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害女性への子宮摘出をめぐって――大佐荘事件を中心に

利光惠子(立命館大学生存学研究所客員研究員)


はじめに
日本では、旧優生保護法(旧法)のもとで、遺伝性とされた疾患や障害を理由に、優生手術(不妊手術)が強いられた。さらには、旧法が認める範囲を超えて、「障害者に出産・育児は不可能」といった差別・偏見に基づいて、あるいは、月経介助の軽減を目的として、障害女性に対する子宮摘出(時には子宮・卵巣摘出)や卵巣への放射線照射などの不妊化措置が行われた¹。その多くが、偽りの診断名をつけて「医療行為」として実施されたため、被害者の概数さえ明らかになっていない。
これらの実態を明らかにするよう求めた障害者らに対して、国は、長年にわたって「子宮摘出や放射線照射は、優生保護法の優生手術に当たらず、医療上の問題だ」との姿勢に終始してきた。2018年1月の仙台地裁提訴を嚆矢として、全国各地で旧法被害に対する国家賠償請求訴訟が提起されたのを契機に、2019年4月に「旧優生保護法に基づく優生手術を受けた者に対する一時金支給等に関する法律」が成立した。この法律では、子宮・卵巣・睾丸の摘出や放射線照射も「旧優生保護法の存在を背景として」実施されたとして、一時金支給の対象とされた。しかしながら、子宮摘出手術等を強いられたと訴え出る被害者は限られ、今も、被害の全容は不明である。
障害女性の子宮摘出をめぐる歴史的経緯について取り上げた研究として、平田(2004)、鈴木(2019)、瀬山(2002、2020)、利光(2016、2020)等がある。平田(2004)は、戦前から1950年代までの知的障害者に対する優生手術について検討し、「治療」として睾丸や卵巣の切除手術が行われていたことに言及している。鈴木(2019)は、障害当事者や親・関係者の語りを分析し、1960年代半ばには、施設側から親に対して、職員の負担軽減の観点および「重症児に生殖の意義はない」などとして、「無用」な子宮の摘出が推奨され、親も受け入れていたことを明らかにした。また、1960年代の障害者運動は「ジェンダー規範」「社会有用論」「優生思想」を内面化していたがゆえに子宮摘出手術を問題化できなかったとしている。瀬山(2002、2020)は、「子宮摘出」の問題化は、1979年の「車いす市民全国集会女性障害者分科会」での障害女性自身による子宮摘出要求の発言から始まったとする。これを契機に、改めて、施設内で行われる半ば強制的な子宮摘出が問題とされた。一方で、「女性であれば子どもを持つべき」という社会規範が障害女性を抑圧していること、子宮摘出したことで「女性ではなくなる」といわれることへの違和感が表明されるなど、1970年代終わりから80年代にかけて、障害女性の活動の中で子宮摘出が大きなテーマとなり、周囲の女性達も巻き込んだ話し合いの場が持たれた。利光(2016,2020)は、放射線照射や子宮摘出を受けた障害女性へのインタビューを中心に、その詳細な状況や歴史的経緯について検討した。
本稿では、1980年代末から1990年代初頭に社会問題化した「大佐荘における障害女性への子宮摘出事件」をめぐる動きを取り上げる。障害を理由とする子宮摘出をめぐって、障害運動が、国や県、入所施設、医療機関と長期にわたって交渉を続けた初めての例であった。その交渉経過をつぶさにたどりながら、何が争点とされたのかを明らかにする。

1. 「大佐荘」における子宮摘出事件の「発見」と社会問題化
社会福祉法人恵愛会身体障害者療護施設大佐荘(岡山県阿哲郡大佐町、以下大佐荘)における障害女性への子宮摘出事件が社会問題化される発端は、1984年5月に開催された第9回全国身体障害者療護施設研究協議大会²での報告だった。大佐荘の長尾蔦江寮母長は、「処遇困難な事例とその対策 情緒不安定者の処遇困難性」と題した発表で、入所中のA子さん(脳性小児まひにより知的障害と両手足の障害がある23才の女性)が、生理時に「癇癪を起し情緒不安定」になったり「あたりかまわず裸体になる」ことから、1982年2月、県内の産婦人科病院で「家族の協力、本人の理解をうけ状況を判断し卵巣摘出の手術」を受けたこと、その「対応効果」として、「卵巣の摘出手術により以前ほど裸体にならなくなった」と報告した(長尾 1984:32)。
大会の場では問題とはならなかったが、この報告に接し、「当然のように情緒を安定させるとして、子宮を摘出する報告が、全国の介護の専門職が集まる場で行われ、人権侵害として何の指摘もされない現状に対する大きな危惧」を抱いた療護施設職員が、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)など障害者団体に問題提起した(松浦 2018:41)³。また、報道機関にも情報が伝えられ、1989年11月18日の朝日新聞紙上に「障害者の子宮摘出 生理時は精神が不安定」との大見出しで報じられた。大佐荘は取材に対して、卵巣摘出と報告したのは「勘違い」で子宮摘出であったとした上で、「今よりよくなるのだったらという気持ちもあったし、反対意見も出なかった。結果としておとなしくなった事実を伝え、ほかの施設にも参考になればと思った」と答えている。執刀した医師は、「月経の量も多く、無月経状態にした方がいいという医療的見解から、子宮の体部(上半分)を摘出した。母親の筆で本人の誓約書も得ている」と答えたと報じられた。翌日以降、新聞各紙が報道し、週刊誌も取り上げている⁴。

2. 障害者による抗議行動
(1)障害者団体による抗議行動のはじまり
これらの情報提供を受けて、全障連や日本脳性マヒ者協会青い芝の会(青い芝の会)などの障害者団体が、大佐荘と手術をした産婦人科尾島病院(以下、尾島病院)、岡山県、厚生省に対して、大規模な抗議行動を起こした。
全障連は、いち早く「声明」(1989年11月20日付)を発表し、(1)「おとなしくさせる」ために、すなわち、施設内で障害者の管理をしやすくし、介護の手間を省くためにという施設側の都合によってのみ、子宮摘出が行われた。(2)人間として女性として生きていく権利を踏みにじるものであり、差別優生思想に貫かれた暴挙である。(3)障害者に対する制裁的な意味をもつもので、断じて医療行為とは言えない。危険な手術で、妊娠・出産の可能性を奪い、また様々な後遺症を残すもので肉体破壊・人体実験そのものである。(4)「家族の希望があった」「母親の筆で本人の誓約書も得ている」とは言っても、施設に入所している状態では家族・本人とも施設の意向に異を唱えることは困難で、事実上の強制に等しい。隔離・収容を基本とする日本の障害者施設政策の閉鎖性・差別性がこのような事実を生み出したのである、と述べている。そして、今後の取り組みとして、大佐荘と尾島病院の糾弾、子宮摘出手術が「成果」として報告された全国身体障害者療護施設協議会(全療協)を糾弾し全国の実態を明らかにさせること、厚生省の責任追及と全国の実態解明、背景にある優生思想との闘いを強化し、優生保護法の撤廃を強く要求することを挙げた(『全障連』No.91 1989.12.15.発行:7)。
また、「子宮摘出問題への差別糾弾闘争を通して、施設改善と優生思想との対決の前進を勝ち取ろう その1」(『全障連』No.92 1990.1.29発行:5-6)と「その2」(『全障連』No.93 1990.2.20.発行:5-6)と題した一連の文書で、基本的立場を明らかにしている。これらによれば、「この子宮摘出が明らかに施設内での処遇の観点からなされたものであることは明らか」であり、「『子宮摘出問題』に象徴されているのは、まず何よりも施設の差別的管理の実態である」とする。そして、そもそも「施設内の障害者の恋愛や性行為・出産などをはなから否定した上で、介護の手間を省く目的で子宮摘出を」実行しているとし、「管理者側にとっては『優生手術』ではなく『治療行為』として片づける方が、優生保護審査会に申請をする手間もなく、いとも簡単に『処置』できる上に闇に葬ることが出来る」との見解を述べて、「こうしたことをしっかりとふまえ、施設内の処遇改善と常に結びつけながら糾弾の闘いを推し進めなければならない」としている。

(2)厚生省との交渉――「一義的には、県の問題。優生手術ではなく医療行為」
全障連は、新聞報道の2日後の11月20日に、厚生省と交渉をもっている。子宮摘出についての見解を問われた厚生省は、「一義的には県の問題である。県からの報告がないのでどういう状況でおこなわれたかわからないが、優生手術ではなく医療行為である。母親の筆で本人の誓約書があるのだから、むしろ医療上の医師のモラルとか、治療効果といった問題である」と返答した(『婦人民主新聞』第2166号 1989.12.8.発行)。
これに対し、全障連は厚生大臣宛の「公開質問状」(1990.1.8.付)を提出して、「(大佐荘での子宮摘出は)施設・病院・家族らによって一人の女性障害者の体の一部が切除されたのであり、障害者への人権侵害」であるとし、(1)子宮摘出問題についての見解、(2)実態調査をする考えはあるか、(3)「男女同室」「入浴・トイレの異性介助」など、施設生活者の人権問題についてどのように考えているかについて質問している(『全障連』No.92 1990.1.29発行:7-8)。
当時の厚生省が、著しい人権侵害であるとの障害者らの訴えにもかかわらず、子宮摘出は旧法に基づく優生手術ではなく「医療行為」であるとして国の関与を言下に否定し、代筆による「同意書」の存在を理由に、「医師のモラルや治療効果の問題」と矮小化していた事実は特筆されるべきであろう。このような態度を前に、障害者団体は、まずは福祉施設や医療機関の監督・指導を担う岡山県に対して交渉を進めることになる。

(3)岡山県との交渉――行政責任を回避
障害者団体は、1989年12月から、岡山県と何度も交渉を重ねている。中心となったのは、全障連の「施設小委員会」や「中四国ブロック」と青い芝の会で、毎回、60~70余名が参加した。県側は、民生労働部更生福祉課、および環境保健部の公衆衛生課と環境保健課の各課長が出席した。
1990年1月には、全障連と青い芝の会が連名で岡山県知事宛てに「抗議ならびに質問書」(1990年1月10日付)を提出している。「子宮摘出手術は明らかに障害者の存在そのものを否定する優生攻撃」に他ならないして、「県としての基本見解および行政責任を明らかに」することを求めた。しかし、岡山県からの回答(1990年1月24日付)は、子宮摘出を卵巣摘出と誤って報告した事のみをとりあげ、「事実と異なった内容でA子さんのケースを取りあげたその責は、誠に重大であり、施設に対し厳重に注意した」と応答したのみだった。尾島病院での子宮摘出手術についても、県側は、第2回交渉(1989.12.25)で、「医療の経過については、尾島医師に会って聞いたが、(守秘義務の点から)本人以外にしゃべることに問題意識を持っている。また、行政としても明らかにすることが、適当でないと判断しているので、その旨ご理解いただきたい」と述べた(『全障連』No.92 1990.1.29発行)。第3回交渉(1990.2.2)でも「尾島医師は医療として必要であったから手術したと言われている。私達は、現時点では、そうではないと言えない」と述べた。
このように、障害者団体の再三にわたる訴えにもかかわらず、県は福祉施設や医療機関に対する実態把握のための調査さえ実施しなかった。

(4)大佐荘との交渉――反省と謝罪
大佐荘に対しても、「抗議並びに質問書」(1989.12.1)を提出して、(1)「生理前に裸になる等イライラしていた」ことが子宮摘出の理由とされているが、女性が生理時に精神的・肉体的に変調を起こすのはごく普通の事であり、A子さんは障害者ゆえに「子宮摘出」を受けさせられたのであり、障害者差別である。(2)「医療的見解から摘出」としているが、健康な子宮を摘出することが医療として認められるわけもなく、人体実験である。(3)介護の手間を省くという大佐荘の都合によってのみなされた。(4)全療協大会において、「子宮摘出」を「他の施設にも参考になれば」と「成果」として発表しているが、差別を拡大助長する可能性があると述べた。そして、A子さん及び全ての障害者への謝罪、プライバシーに配慮しつつ「子宮摘出」の全容を明らかにすること等を求めた(『全障連』No.91 1989.12.15発行:11-12)。
これに対して、大佐荘吉田政博荘長は、「昭和59年度全国大会での『発表レポート』の内容に関する反省と謝罪について」という文書を発表し、「手術は家族及び本人の意思で行われたものであり、大佐荘は事前に知り得ない状況」におかれていたとして、子宮摘出への直接的な関与は否定したものの、一定の範囲での反省と謝罪を表明した。まず、手術の内容を誤って「卵巣摘出」とレポートしたのは、母親から産婦人科で手術を行ったとの報告を受けた看護婦が、病院に確かめることなく看護日誌に「卵巣の手術を推測して記入した」のが原因であったとして、「手術に関する記述に甚だしい事実誤認」があったことを反省するとした。また、(1)処遇困難事例としたが、施設側からの一方的判断によるとらえ方であったこと、(2)異常行動という表現をしたが、入所者の様々な要求として把握し、その原因を解消することが何よりも必要であったこと、(3)障害の度合いによる様々の行動に対しては、それぞれの状況を十分理解する態度が必要であったこと、(4)レポート作成時の調査が不十分であり、かつ人権意識が不足していたこと、(5)レポートは情緒不安定及び介護の安定を図るために手術したように受け取れるが、この手術を正当化することは差別につながるものであったことについて、反省し謝罪するとしている(『全障連』No.97 1990.6.28発行:6)。
この「反省・謝罪文」について、障害者らは、1990年5月26日に吉田荘長との話し合いも持ち、今後も大佐荘職員・入園者を含めた交流の場を作っていくことで同意したという。

(5)尾島病院との交渉――「医療行為」と守秘義務
障害者らは、尾島病院に対しても「抗議並びに質問書」(1989年12月1日付)を送付し、「貴院が施された子宮摘出手術は、障害者の人権と性を否定し、医の倫理にすら反する処置」であるとし、「我々障害者に対して『性』を否定した対象として存在することを強制し、挑戦状をたたきつけたことと同じ」なのだと厳しく抗議した。また、手術の理由として「月経の出血量が多かったため」としているが、事件の経過を見るかぎりそうとは考えられないとし、たった一度の受診のみで手術に踏み切ったことからも、「『障害者に性は不必要』といった差別的な見方をもち、処置をされたもの」であると述べている。そして、「行動抑制のために子宮摘出手術を行う」ことをどう考えるか、大佐荘や保護者から「治療」の話が持ちかけられた時、子宮摘出手術以外の方法を検討したか等の質問を投げかけている(『全障連』No.91 1989.12.15.発行:14-15)。
これに対し、尾島病院は回答(1989年12月16日付)で、「甚だしい誤解の上に立った一方的非難」に対し断固抗議すると述べ、「医師の法的義務の観点からは『守秘義務』の問題として遵守しなければ」ならなため、質問には回答できないとした。その後も、全障連と青い芝の会は、何度も話し合いを求めたが、病院側は「守秘義務」を理由に交渉を拒否し続けた⁵。障害者らは、「尾島病院抗議・糾弾闘争」として、数度にわたって周辺地域へのチラシの配布や病院前での抗議行動を行っている。

3. 女性団体・グループの動き――「切りとられた子宮 女達は抗議する」
障害女性に対する子宮摘出の事実に対して、女性グループからも強い憤りの声が上げられた。『全障連』No.93(1990.2.20発行)には、「母子保健法改悪に反対する女達・大阪連絡会」⁶による「切りとられた子宮 女達は抗議する」と題する文章が寄せられている。
「子宮は他の臓器と同様、女たちの大切な体の一部」であり、月経時に精神が不安定になるからと子宮摘出するなど、何の医学的根拠も見いだせず絶対に許すことができないとする。このような暴挙を生じさせたのは障害者差別と露骨な優生思想に加えて、「『女は月経前後には理由もなく精神が不安定になり、ヒステリーを起こすものだ』という、女性に対する著しい蔑視」だとする。そして、「産むことを期待されずに、子宮までも摘出されてしまう女性障害者の対局には、優良な子孫を産み育てることのみを強制される女」が存在するとし、「『産むべき女』『産んではならぬ女』と分断・強制され、それぞれに生き方を狭められることに強く抗議」した。又、「産む・産まぬに関係なく、月経をはじめとする体のリズムは、私達女にとって、健康にすごす上でとても重要です。これを、わずらわしいもの、非効率的なものとやっかい視したり、ましてや、精神の不安定を理由にいとも簡単に月経をなきものにし、女の性を切り捨てるなど絶対に許すことは」出来ないと述べた。そして、「優生思想と障害者差別、女性差別を体現した今回の子宮摘出手術に対し、強い怒りと抗議を表明」するとして、女性の立場からの抗議の声を大佐荘・産婦人科医・厚生省に突き付けようと呼びかけた。
呼びかけに応えて、「DPI女性障害者ネットワーク」⁷などの障害女性や、女性の健康運動を開始していた「ウィメンズヘルスセンター大阪」⁸のメンバーはじめ多くの女性達が、「女の子宮を勝手に取るな」との声を上げた⁹。

おわりに
1980年代末から1990年代初頭にかけて、障害女性への子宮摘出について、障害者と国や県、福祉施設、医療機関の間で行われた論争について詳しくみてきた。
障害者運動は、当初から、障害を理由とした子宮摘出は、(1)施設による障害者管理の一環、(2)差別による障害女性への人権侵害、(3)医療行為ではなく「肉体破壊・人体実験」、(3)事実上、強制的に実施されたものと捉えていた。ただし、実際の交渉の場では、入所施設における差別的管理の手段としての側面が強調されたように見える。また、子宮摘出手術は、旧法に基づく優生手術に比較しても、優生保護審査会への申請等の手間もなく、「治療行為」として簡単に実施して「闇に葬ることができる」上に、妊娠防止のみならず、「月経による情緒不安定」を回避し、「月経の介助負担」軽減にもなる、いわば施設側にとって簡便・有用な「ヤミの優生手術」なのではないかという懸念も示されていた。
障害者運動のこれらの指摘に対して、厚生省(当時)は、子宮摘出は旧法に基づく優生手術ではなく「医療行為」であるとして国の責任を退け、「医師のモラルや治療効果の問題」であるとして問題を矮小化した。県もまた、障害者運動からの熱心な働きかけにもかかわらず、実態解明のための調査すら行っていない。手術を行った医療機関は、あくまでも「治療のための医療行為」であるとし、「守秘義務」を盾に話し合いにも一切応じようとしなかった。大佐荘が、子宮摘出への直接的な関与は否定したものの、「子宮摘出手術を正当化することは差別につながるものであった」として反省と謝罪を表明したのは評価できよう。
障害女性への子宮摘出は、障害者と女性への複合差別が具現化したものだ。大佐荘事件に際して、障害の有無や子どもを産む/産まないにかかわらず、子宮は女性の大切な体の一部であり、月経は体のリズムであるとして、多様な立場の女性から、障害を理由とした子宮摘出に反対する声が寄せられた。これは、1970年代終わりから80年代にかけての子宮摘出をめぐる共同での思索が、確実に引き継がれたことを示している。

1)旧法では、第2条で「優生手術とは、生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術」とし、第28条でレントゲン照射(放射線照射)を禁止している。その上で、施行規則第1条で、手術の術式として精管や卵管の切除や結紮を定めている。
2)1984年5月10日~11日、全国身体障害者療護施設協議会と関東甲信越身体障害者療護施設協議会の主催で開催された。
3)障害者団体や、第一報を報じた朝日新聞に資料を提供した松浦武夫は、当時、奈良県立身体障害者療護施設の職員であった。
4)『読売新聞』1989.11.19、『毎日新聞』1989.11.19、『朝日新聞』1989.12.3、『女性自身』(1989年12月19日号)など。。
5)1991年2月26日付の「回答」では、「県衛生部、県医師会等に相談しました結果…話し合いの場へ参加することは差し控えさせて頂きたい」とした。又、当院としては「医師と患者の信頼関係の中核である守秘義務の履行を避けて通ることはできません」とし、「限度を超えている抗議行動をされる貴会に対し、当院からも逆に抗議を申し入れる」と述べている(『全障連』No.107 1991.4.17発行:2-3)。
6) 1985年に出された母子保健法改定案に反対して、1985年10月に結成された。
7)1986年、国内の女性障害者のネットワークづくりと情報交換を目的として結成された。当時、会のメインテーマは「女性障害者の自立促進と優生保護法撤廃」であった。
8)1984年に「女のためのクリニック準備会」として発足。現在の「ウィメンズセンター大阪」の前身である。
9)例えば、堤愛子(「DPI女性障害者ネットワーク」)は「『どうせ子どもを産めないのだから』子宮を取るというのは、女性障害者の『産む可能性』を否定するばかりでなく、女の子宮を『子産みの器官』としてのみ価値づけ、女の身体全体のリズムを否定することでもあります。産む・産まないに限らず、女の身体をキズつけていくことについて、私は強い憤りを感じます」と述べた。また、鴻村安子(ウイメンズヘルスセンター大阪)は、「月経は女の健康のバロメータ」なのに、月経に起因する精神不安定を理由に子宮を摘出するなど許せない。その人の健康を脅かしている。「私たちのからだに何も無駄なものはなく、むしろ無駄と決めつけている」社会のしくみや考え方に異議を申し立てると述べた。

■引用文献
平田勝政,2004,「日本における優生学の障害者教育・福祉への影響――知的障害を中心に」中村満紀男編著『優生学と障害者』明石書店:630-654.
松浦武夫,2018,「現在進行形で考えるべき事柄(39)――旧優生保護法・社会が向かい合うべき課題の再確認を――」『青松』699号:40-65.
長尾蔦江,1984,「処遇困難な事例とその対策 情緒不安定者の処遇困難性」『第9回全国身体障害者療護施設研究協議大会 大会資料』:30-33.
瀬山紀子,2002,「声を生み出すこと-女性障害者運動の軌跡」,石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店:145-173.
瀬山紀子,2020,「障害のある女性たちのリプロダクティブ・ヘルス/ライツ/フリーダム」『福音と世界』:24-29.
鈴木雅子,2019,「1960年代の親,関係者,当事者が語る子宮摘出手術」(立教大学共生研公開セミナー2019年3月24日レジュメ).
利光惠子,2016,『戦後日本における女性障害者への強制的な不妊手術』松原洋子監修,立命館大学生存学研究センター.
利光惠子,2020,「さぽーとSEMINAR 優生思想と現代――強制不妊手術から考える(4)」『知的障害福祉研究さぽーと』日本知的障害者福祉会,67(11):40-46.


■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

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