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コロナ禍におけるALSの人の地域移行

Yoo Jinkyung(ユ・ジンギョン)立命館大学先端総合学術研究科大学院生)
長谷川唯(はせがわゆい)(立命館大学生存学センター客員研究員)
キム・グァンジン(同志社大学社会福祉学科)


◇問題の所在――外部とのやりとりが閉ざされた状況での地域移行
 本報告は、コロナウィルス状況下で入院中の面会が制限されている中での地域移行について、どのようなことが生じているのかを明らかにすることである。現在、コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、病院での面会が禁止、制限されている。面会禁止の状況においては、外部とのやりとりが閉ざされてしまうため、地域移行それ自体が難しい。本報告では、コロナ禍における地域移行の可能性を開くためにも、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人の地域移行について明らかにする。
 なお、当事者及び関係者には目的・方法・倫理的配慮について口頭で説明を行い、事例の使用について了承を得ている。

◇ALSである60代のAについて
 Aは、60代のALSの男性である。2017年8月にALSと診断され、2018年5月に気管切開をして人工呼吸器を装着した。Aは2015年から体に異変を感じていたが、その原因がわかるまでには時間がかかり、しかし診断されてから症状が進行するのには時間がかからなかった。
 Aは、2015年春に体の違和感を覚えた。そのときは、腹部の筋肉が固まり、腰の筋肉にも違和感があったため、整骨院に行った。しかしそこでは対処的な治療のみであった。2016年には病状も重くなってきたため、病院で診察を受けた。そこでも原因はわからなかった。仕事は続けていたものの、2017年に体調が悪化し整形外科を受診した。そこで神経内科を紹介してもらい、診察を受けたところ、検査入院が必要と言われた。そして2017年8月に検査入院をする。そこでALSと診断されて、そのまま2018年3月まで入院することになった。2018年4月には、セカンドオピニオンを求めて別の病院に2か月入院をするが、同室のALSの患者の病状進行を目の当たりにして怖くなり、退院して自宅に戻った。その1週間後に、自宅で呼吸困難となり、気管切開と胃瘻造設の手術を受ける。その後、リハビリや専門的な治療が受けられる病院で生活したいと思い、2018年9月からA病院に転院して長期の入院生活を開始した。

◇Aと私たちとの出会い
 AはA病院で2018年から入院している。AがA病院で長期の入院生活を開始したのは、家族が自宅を仕事場として使用して働いており、家族に頼ることができる状況ではなかったからである。それでもコロナの状況になる前は、家族が頻繁にAに面会し外出もしていた。ところが、コロナ禍で面会禁止になってしまい、家族とも1年以上会えない状況が続いた。家族とはSNSを通じたやりとりが続いていたが、面会も外出もできない病院での生活に強い寂しさと不安を感じていた。家族もAに直接会って様子を知ることもできないことに、不安と焦りを感じていた。Aは家族に、病院での生活がとても寂しく自由な生活がしたいと訴えていた。家族も今よりも自由な生活をAにさせたいと考えていた。
 しかし、自宅を仕事場として使用して働いているため、一緒に生活することは難しい。家族は自宅で暮らせるように様々な機関に相談をしたが、家族がケアを担う以外の方法を見つけることができなかった。そこで、家族はALSのケアに特化した施設などを探し始めた。本人と家族は、ALS協会の総会にも参加して相談した。そこでは、重度訪問介護を利用した生活を提案はされたものの、暮らしている地域にはその事業所や担い手がいないため自分たちで見つけるしかなく、それには時間がかかることを伝えられ途方に暮れるしかなかった。
 私たちとの出会いは、家族がALSのケアに特化した施設を探すなかで、施設の関係者が私たちの紹介をしたことからだった。私たちはALSの人の研究を通してALSの人たちの地域生活の支援に取り組んでおり、ALSの人の介助の経験もある。Aの家族から相談を受けて、まず自宅やその近辺で暮らせる方法を調べた。具体的には、地域に自立生活センターがあるかどうか、重度訪問介護の事業所があるかどうかを調べた。自立生活センターも重度訪問介護の事業所もあるにはあったが、Aが暮らす地域からは離れていた。そのため、地域の障害者団体からの支援を受けることも難しく、重度訪問介護を利用することも難しい状況だった。家族が自宅で仕事をしていても、重度訪問介護を利用すれば、家族に頼らずに地域生活をすることは十分に可能である。実際にそうして暮らしている人もいる。けれども、実際に重度訪問介護の時間数を確保したとしても、重度訪問介護の事業所や担い手が少ないことから、家族に介護の担い手としての期待は大きく、非常に強い負担となってのしかかっているのも事実である。Aの暮らしている地域でも、重度訪問介護の事業所や担い手がいないことを理由に利用が認められず、Aは療養介護を利用して病院で長期の入院生活を送るしかなかった。
 入院生活が長期になればなるほど、Aの地域生活への希望は強くなっていった。コロナ禍で面会も外出もできない生活が続くと、一刻も早く病院から出て地域で生活したい気持ちが強められ、家族もその本人の気持ちに何とかして応えたいと焦りを感じるほどだった。一方で、私たちは住み慣れた地域で生活をする方法を探ったものの見つけることができずにいた。しかし、私たちはALSの人たちは家族に頼らずに地域生活できることを知っているし、実際にそうして暮らしているALSの人たちのことも知っている。そこで、家族にそのこと――私たちが暮らしている地域では介助者に支えられながら一人暮らしをしているALSの人たちがいること――を伝えると、その可能性にチャレンジしてみたいと返事があった。そうして、住み慣れた地域から私たちが暮らしている地域に引っ越しをして、家族と離れて、一人暮らしすることになった。住み慣れた地域の病院から別の地域に地域移行することになったのである。

◇本人不在の地域移行の準備
 地域移行に対する本人の意思――一刻も早く病院から出て地域で生活したい気持ち――が強かったため、私たちは家族とその準備にとりかかった。Aと家族からは地域生活に対する希望だけは強く示されたが、ALSになってからほとんど自宅で生活したことがないため、具体的な地域生活のイメージが持てないでいた。本人は病院にいるため、私たちと家族が連絡を取り合いながら、住まい探しや具体的な計画などを考えて地域移行の準備を進めることになった。
 しかし、相談や住まい探しのために、家族が自宅から私たちの地域に来ることは簡単ではなかった。平日は仕事をしているため週末しか時間をとることができず、移動距離を考えると長時間の滞在は難しい。こちらまで通う費用もかかる。さらに、コロナ禍では、ただでさえ外出することに自粛が求められている中で――不要不急ではない外出であっても――Aの家族は地域から冷ややか視線を向けられながら、こちらに来なければならなかった。Aの住む地域では、まだまだ家族介護の規範が根強く、地域からAの介護をしていないことを否定的に捉えられていた。だから、家族は肩身の狭い思いをしながら隠れてこちらに来るしかなく、頻繁に通うことはできなかった。
 先に述べたように、Aと家族はALSになってからほとんど地域で暮らしたことがなく、地域生活についてまったく知らなかった。私たちは、地域移行の流れや地域生活に必要なことについて具体的な説明を繰り返し、まずは本人と家族に地域生活のイメージを持ってもらうことに努めた。
 Aは人工呼吸器を装着しているため痰の吸引や胃ろうなどの医療的ケアが必要である。これから地域で一人暮らしをするAの医療的ケアは、介助者が担うことになる。さらに、A自身も人工呼吸器を着けてからの地域生活は初めてであり、介助者もAのケアをしたことがない。そのため、A病院から地域への直ぐの地域移行はできない。そこで、私たちは、A病院からこちらの地域のB病院に転院してから地域移行をすることを提案した。B病院に入院中に、介助体制の構築やケアなどの準備を進めていくことを考えての提案だった。私たちが地域移行に向けて準備することは、住まい探し、転居の準備、重度訪問介護や介護保険などの制度の手続き、主治医やケアマネジャーを探すこと、介助者の募集、医療的ケアや重度訪問介護の研修などであった。

◇具体的な地域生活のイメージが持てない
 実際に私たちが提案した流れで進めていくことになったが、B病院の入院期間はあらかじめ1か月という想定で動かなければならなかった。それは、ひとつには入院期間を決めない入院を受け入れる病院がないこと、もうひとつは本人と家族がとにかく一刻も早く病院から出たいという強い気持ちがあった。そもそもコロナの状況では転院先の病院が見つかるかどうかもわからなかった。そのことを考えれば、転院してから住まいを探して住居を確定することはできなかった。
 そこでまず、主治医を決めることと、住まい探しに取りかかった。私たちは、ALSに詳しく経験豊富な神経内科の専門医を紹介した。それができたのは、私たちのこれまでの活動によって、ゆるやかなネットワークができているからである。Aと家族との相談のうえで、その知り合いの専門医が主治医になることに決まった。主治医が転院先のB病院を紹介した。
 同時に、住まい探しに取りかかった。しかし、Aと家族がALSの人が地域でどのように生活しているのか想像できていない状態では、住まいを探すことも難しい。そこで、実際に地域生活しているALSの当事者のMに協力してもらい、実際の生活の様子や住まいの環境を見てもらうことにした。家族をMの家に招待して、本人や家族と直接会って話す機会を作った。そのとき、AとはSNSを通じたビデオ通話やチャットでつなぎ、地域生活をしているMと約2時間の交流の機会を作り出した。Mとその家族は、住まい環境だけでなく必要な物品や光熱費なども含んだ生活費の詳細をAと家族に教えたが、それでもAとその家族は具体的なイメージを持つことが難しいようだった。
 住まい探しはAと家族がこちらの地域の地理に詳しくないため、私たちが交通のアクセスがよく介助者が通いやすい、日用品の買い出しなどが便利な場所をいくつか探した。私たちは、Aの介助には、大学生を中心に介助者を募集することを考えていた。実際に地域生活をしているALSの人たちが大学生を介助者として育てながら生活をしていることや、介助を通じた学生との生活が様々な地域生活の可能性を開くことを知っていたからである。だから、大学の近くや大学生がアクセスしやすい場所も、住まい探しの重要な要件であった。また、知り合いのALSの人たちが住んでいる区域ということも条件に入れていた。それは、担当の区役所がALSの人たちの暮らしへの理解があるだろうという期待や、重度訪問介護の時間数などの交渉を視野に入れてのことだった。
 実際に住まい探しをする上では、上記の条件のほかに、家賃や車いすが可能かどうかも重要だった。そうした家賃を含めた住まい探しの要件をAと家族に確認をして把握する必要があった。それに加えてAからは、入浴がしたいという希望や自然があるところがよいという希望が聞かれた。Aと家族によれば、病院ではシャワー浴しかできずに、浴槽につかることが夢のひとつであるとのことだった。Aの入浴の希望は訪問入浴によって叶えることが十分に可能である。そのためにも、10畳以上の部屋が必要であった。

◇難航する住まい探し
 いくつかの不動産会社に連絡し、いろいろな物件を紹介してもらった。私たちを含めて、Aの家族(妻と娘)、これから支援してくれる介護事業所の人たちが一緒に物件を見学した。地域生活のイメージやバリアフリーなどを含めて生活環境を十分に把握できていない家族のために、ALSの当事者のMとその家族にも物件の見学に同行した。MはAと同様の状態――人工呼吸器を着けて生活のほとんどの場面で介助を要する身体――であるため、Aの代わりになって段差の確認や車いすの動線の確認などを行なった。病院から外出できないAには、不動産会社からの物件資料を送り、SNSや写真を通じて住まい環境を確認するしかなかった。
 住まい探しは難航した。不動産会社から紹介された物件がもともと限られているうえに、Aの要件――車いすの大きさに合わせた玄関の幅や段差、部屋の動線の確保や介助者のスペース――に合う物件は1つか2つしかなかった。さらに、その条件に合う物件に申し込んだが、審査で大家の許可が下りずに断られてしまった。
 ここで、注意しなければならないのは、実際に条件が合っても、大家の理解が得られなければ住まいを決まられないということだ。今回Aが断られたのは、ALSで一人暮らしすることに理解が得られなかったからである。家賃を継続して支払うことができるのか、災害時のときはどうするのか、コミュニケーションができないのは困る、そういった不安が大家にあったために審査が通らなかったとのことだった。不動産会社を通じて――不動産会社も理解を示して一生懸命に――常に介助者がついているから大丈夫であることを伝えても、大家の理解を得ることはできなかった。そもそも大家自身がALSという病気やALSの人たちがいることも知らなかった。
 そうした住まい探しにおける大家の理解は、家賃体制によっても影響を受ける。たとえば、生活保護受給者の場合には住宅扶助がある。障害がある人たちの住まい探しは、そうした扶助の有無にかかわらず物件は限られてくるものの、住宅扶助を受け入れている大家の場合には比較的理解が得やすい。その反対に、生活保護を利用しない「一般の」住まい探しの場合には、要件によって物件が限られてくることは同じでも、住宅扶助を受け入れている大家と比べて障害に対する理解が乏しい。本来は、障害のある/なしにかかわらずどこで誰と住むかは本人の自由であるから、そうした大家の障害に対する理解によって影響を受けること自体が差別であることは言うまでもない。
 結局、Aは、家賃の予算を上げて、また地域の範囲を広げて、再び物件を探さなければならなくなった。生活保護を利用しないAは、家賃の予算を上げることでしか要件に合う物件を探すことができなかった。家賃もだが経済的負担を考えれば、主治医の診療所の近くであることも要件の一つであった。なぜなら、住まいと診療所までの距離があると、福祉タクシーの料金がかかってしまうからだ。人工呼吸器を着けているAの地域生活は、介助者による24時間の見守りによる介助体制が必要である。だが、Aの地域移行の準備にかけられる時間は実質的には1か月もなく、その間に24時間の介助体制を構築できるかが当初から不安があった。そのため、24時間の介助体制を用意できなかった場合には、時間を埋めるためにデイケアに通うことも想定をしていた。もともと物件自体が限られている中での経済的負担を考えながらの住まい探しは、家賃や範囲などの条件を広げたとしても、難しいことに変わりはなかった。

◇退院をせまるA病院
 住まい探しが難航している一方で、Aの地域生活への期待は高まる一方だった。住まいの目途が立たなければ地域移行は具体的に進めることはできない。ところが一刻も早く病院から出たいAにとっては、地域移行をすることがすなわちA病院の退院になってしまっていた。Aは、地域移行をすることが決まり住まい探しを始めたと同時くらいに、A病院に退院すると伝えた。A病院はAと家族の意思――地域移行をすること――を確認したうえで、待機者がいるから早く退院してほしいと退院日の確認を始めた。まだ住まいが見つからずB病院への転院の見通しも立たない状況でのA病院の態度は、Aと家族に退院を迫るものでしかなかった。それでも一刻も早く病院から出たいAと退院をせかすA病院とは利害が一致していた。Aはそうした病院の態度を理由に、「もう待てない」と家族に退院を迫った。そうして家族は、A病院からもAからも、退院を迫られることになった。私たちは、家族から具体的な流れ――転院や地域生活を開始する具体的な日程――を教えてほしいと繰り返し説明を求められたが、住まいの目途が立たないことにはB病院の転院の見通しも立たないから、具体的な退院日を示すことができずにいた。そうして家族は、退院をせかすAとA病院と住まいの目途が立たないと説明する私たちの間に立たされることになった。
 私たちは、住まいが決まらなければ区役所に重度訪問介護など地域生活に必要な制度の手続きが開始できないため住まいの目途を立てて居住区を決める必要があること、その見通しが立たなければ転院することができないことを、Aと家族に繰り返し説明した。このことは、家族には最初に説明をして伝えていたしAにも家族を通じて伝えていた。しかし、地域移行も地域生活の経験もなく具体的なイメージが持てない状況では、いくらAと家族に説明を繰り返しても、現状の把握をするのにも理解するにも簡単ではないことに気付かされていった。同時に、Aが退院することだけに執着しているようにも感じられた。そこで、Aに対して、住まいを決めることは必要だが、重要なことは実際の地域生活ではあらゆる場面でAが判断して決めなければならないことを伝え、これからどういう生活をしたいかを考えてほしいと伝えた。
 住まい探しが進まないところに、家族からホスピスへの入所を進めたいから、住まい探しを中止してほしいと連絡があった。話を聞けば、離れて暮らす長男の海外赴任が決まったから、少しでも早く家族と過ごす時間を作りたいとのことだった。コロナの状況での海外赴任は簡単に海外と日本を行き来することもできないだろうということ、医者からALSの余命が3年から4年だと聞いていることから、面会が自由に許されているホスピスの入所を検討しているという。家族が受けたホスピスの説明では、いつでも入所/退所が可能であり、個室だから面会にも制限がないとのことだった。家族から私たちには、一度ホスピスに入所し、そこで家族とこれからのことをゆっくり話し合ってから地域移行を進めたいと伝えられた。A病院では2年近く面会ができていないことに不安と焦りを感じていた家族は、具体的な地域生活の日程が示されないまま過ごすことが、家族の絆や本人の精神状態が維持できないと判断したようだった。

◇「地域移行」への揺らぎ
 私たちは、家族から伝えられた考えがAも同じなのかどうか、疑問を抱いた。そもそも、ホスピスがそういう場所であるのかいつでも退所が可能なのか、ということも疑問だった。家族はホスピスに見学に行き「大変気に入った」とのことだった。費用も17万円から18万円で、地域で一人暮らしするぐらいで済むと説明を受けたようだった。しかし、常時介助者がそばで見守る体制は絶対に不可能であることは自明であり、そうした体制を実現しようとすれば結局は自己負担になることは容易に考えられた。それはAにとってはA病院の生活とそんなには変わらないはずだ。そしてそれは、私たちが知っている地域生活とは真逆である。ホスピスの入所の話は家族もAと話をして進めていたようだが、ホスピスとは死に向かう前に利用する施設で、現在Aが目指す生活とは相違することを家族に改めて伝えた。
 そして、Aに個別にメールをして、Aの考えを聞いた。Aは、家族の考えに戸惑いながらも、京都での一人暮らしを希望した。Aの希望は、家族も含めて、私たち全員で確認された。私たちが、Aに個別に意思を確認したのは、このときが初めてだった。それまでは家族を通して、またSNSやメールでもAと家族と同時に意思を確認していた。誤解をおそれずにいえば、地域移行という目的が共有されているからこそ、それぞれの立場が問われることなく進められていたからだ。ところが、Aと家族の意見が衝突したときに、私たちも含めてそれぞれの立場が問われることになった。私たちは、Aと家族それぞれに施設の意味合いや地域生活の在り様を説明し、地域移行の主体がAであることを明示することで、初めて立場性を示すことになった。ただしそれゆえに、家族は「今月中にA病院を退院させて頂けますか?住居の目安をつける?具体的にお知らせ下さい。契約迄をするのではなく、どういった事を私がするのでしょうか?→退院の連絡→退院カンファレンス→退院時の段取りの連絡→そういった事は誰がリーダーシップをとるのでしょうか?私が全てするのでしょうか?」と、自分の立場や役割に迷いや混乱が生じた。

◇コロナ禍における地域移行
 面会ができないことが、Aと家族に不安と焦りを生じさせていた。面会ができない状態での地域移行は、住まい探しも本人不在で進めるしかなかった。さらに、住み慣れない地域への地域移行は、準備や相談のための移動にも費用や時間を要した。住まい探しが難航し、地域移行それ自体に――たとえば転院日の見通しが立てられないなど――影響を与えた。地域移行の準備が順調に進まない中で、家族は退院をせかす本人と私たちの間に立たされることになり、共有されているはずの「地域移行」という目的にも揺らぎが生じた。その揺らぎは、本人と家族、家族と私たちの間にコンフリクトを生じさせることになった。
 地域移行は本人や家族の希望やそれが必要だと考えるだけでは実現しない。実際に実現するためには、様々な準備や関係機関との調整が必要になってくる。現状の仕組みでそれが実現可能なのは、家族も含めて周囲が本人の望みであるとみなすからこそである。言い換えれば、本人が望まなければ、実現されない。コロナの状況では、本人が地域移行を望んでいても、あらゆる場面で直接的に本人が参加できず、さらに面会が禁止されている状況では本人との直接的なやりとりやその方法が限られてしまう。地域移行も、それを本人の望みとしてみなすことが可能になるのも、関係性や周囲の働きかけと不可分である。コロナ禍で患者の社会的つながりが明らかに閉ざされている状況では、地域移行が実体を伴わずに口で言われるだけのものになってしまわないために、本人への働きかけや地域移行が実現可能になっていることが必要なはずである。


■質疑応答
※報告掲載次第、9月25日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は2021jsds@gmail.comまでメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。

〈2021.9.20 会員から〉
長瀬修(立命館大学)

 コロナ禍での重要なテーマについてのご報告、大変ありがとうございます。
 以下、うかがわせていただきます。

1.コロナ禍において京都での一人暮らしを希望するAに焦点を当てた本報告が取り上げている、必ずしも本人とのやりとりが十分できない状況における「関係性や周囲の働きかけ」が地域移行に果たす役割は程度の差こそあれ、コロナ禍以前にもあったかもしれないと思いましたが、いかがでしょうか。また、移行が実現した後において、「関係性や周囲の働けかけ」はどういった役割を持つのでしょうか。

2.「目的・方法・倫理的配慮について口頭で説明を行い、事例の使用について了承を得」た当事者及び関係者は全部で何人でしょうか。

〈2021.9.27 報告者から〉
長瀬様

1.コロナ禍において京都での一人暮らしを希望するAに焦点を当てた本報告が取り上げている、必ずしも本人とのやりとりが十分できない状況における「関係性や周囲の働きかけ」が地域移行に果たす役割は程度の差こそあれ、コロナ禍以前にもあったかもしれないと思いましたが、いかがでしょうか。また、移行が実現した後において、「関係性や周囲の働けかけ」はどういった役割を持つのでしょうか。

 たしかに、コロナ禍以前から本人も家族も地域生活への希望を持っていた。しかし、自宅が仕事場であること、家族が24時間の介助を担うことが難しいこと、さらにはリハビリや専門的な治療を受けられる環境が限られていたことから、A病院で長期の入院生活をするしかなかった。周囲が本人の地域生活への希望をニーズとして捉えていた――捉えることが可能だった――としても、家族の存在を前提にそのニーズを捉えている限りにおいては、周囲の働きかけそれ自体がなされない状況に置かれてしまう。事実、Aも家族も、自宅で暮らせるように様々な機関に相談をしたが、家族がケアを担う以外の方法を見つけることができなかった。本人も周囲も重度訪問介護を利用すれば自宅で生活ができることを知ってはいたが、それを担う事業所がいないために、ニーズを共有していてもその実現には至らなかった。そればかりか、本人も家族も地域移行の可能性が示されないことから、自然にその選択肢がなくなっていた。Aが長期入院していた病院は、Aのような自宅では生活が難しい人たちを受け入れる場所として存在しているため、地域移行への働きかけがニーズとして公式化されていない。そのため、コロナ禍で外部とのコミュニケーションが絶たれてしまった状況では、「関係性や周囲の働きかけ」自体が不可能である。
 移行後において「関係性や周囲の働きかけ」が持つ意味は、ひとつには「関係性や周囲の働きかけ」が十分に意味があるという捉え方が、そこに関わる多くの医療専門職を含む支援者が本人のニーズとして共有するものとなることである。たとえば、Aの地域移行は、長期入院していた病院やB病院、かかわる在宅の主治医などが、一定のニーズとして捉えたからこそ実現した。コロナ禍におけるAの地域移行は、それをAのニーズとして共有することで、感染拡大の防止の観点から停滞している地域移行を切り開いた。少なくとも、こうしたニーズの在り方が観点を変えていくこともあり、地域移行の可能性を拡大していくこともあると言える。
 もうひとつは、本人と周囲とが相互に主体性を持った関係を作り出すことを可能にすることである。周囲にニーズとして理解させていくために、関わる多くの医療専門職を含む支援者にただ主張するのではなく、ある程度共有させる必要がある。そういう意味で言えば、本人自身もまた主体性を示せなければ共有できるような協働の関係が構築されない。「関係性や周囲の働きかけ」は、本人と周囲とがそれぞれ相互に主体性を保持していくために必要なものであり、そうした役割を担う。

2.「目的・方法・倫理的配慮について口頭で説明を行い、事例の使用について了承を得」た当事者及び関係者は全部で何人でしょうか。

 本人と家族、支援者の合計6人である。


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