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健全者手足論は「いつ」提起されたものだったのか―機関紙の分析から
山口和紀(立命館大学先端総合学術研究科, http://www.arsvi.com/w/yk18.htm)


キーワード
障害者運動、青い芝の会、健全者運動、手足論、運動の混乱期

本文
1. はじめに
 本報告では健全者手足論の初出を検討する。ここでは健全者手足論という語を青い芝の会が提起した「健全者(組織)は青い芝の会の手足になりきるべき」という主張として定義する。まず健全者手足論に関する先行研究の議論を概観する。その上で、青い芝の会の機関紙を分析の対象として健全者手足論の初出について検討を行う。
 本報告は次の二点を報告する。第一に、初出の候補として考えられている「申し合わせ」の時期は1977年7月頃であり、「緊急あぴいる」よりも数か月早いことである。第二に、1975年11月の段階において全国青い芝の会が健全者組織を手となり足となりきる存在として位置付けていたことである。

2. 先行研究の整理
 まず健全者手足論の定義を行う。最初に述べておかなければならないのは、この健全者手足論は、今日の「手足論」あるいは「介助者手足論」という言葉から連想されるとは区別されるという点である。「健全者手足論」は青い芝の会が健全者との関係性を既定しようとするなかで主張された議論であり(小林 2011)、健全者は青い芝という障害者組織の運動(方針)に対して、口出しをしてはならないという意図で主張されたものと言える(山下 2008, 小林 2011, 石島 2018)。そのために基本的には介助関係における主張を包含していない1。
 次に、問題関心を示す。本報告は健全者手足論がいつ提起されたものなのかを検討する。つまり、健全者手足論の初出を先行研究よりも精緻にすることが本報告の目的である。健全者手足論の初出を議論している先行研究には、管見の限り田中(2005)、天畠(2020)、山下(2008)、小林(2011)、石島(2018)があるため、それらを概観する。
 田中(2005:133-134)は「介助者手足論」は「青い芝の会」神奈川県連合会(以降、神奈川青い芝)と、神奈川青い芝が自ら作った健全者組織「健全者支援組織行動委員会」の間で交わされた「申し合わせ」がもとになっていると指摘する2。
 これに対し小林(2011)は青い芝の会が障害者と介助者の関係性を既定する意味での「手足論」を主張した事実は無いと批判した。つまり、田中(2005)のような青い芝の会が「介助者手足論」を提起したとする理解に対し反論をしている。
 小林(2011)が指摘したのは、青い芝の会が提起したのは「健全者手足論」と呼ぶべき言説であって「介助者手足論」とは区別すべきであるということである。青い芝の会は1970年代後半の混乱期において、健全者が障害者運動の主導権を奪おうとするような言動に対して、健全者(組織)は青い芝の会の手足になりきらなければならないと主張したという(小林 2011)。
 石島(2018:172)は小林(2011)の主張に基本的には賛同を示す一方で、小林(2011)の主張するように介助者手足論と健全者手足論を強く区別する考え方は「青い芝の会の内部にあった手足を巡る意味の変転を捉え損ねてしまう可能性がある」と指摘する。その上で石島(2018)は「手足」という語用そのものは健全者運動が成立した当初、すなわち1970年代初頭から用いられていたが、混乱期に入って、その意味が大きく変容することになったとして語の用いられ方とその意味の変遷を整理した。
 他に、山下(2008)は当時の健全者運動に参加していた者へのインタビューを通じて、健全者運動が健全者の側にどのように受け入れられていたのかを議論している。また、天畠(2020:28)は健全者手足論は横塚晃一が脳性マヒ者らに対して唱えた「スローガン的なイデオロギーである」と述べている。
 本報告はこれらの先行研究の議論を踏まえ①田中(2005)で初出とされている「申し合わせ」はいつ行われたものなのか②そもそも「申し合わせ」が初出なのかという2つの議論を行いたい。
 具体的には前者について、田中(2005)や小林(2011)においては明らかにされていない「申し合わせ」の正確な時期を検討する。後者については1975年11月の段階で全国青い芝の会が健全者組織を青い芝の会の「手足になりきる」存在としてみなしていた可能性があることを指摘する。

2. 分析の手法
 本報告は「青い芝の会」神奈川県連合会機関紙『あゆみ』および日本脳性マヒ者協会全国「青い芝の会」の機関紙『青い芝』の2つを分析の対象としている。報告者はそれぞれの機関紙の1974年から1978年発行分までを網羅的に閲覧した。その上で健全者との関係性の議論において「手足」という語が用いられている記述を抽出した。さらに、その中から健全者手足論と見なし得るような言説、つまりは健全者を「手足」となりきる存在として捉える、あるいはなりきらせるべきだという主張のなされている文献を抽出し、分析した。
 手法上の限界として、本報告は機関紙だけを分析の対象としていることが挙げられる。それはすなわち機関紙がどれだけ当時の実態を表しているのかという問題である。機関紙に記されたことが常に現実の事象をそのままに反映しているとは限らないからである。無論、そのことは機関紙だけに限られるものではないが、社会運動の組織が発行する機関誌を対象とする分析においてはそのことには特に留意がなされる必要があると考える。なぜならば、機関紙は運動体としての意図を強く受けるものだからである。つまり、本稿が示すのはあくまでも機関紙における文献的な初出であって、それが直接に事実を示すものでないことはここで注意を払いたい。

3. 「申し合わせ」はいつ行われたのか
 健全者手足論が青い芝の会の公式的な見解として文献の中において初出するのは、神奈川青い芝が健全者組織「健全者支援組織行動委員会」と交わした「申し合わせ」が最初の可能性があると考えられてきた3(田中 2005; 小林 2011)。そこで、本報告ではまず「申し合わせ」について概観する。しかし、「申し合わせ」の内容そのものが記されたものは管見の限り見つからないために、断片的に概容が記述された矢田(1978b)を用いる4。

 全国「青い芝の会」第二回大会から第三回大会まで激しく、荒らあらしく、若々しく「街」との出会いを展開している。「青い芝」神奈川県連合会が第三回全国大会に参加した十八名中、十名が長く在宅され、長く施設の内にいる人々であった。その行動に支援した健全者も十名である。健全者支援組織行動委員会と「青い芝の会」神奈川県連合会との協議の中に、すべての健全者は障害者を抑圧し、「差別する根源者であると確認しあい、会の行動にあたっては介護の手足に徹する」と申し合わせていた。それは「青い芝」神奈川県連合会、行動綱領に合致されている。矢田(1978b:31)

 だが行動委員会と「青い芝」との約束、「手足に徹する」は自我を殺す結果も意味する。矢田(1978b:31)

 ここでは健全者支援組織行動委員会5が青い芝の会の介護の手足に徹することが申し合わされたとされている。この記述ゆえに「申し合わせ」が手足論の初出である可能性が高いと考えられている。では、この「申し合わせ」はいつ行われたのであろうか。先行研究においては、その前後関係から「1977年4月から1978年4月」のどこかの時点であると指摘されている(小林 2011)。この矢田(1978a)が掲載された神奈川青い芝の機関紙『あゆみNo.42』の発行日(1978年4月)より前、神奈川連合会の「第15回総会」(1977年4月)より後ということになるため(小林 2011)である。ここまで確認したように先行研究においては、「申し合わせ」の時期についておおまかに時期が絞られているのみであると言える。
 しかし、より詳細に時期を絞り得る文献として、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978b)がある。

 事務所の開設には過去七年間の願望があった。[中略]事務所開設と同時に健全者組織もたん生し、「青い芝」の手足となり、在宅及び施設にいる会員が積極的に会活動に参加できるようになってきた。焼却炉裁判、バス斗争、県交渉、レクリエーション、カンパ活動、在宅訪問活動と可能な限りの協力であった。あえて協力というのは組織がたん生した時「青い芝」との約束、申し合わせがある。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978b:4)

 「組織がたん生した時6『青い芝』との約束、申し合わせがある」という記述から、健全者組織のたん生と「申し合わせ」は同時期と考えるのが妥当である。また、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978b:4)には「事務所開設と同時に健全者組織も誕生し」との記述もある。したがって、「健全者組織のたん生」、「申し合わせ」と「事務所開設」はほぼ同時と見なし得る。
 では、事務所開設はいつであろうか。事務所開設の正確な時期が記された記述は神奈川青い芝機関紙『あゆみ』中の記述としては管見の限り存在していないものの、それに類する記述として矢田竜司(1978a)がある。
 矢田竜司(1978a)には「事務所が開設して七ヵ月になりますが、やっと地域とのかかわりも芽生え[後略]」と記述がある。矢田竜司(1978a)が掲載された『あゆみ』第41号の発行日は1978年の1月15日である。矢田がこの発行日を前提にして書いたのだとすれば、1978年1月の7か月前に事務所が開設されたことになる。したがって、事務所開設は1977年の7月頃である可能性が高い。少なくとも、1977年の7月に近い時期であることは確かであろう。
 加えて傍証として、矢田(1978b:30-31)には「昨年15回総会を機会に、事務所の開設と支援者組織、行動委員会の誕生を軸に」との記述がある。この「機会に」という言葉を「同時期に」という意味で受け取る場合には、神奈川青い芝の第15回総会が行われた1977年4月7頃に事務所が開設され、それと同時期に健全者組織「健全者支援組織行動委員会」が結成、それと同時に「申し合わせ」が神奈川青い芝と行動委員会の間で交わされたと考えることができる。第15回総会が1977年の4月で、事務所の開設が7月、それと同時に行動委員会の誕生という流れであるならば「機会に」という表現を使うのは妥当である。先の主張を関節的に裏付けるものであると言える。
 これらより「申し合わせ」の時期は1977年の7月であるとほぼ確定することができる8。少なくとも1977年10月17日の「緊急あぴいる」9よりも数か月前である可能性は高い10。
 仮に「緊急あぴいる」よりも「申し合わせ」が先行するのであれば、関西における障害者運動と健全者運動との混乱の表面化が青い芝の会をして「健全者手足論」を主張せしめたとする先行研究における整理との矛盾が生ずる可能性がある。

4. 第2回全国代表者大会から
 ここでは1975年11月24日に行われた全国青い芝の会「第2回全国代表者大会」において、健全者手足論と見なし得る主張あるいは表現が既に提出されていたことを指摘する。この指摘は先行研究では管見の限り未だなされていないものである。該当する記述を日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(1976)から引用する。

 しかしながら「青い芝の会」の運動はこれからもますます発展させ、深化させていかねばなりません。特に歩けないような人達、あるいは身の回りのことが自分でできない人達を「青い芝の会」の運動の中にどんどん参加させていく、いやむしろこのような人たちが中心になって社会を変えていくような体制を作っていかなければなりません。それには私達の手となり、足となりきって活動していく「健全者」の人達がどうしても必要になってきました。[中略]
「青い芝の会」が全国組織として発展した今日、新しい障害者対「健全者」の関係を社会にさし示すことによって一般「健全者」のもつ障害者観を打ち砕くためにも「青い芝の会」の主導の下に「健全者組織」を作り、育てていかなければなりません。日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(1976:14)11

 この文章は日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」機関紙『青い芝No.98』に掲載された「第二回全国代表者大会採択議案」と題された文である。つまり、全国青い芝の会の「全国代表者大会」の議案として採択された文章の一部である。
 したがって、全国青い芝の会の公式な見解の表明という側面が強い。この文献から読み取り得るのは、1975年11月24日の時点において、全国青い芝の会が「手となり、足となりきって活動していく」ものとして健全者組織を捉えていたということである。少なくともこの記述からはそのように読み取るのが妥当である。
 このように考える場合、関西における運動の混乱期において12「主体性が失われると危惧した全国青い芝が」健全者手足論を提起したとする小林(2011)の説明との齟齬が生じる可能性がある。
 ただし、先の引用部に続く記述には次のようにある。

 しかも、この人達13と私達『青い芝の会』の関係は「やってやる」「理解していただく」というような今まであった障害者と「健全者」の関係ではなく、むしろ敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中において障害者対「健全者」の新しい関係を求めてお互いの内部においても葛藤し続けるというものでなければなりません。このような状況を作り、それに耐え、さらに発展させていくにはたとえ「健全者」といえども(「健全者」だからこそ)前にも触れたごとく個人では限界があり、時にはせりあい、時には支えあって自己変革をしていく「健全者組織」が必要です。日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(1976:14-15)

 本報告の主題はあくまでも「初出」についてさらなる検討を加えることであって、そこで主張されたことの意味や内容について議論することではない。しかし、重要点であるため部分的に検討を加えたい。少なくとも引用部からは「手となり足となりきる」存在として健全者組織を位置付ける一方において、互いに自己変革をする存在として認識していることが指摘できる。
 混乱期における健全者手足論言説の典型的な主張であると考えられるのが横塚(1978)である。横塚(1978)は「健全者集団に対する見解(以降、見解と呼ぶ)」と題された文章であり、「青い芝の会と健全者集団は相互不干渉的なものではなく、健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべきです」とする記述がある。小林(2011)は横塚が相互変革ではなく「健全者の変革に向けて」と、変革の対象を限定している点を指摘している。
 このことを踏まえれば、1975年の時点においては明確に障害者と健全者が相互に変革を目指すことが含意されていたのに対して、1978年時点の横塚(1978)においては健全者の側に変革の必要性が求められているというように読み取り得る。このような観点から、1975年11月時点における意味付けと混乱期におけるそれは質的に異なっている可能性が高いと言える。
 つまり、1975年11月の時点においては確かに「手となり足となりきる」存在として健全者組織を捉えていたが、それは表現上のものに過ぎず、混乱期に主張された言説とは質的に異なる可能性が高いということである14。
 ただし、質的に異なるとしても、それは1975年11月の時点において、少なくとも表現としては準備されていたものであることも確かであろう。こうした意味内容そのものの分析は、本報告の趣旨から外れるために、ここまでに留めるが今後さらなる検討を要する部分であると考える。

5. 結論
 本報告では既存の先行研究を踏まえ「申し合わせ」の時期の絞り込み、「申し合わせ」が初出ではない可能性の2つを検討した。結論として、青い芝の会は混乱期よりも前の時期から「(手足に)なりきる」存在として健全者組織を捉えていた可能性が高いと言える。
 ただし、ここで主として検討したのは単に表現として「(手足に)なりきる」がどの時点において行われだしたのかという点である。つまり、そうした表現がどのような文脈の内に使われているのかをはじめから捨象している。
 したがって、「(手足に)なりきる」という表現の初出が、混乱期よりも前に、より具体的には197年10月17日の「緊急あぴいる」以前にある可能性が高いとしても、それをそのまま健全者手足論そのものの初出として考えることはできないはずである。
 表現として「手足になりきる」というような文言を使っていることと、健全者(組織)を青い芝の会の「手足」に徹しさせなければならないという強い主張がなされたということには、質的な差異があるからである。
 また、石島(2018)の指摘するように青い芝の会において「手足」という語用の意味は会の内部において変化し続けていた。健全者手足論が混乱期になって提起されたのだとしても、混乱期以前になんらかの形で健全者手足論の萌芽が用意されていた可能性が高い。
 このような視点に立った時、本報告は小林(2011)や石島(2018)の議論を否定するものではなく、むしろそれらを補完するものとして位置付け得る。小林(2011)や石島(2018)が指摘する通り、混乱期において青い芝の会における「手足」の語の意味付けは大きく変容した。そのことは事実であろう。
 しかし、本報告で確認したように「手足になりきる」というような語用そのものは少なくとも1975年11月の時点でなされていた可能性が高い。1977年7月に行われたものである可能性が高い「申し合わせ」を初出とする場合でも、やはり「緊急あぴいる」より数か月早いということになる。
 つまり、混乱期に入って「手足になりきらせる」というような語用や表現が生じたといいうよりも、その意味付けの側が混乱期に大きく変容したと考えるのが妥当ではないだろうか。表現として「手足になりきる」あるいは「手足に徹する」が混乱期以前に先行して存在しており、混乱期においてそれが後付け的に意味が変化したという理解である。このような理解は小林(2011)および石島(2018)をそれぞれ補完するものであり、その可能性を示し得たのが本報告の意義である。

文献リスト
石島健太郎(2018) 介助者を手足とみなすとはいかなることか: 70 年代青い芝の会におけ
る「手足」の意味の逆転. 障害者研究, 13, 169-194.
小林敏昭(2011) 可能性としての青い芝運動ーー『青い芝=健全者手足論』批判をてがか
りに. 人権教育研究, 19, 21-33. URL: http://www.hiho.ne.jp/soyokaze/hanazono201103.htm (閲覧日:2020 年 10 月 1 日)
田中耕一郎(2005) 障害者運動と価値形成―日英の比較から. 現代書館.
天畠大輔(2020)「発話困難な重度身体障がい者」 における介護思想の検討―兵庫青い芝の会会 長澤田隆司に焦点をあてて―. 社会福祉学, 60(4), 28-41.
日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978a) 第十五回「青い芝」神奈川県連合 会総会議事録. あゆみ, 42, 3-25, 日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会.
日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978b) 七七年度 経過報告. あゆみ, 43, 2- 6, 日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会.
日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(1976) 第二回全国代表者大会採択議案, 青い芝, 98, 2- 23, 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」.
矢田竜司(1978a) 今日のいのちを明日にむけて. あゆみ, 41, 1-2, 日本脳性マヒ者協会「青い芝 の会」神奈川県連合会.
矢田竜司(1978b) 組織矛盾について. あゆみ, 42, 30-33, 日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神 奈川県連合会.
山下幸子(2008) 健常であることを見つめる 一九七〇年代障害当事者/健全者運動から.
金剛出版.
横塚晃一(1978) 健全者集団に対する見解 . 青い芝 , 104, 3 4, 日本脳性マヒ者協会全国青
い芝の会総連合会


1 ただし、石島(2018)が述べる通り健全者手足論が介助や生活の議論を含まないとしてしまうことにも問題はあるが、本報告の趣旨と照らしその点は議論を留保する。本報告では「健全者手足論」という呼称を用いるが、それは便宜上の名づけに過ぎず、あくまでも青い芝の会において主張された言説の一部を取り出し、それを分析するために用いる。
2 ただしここで確認しなくてはならないのは田中(2005)が介助関係を既定するための言説として「手足論」を捉えている部分が大きいことである。今日用いられている意味での、つまりは「介助者手足論」の始まりを青い芝の会に、特に「申し合わせ」に求めている。
3 田中(2005:133-134)は明確に「申し合わせに端を発するものである」と述べている。
4 先行研究においても「申し合わせ」における議論で参照されるのは矢田(1978b)である。
5 健全者支援組織行動委員会がどのような組織であったのかが整理された先行研究は管見の限り存在しない。神奈川青い芝の会の機関紙にも断片的にしか記述がなされていない。神奈川青い芝が第15回総会の後に作った健全者の組織であったことは確認できる。
6 原文ママ。助詞が欠落している可能性が高い。ここでは「たん生した時の」と助詞を補い読解している。
7 第15回総会は1977年4月3日に行われた。
8 ただし、6月あるいは8月である可能性もある。
9 山下(2008)は関西における青い芝運動・健全者運動の混乱の契機を「緊急あぴいる」に求める。「緊急あぴいる」は1977年10月17日に関西青い芝代表の鎌谷正代、関西グループゴリラ代表三矢博司、リボン社理事河野秀忠の連名によって発表された文章である(山下 2008:51)。
10 ただし本報告は「緊急あぴいる」の後である可能性を完全に排するものではない。
11 この日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(1976)が掲載された『青い芝 No.98』は1976年6月20日に発刊されている。その前号にあたるNo.97が発刊されたのが、1975年9月15日であるから第2回全国代表者大会が行われた後の最新刊という位置づけである。
12 「緊急あぴいる」を一つの区切りと考えれば、1977年10月以降が混乱期ということになる。小林(2011)ではその区分の明確な定義が為されていないが、1975年11月が混乱期に含まれていないことは文脈からして明確である。
13 「この人達」は文章の前後関係から考え、「私達の手となり、足となりきって活動していく『健全者』の人達」を指示しているものと考えられる。
14 この点は小林(2011)においても一部議論がなされている。


■質疑応答
※報告掲載次第、9月25日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は2021jsds@gmail.comまでメールしてください。

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を記載してください。

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