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質疑応答は文章末です


障害学と移民研究の接点を考える
―Steven Vertovecによる超多様性概念を軸にして―

宮崎康支
松岡克尚
原 順子


1.研究の背景と目的
 日本社会は少子化や労働生産人口の減少等の社会的要因により、障害者を含む少数者、移民の労働市場への包摂等による社会的多様性の拡大と深化に直面させられている。本報告では、そうした多様性深化に対する複眼的視点を獲得する一助として、移民研究から発生した概念を障害学に応用する可能性を論じる。
 Steven Vertovecが提唱した「超多様性」(superdiversity)(Vertovec, 2007=2020)は、移民研究の知見より見出された概念で、いわば「多様性の多様化」(Hollinger, 1995=2002; Martiniello, 2004; Vertovec, 2007=2020)である。宮崎(2020)は、この概念に障害が包摂される可能性を検討し、合理的配慮の保障により超多様性状況への障害当事者の包摂が可能になると結論づけている。本報告ではこの知見を踏まえ、障害学が超多様性概念から学ぶべきことを明らかにしてみたい。

2.移民研究と障害研究の接点
 障害者の属性は多様である。特に、フェミニズム研究から生じたインターセクショナリティ(Crenshaw, 1989)の視点は、障害にまつわる差別の背景の分析における多角的視座導入の必要性を示している。それら背景は社会的障壁という枠内に収斂し得るが、社会的障壁の実相は多様である。例えば、移民かホスト側か、あるいは言語、民族、文化、宗教など様々な面での差異もまた障害者を取り巻く多様性を示す指標であり、少なくともグローバルな範囲ではその点はもっと意識されてよい。
 Martín-Canoらによれば、国際移住機関(IOM)も障害を、移民を取り巻く脆弱性の一要素として認識している。移民の相当数が障害者であると推定されるが、それに関する情報は非常に少なく、それぞれの一般的なパラダイムの下で、両者の交差がなかったことがその背景にあるとかれらは指摘している。その反省を踏まえ、両方が置かれている現実が日常的な活動の中で組み合わさられるという状況を理解する必要性を説いている(Martín-Cano et al. 2020)。
 Duda-Mikulinら(2020)も同様に、障害者と移民は共に今日最も疎外された人々の一つであるにも関わらず、両者の生活は一緒に考えてこられなかったと批判している。その上で、障害学と移民研究の双方の目標が、社会的正義の実現、最も辺縁に追いやられた人々とそのコミュニティの尊厳回復、という点で一致しているのであり、両者の交差点と分離点に関する議論を深めていく重要性を指摘する。
 世界的に人の移動性が拡大している状況を踏まえ、またPhillimoreら (2021)が日本でも超多様性の兆候が見られることを指摘している中では、日本の移民政策のみならず障害者支援制度の設計にも影響を与えるという意味で、障害学は移民研究との接点を看過してはならないと考えたい。

3.超多様性とは何か
 日本では超多様性概念は主に社会言語学用語として着目されてきた。例えば、宮崎(2020)は、社会言語学の先行研究をもとに、日本での多言語化を説明する鍵として注目されつつあることに言及している。特に三宅(2016)は、「日本人」と「外国人」の二項対立的な考え方では現状の分析には耐えられないことと、方法論の精緻化を問題提起した。
 しかし本来の超多様性とは、言語に留まらず移民の実態を広範に論じる概念である。提唱者のVertovec (2007=2020)は英国を事例に、移民をめぐる変数の増加によって複雑化した多様性が、従来の移民研究において支配的であったエスニシティを中心とした分析だけでは実態把握と政策提言が困難になっていると指摘する。従来は、移民を出身国ごとに分類し、それを前提に問題の分析を図ってきたが、出身国が同一であっても別の変数が関与していれば、同一グループ内においても多様性が発生している。具体的には、出身国、移住チャンネル、法的地位、移民の人的資本、雇用へのアクセス、地域性、トランスナショナリズム、地方自治体、サービス提供者、そして地元住民の反応が多様性に拍車をかけている。この複雑性を示すためにsuper(「超」)をdiversityに付したのである(Vertovec, 2007=2020: 90)。
 なおVertovecは、直接的に障害に言及しているわけではないが、近年は超多様性と障害の関連についての研究が公表されるようになっている。そこで、次に障害学あるいは障害研究との関連で超多様性概念を取り上げた先行研究レビューを行う。

4.先行研究レビュー
 まず、Martín-Canoら(2020)は、移民のエスニシティのみに還元し得るとする固定的な多様性の考え方ではもはや時代遅れであると批判する。移民を取り巻く状況とは様々な変数にまたがる多次元的なプリズムの観点から分析されなければならないのであり、まさしくその点に超多様性概念の持つ意義があると同時に、そこに障害が含まれるべき理由もまた存在していることになる。
 Kirwan (2022)は、精神障害者に係る問題の分析に超多様性概念を用いる可能性を探っているが、特に移民も精神障害者も社会的な資源へのアクセス困難や差別・偏見に面しているという共通点に注目している。そして、障害者を取り巻くダイナミクスに着目する超多様性概念の特徴を評価することで研究手法の強化が可能であると述べている。
 ろう者・手話話者との関係については、例えば、Stone and Mirus(2018)は様々な聴覚障害者が多様な手話を使用している実態を超多様性という言葉で表現している。具体的には、デフコミュニティに多様なコミュニケーション手段を使うメンバーが存在し、同コミュニティ内で言語学的抑圧も生じることに触れている。同様にSnoddon and Underwood(2018)も、人工内耳を選択するケース、手話を使用しない地域の学校に通学することでデフコミュニティにアクセスしない、あるいは第一言語として手話を選択しない等が増えている状況を超多様性という言葉で説明している。
 以上を踏まえ、超多様性概念が提起する社会科学的な課題を報告者なりに要約すると、「集団内のダイナミクス」と「方法論の精緻化」の2つが挙げられる。前者は、障害者も多様性であり、別の要素との相互作用が発生している点に着目する必要性があることを指す。後者は、複雑化した変数を意識した研究方法論の深化が求められているという意味になる。その延長で、障害学にとって超多様性概念は重要な示唆を含むものと言えるのではないだろうか。この点を踏まえ、先の2つの内で「集団内のダイナミクス」に絞って議論を進めたい。

5.超多様性概念が障害学に貢献できること
 超多様性概念が「障害のダイナミクス」に関して貢献できる可能性を試行的に論じてみる。
(1)「障害者」というpopulationにおける多様性理解
移民研究が超多様性概念によって「多様性の多様化」を強調する背景には、単にエスニシティや文化がより多様化したという単純なものではなく、Martín-Canoら(2020)が指摘するように、多様化した様々な変数の間の作用がそれだけ多岐化・複雑化している状況がある。障害もまたそうした移民の「多様性の多様化」を示す変数の1つに過ぎないとは言え、グローバルな観点からは障害者というカテゴリーを、移民という変数抜きにしては考えられなくなってくることは間違いない。
 見方を変えれば、同様の意味での「多様性の多様化」は障害者の側にも生じていると考えることは十分可能である。そもそも一口に「障害者」といっても、インペアメントの種類、その程度の軽重や文化(ろう文化など)も相当に多様である。そこにジェンダーなども加え、ここまで示してきたように移民に関わる様々な変数もまた障害者という枠組みに作用してくる。こう考えれば、例えグローバリゼーションとは無関係であったとしても、障害者の中にも「多様性の多様化」が発生していると理解することの必要性が理解され得る。
 社会モデルの普遍性が強調され、インペアメントさえ社会的な言説に回収され得る中では、インペアメントの多様性は注目されてこなかった。ここに一石を投じるという意味で、超多様性概念の意義を障害学的に認識してよいと考えたい。
(2)「障害」および他変数におけるインターセクショナリティ分析と社会モデルの進化
 先の(1)に関連するが、超多様性が多様なインペアメントを背景に持つ障害者のpopulationに適用可能であれば、インターセクショナリティという視点で分析することは、障害者が直面する社会的障壁(disability)に多様性があることを認識したうえで、その分類、整理を促すことになる。それによって、社会的障壁のタイプごとの支援や政策立案の内容を検討する可能性が拡がっていくものと考える。
 障害者と移民はvulnerableな地位を社会的に強いられており、それをもたらしている社会的障壁には「多様性の多様化」の下において様々な要因が複雑に作用し、その現れ方もまた多様である。それを背景にして社会的障壁の分類研究が深化することは、障害学にとって従前に一言でディスアビリティとだけ言及されていた鍵概念が、インペアメント、ジェンダーやエスニシティなどとも交差していることを浮上させることになる。それは、障害の社会モデルを進化させていく契機になり得ると思料する。
(3)多様性の一要素としての「障害」を包摂した共生の在り方
 堀正嗣(2021)は杉野昭博を引用しながら、障害学は障害者への差別・抑圧に対して「抵抗する学」であることを述べた上で、その「抵抗」に2つの方向があると指摘している。1つは「解放の障害学」であり、「抑圧からの解放」を目指すものであった。そしてもう1つは、障害者を「できない存在」として抑圧する根源に人間の価値を商品化によって測定しようとする資本主義社会の在り方を超克し、それに代わって新たに築くべき、共に生きる社会を目指す「共生の障害学」であった。そして、堀はこの「共生の障害学」では同じように社会のメカニズムによって抑圧されている人々の解放を目指すフェミニズムや反貧困運動との連携が欠かせないことを強調している。
 障害学が超多様性を軸にして移民研究との接点を持ち、それとの学術的連携を果たしながら堀が言う「共生の障害学」というものを構想した場合、それがまず取り組むべきことは、次の通りである。それは、移民、障害者をそれぞれ相互に断絶、隔離した存在として捉え、その延長で社会の在り方を考えるのではなく、両者が超多様性の中に存在しながら、同時にその多様性であることが人間尊厳・人権保障であるという思想に裏付けられた、インクルーシブである新たな社会関係、即ち「共に生きる社会」の構想ではないかと考えたい。
 先のMartín-Cano らも、障害とエスニシティが結びついて語られるとすれば、それは共生(conviviality)に基づくものでなければならないことを強調し、両者ともに差異というものに対する現実の指針を示唆する概念であるとしている(Martín-Cano et al., 2020)。超多様であること、すなわち障害も含めて差異が複雑に存在していることに対して、それ自体に価値を見出す社会の在り方が問われているともいえるのであり、そこに超多様性が障害学の進路に対しての貢献が考えられるのではないか。

6.結語
 本報告では、移民研究から生まれた超多様性概念を障害学に導入することの意義について試行的に論じてみた。超多様性を通して移民研究と障害学との架橋を意識した研究はまだ少ない。しかし、少なくともグローバルな観点から言えば、障害のある移民の存在を無視しては、Martín-Canoら(2020)の言う“dual vulnerability”によって抑圧されてしまうことを傍観してしまうことになりかねない。日本社会が果たして、Vertovecの言う超多様性という状況に値するかどうかは議論のあるところだが、かといって実質的に移民の受け入れに転換したとされる状況の中で、グローバルな趨勢から孤立して、一人達観を決め込むわけにはいかないであろう。
 同時に、グローバルな趨勢とは例え日本社会が無縁に存在し得たとしても、超多様性概念というものが堀の言う「共生の障害学」にとって1つの道標になり得る可能性もまた想定し得るのである。この点についてはまだ十分な洗練化が果たされておらず、その分、議論の余地も大きいので、引き続き理論的な深化を目指してみたいと考える。

 本報告は、JSPS科研費22K01998の助成による研究成果の一部である。また、研究の遂行にあたり報告者各自の所属機関および日本社会福祉学会の倫理指針を遵守した。原稿の執筆にあたり自説と他説を峻別した。

【文献】
Crenshaw, K., 1989, “Demarginalizing the Intersection of Race and Sex: A Black Feminist Critique of Antidiscrimination Doctrine, Feminist Theory and Antiracist Politics,” Yale Journal of Law and the Humanities, 2: 343-379.
Duda-Mikulin, L., Scullionb, L. & and Currie, R., 2020, “Wasted lives in scapegoat Britain: overlaps and departures between migration studies and disability studies,” Disability & Society, 35(9): 1373–1397.
Geldof, D., 2016, “Superdiversity and the City,” C. Williams, ed. Social Work and the City: Urban Themes in 21st-Century Social Work, London: Palgrave Macmillan, 127-149.
Hollinger, D., 1995, Postethnic America: Beyond Multiculturalism, New York: Basic Books (=藤田文子(訳), 2002, 『ポストエスニック・アメリカ: 多文化主義を超えて』, 明石書店).
堀正嗣, 2021,『障害学は共生社会をつくれるか――人間解放を求める知的実践』明石書店.
Kirwan, G. ,2022. “Superdiversity Re-imagined: Applying Superdiversity Theory to Research Beyond Migration Studies,” Current Sociology, 70(2): 193-209.
Martín-Cano, Mª.C., Sampedro-Palacios, C.B., Ricoy-Cano, A.J., & De La Fuente-Robles, Y.M., 2020, “Superdiversity and Disability: Social Changes for the Cohesion of Migrations in Europe,” International Journal of Environmental Research and Public Health, 17: 6460.
Martiniello, M., 2004, “How to Combine Integration and Diversities: The Challenge of an EU Multicultural Citizenship,” Vienna: European Monitoring Centre on Racism and Xenophobia, Discussion Paper.
三宅和子, 2016, 「社会言語学の新潮流: ‘Superdiversity’が意味するもの」, 『早稲田日本語教育学』, 20: 99-104.
宮崎康支, 2020,「Super-diversity(超多様性)は日本の障害当事者を包摂するか」障害学会第17回大会.
Phillimore, J., Liu-Farrer, G., & Sigona, N., 2021, “Migrations and Diversifications in the UK and Japan,” Comparative Migration Studies, 9(1): 1-18.
Snoddon, K. & Underwood, K., 2018, “The Social Relational Model of Deaf Childhood in Action,” K. Runswick-Cole T. Curran, & K. Liddiard, eds., The Palgrave Handbook of Disabled Children’s Childhood Studies, London: Palgrave Macmillan, 85-100.
Stone, C.& Mirus, G., 2018, “The Development of Deaf Legal Discourse,” The Routledge Handbook of Language and Superdiversity, London: Routledge, 442-455
Vertovec, S., 2007, “Super-diversity and Its Implications,” Ethnic and Racial Studies, 30(6): 1024-1054. (=齋藤僚介・尾藤央延(訳), 2020, 「スーパーダイバーシティとその含意」, 『理論と動態』, 13: 68-97).
 

■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。

〈2022.9.2 会員から〉
日本学術振興会特別研究員PD/中央大学 伊東香純

ご報告、先行研究が丁寧に整理されており、たいへん勉強になりました。「インターセクショナリティ」と「超多様性」の概念の相違点、関係がよくわかりませんでしたので、ご教示いただけましたら幸いです。

〈2022.9.6 報告者から〉
ご質問ありがとうございます。
以下、私たちの解釈になりますが、回答申し上げます。

1.インターセクショナリティ
・フェミニズムから生まれた、アメリカ発祥の概念
・従前において、差別されている状況、あるいは逆に優遇されている状況の存在を前提に、それを引き起こすとされるある特定の属性(例、ジェンダーなど)が想定されてきた
・それに対して、その特定の属性単独ではなく、さらに異なる属性(例、人種)とそれが絡み合いながら、差別や優遇を引き起こしていることを示す必要性を強調することになった
・加えて、複合的に属性が交差する中では、ある特定の属性を一にする集団の中でもさらに差別的、あるいは逆に優遇的な地位にあるサブ集団があることを提示し得た
→ある差別状況、優遇さというものを分析するにあたって、特定の属性のみではなく、様々な属性の交差からそれらを分析しようとしている点に特徴

2.超多様性
・移民研究から生まれた、イギリス・ヨーロッパ発祥の概念
・ホスト社会は、移民というものを、ある属性(例、民族)を一にする、まとまりのある集団としてとらえ、かつそうした移民の均質性を前提にホスト・移民の関係を単純な二元論で捉えてきた
・それに対して、移民という集団は、実際はその内部でも極めて多様であること、その意味での「多様性の多様化」という視点をもたらした
・当初は移民に対してのみに向けられていたものだったが、移民に対するホスト社会側の多様性というものについても逆照射する動因を秘めたものとして期待されている
→ある共通する属性を有する集団であっても、それは均一・均質なものではなくその内部にはさらに複雑多岐にわたっているとう視座から、その集団の特性分析を試みる点、あるいはそうした集団の枠を超えて社会全体を見据え、全体社会においても多様性が極めて複雑多岐にわたっていると見なす点、あるいはそれを出発点にするところにその特徴がある

以上を私たちなりに纏めた上で、両者の「関連性」について述べますと、インターセクショナリティと超多様性は、どちらも属性間の交互作用に着目している点で共通性があります。

その一方で、インターセクショナリティはその発生経緯からして、属性間の交互作用を明らかにして社会的抑圧にあがなうべく発生した概念であり、超多様性は社会的集団内の交互作用の存在をむしろ出発点とし、冷徹に分析しようとしたものであるという相違点があると私たちは考えています。

今回の報告では引用しませんでしたが、2019年にSteven Vertovecが”Talking around
super-diversity”という論文を発表しています。この論文の中にはインターセクショナリティの概念があれば超多様性の概念は不要ではないか、という主張に対する反論が述べられています(Vertovec
2019: 134)。そもそも、インターセクショナリティは米国発祥の概念であり、超多様性は欧州発祥の概念であるという前提を押さえておく必要があります。ですから、米国で超多様性に関する研究が少ないのは、既にインターセクショナリティ概念があり、それで十分に分析が可能であるという主張もあるそうです。しかし、Vertobecによれば、インタ―セクショナリティは移民のパターン発生とその帰結に着目する一方で、超多様性は複数の変数による交互作用が存在する移民パターンを統合し、分析するものだというのです。

実際のところ、この2つの概念の捉え方、関連性についてはさまざまな議論があるようです。
少なくともインターセクショナリティと超多様性の関連性については、私たちは以上のように理解しています。

以上、少しでもお答えになっていれば幸いです。
繰り返しになりますが、ご質問ありがとうございました。

【文献】
Vertovec, S., 2019, “Talking around super-diversity,” Ethnic and
Racial Studies, 42(1): 125-139.

〈2022.9.11 会員から〉
伊東香純(日本学術振興会特別研究員PD/中央大学)
ていねいにご回答いただき、ありがとうございました。それぞれの概念の背景がよくわかりました。
さらに「超多様性」は不要ではないかという批判に対する反論を紹介していただき、「統合し、分析する」についてもう少し知りたいなと思いましたが、そのような議論があることがわかり、勉強になりました。
精神障害、精神疾患と診断される人の中には、その社会の構成と比較して特定の人種、民族的な背景の人が多いといわれます。そのような状況の分析に「超多様性」は使えるのかなと考えながらご回答拝読しました。


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