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「7・7華青闘告発」と楠敏雄――関西障害者解放委員会の結成背景としての新左翼運動

山口和紀(立命館大学先端総合学術研究科 一貫制博士課程)


 本報告は障害者運動と新左翼セクトの関係性を論じる足掛かりとして、楠敏雄と革命的共産主義者同盟中核派(中核派)が共同で結成した「関西障害者解放委員会」を検討する。とくにその結成の契機として楠敏雄が指摘する「7・7華青闘告発」を中心的に取り上げる。
 「7・7華青闘告発」についてスガ[2006]は次のように述べる。

>日本の六八年は、一九七〇年の「7・7華青闘告発」を直接の契機として、在日朝鮮・韓国人や在日中国人、さらには障害者や被差別部落出身者等々、そしていうまでもなく女性といった、無として排除されてきたマイノリティを見出していくのである。(スガ[2006:87])

 スガが示すのは「7・7華青闘告発」をマイノリティー運動が興隆する直接的契機、「決定的なパラダイム転換」(スガ[2003:316])の起点とする見方である。このような見方に対し、山本[2020:11]は「第一に、切断の思想の典型」であり、「第二にセクト主義的な歴史観」であるとして批判をする。

> 新左翼(「日本の六八年」)が「マイノリティを見出していく」という点で、7・7華青闘告発のインパクトはあったと言えるのかもしれない。しかし、マイノリティが「7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきた」ということは考えにくいことであり、それまで「不可視だった存在」でもなかった。(山本[2022:11])

 本報告が「7・7華青闘告発」を取り上げるのは、山本[2020]の議論を引き受けながら、障害者運動に対してその告発が与えた影響、あるいはその影響の限定性について検討するためである。

■関西障害者解放委員会の結成

 関西障害者解放委員会の結成は1971年10月3日である。楠は1970年7月7日に起きた「華青闘告発」という出来事を障解委結成の契機として述べる。

> 1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の部落青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。(楠[1982:26-27])

 インタビューにおいても楠は同様のことを語っている。

>岸田)[…]そうすると、障害者解放委員会というのは、どういう経緯でできたんですか?
楠)さっき言った狭山裁判とか、在日外国人、朝鮮人、中国人に対する入管闘争というのが昔あった。
岸田)それは?
楠)[…]その時に、朝鮮人の人たちが、日本人は、日本政府は無理矢理自分たちの両親を連れてきて強制的に働かせて、今になってから帰れというのは差別だと。日本の運動はそういう人たちのことを考えない。政府もひどいけど、それを許してる日本人、労働者も問われるべきだ。そういうのが入管闘争。これは、中国朝鮮の人たちの日本人に対する告発を発表した。これが有名な7・7告発。70年の7月7日に在日の中国人、朝鮮人の人たちが告発の声明を発表した。それを受けて障害者も反差別の運動を自らすべきだと。
岸田)それは、楠さんが思った?
楠)そうそうそう。それで、いろんな人たちに誘われて、僕もそう思って、障害者、部落、在日朝鮮人・中国人の3つが反差別の運動だった。
岸田)それは各大学から共鳴して来たんですか?
楠)関西障害者解放委員会は中核派に近い人たちが来た。(楠[2011])

 この2つの引用部において楠は結成の背景として「華青闘告発」を置く。ここでいう華青闘告発とは、華青闘すなわち華僑青年解放闘争委員会(華青闘)が行った告発を指す。華青闘という組織の結成経緯は、盧[2010]に詳しい。

> […]在日華僑は、華僑連合や東京華僑総会(中国系、以下「華僑総会」)が柔和な姿勢をとっていたことや、強制送還への恐れから、その時までは反「入管体制」運動をほとんど行わなかった。しかし、中国の文化革命の影響と陳玉留学生事件、李智成の服毒自殺事件などは、在日華僑青年たちの意識を大きく変えていった。まず、ハワイ大学に留学中、ベトナム北爆反対デモに参加し台湾政府から留学継続申請を棄却された陳は、帰国の途中で日本に寄り留学を要請したが法務省入管局によって拒否され強制送還された)。その後、陳が台湾で死刑を宣告されたことに激怒した在日華僑青年は、一九六九年三月九日、華僑青年闘争委員会(以下「華青闘」)を結成した。華青闘は華僑連合や華僑総会とは違い、入管法案・外国人学校法案反対運動を「戦闘的」に展開することを決意した。
> さらに、華青闘の李智成が二大法案に反対する遺書を残して服毒自殺した事件)は、華青闘にさらなる衝撃を与え、華青闘は入管法案反対運動にとどまらず、排除と差別の「入管体制」全般に対する抗議運動を展開するようになった。(盧[2010:65])。

 この華僑青年闘争委員会の行った告発、華青闘告発とはなにか。なぜ楠は重要な出来事としてこれを位置付けるのだろうか。
 1970年7月7日、華青闘と全国全共闘連合は、反戦集会を開こうとしていた。全国全共闘は1969年の9月に「革マル派を除くニューレフト八派」が実質的な党派共闘組織として結成したものである(スガ[2003:315])。外山[2018]は全国全共闘の組織的性格を次のように説明する。

>”全国全共闘”の結成は、全共闘運動の2大スターだった東大の山本義隆と日大の秋田明大とを神輿にかついだだけの、その実、新左翼の主要8党派が主導する非全共闘的な運動再編の試みだった(外山[2018:19])。

 この反戦集会は「7・7盧溝橋33周年・日帝のアジア再侵略阻止人民大集会」と題され、会場は日比谷野外音楽堂が予定された。集会の準備段階において、中核派が集会の実行委員を当初構成していた団体(その一つは「ベトナムに平和を!市民連合」)を準備会から除外し、全国全共闘と全国反戦連絡会議を準備会に入れるように要求する。しかし、華青闘はこの2団体が入管法反対闘争への貢献をしていないことを理由として、その要求に対する拒否の姿勢を示すために実行委員会から「退場」した[革命的共産主義者同盟中核派 1970a][スガ 2003:316]。その様子については、中核派の機関誌に記述がある。

>「七・七盧溝橋三十三周年、日帝のアジア再侵略阻止人民大集会の準備過程において、七月五日の七・七集会実行委員会の席上、華僑青年闘争委員会の抗議退場が論議の対象にのぼされた際、私は『いいじゃないか』『主体的に華僑青年闘争委員会が退場したのだから』と発言しましたが、これにつき次のように自己批判します」(革命的共産主義者同盟中核派 1970a)

 この発言を「差別発言」だとして問題視する糾弾がノンセクトを中心として起こる。スガは「[…]七月七日の日比谷野音は、朝から、津村系ノンセクト、在日中国人・朝鮮人アクティビストによる既成ニューレフト糾弾の場と化した」(スガ[2003:316])とする。4000人を集めて予定されていたデモンストレーションも中止されるに至り、新左翼セクト側は「坊主懺悔」的な自己批判を迫られた([スガ 2003:316])
 この糾弾は単に中核派が入管闘争、ひいては民族問題を軽視したということにとどまらず、既存の新左翼運動全体が差別問題に対して主体的に取り組んでいないということが問題とされたとされる[スガ 2003, 外山2018]。この糾弾の声をあげたのは津村喬(つむら・たかし)の影響下にあった「東京入管ストライキ実行委員会」のメンバーであった[スガ 2003:316]。当時、津村の民族的責任や戦争責任を重視した議論は学生運動の中で稀有な位置を占めていた[山本 2020:10]。津村の思想とその影響については紙幅の制限により割愛するが、新左翼諸党派に対して、差別問題への無自覚性を告発したこの事件は、華青闘告発と呼ばれるようになる。
 華青闘告発の影響について、外山[2018]は次のように述べる。

> ところが華青闘告発によって新左翼活動家に(それが正しいか否かはともかく)広く共有されるに至ったのは、反差別運動は差別されている当事者によってしか担いえない、つまり”前衛党”とやらがそれを自らの体系の”一部”として組み入れることなどできない、という認識だ。(外山[2018:21])

 楠が「表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求した」と述べるのは、先に記すような経緯を指したものである。楠はあきらかに(新)左翼運動のターニングポイントとして「華青闘告発」を置いている。
 この華青闘告発を受けた中核派は反差別運動へ本格的に参入しようとする。いつ頃に、どのようなことが行われていたのかは定かでない。楠[1982]において、その経緯が懐古的に記述されている。

>こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の「障害者」に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に「障害者」解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西「障害者」解放委員会の結成をかちとったのです
>組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました。(楠[1982:27])

 楠が1970年以前に中核派と関わりをもっていたのかは定かでない。楠[1982]は次のように運動体としての性質を説明している。

> もちろん当時大きな山場をむかえていた沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争にも積極的に取り組みましたが、中核派とは区別した闘いを進めるという方針が確認されていたのです。(楠[1982:27])

■障解委の分裂

 1972年9月、障解委は組織として内部分裂を起こす。中核派側と楠側に分かれたのである。1971年10月の結成であるから、1年も経たない間の分裂であった。その経緯について、楠は次のように述べている。

 楠[1982]には「関西『障』解委での分裂はなぜ生じたのか」という項がある。そこには、まず1972年12月に起きた革命的共産主義者同盟・革マル派(以降、革マル派と記す)による中核派への「非道な虐殺」と、1972年5月の沖縄闘争における「敗北」によって、中核派が大衆運動に対する方針を大きく転換したことが述べられる。いわゆる新左翼運動における「内ゲバ」が本格化する過程の出来事である。その余波は障解委にも影響を与えることになった。

> すなわち、七二年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争についてはいちおう中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、「障害者」への日常的な働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。
> 楠[1982:28]

 楠の視点からすれば、結成の時点では中核派と区別した闘いを行っていくことが確認されていたにもかかわらず、1972年時点では中核派が重要視する闘争に障解委を動員しようとし、政治的な引き回しにあっていたと捉えうる。中核派の障解委の活動への介入として具体的には次のようなことが行われていた。

>(荒木裁判闘争について)たとえば、荒木さんに白ヘルメットをかぶることを強要したり、荒木裁判闘争に関するビラの最初にいきなり「沖縄奪還・革マルセン滅」のスローガンを書き込むといった具合でした。楠[1982:28]

 こうした状況は1972年の中ごろまで続く。そして1972年9月、中核派の側から分裂宣言がなされた。

>楠)革マルと中核の殺しあいが始まって、関西障害者解放委員会に対しても、中核が、革マル殲滅のスローガンあげるべきだ、そういうヘルメットを書くべきだという。僕らはそれはおかしいと。障害者差別を基本課題にしながら、もちろん狭山の問題とか他の問題にも連帯はするけど、あくまで主要な問題は障害者差別の問題だ。それを革マル殲滅とか殺し合いのようなスローガン出すのはおかしいと反対した。。(楠[2011])

 関西障害者解放委員会の中核派は「中核対革マル」の闘争の中に楠ら障害者を(楠の視点からすれば)巻き込もうとした。これに反発した「楠一派」と、「中核派」側は分裂した。
 分裂後の経緯については資料が少ないが、分裂後に中核派側と楠側がどのような関係にあったのかを確認できる資料として関西「障害者」解放委員会[1980]がある。この文書が掲載された『障害者解放通信』は、分裂前から刊行されていたが、分裂後もそれぞれが別々に同名で発行を続けていた。そのために楠側のそれと、中核側のそれが同時に存在していた。この関西「障害者」解放委員会[1980]は中核派側の『障害者解放通信』に掲載されたものである。
 関西「障害者」解放委員会[1980]には、楠について次のような記述がある。

>そもそも楠は、ひとたび革命党に結集しながら、その階級的前衛としての責任を放棄し革命運動と革命的人民を裏切っていった存在であり、これに対する批判は、全障連という大衆組織との「共闘関係」とはまったく別個の問題である。

 中核側は楠を「革命運動と革命的人民を裏切っていった存在」として位置づけ糾弾している。この文書は1980年3月に発行された号に掲載されたものであり、少なくとも1972年に分裂してからおよそ8年後においては糾弾の対象になっていたことが分かる。
 楠に対する批判として次のような記述が同資料にある。

>楠(一派)は、すでに七二年段階においてわが関西「障害者」解放委員会や中核派に対し「『カクマルせん滅』を強要し、革マルとの殺し合いに我々をまきこもうというのか」「諸君達は『障害者』の大分裂を促進する役割を担おうというのか。ふざけるのもいいかげんにしたまえ」(楠派「コロニー解体」二号)などと主張したし、いまも主張している。(関西「障害者」解放委員会[1980:9])

■おわりに
 
 本報告はここまで次のことを明らかにした。「華青闘告発」を受けた中核派は楠敏雄とつながりを持ち、関西「障害者」解放委員会を結成した。1971年10月の結成であるから、華青闘告発から数えると、約1年半後の結成であった。少なくとも楠は「華青闘告発」を大きな契機と位置づける。ただし「華青闘告発」が関西「障」解委結成に直接的な背景になっているという理解を中核派がしていたかは定かでない。この点に関して、本報告が依拠する資料はあくまでも楠による口述資料や文献であるためである。
 本報告が問いとして設定したのは「華青闘告発」が障害者運動に与えた影響である。この関西障「解」委(ただし、楠側)が1976年に青い芝の会と共同で結成したのが「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」である。この時、楠は事務局長になっている。障害者運動組織のネットワークを束ねる全国組織として、全障連が障害者運動に与えた影響は大きい。また、全障連の結成には関西「障」解委が強く関与している。これらのことから「華青闘告発」が障害者運動に及ぼした影響は無視できない程度には大きいものである★1と考える。
 今後の研究課題について述べる。本報告は山本[2020]の問題提起を受けたものであったが、きわめて部分的に応答したものに過ぎない。今後、それに応えていくには、新左翼セクト/ノンセクト運動と障害者運動の関わりについて検討することが必要だと考える。新左翼セクト/ノンセクト運動が障害者運動にどのように帰結したのか(帰結しなかったのか)はこれまで十分に検討されてこなかった。このことを検討することが、翻って、障害者運動にとっての「1968年」を相対化することに繋がると報告者は考える。

■註

★1. このことは障害者運動に「中核派」が及ぼした影響が大きいものであったという意味ではない。

■文献リスト

– 革命的共産主義者同盟中核派 19700713 「山森発言に関する華青闘への自己批判」.『前進』, 0491号.
– 楠 敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房.
– 楠 敏雄 20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321].
– 楠 敏雄 20110410 「楠敏雄さんへのインタビュー(その5)」, http://www.arsvi.com/2010/20110410kt.htm(閲覧日:2022/08/06).
– スガ秀美 2003 「革命的な、あまりに革命的な」, 作品社.
– 外山 恒一 2018 「改訂版 全共闘以後」, イースト・プレス.
– 山本 崇記 2020 「運動的想像力のために――1968言説批判と〈総括〉のゆくえ」, 大野光明・小杉亮子・松井隆志編 『「1968」を編みなおす』, 8-23, 新曜社.
– 盧 恩明 2010 「ベ平連の反「入管体制」運動――その論理と運動の展開」九州大学政治研究会『政治研究』第57号,59-93.


■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

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