「できない」と「できる」のせめぎあい
──1970年代中途視覚障害教員の復職運動における労働・能力観の問い直し
栗川治(立命館大学大学院 先端総合学術研究科/日本学術振興会特別研究員)
1 はじめに
1.1 目的と方法
本報告の目的は、中途で視覚障害者となった教員が休職後復職した、日本で最も初期の事例である一谷孝の運動の経過をとおして、そのなかで関係者から求められる労働とその能力の問い直しがおこなわれ、それまで前提・自明とされてきた労働・能力観が変容・更新されることにより、障害者雇用の可能性と課題を示したことを明らかにすることである。
研究方法は、文献調査とインタビュー調査を併用し、一谷氏本人と支援者である加藤俊和氏から聞き取りをおこなった。インタビュー録音は文字おこしし、内容を点検してもらったうえで、それを研究に利用し公開することについては、調査協力者から承諾を得ている。
1.2 問題の背景と先行研究
障害なく働いていた者が、病気やけが等のために中途障害者となったとき、職務継続が困難になる場合が多い。雇用主や職場関係者からは「障害があって、仕事ができるのか?できないだろう」と言われ、退職せざるを得なくなることもある。本人が職務継続・復帰を望むならば、「できない」と言われる仕事について、「できる」と主張し、それを雇用主等に理解・納得させる必要が出てくる。職務や障害の状況によって様相は異なってくるが、本報告では、1970年代に病気のため中途視覚障害になった教員の復職事例をとおして、この「できない」と「できる」とのせめぎあいから、労働・能力の問い直しがなされたことを考察する。
日本の視覚障害教員は、戦前までは盲学校の理療科(鍼灸按摩を教える)教員が各地に一定数いるのみであったが、戦後、大学等で教員免許を取得し、盲学校普通科教員となる人が出てきた(加藤2009; 藤野1978)。盲学校以外では、1973年に大阪府立高校非常勤講師となった楠敏雄(中村2020)がいる。
中途視覚障害教員の復職としては、1978年に兵庫県の中学校の三宅勝の例があり、「当時我国において前例が無い」(全国視覚障害教師の会1987)と言われていた。
1981年には、全国視覚障害教師の会(JVT)が結成され、視覚障害教員の新採用や中途障害者の復職、職務継続の事例も少しずつではあるが増えていった。とはいえ、全国でも十数人と、理療科を除く視覚障害教員の数はきわめて少なく、「目がみえなければ教師はできない」とする見方が一般的であった。JVT代表だった三宅らが『目は見えなくとも教師はできる』という実践集を1997年に出したのも、「できない」という社会通念に対して「できる」ことを示そうとしたものであると言えよう。
中村雅也(2016; 2020)は、在職中に重度視覚障害となった教員の復職過程を調査し、「復職阻害要因として障害があると教員はできないという通念」があることを示した。本報告では、この中村の研究成果をふまえて、中途視覚障害教員が復職しようとする過程で問われる労働、能力の内容を、一谷の事例に即して吟味する。
なお、本報告では、立岩真也(2001)による業績原理・能力主義の分析、本田由紀(2010)による「能力」の社会的構成/形成の理論、青木千帆子(2012)による労働の理念的側面(自己実現)と労働の経済的側面(生産性)の分析、榊原賢二郎(2016)の「包摂的別処遇」の理論等を参照しつつ、労働と能力をめぐって異なる位相で展開された論争を追いながら、障害者雇用の可能性と課題を考察していく。
2 一谷孝の復職運動
2.1 復職の経過
一谷は、1927年に生まれ、1948年に京都師範学校を卒業して、地元の須知小学校教諭となった。1951年に一旦退職して立命館大学理工学部に編入し、1953年に大学を卒業し、瑞穂中学校の理科教員として教職歴を再開した。その後、園部小学校、須知小学校に転勤し、1968年ころから視力の低下が始まった。
1972年6月、4年生担任で児童を引率して奈良旅行に行った際、目前の電柱に激突する事故があり、かなり見えにくくなっていることを本人も周囲も知った。7月から休養に入り、10月には障害者手帳(視覚障害1種1級)を取得した。同時に、京都ライトハウスでの生活訓練を本格化した。1973年3月、「労働することに何ら支障はない」という診断書を添え、復職願いを府教委に提出するが、府教委は復職を認めず、休職を命じた。
一谷は、職場復帰をめざして、船井郡教職員組合や京都府教職員組合に問題を提起し、支援を求めた。教職員組合は「職場保障特別委員会」を設置し、教委との行政交渉を繰り返した。その結果、教委は「視覚障害を持った教職員が、教育の現場で働くことの意義については認める」との見解を示すようになったものの、「地元の受け入れ態勢が整っていない」との理由で、一谷の復職は認められなかった。地域の住民、とりわけ保護者会には不安と不信が残っていた。
そこで、教職員組合、障害者団体(日本盲人福祉研究会=文月会、関西SL=学生図書館等)、一谷の教え子たちは「一谷先生の職場復帰を進める会」を結成し、活動を展開していった。たとえば、園部小学校と、京都府立盲学校の2会場で「一谷先生の可能性を見出す研修会」としての模擬授業をおこない、「授業はできる」ことを示そうとした。
一谷と支援者らは、現職場である須知小学校での復職を希望したが、一部の保護者の反対が強く断念。中学校等も検討したが、試験の採点等の問題や同僚教職員への負担などの懸念が払拭できず、他の受け入れ先を模索していった。
1975年3月 府教委交渉で、「4月1日より養護学校で研修をするようにすすめる」との回答が出て、4月から、京都府立向日が丘養護学校での自主的な研修を始めることになる。向日が丘養護学校の八木校長は、京都師範学校で一谷の2年先輩、「組合運動もやってきた民主的・革新的な人」であり、「どんなに障害が重い子どもも受け入れる、どんな障害の重い先生も採用します」と言っていた。
同75年12月、一谷は向日が丘養護学校の研修生扱いで復職を果たした。翌1976年4月、須知小学校から向日が丘養護学校に転勤し、正式に勤務を再開した。その後、定年退職まで勤め続けた。
2.2 教育委員会、保護者等の復職反対理由
復職を希望する一谷に対して、教育委員会や保護者らは、どのような理由で反対したのだろうか。
(1)「目が見えなければできない」
当初の反対理由は、抽象的な総論として「目が見えなかったら教えられない、教師はできない」という信念であった。視覚障害者の職業としてあんまマッサージ、鍼灸業以外に思い当たるものもなく、教員としては盲学校理療科教員はいたものの、地域の小中学校等には障害のある教員はいなかった。今日から見れば、視覚障害者に対する無知や無理解にもとづく差別的な偏見と言わざるを得ないが、当時としては「目が見えなければ教師はできない」というのは、一般的な社会通念であったと言える。
(2)「板書、採点、監視ができない」
「一谷先生の職場復帰を進める会」が復職へ向けての運動を展開し、復帰に反対していた教育委員会や保護者との話し合いをおこなうなかで、具体的な懸念事項として3つの「できない」ことが焦点化されていった。それは、板書(黒板に文字等を書いて提示すること)ができないだろう、試験答案等の採点ができないだろう、そして授業中や活動中の子どもたちの動きを、指導面、安全面でも監視・管理できないだろう、というものであった。
(3)「できるとしても、自分に負担と犠牲が来るのはごめん」
上記(1)(2)の「できない」ことを理由とする反対意見のほかに、仮にそれらのことが「できる」としても、それは完璧ではないし、何らかのサポートを周囲の人間が求められることになり、その負担・犠牲を自分やわが子が引き受けるのはごめん被りたいというものである。中学校等への転勤・復職の話が出たときには、同僚となる教職員から採点等の負担を懸念する声が上がり、それ以上話が進まなかった。また、「一谷先生の職場復帰を進める会」への入会を勧められて、「良いことなので入会はするが、自分の子が教えられる立場だったら、やはり……(わが子がその犠牲になるのはかなわない)」と答える保護者もいたという。
2.3 本人、支援者の主張
「できない」だろうという教育委員会や保護者等の復職反対意見に対して、一谷と支援者らは「できる」ことを示し、反論していった。
(1)総論として「できる」し、人権がある
1)リハビリによる「できる」という自信の回復
中途失明直後の一谷は、それまで目で見てできていたこと(文字の読み書きや歩行等)ができなくなって、「将来の見通しが暗い。もうこれで自分の希望してたことがストップ」すると思ったが、京都ライトハウスでのリハビリ訓練によって、「いろんなことがカバーできるという自信が」持てるようになった。
2)視覚障害者理解の促進
支援者ら、とくに教職員組合役員らは「退職させずになんとか復職させよう」と言いつつも、「たぶん無理やろうな。視覚障害者は、目が見えんようなって何ができんの?」と当初は考えていた。視覚障害者関係者は、視覚障害のことをまったく知らない教職員らに自立して生活し働いている視覚障害者のことを紹介し、支援者たちに理解してもらえるよう話をしていった。
3)海外の先例紹介
視覚障害学生たちによる関西SLや大学卒業生らによる文月会は、視覚障害者の職業としての教職に希望をもち、一谷闘争にも協力していた。1974年ころには、視覚障害教師に関わる米国の文献を取り寄せ、翻訳して紹介している。一谷や支援者らも、補助教員が付いて教壇に立つ教員等のことを知り、「外国ではそんな例がいっぱいあったんですわ。なんだ、日本だけだ、こんなことしてんのはという非常に情けない」気持ちになり、「できる」との確信を深めていった。
4)人権
一谷は「憲法の精神っていうのを掘り下げて考えると、やっぱり人は尊重される、ほんとの意味の人権尊重は、ついにやりたいってことをさせること」であり、「どんな障害が重くても教員としても働く」ことであると言う。ここには、「できない」だろうという通念に対して「できる」と反論するだけでなく、「できようができまいが(できなくても)働かせよ」という主張が内在している。「担任することだけが教員の仕事ではないはずだし……広くものを考えて、目が悪くてもなんとかその人間を活かそうという方向でものを考えてくれ」と主張していった。これは教職員組合が雇用を守ろうとした姿勢とも相通ずる。
(2)「できない」だろうという各論への「こうやればできる」の実証
復職へ向けての具体的な懸念事項として焦点化された3つの「できない」だろうということに対して、一谷らは模擬授業等をとおして「できる」ことを実証してみせようと試みた。また、従来のやり方では「できない」とされる仕事については、別のやり方を提案し、「こうやればできる」と主張していった。
1)板書
黒板にまっすぐ、既に書いた文字と重ならないようにしてチョークで字を書くことについて、一谷は音楽教室にある五線譜のある黒板や、図工教室にある方眼紙状のマス目のある黒板を使えば、浮き出るように塗装してあるそれらの線に触りながら、それを手がかりにして、見やすい板書をすることができると考えた。練習を重ねて感覚を体得して、模擬授業でも板書をして見せた。
2)採点
子どもたちが紙に鉛筆等で書いた答案の文字を目を使わずに読み、採点することは、視覚障害者の独力ではできない。一谷らは、答案を自宅に持ち帰り、家族らの補助で採点する方法を提案したが、教育委員会は答案要旨を学校から持ち出すことを認めなかった。同僚教職員に採点補助を依頼する方法も提示したが協力的な返答は得られなかった。加藤ら支援者は、米国の事例を参考にして、補助教員の加配を要求することも検討したが、あまりに高い要求をすると、復職そのものができなくなると考えて、そこまでは主張しなかった。採点は補助者がいれば「できる」と理屈のうえでは言えても、実際に補助代行を誰がするのかという問題を、小中学校の勤務という前提ではクリアできなかった。
3)生徒管理・監視
授業中の児童生徒の様子を把握し、問題があれば指導し、危険な状況があれば安全を確保する等のことも、目が見えなければ「できない」こととして、一谷の復職を阻む壁として問われた。一谷と支援者らは、採点の問題と同様に米国の事例から、補助教員がいれば管理監督の課題はクリアできると考えた。しかし、より根本的には、「目で監視して『出て行くな』というのはできませんけど、視覚障害の先生がおられると『なんとかしたい』と思う生徒が多くなります」と、視覚障害教員の別の可能性を考えていた。それは、「教育というのは一体何だと。教育いうのは単に勉強があってそれを上から押しつけて、覚えてなんとかせえというだけじゃなくて、自発的な心を養うということもあるんじゃないか」という、教育労働の中身そのものを問い直す視座と視界をもった主張であった。この子どもの自発性に依拠する教育は、日本の40人以上学級では不可能であり、20人学級や複数教員の配置などの環境整備が前提となるもので、これも理論としては持ちつつも、一谷の復職運動では教育委員会等には求めなかった。
(3)同僚や保護者の懸念する「負担・犠牲」への反論
同僚になるかもしれない教職員の負担への懸念や、わが子が視覚障害教員に教えられる場合の「犠牲」(ちゃんと教えてもらえず、勉強がわからなくなるという不利益?)に対する反論を一谷らは試みたがうまくいかなかった。いくら「こうすればできる」と主張しても、忌避感、拒絶感のある人の気持ちを転換させることは困難であった。
そこに一谷の復職後の受け入れ先として提示されたのが、「どんなに障害が重い子どもも受け入れる、どんな障害の重い先生も採用します」と標榜する向日が丘養護学校であった。
3 考察
一谷の復職運動のなかで問われた論点について考察する。
3.1 「能力」の問い直し
一谷と支援者らは、「目が見えなければ教師はできない」という通念や、板書、採点、生徒管理ができないだろうという具体的な課題に対して、「できるか/できないか」の二分法で捉えるのでなく、「どのようにすればできるか」という方法の問題に論点をずらしながら、「できる」ことを示そうとした。
触覚で位置を確認しやすい黒板の利用や、補助教員による採点支援、複数教員による授業展開等、従来のパターン(既存の設備、単独での業務等)とは異なるやり方で「できる」ことを示し、「能力」の内容の更新を図った。
3.2 「労働」の問い直し
ある能力(子どもを監視できる等)が求められたとき、一谷と支援者らは、その「能力」を発揮する方法を問い直しただけでなく、その能力を求める労働そのものも問い直した。目で監視して「出て行くな」ということはできないけれど、できないことが問題か、そもそも教育はそういうものではないのではないか、という教育・労働そのものの本質を問い直す契機が、一谷と支援者らの主張には含まれていた。ここには「できなくてもいいじゃないか」という反能力主義の主張にもつながる発想が内在しているとも言える。
3.3 「包摂/排除」の理念
一谷の「働きたい、働ける」の主張は、総論としては教育委員会や教職員、保護者などに理解されていったが、具体的に勤務の場所を定めようとして大きな障壁にぶつかった。障害に伴う負担を誰が担うのか、それは「私以外の誰か」であればよいが、私が犠牲になるのはごめんだという考えが表明されたとき、それを翻意させることは困難であった。一谷の場合、「どんなに重い障害者でも受け入れる」という理念を持ち実践している養護学校が受け入れ先となって復職が実現した。養護学校の場合、生徒数が少なく、教員数は比較的多く、障害についても理解があるなど、一谷にとって働きやすいという面もあっただろう。しかし、ここでは「できる/できない」が問われたというよりも、職場(社会集団)が包摂的・受容的であるかどうかが、障害者雇用実現の成否を決めることを示したと言える。
また、効率や生産性といった経済原理・利害でなく、人権といった理念が、一谷本人の復職へ向けた原動力となり、支援者や受入れ先の行動指針となっていたことにも留意する必要がある。人権や、異なるものの包摂(インクルージョン)の理念の普及と浸透とが、障害者雇用を進めるうえでも基盤となることを、一谷の復職運動は示したと言える。
4 おわりに
本報告では、中途視覚障害教員である一谷の復職運動の経過を明らかにしながら、教育委員会等から求められる労働とその能力に関して、その内容の問い直しがおこなわれ、それまで前提・自明とされてきた労働・能力観が変容・更新されたことを示した。すなわち、従来のパターン(既存の設備、単独での業務等)とは異なるやり方で「できる」ことを示しつつ、教師の仕事としての生徒管理について、そもそも教育とは何かと問い、教育・労働の別のあり方を模索した。それによって、「目が見えなければ教師はできない」という社会通念を覆して、一谷の復職を実現して、新たな障害者雇用の可能性を切り拓いたことを示した。一方、保護者や職場の利害に基づく忌避感・排除感が復職先の選定に影響し、「包摂的・受容的か/排除的か」という理念が復職を可能にした基盤であったことを明らかにして、「できる/できない」の能力の位相とは異なる障害者雇用の課題を示唆した。
文献
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加藤俊和,2009,「大学進学から米国留学した永井昌彦」高橋実編『先達に学び業績を知る──視覚障害先覚者の足跡』視覚障害者総合支援センター.
加藤俊和,i2022,インタビュー 2022/6/09 聞き手:栗川治 於:京都市・喫茶アーク.
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水谷昌史,1986,「光は闇より──中途失明者、その苦悩、決断、そして社会復帰」『視覚障害――その研究と情報』84:5-20.
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――――,2020,『障害教師論──インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』学文社.
落野夢佳,2013,「昭和・平成 視覚障害先輩の生き方 働く自由を求めて 障害者と高齢者,子どもたちの豊かで実りある暮らしのために 一谷孝さん」『視覚障害――その研究と情報』305:33-42.
榊原賢二郎,2016,『社会的包摂と身体──障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』生活書院.
身体障害者雇用促進協会,1980,『中途障害者の継続雇用と職域の拡大 ──視覚障害者 昭和54年度:研究調査報告書 ― No.2 通刊第29号』.
立岩真也,2001,「できない・と・はたらけない──障害者の労働と雇用の基本問題」『季刊社会保障』37(3):208-217.
全国視覚障害教師の会,1987,『心がみえてくる──普通校における視覚障害教師の実践記録』アド企画.
■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。
①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。
報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。