30年前に戻って

田中恵美子 2022年3月14日

 障害学会国際委員会が発足し、理事として委員にさせていただいた。最初のエッセイを書くこの時期に、突然ウクライナに対するロシアの軍事侵攻が始まった。驚いている。戦争ってこんなに簡単に始まってしまうんだと思った。しかもNATOなんて、20世紀の枠組だと思ってきたのに、それが原因?
だが、そうではなかった。今回の戦争は冷戦後の30年間くすぶっていた、20世紀の枠組が再び姿を現したものだった。それに戦争は、私が気づこうとしていなかっただけで、いつも世界のどこかで起きていた。とはいえ、この緊迫した国際情勢の中で、今回の戦争について触れておくことが必要ではないかと思い、エッセイの内容は急遽変更した。

1. ウクライナに対する軍事攻撃の始まり
2022年2月24日未明、ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻が始まり、首都キエフで爆音が響いた。戦場の様子はテレビやインターネットを通じて即時私たちのもとにも伝えられ、現実のものとは思えないような映像が次々と映し出された。最初ロシア軍の標的となったのは、軍事施設といわれたが、すぐさま戦禍は主要都市に及び、早い時点から原子力発電所への攻撃が始められた。プーチン大統領は、大企業幹部との会合で、「ほかの選択肢はなかった」と述べ、軍事侵攻を正当化し、国際社会に核戦争をほのめかすような発言も行った。
映像に映し出されるのは、難民として国境を超えようとする人々の列、女性と子どもであり、また彼女らと別れを惜しむ男性の姿もあった。18歳から60歳の男性は国外出国が禁止されたからだ。国家の非常事態に男性は兵士として国を守ることを義務付けられたのだ。人口350万人という首都キエフには現在も200万を超える市民が残っているという。
難民の列の中に障害者は見られなかった。多くの障害者は逃げることができず、自宅にとどまっているのではないだろうか。あるいはもともと市内には生活しておらず、施設にいて、そこにとどまっているのだろう。3月10日にヨーロッパ障害フォーラム、インクルージョンヨーロッパ、欧州障害者サービス事業者協議会によって開催された記者会見の趣旨文によると、ウクライナには270万人の障害者がおり、知的障害者は26万1千人と推定される。そして多くの障害者が置き去りにされているという。

2. 「障害者はいかにつくられるか」
2022年3月4日、障害学会は「ウクライナへのロシア連邦による侵攻と障害者の保護と安全に関する障害学会理事会声明」を発表した。以下に紹介する。

ウクライナへのロシア連邦による侵攻は国際法に違反し絶対に容認できません。この侵略行為は障害者を含むウクライナ国民に対して、深刻な被害をもたらしています。私たちはロシア連邦にウクライナからの無条件即時撤退を強く求めます。
障害者権利条約に至る世界の人権の促進と擁護の取り組みは、戦争がもたらした惨害への深刻な反省から始まりました。そうした悲劇を繰り返してはなりません。障害者権利条約は「平和で安全な状況が、特に武力紛争及び外国による占領の期間中における障害者の十分な保護に不可欠である」という認識の下に、「危険な状況(武力紛争、人道上の緊急事態及び自然災害の発生を含む。)において障害者の保護及び安全を確保するための全ての必要な措置をとる」ことを締約国に求めています。当事国そして周辺国、人道的支援に取り組んでくださっている機関を含め、すべての関係者に対して、この障害者権利条約の規定の遵守を緊急に要請します。
私たちは日本の東日本大震災において、障害者の死亡率が住民全体の死亡率よりも2倍以上に高かったという痛切な経験を持っています。その経験にも基づいて、平和の即時的確保と、この緊急事態における障害者の保護と安全確保を要請します。

戦争によって障害者に多くの被害が及ぶことが想定される中、このような声明をいち早くまとめ、理事声明として提示いただいたことに感謝したい。また私からはやはり戦禍の中で障害者が生み出されていること、そしてそれはのちに後遺症としても生み出し続けられることを伝えておきたい。
「障害者はいかにつくられるか」が1981年にシンガポールで開催されたDPI(障害者インターナショナル)の第一回大会のテーマであったと私に教えてくれたのは、その大会に日本代表として参加した近藤秀夫氏だった(注)。近藤氏は日本からこのテーマにあった議題として何を持っていくか考え、ベトナム戦争の特集番組で描き出された枯葉剤の使用の様子の映像を持っていくことにした。当時、ベトナム戦争に関する映像は、日本であってもアメリカの統制下にあり、自由に報道することができなかった。しかしその中でいわば放送事故のように映像を流してしまった報道番組があった。その映像を近藤はテレビ局まで押しかけ、何とか入手し、なけなしの金で編集して5分だけ8ミリビデオに落として持っていった。空港の検閲で没収されたが、何とか現地のスタッフの努力で取り戻し、会場で上映したそうだ。
「その時、初めて僕はそのフィルムを見た。それはもうぞっとするような…。家の玄関から障害者が這って出てくる。枯葉剤で歩けなくなった障害者が、みんな這って出てくる。ケアする者が何もないから。その(5分の)フィルムは強烈なところをとってあった」(近藤氏のインタビューから)。
上映後アメリカの参加者から、映像がアメリカを中傷するものだというクレームが来たが、近藤氏は、「障害者はいかにつくられるか」というテーマは戦争とリンクしている。戦争を問うためにこのフィルムを持ってきたんだと説明したら、納得したと述べていた。
爆破されたウクライナの町や逃げ惑う人たちの様子をテレビで見ながら、私は近藤氏の言葉を思い出していた。障害者はつくられる。戦争によって。解説者が、プーチンが核について触れていることも怖いが、化学兵器について何も言わないことも不気味だと述べていた。ゲリラ的に化学兵器を使用する可能性もあるのだという。そうなったら近藤氏が見たおぞましい映像がまた現実のものとなるのだ。早く戦争を何とか止めなくては。

3. 市民の生活から
今回の出来事の起こりは1989年のベルリンの壁の崩壊、そして1991年のソビエト連邦の崩壊に端を発しているという。そのころのことを私はとてもよく覚えている。当時私はドイツ語を学ぶ学生であった。連日授業でドイツ語のニュースを聞き、映像をみて、また新聞を読んだ。そしてベルリンの壁が崩壊し、人々が歓喜の声を挙げている様子を目の当たりにした。つい9か月前までその壁を乗り越えて西に逃げようとした若者が射殺された、その場所で、人々は壁をハンマーで打ち壊していた。堂々と西に向かう人たちの姿が映し出され、こんな瞬間が、私が生きているうちにおこるのだと驚いたものだった。
1990年3月に私は初めてドイツを訪れた。その時、友人たちとベルリンを旅し、短い時間だったが旧東ドイツ側にも滞在した。確かまだ規制があったように思う。長い時間滞在しなかったという記憶がある。貧乏学生の貧乏旅行だ。食事はほんとに質素なものを食べながらの旅だった。東側に行ったとき、ちょうど夕方に駅の近くのお店でパンを買って、それを夜行列車の中で食べて夕食にしようと思って、確か1マルクで大きなパンを買ったと思う。とても安かったという記憶がある。だが、夜行列車で食べようと思ってもどうしても食べられなかった。空腹に耐えながらも、どうしてもそのパンを捨てるしかなかった。臭くて食べられなかったのである。腐っているのではない。小麦の質が悪すぎて臭くてどうしようもなかったのだ。それくらいひどい暮らしを東側の人たちはしてきたのだとその時実感した。そしてその生活を抜け出したいと思ったことも痛いほど分かった。壁一つ隔てた先にある生活とまるで違うのだ。
ウクライナがNATOに加盟したいというのは、あまりに無謀だと思った。ロシアと面したウクライナがNATOに加盟したいというのは、ロシアにとっては脅威だった。そこまでは理解できる。しかしウクライナの人々が自分たちの生活を変えたいという思い、西側の一員になりたいと思う気持ちは止められないだろう。ロシアの中でも声を上げる人たちがいる。かつてゴルバチョフは、「欧州共通の家」という構想を打ち出し、冷戦を終結へと向かわせた。西側に加担すると考えるのではなく、全ての人が自由と尊厳を持って生きられる社会にするという方向で考えていくことができないだろうか。プーチン大統領が指揮するこの戦争がどのような結末を迎えるのか、予測がつかない。最悪の結末になる前に、何とか市民の力を結集して、ロシアの内部から変革がおこってくれないだろうか。かつての東ドイツのように…多くの犠牲を出す前に。

追伸:このエッセーを書き終えた朝、ロシア国営テレビの生放送中に女性職員が反戦を訴えて「戦争をやめて」と書かれた紙をもってキャスターの後ろに映り、また「戦争をやめて」と叫んだという事実を知った。この女性は警察に拘束されているという。ロシア国民に立ち上がってほしいと思いつつ、彼女のような人が厳しい処罰を受けることを覚悟して動くことを扇動するような発言はできないと、心が重くなった。一体どうしたらこの惨事は終わるのだろう。

(注)近藤秀夫氏は1964年のパラリンピックに出場し、その後町田市役所勤務など、様々な経験があり、簡単には紹介ができない。季刊福祉労働166~170に連載。現在書籍化を行っている。

中国と”Nothing About Us Without Us” ――障害学国際セミナーへ

長瀬修 2022年1月20日

 ちょうど10年前になる。振り返れば、それは機会の窓が開いていた時期だったと言えるかもしれない。2012年だった。金子能宏さん(国立社会保障・人口問題研究所)から、中国人民大学で行われる障害者に関する国際会議で社会保障について報告してほしいと話があった。適任ではないと最初は辞退したが、有難いことに再度お誘いをいただき、結局は北京に足を運んだ。会議で驚いたのは、出席していた中国の障害者リーダーが圧倒的多数の研究者を前に”Nothing About Us Without Us"(私たち抜きで私たちのことを決めないで)を訴えていたことである。

(中国人民大学にて筆者と故金子能宏さん:右)

 私は、DPI(障害者インターナショナル)アジア太平洋ブロック議長を務められていた八代英太さんのスタッフをしていたことから1980年代後半から北京を訪問する機会があり、DPIのメンバーである中国障害者連合会(半官半民)との付き合いがあり友人もいる。しかし、熱気のこもった”Nothing About Us Without Us”を中国の障害者から耳にしたことはなかった。そのため人民大学で、骨形成不全やアルビノのリーダーが、障害者権利条約交渉時に何度も繰り返された、障害者自身の参加を強くアピールする言葉を口にするのを目にした時は非常に新鮮であり、衝撃だった。

 官制でない中国の障害者運動との出会いには心を動かされた。この2012年6月末の会議での出会いから中国通いが始まった。この会議以来3年で10回、足を運んだ。尖閣諸島をめぐる問題で日中間の関係が悪化したのは2012年の夏であり、8月には中国各地で激しい反日デモが行われ、それ以前から微妙だった日中関係は非常に緊張した時期だった。しかし、この間中国で不愉快な経験をすることはただの一度もなかった。逆に大歓迎された記憶がある。反日デモの翌年の2013年の8月に初めて武漢を訪問した時だった。市民社会や障害者組織が中心となった若手障害者の研修合宿だった。ボランティアをしていた何人もの若い女性や男性から一緒に写真に入ってほしいと頼まれたのである。これだけ「人気者」だったのは空前絶後である。武漢で同時に開かれた会議では、市民社会からインクルーシブ教育に関する武漢宣言が出されている。

(武漢の名所、黄鶴楼)

 

(武漢での会議場)

 こうした出会いから日中の障害学に関する交流が始まった。尖閣諸島をめぐる緊迫した雰囲気の中で、“Nothing About Us Without Us”を訴えていた中国のリーダーたちに日本に来てくれないかと打診したら躊躇なく即座に快諾をもらった。それが実現したのが年明けすぐの2013年1月である。東京大学経済学研究科の「社会的障害の社会理論・実証研究プロジェクト(REASE)」(松井彰彦代表)主催の公開研究会だった。同年11月にもやはりREASEが中心となって別の中国の障害者リーダーを日本に招聘し公開講座を開催した。その機会に立命館大生存学研究所(当時はセンター)が来日リーダーを京都に招き、研究会を開催した。2010年から毎年、日韓で交互に開催されていた障害学国際セミナー(Korea Japan Disability Studies Forum)があったので立岩真也さんと私は日中でもそうした新たな交流ができないかと京都で打診したが、政治的問題から難しいという返事だった。そこで、障害学国際セミナーを日韓から日韓中に拡大することとした。そして、2014年11月には、ソウルでの障害学国際セミナーに初めて中国グループが参加し、翌2015年には北京で障害学国際セミナーが初めて開催された。その時点で英文名称は現在の”East Asia Disability Studies Forum”へと変更した。そのため2016年から台湾グループが加わっても、英文の名称変更も必要なかった。

 その間、障害学会大会(2014年11月:沖縄国際大学、岩田直子大会長)のプレ企画として、「シンポジウム 東アジアの障害学のネットワークに向けて」が2014年10月に沖縄国際大学で実現している。障害者権利条約の中国の初回審査(2012年9月)に共にパラレルレポートを提出した、ワンプラスワン障害者文化開発センターとイネーブル障害学研究所の代表を招くことができた。堀正嗣学会会長が出席されたこと、沖縄自立生活センター・イルカ訪問、そして平和学習に取り組んでいる沖縄の高校生がひめゆりの塔に案内してくださったのが特に印象に残っている。

 この時期の中国の障害分野の大きな動きは、2012年9月に実施された障害者権利条約の初回審査である。国際的にも注目度が高く、国際障害同盟は同年春に香港で、審査に向けたワークショップを開催している。その成果として前述の二つのパラレルレポートが提出された。初審査を受けての国内の対応について「竜頭蛇尾」という言葉を使う中国のリーダーがいるが、それだけ期待が大きかったことの裏返しかもしれない。

 10年前に北京で耳にした“Nothing About Us Without Us”を忘れたくはない。数か月後の尖閣の問題の沸騰を考えると、少し時期が違っていたら、この出会いはなかったかもしれない。振り返ってみると隔世の感がある。2012年11月に現政権が登場してから潮目は変わったことは明らかだ。障害者組織による若手障害者リーダーを対象とした研修合宿も2015年を最後としてそれ以降は開催されていない。日本に招いたリーダーが帰国後、警察に呼び出されたこともあった。2017年1月からは外国NGO規制法が施行されている。今年2022年夏に中国の第2回目の審査が予定されているが、中国の市民社会からのパラレルレポートは一本も提出されていない。しかし、現在も窓は完全には閉じられてはない。開いている部分がある。”Nothing About Us Without Us”を訴える中国の障害者の肉声が日本を含む東アジア、そして世界に届くチャンネルの一つとしても障害学国際セミナーはあるのかもしれない。

関連サイト:

「武漢―障害学国際セミナー、桜、水餃子」REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)