『季刊福祉労働』26:56-68.
中澤健編,1997,『グループホームからの出発』中央法規出版