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質疑応答は文章末です


障害を直接の理由としない中絶におけるリプロ権と間接差別の葛藤と政策

桐原尚之(日本学術振興会特別研究員PD/同志社大学)


1 はじめに
本報告では、障害を直接の理由としない選択的中絶について、禁止されるべき間接差別なのか、性と生殖の健康と権利(以下、「リプロ権」とする。)なのかという規範的な対立を踏まえつつ、こうした問題を政策というかたちでアウトプットしていく場合の青写真を示すことを目的とする。
本報告の主張は、堀田義太郎(2003)の先行研究に依拠したものとなる。堀田は、障害差別を撤廃することと障害のある胎児の中絶を女性の決定の文脈で正当化することを両立可能と唱える立場に対して、障害のある胎児が中絶されることが正当化される世の中それ自体が差別を撤廃することと矛盾するのだとして批判している。筆者も堀田の主張に同感である。しかし、堀田の主張を政策というかたちでアウトプットするとしたら、それはいかにして可能になるのだろうか。プラグマティズムな意味での政策設計及び政策立案は、社会の状況や資源という現実の問題に制限を受けることを前提にして組み立てられていく。本報告では、財源や人員、統治を突き詰めることまではしないが、即時的な措置を講じることが不可能な場合の方策までは射程にいれて論じる。
本報告では、第一に優生保護法改悪阻止をめぐる女性運動と障害者運動の共闘関係を記述的に明らかにし、その到達点と限界を考察する。第二に、国際人権法に基づく女性と障害のそれぞれの権利の論点を整理し、政策の展望について論じる。第一については、リブ新宿センター資料保存会編の『リブニュース この道ひとすじ――リブ新宿センター資料集成』に依拠して記述する。

2 障害女性の言説
2.1 リブ新宿センターの開設
1970年10月21日、女性だけで組織されたデモ隊が「ぐるーぷ闘う女」の旗をかかげて東京都内を行進した。1971年には、「ぐるーぷ闘う女」や「思想集団エス・イー・エックス」が中心となったリブ合宿実行委員会が組織され、8月21日から24日にかけて第1回リブ合宿が長野県において開催された。1972年5月5日から7日にかけては、第1回全国リブ大会が東京都において開催された。第1回全国リブ大会では、ぐるーぷ闘う女、思想集団エス・イー・エックス、闘う女性同盟、緋文字、東京こむうぬが中心となって、東京都内においてグループが共同で活用できて、地方の女性とも交流するような拠点開設のためのカンパの呼びかけがおこなわれた。1972年9月に開設された拠点は、リブ新宿センターと名付けられ、総勢約20人の女性が運営に携わり、機関紙『リブニュースこの道ひとすじ』の刊行などの活動に取り組んだ。

2.2 モナリザスプレー事件における障害者差別問題への意識
リブ新宿センターにおいて、もっとも中心的に活動をしていた田中美津は、出生時に仮死状態で生まれ、百日咳でよく学校を休む虚弱児であった。また、米津知子は小児麻痺であった。リブ新宿センターは、障害者問題にも取り組んでいたわけであるが、そのひとつとして「モナリザスプレー事件」がある(モナリザスプレー上告審を共に闘う会 1975)。
1974年4月、東京国立博物館では、レオナルド・ダ・ビンチ作のモナリザ画の展示が企画されていた。4月12日に文化庁は、付き添いを要する障害者、老人、乳幼児連れの人たちの入場は混雑で危険なため断るという方針を打ち出した。このことが発表され新聞に載ると、障害者からの抗議が殺到した。4月15日に文化庁は、急遽、5月10日を身障者デーとし、1日だけ無料で入場させる措置を講じると発表した。しかし、障害者運動は、ただでさえ外出しにくい障害者に対して、たった1日しかチャンスを与えず、他の日は邪魔者扱いするとは許しがたいことであるとして抗議行動を決断した。
4月20日、モナリザ展示会の初日、リブ新宿センターの活動家で障害女性である米津知子は、会館直後の9時5分にモナリザ展示場に向かい、モナリザ画に向けて赤色スプレー塗料をまいた。赤色スプレー塗料は、モナリザ画に直撃しなかったが、モナリザ展示場の建造物に付着した。米津は、建造物侵入罪と威力業務妨害罪で逮捕された。東京こむうぬやリブ新宿センターのメンバーは、東京国立博物館正門前において抗議のためのビラをまいた。5月1日、米津は東京地方検察庁から軽犯罪法違反で起訴され、翌5月2日には東京拘置所に勾留された。5月7日になって米津の拘留停止が決まり、5月10日のモナリザ展の身障者デー当日には、東京国立博物館正門前で抗議行動がおこなわれた。抗議行動は、米津を含むリブ新宿センターや東京こむうぬ、同時期に東京都庁前にテントをはって座り込みをしていた府中療育センター闘争の障害者らによっておこなわれた。
また、6月2日には、真岡市モナリザ展身障者デー拒否実行委員会と土浦青い芝の会のメンバーが車椅子や松葉杖を使っての入場を試み、問答の末、結果として入場を認めさせることができた。米津は、6月19日に初公判を迎え、7回におよぶ後半の末、1974年10月25日に検察側論告求刑の科料3500円を大きく上回る興隆5日の判決が言い渡された。米津は、これを不服とし控訴をおこなった。このようにリブ新宿センターは、障害者差別に対しても抗議していたのであった。

2.3 優生保護法改悪阻止実行委員会
1972年5月26日、内閣提案により優生保護法の一部を改正する法律案(以下、「法案」とする。)が国会に提出された。法案は、①母体の経済的理由による中絶を禁止し、母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれがある場合に限ること、②重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる胎児の中絶を合法化すること(以下、「胎児条項」とする。)、③高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加すること、の3点が盛り込まれていた。障害者運動は、主に障害者を生まれなくて良い存在と位置付ける胎児条項に対して反対し、女性運動は、主に①と③に対して中絶は女性の決定に帰属すべき事柄であり、それを制限するものであるとして反対した。
当初、女性運動は、法案を中絶禁止法と表現し、「産むも産まぬも女が決める」というスローガンを採用した。しかし、障害者運動は、胎児に障害があったら中絶するというのなら、それは障害者の存在を否定する胎児条項となんらかわらないものだとして女性運動を批判した。女性運動と障害者運動の双方の視点を持つリブ新宿センターの障害女性の活動家は、障害のある新生児を堂々と産んで育てられるような社会ではないことそれ自体が障害者差別であり女性差別であるという観点から主張の再構築をした。スローガンは、「産める社会を、産みたい社会を!」に変わり、障害者を産むことを良しとしない社会のあり様や障害者や女性の性と生殖に介入する政策のあり様こそが問題であると位置付け直した。このような整理をしてことで障害者運動と女性運動は、まとまって法案に反対することができるようになった。
1970年代の法案は、一度廃案になった。しかし、1980年代に入って再び政府主導で法案の国会提出に向けた動きが出はじめた。リブ新宿センターが主たる構成員となって82年優生保護法改悪阻止実行委員会(以下、「阻止連」とする。)が結成され、優生保護法改悪阻止を掲げた運動を形成していった。この運動によって法案は廃案となり、法改正の向けた動きもとん挫することとなった。
このように障害女性は、障害者運動の主張と女性運動の主張の共通部分を見出して、まとまって反対運動をできる状態へとまとめあげたのである。

3 リプロ権と間接差別
3.1 リプロ権
リプロ権や間接差別は、国際人権法に裏付けられたものであり、とくに国内の運動団体にとっては、締約国政府への要求というかたちで運動形成すしていく根拠となる点で特別な意味をもっている。リプロ権は、1994年の国際人口開発会議において採択されたカイロ行動計画のなかで概念化され、女性差別撤廃委員会の総括所見のなかで深化されてきたものである。女性差別撤廃委員会による対日審査の総括所見においては、締約国による中絶の非犯罪化と、母体保護法の中絶要件の緩和を求めており、妊娠した女性が自由に中絶できるようにすることを目指していることがわかる。
第7回及び第8回報告に対する総括所見のパラグラフ39では、「胎児の重篤な障害を理由として人工妊娠中絶を求められた場合には、妊娠した女性の自由かつ充分な情報に基づく同意がなされることを確保すること」とあり、障害を直接の理由とした中絶を良しとはしていないものの、産んで育てられるような情報提供があってから中絶の同意について検討すべきとしている。このことから、女性差別撤廃委員会は中絶それ自体を推奨しているわけではなく、女性が自由に産む産まぬについて決められることに重きを置いていることがわかる。また、女性差別撤廃委員会は、第1回から第8回までのすべての総括所見において経済保障制度の確立を求めている。そのため、経済的理由による中絶は、女性が経済的な理由で望まない中絶を余儀なくされることがないように、経済保障制度によって避けられることが望ましいということになる。よって、女性差別撤廃委員会が日本政府に出してきた総括所見をまとめると、母体保護法における中絶の要件を女性の同意一本に改め、情報提供や経済保障制度の確立によって望まない中絶を回避せよ、ということになる。

3.2 障害者権利条約
障害者の権利に関する条約(以下、「障害者権利条約」とする。)は、障害を理由としたあらゆる区別を廃止し、他の者との平等を求めたものとなっている。障害者権利条約第10条には、「締約国は、全ての人間が生命に対する固有の権利を有することを再確認するものとし、障害者が他の者との平等を基礎としてその権利を効果的に享有することを確保するための全ての必要な措置をとる。」との規定がある。このことから締約国は、障害者の生命を他の者と平等な扱いにするように措置を講じなければならないことになる。筆者は、生まれてくる命を障害の有無で選別する考え方も第10条の趣旨に反するものと考える。
障害者権利条約第5条第1項には、障害に基づく差別を形成する法律の改廃が規定されており、第2項には障害に基づく差別を禁止するための法律の制定が規定されている。障害者権利委員会は、一般的意見第6号において障害に基づく差別には障害を直接の理由にした直接差別だけではなく、障害を直接の理由としない間接差別が含まれるものとしている。
以上をまとめると、障害者権利条約は生まれてくる命を障害の有無で選別するような法律を廃止し、あわせて障害を直接の理由にしない中絶も間接差別に該当するため、禁止するための措置を締約国に講じるように求めているのである。

4 考察
4.1 「産める社会を、産みたい社会を!」言説の到達点と限界
女性運動は、優生保護法改正に対して産む産まないは女性が決めるべきことであり、女性の自己決定権に属することがらであるとして反対した。障害者運動は、障害のある胎児の中絶を合法化することが、暗に障害者は生まれないほうがいいという考え方であるとして反対した。ただ、障害者運動の反対理由は、女性運動が法案に反対してきた理由に対しても向けられたものであった。そこで、障害女性は、障害のある子どもを生みたいと思えなくさせている社会のあり様こそが間違っていると批判したことで障害者運動と女性運動のコンフリクトを回避した。
しかし、ここで回避されたのは、あくまで法案に反対する理由をめぐるコンフリクトであった。法案に反対する運動を大きなまとまりにすることができた半面、どのような政策を要求すべきかをめぐる両者の決定的な溝は、埋まることはなかった。例えば、生みたいと思える社会を実現するためには何をしたらよいのか、という問いに対しては、中絶するか/しないかを決める女性の意思を情報提供や経済保障によって変化させるくらいのことしか考えられていない。つまるところは「産むも産まぬも女が決める」ということでしかないのだ。
2018年8月16日に障害者権利委員会と女性差別撤廃委員会は、障害女性のリプロ権に関する共同声明を出したが、そこでも女性が中絶を自由にできることを基盤として情報提供や経済保障による方向付けのみが示唆されるにとどまっている。障害を直接の理由としない中絶については言及されていない。

4.2 差別の回避か/差別への抵抗か
これまで障害を直接の理由としない中絶については、妊娠して胎児に障害があることがわかると、その子を産み育てることに伴う社会的な抑圧の大部分を女性が引き受けさせられているという実態があった。また、そうした社会だからこそ抑圧からの防衛手段として中絶はやむを得ない、中絶は禁止するべきではない、堕胎罪のような刑罰はなくすべきと考えられてきた。しかし、差別がなくなったら産んで育てられるようになるという仮定は言説としてはよく考えられているし、そういう側面もないわけでもないのだろうが、障害に基づく間接差別の禁止よりも、女性が胎児に障害があることを知りながら中絶する自由を保障することの方が規範論的に優位であるとする根拠は、どこからも示されていない。
さらに、差別がなくなったら産んで育てられるようになるという仮定は、差別がある社会において差別をどのようになくしていくのかという観点の不在と誤謬に基づくものである。障害者運動の立場は、これまで障害者が住みにくいのは機能障害が原因であるとみなされてきたが、本当は障害者が社会から隔絶されてきたことで障害者不在の社会が構築されたためであるという社会モデルの考え方に依拠したものである。すると、差別に抵抗するための手段は、障害者が実際に差別を受けながらも地域生活を実践することで、一歩ずつ障害者がいる社会に変えていくというものになる。そのため、当面の課題は、障害者の参加を阻む要因の除去ということになる。
ならば、障害を直接の理由としない中絶を禁止し、障害者が産まれて育っていくことで実際の障害のある子どもと、それを育てる周囲の意識を変化させるのが先立つのではないか。また、それこそがリプロ権が目指すような産みたいと思えるような社会のあり方に接近することにもつながるのではないか。産みたいと思える社会とは、目指す社会が出来上がったら中絶しなくなるんだ、というようなものではなく、実際に産んで育てながら勝ち取られていくもののはずである。障害を直接の理由としない中絶の禁止は、①新型出生前診断の禁止、②新型出生前診断をした者の中絶の禁止のいずれかの方策が考えられるが、①は健康保険の適用外にすることまでしかできないため、②の方が実効性を伴いやすくなる。新型出生前診断を受けたかどうかの記録の残し方は課題となるが、何らかの規制を必要とすることは言うまでもない。

4.3 経済保障の可能性と限界
前項に対しては、女性運動の主張と一部、対立する可能性がある。そこで経済保障制度の可能性と限界についても検討していきたい。例えば、極端な例として、出産した場合に一律高額の手当を1回支給することとし、新型出生前診断を受けた者を支給の対象外とする政策があったとしよう。多くの者は、経済保障を受けるために新型出生前診断を受けなくなるだろうし、結果として障害児がたくさん生まれれば、それに対応して社会も変化していくことになる。しかし、経済保障政策は、個々人の経済水準と保障を相対化しなければ規範自体に変更が生じにくいといった弱点がある。手当の額面は、高所得者と低所得者では価値が異なる。仮に手当を受け取らなくてもいいから新型出生前診断をして健常者だけを生みたいという高所得者が一定いたら、障害者差別をメルクマールとした経済格差を帰結していくことになり、かえって社会モデルに基づく意識の変革が困難なものになっていく。
よって、経済によって間接差別させないように誘導する政策は、趣旨とするところの産んで育てる実践に経済格差を生じさせるおそれがあり、実効性の観点からは疑問が残るものとなっている。

5 結論
胎児が健常なら中絶しないのに、障害があったのなら中絶するということならば差別である。また、差別を受けながらでも産んで育てる人々の実践があってこそ、社会が変化していくのである。よって、新型出生前診断をした者の記録を基にして障害を直接の理由としない中絶を法的に禁止することでしか、この問題は解決されない。

文献
堀田義太郎,2003,「生命をめぐる政治と生命倫理学――出生前診断と選択的中絶を手がかりに」,『医療・生命と倫理・社会』2: 13-22.
モナリザスプレー上告審を共に闘う会,1975,「モナリザスプレー事件公判資料No.1増補改訂版」リブ新宿センター.
リブ新宿センター資料保存会編,2008,『リブニュース この道ひとすじ――リブ新宿センター資料集成』,インパクト出版会.
米津知子,2012,「女性運動と障害者運動」,『ノーマライゼーション――障害者の福祉』32(8): 33-35.

■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。

〈2022.9.6 会員から〉
立命館大学生存学研究所 長瀬修
重要なテーマに関するご報告、大変ありがとうございます。
結論の「新型出生前診断をした者の記録を基にして障害を直接の理由としない中絶を法的に禁止する」ですが、可能であればもう少しご説明をいただければ幸いです。
よろしくお願いします。

 


〈2022.9.12 会員から〉
二階堂祐子 国立民族学博物館
興味深い報告をありがとうございます。
質問が二つあります。補足の説明をいただけるようでしたらお願いいたします。
(1)本報告が想定する「障害を直接の理由としない中絶」とは、どのような理由による中絶なのでしょうか。
(2)結論について、「出生前診断をした者」ではなく、「新型出生前診断をした者」の記録を残すとされているのはなぜでしょうか。

 


 

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