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2010-2013障害者制度改革の研究
総合福祉部会と「政策形成」過程への当事者参画

有松 玲(立命館大学)


1. はじめに
総合福祉部会(以下、福祉部会)の副部会長であった茨木尚子(2013)は「あるべき方向に向かう具体的な議論が当事者を中心に開始されなければならない。そうでなければ、障害者制度改革は『頓挫』したままになってしまう。」と述べた。また、同じく副部会長の尾上浩二(2013)は障害者総合支援法について「『自立支援法一部改正』にとどまった」と述べ、構成員であった藤井克徳(2013)は「一口で言えば障害者自立支援法のマイナーチェンジで、提言はほとんど反映されなかった」と評している。
上記のように、総合福祉部会がまとめた「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言」(以下、骨格提言)が障害者総合支援法(以下、総合支援法)にごくわずかしか反映されず、結果的に当事者が望んだ抜本的制度改革とはかけ離れたものになってしまった。何故このような事態になったのか。総合福祉部会の議論を中心に、その周辺の政治動向とそれに関連して公共政策形成過程への当事者参画がいかに切り崩されていったのかを考察する。

2. 総合福祉部会の始まり
(1)障害者自立支援法違憲訴訟と基本合意文書
2003年に開始された支援費制度は社会福祉基礎構造改革の下、措置制度から契約制度になったが、予算不足に陥り瞬く間に破綻した。支援費制度に代わり、2006年4月に障害者自立支援法(以下自立支援法)が施行された。この自立支援法は支援費制度にはなかった原則1割の応益負担や介護保険制度に倣った障害程度区分が導入されたことにより、障害者のサービス利用は制限された。中でも応益負担は、年金・手当を含めた年収が200万円以下は98.9%、うち60%は100万以下(2012年きょうされん調査)である障害者にとって厳しい負担となり、以前には利用できていた介助等の利用を自粛せざるを得ない事例が後を絶たなかった。
そのような中で「自立支援法は障害者の人間としての尊厳を傷つけるもので違憲である」として2008年から全国で集団訴訟が行われた。2009年の政権交代までそれは続けられ、2010年1月7日に国と訴訟団とが基本合意文書を取り結んで裁判は終結した。この基本合意文書に書かれた「今後の新たな障害者制度全般の改革のため、障害者を中心とした『障がい者制度改革推進本部』を速やかに設置し、そこにおいて新たな総合的福祉制度を策定することとした。新たな総合的福祉制度を制定するに当たって、国(厚生労働省)は、今後推進本部において、原告団・弁護団提出の本日付要望書を考慮の上、障害者の参画の下に十分な議論を行う。」という合意事項を基に内閣総理大臣が本部長である障がい者制度改革推進本部と、そのもとに閣議決定により2010年1月に障がい者制度改革推進会議(以下、推進会議)が作られた。推進会議は新たな障害者福祉法制定のための福祉部会を設置することを決定した。そして2010年4月27日に第1回福祉部会が開催され、第19回(2012年2月8日)まで審議が続いた。推進会議、総合福祉部会は基本合意文書によって開かれ、基本合意文書は障害者自立支援法違憲訴訟によって結ばれた。つまり、尾上(2013)が指摘したように、障害者制度改革は自立支援法に反対する、運動史上最大といわれるデモ・集会・裁判・宣伝・ロビー活動等、様々な障害者運動によって成立したのである。
(2)政権交代
2009年8月の衆議院選挙で民主党が大勝し、社民党との連立政権での政権交代が実現した。この選挙の民主党マニュフェストには政策各論の26番目に「『障害者自立支援法』を廃止して、障がい者福祉制度を抜本的に見直す」と書かれていた。その具体策には「『障害者自立支援法』は廃止し、『制度の谷間』がなく、サービスの利用者負担を応能負担とする障がい者総合福祉法(仮称)を制定する」とあり、政策インデックスでは「障害者と共に、新たに障がい者総合福祉法を制定」ということが謳われていた。民主党政権は障害者の声を大切にしながら政策を決定する、ということを旧政権との違いとして強調する戦略だったといえる。この戦略に対して岡部(2009)は「個々の『約束』もさることながら、構想されている政策形成の『かたち』がまず評価できる。この四年間は無駄ではなく,それだけのものができている、そのように思う。」と評した。このような戦略に沿って民主党は自立支援法違憲訴訟団と基本合意文書を交わした。そして、内閣総理大臣を本部長とし国務大臣を本部員とする障害者制度改革推進本部(以下、推進本部)を立ち上げ、推進本部の下に障害当事者が半数を占める障がい者制度改革推進会議が立ち上がった。この会議は内閣府に置かれ、担当室にも室長である東俊裕をはじめ、障害者や障害者運動の関係者が入った。総合福祉部会は推進会議の下部組織であり、厚生労働省内に立ち上がった部会である。
つまり、「政治主導」により障害者法制を変えるという民主党の戦略に基づいて、推進会議・福祉部会はあったのである。

3. 総合福祉部会の特徴
(1)55人の構成員
総合福祉部会は推進会議の下、障害者自立支援法に代わる新たな障害者サービス法を作ることを目的に立ち上がった。しかし、立ち上げ前から部会委員の人選が難航していた。推進会議の第4回(2010年3月1日開催)には担当室長である東が「総合福祉部会については例外的に早く立ち上げるということで、現在、人選等を進めている最中でございまして、大きさとかいろんな問題がありまして、確定するまでには至っていない状況です。」と推進会議で報告している。しかし、なかなか決まらず最終的に決定して推進会議に情報提供したのが第7回、4月12日である。東自身、第6回推進会議で「総合福祉部会のことについて今回発表できるということで話しましたけれども、まだ最終的な調整が済んでいないこともありまして、正式には次回の4月 12 日に発表できると思っております。ずっと待たせて申し訳ないんですが、御理解願いたいと思っております。」と述べている通り、厚生労働省(以下厚労省)との調整にかなり難航していた。この難航の原因は厚労省の官僚の抵抗に加え、政治状況もあったと考えられる。
当時の政治状況は沖縄の米軍基地移設問題で混迷している最中であり、内閣支持率が朝日新聞の2010年3月16日の調査で32%と一般的に言われる危険水域の30%とほぼ同数であった。福祉部会自体が政権交代を大きな要素の一つとして出来たものであるが、その足元である鳩山政権が沖縄基地問題で福島みずほ障害者制度改革担当大臣との亀裂が生じ、ぐらついていた状況であったために、旧勢力が攻勢に出てきても決しておかしくはない状況であった。
こうした政治状況の結果として、福祉部会の構成員は55人となった。その中には事業者や施設入所している障害のある子供の親の会の代表者もいた。福祉部会構成員である君塚(2011)が「少なくとも当事者メンバーがその障害をすべて代表しているのではないこと」や「声の大きな意見がまかり通りやすいと感じたことがしばしばである」等、55通りの様々な利害を持つ人々が選出されたことで、この障害者制度改革の大枠である当事者参画(=障害者の声の尊重)からズレが生じ、議論が尽くされたとは言えない事態が生じていたと指摘した。

(2)自立支援法一部改正法案(つなぎ法案)を巡る動向
福祉部会で自立支援法に代わる新たなサービス法が議論されている中、自立支援法の一部改正法案が2回にわたって上程された。いわゆるつなぎ法案である。しかし、つなぎ法案といっても、自立支援法の廃止は明記されておらず、時限立法ですらないため「つなぎ」とは言えなかった。1回目は、2010年4月27日、自民党・公明党の議員立法で提出される。同日、4月27日には福祉部会の第1回が開かれた。その福祉部会の2回目が5月18日に開かれ、障がい者総合福祉法(仮称)制定までの間の当面必要な対策について議論された。しかし、5月20日与党民主党と自公両党は、障害者施策3法案(障害者自立支援法、障害者虐待防止法、ハート購入法)の国会提出を目指すことで大筋合意したと新聞報道がなされた。そこで動いたのは「障害者自立支援法訴訟の基本合意の完全実現をめざす会(以下、めざす会)」と「障害者自立支援法違憲訴訟弁護団(以下、弁護団)」である。この2団体が連名でつなぎ法案に対する反対声明を5月24日に公開した。翌25日に民主党が衆院厚生労働委員会理事懇談会でつなぎ法案を提出し、28日には同委員会に委員長提案として緊急に付託することで民主・自民が合意した。堀利和(2012)は、この時参議院の審議が止まっていて、国会を動かすための国対マターとしてつなぎ法案が使われたと民主党ワーキングチーム座長に聞いたと言った。障害者団体の抗議は止まず、5月26日にDPIがつなぎ法案に対して緊急アピール文を公開し、27日、31日と「精神病」者集団や、めざす会事務局長太田修平が抗議声明を公開した。6月1日福祉部会の3回目が開かれ、障がい者総合福祉法(仮称)の実施以前に早急に対応を要する課題の整理(当面の課題)(素案)について議論するとともに、親会議体である推進会議議長あてにつなぎ法案に対して部会構成員一同の強い遺憾を示した要望書が提出された。
その要望書が6月7日の14回推進会議で紹介され、全日本ろうあ連盟の久松委員と全日本難聴者・中途失聴者団体連合会の新谷委員から推進会議としても遺憾の意の表明を求める意見があり、6月28日に本部長である総理大臣に第一次意見を手渡す際に一緒に福祉部会の要望書に倣った文書を手渡すこととした。この14回推進会議と同日には全国手話通訳問題研究会運営委員会からもつなぎ法案に対する抗議声明が公開されていた。さらに6月8日、つなぎ法案に反対する緊急大集会が国会周辺で開かれ2000人が参加した。このような経緯でつなぎ法案は6月16日時点で通常国会の閉会に伴い廃案となった。
2回目の上程は2010年11月17日の臨時国会だった。その臨時国会の衆院厚生労働委員会にて委員長提案により審議抜きで採決・可決された。この動きと前後して、11月2日障害者関係9団体がつなぎ法案の臨時国会への再提出と成立を求める声明を出した。この9団体とは①日本発達障害ネットワーク②障害のある人と援助者でつくる日本グループホーム学会③全国児童発達支援協議会④全国重症心身障害児(者)を守る会⑤全国地域生活支援ネットワーク⑥全日本手をつなぐ育成会⑦日本重症児福祉協会⑧日本知的障害者福祉協会⑨日本発達障害福祉連盟で、推進会議や福祉部会に委員がいる団体は①③④⑥⑦⑧である。これは、つなぎ法案で発達障害を法の対象として明記しているためである。また、推進会議と福祉部会の双方に委員を派遣している日本盲人会連合(現:日本視覚障害者団体連合)も重度視覚障害者を対象とした同行援護が明記されていることから、11月30日に会長自ら自民党幹事長につなぎ法案成立の陳情を行っている。それらの動きも後押しとなり、2010年12月3日に一部改正法案は成立した。これら一部改正法案の成立を願う団体の動きに対して、衆議院本会議可決(11月18日)後の11月19日の第9回福祉部会ではつなぎ法案に関する懸念の声が相次いだ。

「自立支援法改正法案の話は全く見過ごすわけにはいかない。推進会議、総合福祉部会の意見を踏まえているのかということで疑問を感じざるを得ない」(藤岡委員)
「私たちは緊急の課題についてかなり議論をいたしました。そして、障害者総合福祉法の制定以前に早急に対応を要する課題の整備、「当面の課題」というのをいたしまして、4つの緊急課題を提案しております。(つなぎ法案について)この際ですから立ち入って言っておきたいのです。つまり最も大きな問題であります例えば応益負担を排して応能負担にするかのようなことですけれども、しっかりと1割負担というのは残っているわけです。」(福井委員)

自立支援法一部改正に対して当事者間で意見の違いが顕在化した。その時、当事者参画が突き付けられた課題は徹底的に議論し、どれが正しい道なのかを定め、一致することであった。しかし、起きていることを封印し、ただ、まとまることだけが追及された。それは10回総合福祉部会で訴訟団弁護士の藤岡委員が以下のように発言したことに現れている。

「私はこの総合福祉部会の構成員として、改めまして、障がい者制度改革推進本部、会議、総合福祉部会、その構成員及びその関係者全てが、あらゆる困難を乗り越えて、一致団結して、平成25年8月までに障害者自立支援法を廃止し、それと同時に新しい総合福祉法をつくっていくべきだということで意思統一したということをみんなでここで確認し合いたいということで、意見を述べさせていただきます。」

また、担当室長の東俊裕(2011)は骨格提言がまとまったことに触れ、以下のように述べている。

「仮にまとまらない状態で終われば『Nothing about us without us!(私たち抜きに、私たちに関することを何も決めるな)』というかけ声は分かるが、関係当事者に任せたところで自らの問題さえまとめられないといった批判若しくは落胆の声が沸き起こり、部会も含め推進会議の存在価値に対する信頼感を大きく損ない、ひいては制度改革を頓挫させることにもなりかねない事態となっていた。そういった意味で、この日の部会は長年培われてきた日本の障害当事者や関係者全体の力量、見識、良識といったものが問われた歴史的な1日であった。」

つまり、障害者は政策的弱者であり、また、障害種別で政策的状況は異なるので「つなぎ法」のような事態は、当事者参画の切り崩しとしてありえたことである。それに対しては、良い制度の実現に向け、分岐も恐れず、真摯に議論することは当事者参画の課題であった。

4. 骨格提言と総合福祉部会第19回について
このような動きがありながら、骨格提言がまとめられた。サービス対象者には障害者基本法の規定をそのまま用い、制限列挙方式を止めた。このことにより「谷間の障害者」を生まないとしている。また支給決定についても障害程度区分を止め、本人のニーズをアセスメントして決定するという方法を取り入れた。
しかし2012年2月8日19回、最後の福祉部会では大きな波乱が待っていた。厚生労働省障害保健福祉部企画課中島課長がその日に提出した二つの資料「総合福祉部会の骨格提言への対応」及び「厚生労働省案」の説明でその会議は始まった。その説明の途中にも「聞くに堪えない」という委員が出るほど、‘一部の委員’にとっては耐え難いものだった。議論の段になった時、‘一部の委員’から疑問や不満が噴出した。それもそのはずである。厚労省案として出されたものは法律の条文にもなっておらず、新旧対応表があるわけでもなく、小項目を含めても13項目、A4、3ページ半しか書かれていないものであった。また、「総合福祉部会の骨格提言への対応」については、骨格提言は全て取り入れないゼロ回答であった。また、「段階的計画的に骨格提言を実施する」と言いながら、工程表が示されていない。盲ろう者の福島委員が「例えば障害程度区分のところでも、5年間の間に検討していくということでは、要するに何もしないということとほとんど同じ。」と言うようにまさに絵に描いた餅である。
骨格提言は18回の最後に55人の構成員が何とか合意した内容である。それをこのように反故にされた構成員の気持ちはいか様だったろうか。しかし、にも拘らず、事業者等‘一部の委員’からは「現場が混乱するから、いっそ自立支援法のままでいい」という発言さえあった。

5. おわりに
障がい者制度改革や総合福祉部会に期待していた障害者は多い。自立支援法違憲訴訟団もそこに期待を寄せていたからこそ国と和解し、訴訟を取り下げた。推進会議や福祉部会の議論によって実際に制度が変わり、障害者の生活がよくなることへの期待だった。実現できるものとして期待したのは基本合意文書があったからである。国及び厚労省自らが自立支援法違憲訴訟団と取り交わした文書である。19回福祉部会で藤岡委員が「(基本合意を反故にして)今、してやったりとほくそ笑んでいらっしゃるんですか。」と基本合意文書を一緒に作成した厚労省障害保健福祉部企画課中島課長に抗議した。後に茨木(2012)は厚労省の官僚の一人が「障害者も民主党も本当に制度改革ができると思っていたのか。と言った」と述べた。「政治主導」が失われ、自公政権と官僚の切り崩しのなかで、当事者参画(=障害者の声を大切にする政策実現)は大きな後退を期した。
こうした中で、障害者と障害者運動を担う人々はどのようにこの事態をとらえ、運動を展開させたのか。またはどのように展開すべきだったのか。今後、障害者制度改革のさらなる詳細な研究とともに検討すべき課題である。

引用文献・資料
茨木尚子, 2012,「座談会 総合福祉法『骨格提言から』総合支援法へ、を総括する」季刊福祉労働137, 8-33.
茨木尚子, 2013,「障害者自立支援法から総合支援法への道程と総合支援法の課題-『頓挫』したその先をどう変えられるか」季刊福祉労働139,12-24.
岡部耕典, 2009,「『ポスト障害者自立支援法』のスキーム―民主党の障害者関連政策を評価する―」現代思想37-13.
尾上浩二, 2013,「障害者総合支援法=制度改革・要三年継続法と第二ラウンドへの戦いの陣形構築を」季刊福祉労働141, 38-47.
君塚葵, 2011,「総合福祉法―総合福祉部会での討議を通して―」『ノーマライゼーション』31, 11, 34-35.
障害者自立支援法違憲訴訟原告団・弁護団と国(厚生労働省)との基本合意文書
政府との合意書案 (mhlw.go.jp)
障がい者制度改革推進会議第4回
障がい者制度改革推進会議(第4回)議事録 – 内閣府 (cao.go.jp)
総合福祉部会(第9回・第10回・第18回・第19回)
https://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/
東俊裕, 2011,「障害者基本法改正から総合福祉法・差別禁止法へ」季刊福祉労働133, 32-40.
藤井克徳, 2013,「障害関連法制の改革に関する最新動向」総合リハビリテーション41, 8, 699-704.
堀利和, 2012,「座談会 総合福祉法『骨格提言から』総合支援法へ、を総括する」季刊福祉労働137, 8-33.


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