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質疑応答は文章末です


ろんりの むすびめの ひとつ、「フェイ」(fay/ようせい)の がいねんと「いまここの コミュニケーション」こういの かんよ

かわぞえ ねむる


0 りんりてき はいりょ いっぱん

いんようの なかの しんたいてきな ひゆにわ、たんごに かせんお ついかしてあります。その ことばの つかわれかたに たいして ひはんてきに よむように おねがいします。
はっぴょうでわ「むすびめ」という ことばお つかいます。「め」わ、かんじで「目」とされる ことから、しんたい ひょうげんなのか しらべ (1) かんがえましたが、ぞうきと しての「め」ないし「みる」という いみと つながって いない、またわ つなげて つかわれていると おもいにくかった ことから、この ひょうげんお もちいることと しました。
わたしわ かこの たいかいの りんりししん (2) お まもり、その せいしんお そんちょうし、そこから はってんする ぎろんと たいわに たいして「たいわお して、マイノリティの ひがいお ゆうせんする ぎむ」があることお、ここに かくにんします。
この はっぴょうの ぶんりょうの きていわ、ちょうせいにより 10500もじ です。たいかいきていにわ とくに かかれて いませんが、ちょうせいわ おこなえます。より おおくのかたが はっぴょうできる ことお ねがい、わたしも そのための やりかたについて じょうほうお ていきょう したいと おもいます。

1 はっぴょうの こうせい

この はっぴょうでわ、しょうがいされ むりょくかお ともなう コミュニケーションに たいして むきあう ほうほうについて かんがえます。わたしが かんがえる きっかけとして、たいわの なかで しばしば「ちょうせいが できない りゆう」かのように もちだされる ものとして、「(ここにいる あなたでも わたしでもないが)だれかが 〇〇なので むずかしい」という「せつめい」の けいけんが あります。こんかい、この「だれか」お しめす はんいに たいして「フェイ(ようせい)」という がいねんお、そうぞうする ことにしました。
「フェイ」という たとえ わ、それが こうしょうちゅうに ほのめかされ、あるときわ「りゆう」として  ものがたられても、そのはなしが つぎにすすめば、もう ほとんど そんざいしない(かのような)あつかいお うけている ことから、ちゃくそう しています。フェイが いっぽうてきに かたられるとき とわ、はなしのなかで「わかりきった」(とされる)はんのうや ひはんお あいてが あらかじめ そうていし、「そのひはんや ぎもんわ すでに おりこみずみである」かのように して、けつろんお さだめておいた ところえ おこうとする こうい・げんしょうと かかわりがあります。このような ろんぽうお「ろんりの むすびめ」と よんでみます。
「フェイ」という がいねんと「ろんりの むすびめ」という がいねんについて、かんがえお まとめます。また それらで わたしたちに おこなう むりょくかに たいして、どのような たいどが ありえるのかも しょうかい します。

2 「カウンターの むこうの むこう」えの そうぞう

「フェイ」という そうぞうお わたしが するにいたる まえの だんかいとして、わたしが「こうしょう」の さいちゅうに かんじた ふしぎな かんかく、というものが あります。
わたしが だれかと こうしょうお するとき、はなしのなかに どことなく いま こうしょうお している「わたし」でも「あいて」でもなく、「だれか・なにか」としか いえない ものの そんざいお、かんじとる ような けいけんが あります。じぶんが まどぐちに でむき、そしきとの やりとりお ちゅうかいする「たんとうしゃ」という やくわりの かたと 1たい1で はなしお したときにも かんじましたし、ほかのかたの こうしょうに どうせきした ときにも、だいさんしゃの こうかい しつもんじょうに たいする こうかいの かいとうお よんだときにも、かんじます。
わたしわ カウンターごしに「たんとうしゃ」えと、なんらかの ニーズお つたえる。「たんとうしゃ」わ それお もって カウンターの うしろに いったん さがり、そしきの ないぶで けんとうする。そして、わたしわ けんとうした「けっか」というものお つたえられる。しかし、その けっかお せつめいされるかぎり、どうも いま このばにいる わたしよりも なにか ほかの ことお はいりょするのに きお とられている。そのような たいど・ふんいきお かんじてしまうことが(それなりに)あります。
そのような「せつめい」「こうしょう」お けいけんしていく なかで、くうそうとして いま わたしと「たんとうしゃ」お へだてる カウンターの むこうがわ・うらがわに、もうひとつ カウンターがあって、「むこうがわ」のかたと さらに りがいお ちょうせいしている のでわないか? そのような「カウンターの むこうの むこう」お かんがえる ようにも なりました。
もちろん「カウンターの むこうの むこう」のかたわ、くうそうでわなく いるのかもしれません。なんといっても「たんとうしゃ」とわ、りがいかんけい かくしゃの ちょうせいお するはず なのですから。もっと ちょくせつてきに、「たんとうしゃ」わ その そしきの じょうしから かんよお うけますし、「たんとうしゃ」のかたが しんじていたり、つよい りがいかんけいに ある きはんも、こうしょうに えいきょうお あたえています。
しかし、わたしが このような かていお するなかで やや うたがわしく おもうのわ、「たんとうしゃ ないし そしき」(つまり「カウンターの むこうがわ」)わ、わたしたちに たいして「カウンターの むこうの むこう」が あるかのように ふるまい、ときに はっきりと「(あなたの ニーズに こたえられない)りゆう」として その そんざいお はなしに もちだしてくる ことさえ あるけれども、そういう ものわ いるようで いて いないことも あるのでわ ないか? ということです。そのように うたがってしまう さいたる けいい としてわ、こうしょうに おいて「むこうの むこう」なるものお そのばに よんできた ためしが ないし、ぜったいに そうする つもりの なさお「カウンターの むこう」から かんじとる から なのですが。
これが わたしが むりょくかお かんじる こうしょうの けいけんの ひとつです。じっさいに「だれか」が いるの ならば、たがいに りがいお つたえ、ちょうせいお こころみることも できます。ちょうせいとわ、そういうことです(よね?)。しかし「コミュニケーションかのうな しゅたいとしてわ、あいてお あつかわないでほしい」かのように、「カウンターのむこうの むこう」なるものが「カウンターのむこう」によって、アウトソーシングされた「(できない)りゆう」として つたえられるとき、わたしたちわ「カウンターのむこう」と「カウンターの むこうの むこう」の りょうほうから こうしょう・ちょうせいする ゆうこうせいお ひていされています。
「いる」けど「いない」。「いると しんじて いるし、いま あなたとわ そのていで はなしお してほしい」が、どうじに「いない とも しんじてほしい」。そのような メッセージお、むりょくかされる タイプの コミュニケーションからわ かんじます。
しんじること・しんじていること・しんじられていること・しゃかいから しんじられていると しんじていること・あいてが しんじているだろうと しんじていること・あいてが しんじるだろうと しんじること。これらが ごちゃまぜに なっています。(ぶんりが できる ようでいて、しんじると いう げんしょうわ それらが どうじに かさなりあっても いるのかも しれません。)
ともあれ、そのように ていじされた「(できない)りゆう」お わたしたちが そのまま うけいれたとき、「ニーズが かなわなくても しかたがないことだ」と あきらめることと なるのですが、これもまた むりょくかされていくような けいけんです。
そこで わたしわ、そのような たいわのなかで すいそくされる「(わたしでも あいてでもない)だれか」、またわ あいてから もちだされる そのような「りゆう」に たいして、「フェイ」という がいねんで かいしゃく してみる、ということお はじめました。

3 「フェイ」お かていする ということ

「フェイ」とわ なんでしょうか。フェイ (fay, fae) わ fairy とおなじ ことばで、ようせいのことです (3) (4) 。はなしのなかで あるときわ もちだされても、それに アプローチしようとした つぎの しゅんかんにわ、さも いない かのように はなしが すすめられようとする「だれか・なにか」の じつざいに かんして、「あれわ フェイ なのでわないか」と おもってみる ことわ、わたしえの むりょくかお やわらげる こうかが あったと おもいます。
わたしわ こんかい「フェイ」という なまえお つかいましたが、これまでにも「そんざいお ぜんめんてきに うけいれるのでなく、うたがいお さしはさむ」ように さようする ことばや がいねんわ、ふくすう つかわれて います。「しょうたいの はっきりしない あいて、たいしょう」お あらわす「ぬえ」 (5) (6) などです。ただし こんかいわ「フェイ」お、しゃかいてきに こうちくされる きょこうのなかでも すこし げんていされた はんいに かぎって みたいと おもいます。
フェイとわ、「げんせつによって こうちくされようとする、「しんじられている」とされる こと」です。たとえば、”あなたに はいりょお すると、ほかのかた から りかいお えることが できない” といった「りゆう」が その てんけいです。「ほかのかた」というものが、はなしに おいて それっきり その そんざいが しゅちょうされない のならば、フェイと とらえても よいかもしれません。いるかも しれませんが、それいじょうに あいての つごうの いいように こういと そんざいの はんいが コントロールされた キャラクターが いま ていじされているのだ、と。
さらに、「りかいお える」という ことばが あらわしている こうい・げんしょう じたいも、フェイと よべます。さきほどの れいでわ「(しょうがいお)りかいする、(しょうがいが)りかいされる という げんしょうが、しゃかいに そんざいする」という ぜんていで、はなしが ながれづけられている わけですが、それじたいも「そんざいすると しんじられている、と しんじている」という ことでもあり、かつ、そのかいわ じたいが「そんざいすると しんじられている、と いま あなたも わたしも しんじることに しましょう」という「はたらきかけ」である ともいえる からです。
“はいりょが いきすぎてしまう” ”ちょうせいによって、こんどわ びょうどうせいが たもたれなく なってしまう” と いう「りゆう」の ことばがけも そうです。そこでわ「いきすぎる」「たもたれていた びょうどうせい」と いった がいねんが あたかも そんざいする かのように(「そんざいしている だろうと しゃかい(ないし、その いちぶ)でわ しんじられている」という いちづけお つかいつつ)コミュニケーションの なかで それ じたいお「しんじることに する/した」お じつげんしようと しています。
コミュニケーションでわ、かたりの なかに フェイお かていしていく、フェイお かたる あいてお かていしていく、ということが たいせつだと おもっています。
フェイお ロジックに おとしこむと「わたしと あなたわ、Aとわ Xであると しんじているが、Bわ Aとわ Yであると しんじている ので、Aに Yします」という かたちお とることも あります。たとえば “がっこうでわ はいりょが あっても、しゃかいで それが つうようするとわ かぎらない から、がっこうでも はいりょしないのが ためになる” という ロジック(と されるもの)です。ここでわ「しゃかい」ないし「つうようする」という がいねんの なかみ、それお あいてが しんじていること、しんじられているだろうと しんじていること、が フェイで ありえるのですが、この ろんぽうわ それに たいこうする たんじゅんな じじつの ていじお しても、けつろんお かえることお こばもうとします。つまり すでにある「はいりょが ある(つうようする)しゃかい」の じつれいお もちだしても、「はいりょお しない しゃかい」の はんい・かのうせいについて、つど たいしょうお こうたいさせながら、にんいに「つうようしない」じれいお えんごしていく からです。
“しょうがいしゃに いえお かすと あぶないことが おこるかもしれない” ”あなたえの はいりょわ だれかから ずるいと いわれるかもしれない” の「かも」という はんい の フェイも そうでしょう。このような ロジックわ、ろんりの ようでいて、けつろんにたいする ぎもんお いちりつに ひていするような はたらきが あります。ろんりで むすびめお けいせいしている とも とれるかもしれません。つぎわ「ろんりの むすびめ」というものについて かんがえてみます。

4 「ろんりの むすびめ」

ろんり、ないし ろんりの ように ていじされる ものの なかにわ、ときに けつろんえの しゅうせいお うけつけない ものが あります。うけつけないこと じたいお もくてきとして、それが おかれる ということも よくあります。ろんりお ひとつの ひものような もの だとして、これお「ろんりの むすびめ」(logic knot) という たとえで にんしきして みたいと おもいます。
「ろんりの むすびめ」にわ いくつか パターンがあります。ひとつわ「ろんりてきにわ みちびけない ぜんてい からの けつろんお、ごういんに みちびいているかのように むかわせる」という ものです。さきほどの れいお だすと、もしも そのばにいる あなたも わたしも「さべつお するべきでわ ない」お しんじることにするの だと すれば、「これから ちょうせいお しない」という けつろんわ、みちびけません。しかし、「しゃかい」お もちだします。「(わたしと いうよりも)しゃかいが さべつてき である」という しゅちょうお けいゆする ことで、「ちょうせいお しない」という けっかに つないでいく、そのような ロジックの ようなもの です (7)。
あるいわ “はいりょに なれたら、くせに なってしまう” という ひょうげんについて かんがえます。これわ はんしょう じたいが できないこと から「かのうせいが ひていしえない」という ことお けいゆして、「くせになる(ことわ よくないこと)」という あやまった ぜんていお むじょうけんに こうていし、ひはんに たいする さいひはんに かえようとします。
これらわ「さだめられた けつろんと、しんじることにした ぜんていとお、ろんりせいお こえながらに つないでしまう」かの ような こうい・げんしょう として あります。なぜ これが ろんりの むすびめ として はたらくのか というと、しゅちょうの ぜんたいの なかで、それわ けつろんえの ひはんや はんしょうに たいして「おりこみずみ である」ということに していこう とする さようが あるからです。ひはんお むりょくかし、さだめた ひとつの けつろんえと みちびく ものとして この ろんりの むすびめ わ りようされます。
べつの パターンとして、「どこにも いきつかない えと いきつかせる」というものが あります。れいお だすと さべつてきな げんしょうに たいして、とおまわしに “さべつに つながる おそれが ありえる” などとして はんだんが ほりゅうされようと するとき、その「おそれ/つながり/かのうせい」が さんしょうする はんいわ、そうぞうお ともなわせることお つうじて むげんえと ひきのばされます。「〇〇わ さべつであったか」と「さべつで あるものわ、どう しょぐう するべきか」という ふたつの あいだお、むげんの きょりで つなぐ。それわ すなわち「いきつかない こと・つながらない こと」じたいが しゅちょうの なかで のぞまれており、これわ そのための「いきつかせない ために いきつかせる ばしょ」として よういされた「けつろんで あって けつろんでわ ない ばしょ」です。ようするに さべつの「おそれ」という クッションわ、じけんの さべつせいと その しょぐうの つながりお けんとうする ようでいて、けんとうしない こうかが あり、また それこそが その ぶんの いみです。
コミュニケーションの なかでわ、ろんりに むすびめが おかれていないか ようじんすることも たいせつです。

5 サンタクロース(システム)との るいひ

フェイが ろんりの むすびめの ように こうかするとき、コミュニケーションわ、あるいわ コミュニケーションにおける あなたと あいてとの かんけいわ、どのような ものと なっていく のでしょうか? ひとつの れいから すいそくします。
フェイの ひとつとして「あなたも わたしも、〇〇が そんざいしないと わかっているけれど、それいがいの だれかわ しんじているので、それにはいりょして、ある かのように あつかいましょう」という ていの ものが あります。このいみでわ「フェイ」とわ「ぬえ」よりわ「サンタクロース」という がいねんに ちかい かもしれません。
「サンタクロース」わ、「クリスマス」という しゃかいシステムお こうせいする がいねんです。「クリスマス」の しゃかいてきな いみ ないし やくわりわ、ふくすうに のべることが できます。(ここ すうじゅうねんの にほんとされる ちいきで ゆうりょくで あったで あろうもの という ただしがきが つきますが、)ねんじゅうぎょうじ であり、しょうひけいざいが わかりやすく げんじつか する イベント です。プレゼントが やりとりされます。まずしいかた えの きふが あつまる じきです。「こどもたち」お もてなす ぎょうじ であるとともに、こどもと おとなの あいだの とみの さいぶんぱいの ほうほうの、きていかされた でんとうの こと でも あります。ここでわ、しほんと けんりょくと さいぶんぱいの ふこうへいせい(つまり、ふくしせいど)として かんがえます。「おとな と こども」「ほごしゃ と ひほごしゃ」「とまされた もの と まずしめられた もの」の あいだの しゃかいかんけいの ことです。
「クリスマス」という システムわ、さいぶんぱいが それいがいの やりかたで おこなわれる かのうせいの けんとうお、そらす けいこうに あります。どういうことかと いうと、おおくのばあいに おいて こども(など)わ クリスマス いがいの ときに ものお しゅとくする きかいが せいげん されています。(れいがいわ ありえますが、しゃかい ぜんたい としてわ つうねんで コストカットに なります。)「なぜ そもそも プレゼントお あげられる たちばと もらうばかりの みぶんが しゃかいに あるのか」という といも、わりに ごまかされます。
もちろん「クリスマス」にわ さいぶんぱいの こうかが うすいこと、けいざい システムいっぱんに ふびょうどうせいが つよいこと、しほんえの アクセスほうほうも(それいがいも)おとなと こども にわ けんりょくかくさ があり、それが ときに あからさまな ぼうりょくでも あること などに たいしてわ、しゃかいの もんだいとして すでに ひはんが されています。しかし、「サンタクロース」が あります。「クリスマスお たのしみにする こどもがいる」と しんじられている、と しんじられています。いちねんのなかで しほんの はいぶんに ふあんていせいが あるとしても、それお ふくめて たのしんでいるのだ、と。「こどもの ために サンタクロースお しよう」が ろんりの むすびめとして はたらき、「クリスマス」や それと つよく かんよする しゃかいえの うたがわしさお、かわします。「サンタクロースわ いない」でも あるのですから。こどもたちも きょうりょくお しています。ひとつわ ほんとうに「クリスマス」お よろこぶことによって。もうひとつわ よろこぶ よろこばないに かかわらず、よろこぶ しゅたいとして はなしに くりかえし ひきあいにだされる ことによって。
ふくしせいどと しょうがいされる わたしたちの かんけいせいも おなじです。そして わたしたちわ、ほんとうに それお よろこんでも います。こどもたちと おなじく、げんじょうに ふまんお もち、じぶんにかんして しんじられていると しんじられていることに へだたりお かんじつつ、それお はたすのが わたしたちの やくわりであり しゃかいとの かんけいせい だからです。パラリンピックも そうです。

6 めいうんの なまえ

わたしたちとフェイ、わたしたちと コミュニケーションの かんけいせいお もういちど かんがえます。
むりょくかされる コミュニケーションに おいてわ、あいてから「しんじられていると しんじられていること」が もちだされる ことがあります。しかし、じぶんじしんも たいわのなかで フェイお もちい かたることも あるはずですし、あなた そのものが ほかの ばめんでわ、フェイとして もちいられている ということも あります。
れいとして、いちむらみさこ さん という のじゅくしゃの かたが おしえてくれた はなしお します。
くやくしょが まちで ねている のじゅくしゃお はいじょしようとする いやがらせとして、「この ばしょわ しょうがいしゃの かたたちに かだんの みずやりお おねがいしているから、みずびだしで ねられなくても しょうがない」という ないようのことお つたえてきた、と。
ここでわ、やくしょが きたいするところの「こうしょうが ふかのう(かのよう)な あいて」としての、「しょうがいしゃ」という かたられかた、やくわり、そして わたしたち おのおのの そのやくわりに たいしての きょうはんせいが ありました。
フェイお かていする ということわ、むりょくかされた やりとりに たいして「そうだから」ないし「そうなっているから」と、じたお むりょくなものとして なっとくさせて いた「めいうん」の ようなものに、べつの にんしきお さがす きっかけです。その あとわ、コミュニケーションにたいして どのように むきあうと いいのでしょうか?
「トランスジェンダーを含まない「性的少数者雇用差別禁止法案」は撤回せよ」(8) という、アメリカにある National Gay and Lesbian Task Force だいひょうが 2004ねんに じぶんたちの うんどうお はんせいてきに ふりかえった ぶんしょうから、さいごに ヒントお もらいます。

後から考えてみれば、自分はニューヨークで間違いをおかしたとしか言えません。その辛い経験から、わたしは雇用差別禁止法案にも関係のある3つの教訓を学びました。
最初の教訓は、政治家が最初に口にする事、すなわち「トランスジェンダーを法案に盛り込むと廃案になる」という言葉を鵜呑みにするなということです。
(りゃく)
議員たちは「君たち同性愛者のことについて他の議員たちに理解してもらうまで長い時間がかかったんだ、トランスジェンダーなんてとんでもない」と言っていました。
(りゃく)
後付けで言うならば、こうした判断は間違っていました。有権者が強く要求するならば政治家はそれに答えざるを得ないのだし、そもそも有権者には政治家に何を要求するか決める権利があるはずです。もし法案にトランスジェンダーを含むよう何年も前から主張していれば、それがすぐに実現することはなかったとしても、いつかは実現していたはずです。わたしがトランスジェンダーを含むことに抵抗していた理由の一部は、わたしたちはほんの少ししか勝ち取る事ができず、あまりに多くを要求すると全てを失ってしまうという思い込みでした。しばらく運動を続けているうちに、より多くを要求すればより多くが実現し、より強く圧力をかければより早く実現するとわたしは気づきました。
(りゃく)
さらに言うなら、「この部分さえ妥協すれば今年こそ〜が実現する」という考え方に騙されないという事も必要です。
(りゃく)
今になって考えるなら、「〜さえすれば」という思考方法自体が、わたしたち自身の勝手な思い込みであると同時に、支持者が自分から離れることをおそれた議員たちがぶらさげるニンジンであり、議会閉会とともに消滅する種類のものであることに気づくべきでした。
(りゃく)
いま、こうした状況は変わらなければなりません。今ある形の雇用差別禁止法案を廃止し、わたしたち全ての権利を守る新しい差別禁止法を推進しましょう。

7 まとめ

コミュニケーションの なかに「フェイ」お そうぞう しましょう。それわ「ろんりの むすびめ」が もたらす むりょくかに たいして「めいうん」とわ ことなる にんしきお あなたに もたらすかも しれません。
たいせつなのわ フェイが「あなたと あいてとの いまのコミュニケーション」お どの ほうこうに みちびくもの として ありそうなのかお かんがえること、そして「しんじる」という げんしょうが かなり ざつぜんとしている ことお かんじとること、の 2つだと おもいます。(そのうえで、「たんとうしゃ」「カウンターのむこう」という かんがえじたいも、ぜったいとわ おもわなくて よいとも いえます。)
ただし、このかんがえかたが つねに コミュニケーションや あいてお いっきに かえる とわ かぎらない かも しれません。「それって フェイなのでわ ないですか?」と うたがいお ていじしても、あいてわ それも「おりこみずみ である」かのようで あることお、のぞむことも よそうされるからです。
それでも コミュニケーションとわ きょうどうこういであり、あいてからわ「このコミュニケーションによって いま あなたに なにが もとめられているのか」が より こうぜんのものと しめされるかもしれません。そこから、あいて ないし「しゃかい」が なにお しんじようと しているのか、しんじられている ということに したいのか、ということお しってゆくことが できるかも しれないと、おもいます。

8 さんこうぶんけん・ちゅうしゃく

(1) google辞書ボックス (Oxford Languages)「目 辞書」https://archive.ph/RnGgi
《接尾》2. 点または線のようになって、他と区別される状態になった所。「結び―」「割れ―」「境―」。
(2) 「一般研究報告の募集 – 障害学会 第14回大会」https://archive.ph/q3BiW
(3) 語源英和辞典「fairy 意味と語源」https://archive.ph/LgTLs
(4) Online Etymology Dictionary「fairy」https://archive.ph/1dx0d
(5) 小学館 デジタル大辞泉「ぬえ」https://archive.ph/mq2eD
(6) 実用日本語標準辞典「鵺のような」https://archive.ph/W6qTD
(7) toled (常野雄次郎) 2008「手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別」https://archive.ph/EbzIo
にて かかれている ところの「おじさん」などからも、この はっぴょうわ えいきょうお うけています。
(8) Matt Foreman [こうわ にほんご ほんやく macska (小山エミ)] 2004「トランスジェンダーを含まない「性的少数者雇用差別禁止法案」は撤回せよ」https://archive.ph/lDlaj
Matt Foreman 2007「Reflections from a previous battle」https://web.archive.org/web/20090219074214/ https://www.thetaskforce.org/blog/20071026-matt-foreman-reflections


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