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A・クラインマンの解釈理論考察
中井良平(立命館大学先端総合学術研究科二回生)


■はじめに
 本稿ではA・クラインマンの「説明モデル」周辺議論の構造に着目する。1980年代以降、医学の持つ権力性を批判し、患者自身の語りが重視されるべきであるとした、A・クラインマンやA・フランクらによる「病いの語り」の概念化は、医療関係者にも大きなインパクトを与え、今なお影響力を持ち続けている。しかしながらクラインマン自身が危惧していたように、説明モデルを用いる際にクリアされるべき点や危険性が臨床のレベルで十分に認識されているとは言い難く、多くは表層的な理解にとどまっているものと思われる。そこで、日本でも翻訳されているクラインマンの二冊の著書「臨床人類学――文化のなかの病者と治療者――」および「病いの語り――慢性の病いをめぐる医療人類学――」から、クラインマンの説明モデル周辺議論の構造を整理し、同モデルが用いられる際に押さえておかれるべき点を記す。

■クラインマンの「説明(解釈)モデル」
 クラインマンの「病いの語り」論の中心にある、「説明モデル」について概観したい。なお本稿では医学的に定義された「疾患」と、病者が経験するより広い意味での「病い」を区別するクラインマン議論を参考に、両者を分けて記述する。説明モデルとは「患者や家族や治療者が、ある特定の病いのエピソードについて抱く考えのことである」(Kleinman[1988] 江口・五木田・上野 訳[1996:157])であり、医者などの専門家が用いる説明モデルと、患者などの専門外の人が抱くモデルのあいだには齟齬が生じうる(Kleinman[1988=1996:317])。治療者はまず患者の説明モデルを引き出し、解釈し(Kleinman[1988=1996:317-318])、次に自らの説明モデルを提示し、患者や家族との「取り決め(negotiation=交渉)」が可能になるとされる(Kleinman[1988=1996:319-321])。この「取り決め」を患者と結ぶことこそが、「共同作業としてのケアに関わる同僚として」の「医者にとっての本当の課題」とされ(Kleinman[1988=1996:322])、治療者と患者らは、それぞれの説明モデルを用いながら、ケアにおける妥協案を探っていくことになる(Kleinman[1988=1996:322])。治療者と患者双方の説明モデルはともに「はっきりと形を生していないことがしばしばあり、また、時間とともに変化する(Kleinman[1988=1996:321])」とされる。少々長くなるが、その理由について記された箇所を引用したい。ちなみにクラインマンの言う「治療者」は、西洋医から薬の行商人、占い師や宗教の司祭といった、専門的に治療を行う人々を指す幅広い概念であると考えられる(Kleinman[1980] 大橋・遠山・作道・川村 訳, [1992 :13])。

治療者の説明モデルと一般人の説明モデルは多くの点で似ている。たとえば、治療者の説明モデルも大部分が暗黙のものである。それは検証可能な仮説として定式化されていると公式の授業では教わるが、そうではないようである。治療者の説明モデルはどちらかといえば自分のおかれた立場の所産であろう。つまり、矛盾に直面してもなお印象的な評価にコミットした結果、生じたものであろう。彼らは、治療者としての果たすべき責務と自分の行為を合理化しようとする強い欲求とに強くとらわれている。ある説明モデルを選ぶということは、かぎられた選択肢から一つの治療を実行に移すための事前(アド・ホック)の正当化にすぎないかもしれないし、あるいはほかの治療を試みなかった理由の事後(ポスト・ホック)の説明にすぎないかもしれない。したがって、治療者の用いる“臨床場面での説明モデル”を“科学的説明モデル”とはっきり区別する必要がある。臨床場面での説明モデルは科学的説明モデルときわめて近似している場合もあれば、逆に大幅に離れていて、民衆化にみられる“常識的な”合理性の特殊タイプとみなせる場合もある。(Kleinman[1980=1992 :119])

 また、クラインマンは、治療者が生物医学以外のモデルを取り入れる必要性を次のように述べる。

……狭義の生物医学的(バイオメディカル)モデルは、(疾患に向かうのとは対照的に)病いに対して背を向け、患うことのこの困惑という側面を回避してしまう。そこで臨床家は、生物医学の限界を越えて、個人的、集団的な困惑に応じていこうと努力する。たとえば生物・心理・社会的な、あるいは心身医学的なモデルなどの他のモデルをとり入れることによって、彼らの専門的枠組みを広げたり、あるいは、共通感覚となっている倫理的(モーラル)な視点やもっと特異な宗教的視点に順応しながら、彼らの患者と結びつきを深めようとするのである。患者―医者関係に[外部の]価値システムをとり入れて、倫理的間隙を埋めることの難しさは、大いに強調しておかねばならない。そういう価値システムは、諸矛盾を解決するよりも、ときに、さらに多くの矛盾を創り出しかねないし、実際に創り出してしまうこともしばしばあるからである。治療者の価値観は患者の価値観とは異なるものであろう。偏狭で排他的な倫理観や宗教的視点は家族の援助にならず、かえって家族を疎外することになるかもしれない。しかし、どのような選択肢が他にあるのだろうか?(Kleinman[1988=1996:36])
 
 ここでは「説明モデル」という言葉は使われていないものの、患者―治療者の関係性に多様なモデルを仲立ちさせるという、クラインマンの議論に中心的なテーマに関する記述であることから、説明モデルについても含意されていると考えられる。
 つまり、クラインマンが患者―治療者の説明モデルの齟齬について述べる時、それは患者の説明モデルと医療者の生物医学的な説明モデルの対立のみを指しているわけではない。専門家としての治療者が臨床場面で用いる説明モデルは、科学的説明モデルと明確に区別され、定まった真理などではなくむしろ複数の選択肢の中からの選択の結果に過ぎないとみなされている。患者の説明モデルも、西洋医の生物医学モデルなど治療者の説明モデルも、交渉によって変化していく相対的なものとされている。そうであるから、そこには、治療者と患者らが「取り決め」を行うべき余地が生じているのであり、その妥協案は、患者の立場に近いものとなる場合もあるのだ(Kleinman[1988=1996:322])。そこでは患者―治療者の共同とそれによる両者の関係性の変容に極めて大きな意味が置かれており、だからこそ、治療者は積極的に外部のモデル=価値システムを取り入れ、自らを変容させていく必要があるとされる。しかしながら、そのように医療者(と患者)個人に委ねられた外部モデルの取り入れには、困難と危険性が伴うとされる。また、そのように患者―治療者の共同が求められる以上、生物医学モデルに固執する治療者と一緒になり、自身への社会・心理的圧力の存在を否認する患者やその家族に対しては、「悲観主義や受動性と関連する致命的な共犯関係」であるとの批判がなされることになる(Kleinman[1988=1996:9])。クラインマンは、治療者の役割を、患者と家族らを支え、彼らの人生やケアに影響を及ぼしているであろう「個人的な意味」を患者らに引き受けさせること、つまり「個人的な意味を、受け入れ、克服し、あるいは変えるようにすること」だとし、それが「患者に権限を与える」ことのエッセンスだとする(Kleinman[1988=1996:53-54])。患者―治療者の関係の変容とともに、患者自身の変容もまた、求められているのだ。この点をさらに強調して、クラインマンよりも、患者の道徳性と自発性を問うことを強く押し出しているのが、フランクの「探究の語り」論であると考えることができる。

■身体化モデル
 次に慢性の病いの主要なものとみなされている疼痛疾患患者の語りをクラインマンが解釈する際、その中心的な説明モデルとして用いられている「身体化モデル」について見ていきたい。[美馬2011]によれば身体化モデルは慢性疼痛を「その人の生き方のなかに生じる社会的苦悩(social suffering)が、さまざまな理由から抑圧され、言語によって直接に表現することが封じられている場合に、その社会的苦悩を人生の一部として意味づけ組み込むことができなくなり、痛みというかたちで「身体化(somatization)」されたもの」だと考える(美馬[2011:187-188]])。
 クラインマンは次の三つの要因が、疼痛者の身体化に影響し、ヘルスケア・サービスを過剰に利用させているとする。(1)「苦悩の表現を助長する社会的環境(特に家庭環境や職場環境)」。(2)「身体的訴えという言語を使って個人的問題や対人関係上の問題を表現する不幸の文化的習慣」。(3)「個人の心理的特徴(たいていは、不安障害、抑うつ障害、あるいは人格障害)」(Kleinman[1988=1996:71-72])。クラインマンが疼痛者の語りを身体化モデルを用い解釈しようとする時、その背景には、疼痛疾患の原因が患者の行動や特徴にあるとし、そのことが医療資源を過剰に使い、また医療費を増大させているといった問題意識があることを押さえておく必要があるだろう。

■クラインマンによる疼痛者の語りの記述
 次に、クラインマンが疼痛者の語りを実際にどのように解釈し説明しているのかを、「病いの語り」第3章のハリス氏のエピソード(Kleinman[1988=1996:70-94])を材料に見ていく。著作中に記された語りの解釈を、患者―治療者の共同による説明モデルと同一ものと見ることはできないかもしれないが、それがクラインマンによって提示された説明モデルであることに違いはなく、そこからはクラインマンがどのように患者の語りを解釈することが妥当だと考えているかを見てとることができる。ハリス氏の語りは概ね次のようなものである。
 ハワード・ハリス(通称:ハウイ)氏は50代後半の男性で、警部補の職にある。20年の間慢性の腰痛に悩まされており、腰痛が「自分の人生をねじ曲げてしまった」と考えている。長い闘病を通し、ハリス氏は考えられる限りの治療(西洋医学的なものも、民間療法的なものも)を受け、4回の外科手術も受けたが、痛みはひどくなる一方である。多くの痛みに対する薬を飲み、副作用と常習性に悩まされている。毎日姿勢強化運動を行い、特製のベッドや椅子を必要としている。ある程度の痛みは常にあるが、時に苦痛の声をあげるまでに強まり、床につかざるを得なくなる。その痛みは、ハウイ氏がこれまで経験したどのような激しい痛み(歯通や頭痛、胃痛)よりも強いものである。激しい痛みに襲われると、それは数日から数週間続き、再びあの痛みを経験するなら死んだほうがましだと考えながらも、キリスト教再生派である自身には自殺は考えられないと話す。しかしハリス氏は、痛みに対し何もしてくれない神に祈ることはもうやめてしまった。痛みは日常的な動作にともなって起こるため、痛みのエスカレートを避けるため、ハリス氏はいつも痛みの「初期の感覚」を見つけ出し、先手を打とうと戦々恐々としている。痛みを悪化させないためにハリス氏は多くの休息を必要とし、雑音や光や、人の声、自身の考えから遮断されようと努める。そのような行為はハリス氏を孤立させる。建築現場での前職から、より肉体的負担の少ない警察に職を変え、給料も下がった。ハリス氏は痛みを抱えながらも子供たちのために仕事を辞めるわけにはいかないと考えているが、妻や子供たちとの関係は悪化し、ハリス氏の痛みのせいで家族が被害を被っていると非難され、恨まれてすらいる。医者や、妻や息子も、その痛みがハリス氏が訴えるほどひどいものだとは信じておらず、ハリス氏は「それが痛みについて一番嫌なこと」だと言う。かつての主治医は、ハリス氏が悲観的でなかったことは一度もないとし、「身体化患者」であり、問題患者であるとする。外科手術の痕は、「身体的な異常」が実際にハリス氏にあることを示すという点で、プラスの効果を示していると氏は考えている。
 そのほかにクラインマンはハリス氏の幼少時代からの母との関係や、彼に父親が不在であったこと、つまり痛みの発症以前の出来事に着目・記述しており、その理由ついては次節で解説する。

■クラインマンの解釈と説明
 クラインマンによれば、ハリス氏の痛みの訴えや行動は「バラバラになるかもしれない壊れた背中」という機械的イメージに支えられており、そのことから氏の病いの行動のほとんどは説明できるという。そのイメージはまた、父母や現在の家族、仕事に関連した、不適格さ・無能ぶり・依存することに対する恐れのメタファーでもあるとされる。ハリス氏の病いは、氏の生活世界からそれらの意味を引き受け、痛みの経過にかなりの影響を与えているとされ、現在の痛みによる行動は、はっきりと夫婦間の緊張状態を表していると解釈される。ハリス氏を「回復させるためには、彼を取り巻くローカルな社会システムに影響を与えたり(またそのシステムによって影響を与えられたり)している意味や経験の悪循環を変えることが必要」だとされる。クラインマンにとってハリス氏の病いの意味は「確実に、正確に話し合うことができる」ものである。そのような解釈をクラインマンは「社会科学的解釈」と呼び、同解釈を行うためには、痛みについての経済的・政治的・社会心理学的側面の知識が必要であるとする。クラインマンは次のように続ける。解釈を行う者は、それが妥当な解釈であるかどうかを問いながら、妥当かどうかはっきりしなくなった時点で解釈を止めるべきである。妥当性には次の四種類がある。(1)現実との一致、(2)首尾一貫性、(3)ある個人との文脈において有効なこと、(4)美的価値。臨床家にとって重要なのは三番目であり、「患者の治療において能力低下や患うことを軽減するのに有効であるとき、初めて妥当なもの」だとされる。研究者にとっては、他の三つが三番目と同等以上に重要であるとされる。臨床家と研究者という立場は、まさに著書を記しているクラインマン自身を指すと考えられ、ハリス氏の語りの解釈も、そのような妥当性に関する判断を経て、妥当な解釈として記されたものと考えられる。
 クラインマンはまた、「病いの語り」中の別の箇所で、ハリス氏の語りの解釈を振り返り、「背骨に対する彼の病的な思い込み」「彼の受動的で依存的な対処(コーピング)の仕方」などが、ハリス氏が解決すべき病いの問題のリストに記録されるべきだとする(Kleinman[1988=1996:313])。疾患の影響でハリス氏がそのような行動をとっているというよりも、ハリス氏の行動が病いに影響を与えていると解釈されている点で、病いの解釈に身体化モデルが用いられていることを確認できる記述と言えるだろう。
 クラインマンにとっての「病いの意味」とは、病いの経験やできごとが常に表しあるいは隠蔽している何かであり(Kleinman[1988=1996:9])、「一個人の病いがもつ特有の意味を検討することで、苦悩を増幅させる悪循環を断ち切る」可能性を秘めているとされる(Kleinman[1988=1996:11])。「病いの意味」の検討は生物医学的観点においては排除されており(Kleinman[1988=1996:10])、その検討はいつも役立つとも、日常的に役立つとも限らないが、意味のある違いを生み出すものだとされる(Kleinman[1988=1996:12])。
 つまり、クラインマンの論では、互いの説明モデルをすり合わせることによって、患者と治療者が、「病いの意味」を見つけ出すことが目指されており、その過程に、患者―治療者関係の変容及び、患者と治療者自身の変容が欠かせないとされていると考えることができる。そうして見つけ出された個人的な「病いの意味」を「受け入れ、克服し、あるいは変えるようにすること」が患者には要請される。なぜかといえば、そうすることによって患者は「能力低下や患うことを軽減する」ことが可能になると考えられているからだ。

■考察
 まず、改めてクラインマンが挙げていた臨床場面での説明モデルの特徴や、外部のモデルが用いられる際の注意点について振り返りたい。第一に、近代医学を奉じる医者の生物医学的な説明モデルを含め、臨床場面で治療者が用いる説明モデルは、患者―治療者関係から生まれる相対的なものとみなされるのだった。次に、そうであるからこそ、治療者の説明モデルがどのようなものとなるかは、それぞれの治療者の社会・文化の中での立ち位置や素養に依存することになり、そこには大きな危険性が内包されているのであった。患者と治療者に求められているのは、共同し、患者の「能力低下や患うことを軽減する」ことであり、そのために両者の柔軟な変容が欠かせないのであった。とりわけ患者には「個人的な意味を、受け入れ、克服し、あるいは変えるようにすること」が求められていた。治療者に求められているのが、主に専門家としての素養を深めることである一方、患者に求められているのは、自身の実存にも及びうる慢性の病いの意味の受容・克服・変容であり、対照的である。
 次に指摘したいのは、引用したハリス氏の語りの解釈をはじめ、クラインマンによって行われた説明もまた、治療者であるクラインマンと患者の関係性を反映した、相対的な説明モデルの一つに過ぎないという点だ。つまり、説明モデルを用いる際にクリアされるべき点や危険性についてのクラインマンの指摘は、クラインマン自身が行う「病いの語り」の解釈にも当てはめられなければならないのである。一例をあげれば、用いられる説明モデルがどのようなものであれ、それがあくまでも相対的な仮説に過ぎないことが忘れられた時点で、説明モデルは患者や家族にとって「偏狭で排他的な」ものとなってしまだろう。言うまでもなく、ある病いの生物医学的所見が明らかでないことは、その病いに同定された既知の疾患としての側面がないことを示しはしても、その病が疾患たり得ないことを意味するわけではない。例えば、古来より様々な解釈が行われスティグマが付与されてきたてんかんが、20世期になり徐々にその器質疾患的側面を明らかにされたように、医学の歴史とは人間の体に生じる病いを同定し、治療=克服しようとする歴史であった。疾患として同定できない病いというのは、ごくありふれた自然とも言える状態なのだ。にもかかわらず、我々は生物医学的知をあまりにも信奉し、その帰結として病いを患う患者のリアリティを認めないばかりか、否定してしまいさえする。そのような視座に立ちハリス氏の語りを見た時、自らの体から発した病いのリアリティを誰にも理解されず、たった一人で自らの病いと、病に否定的な医師や家族、社会に対しているハリス氏の姿を、見出すことができるだろう。その時クラインマンの解釈に対し次のような疑いが生じる。すなわち、ハリス氏の事例のように、疼痛が「病いの意味」の身体化されたものであると解釈する一方、そこに生物医学的疾患が隠れている可能性を考慮しないことは、生物医学的診断の不在を前提・過剰に重要視としていると言え、生物医学偏重を批判し患者の語りを重視するとしたクラインマン自身の論と自家撞着を起こしているのではないか? もちろん、そのような見方もある一つの説明モデルに過ぎないが、クラインマンの提示した説明モデルよりも、ハリス氏の感じていたリアリティに近いモデルであると考えられる。クラインマンが記述するハリス氏の語りには、ハリス氏がクラインマンの説明モデルを受け入れたという記述は存在せず、ハリス氏の語りとクラインマンの解釈は対立していた可能性がある。以上のように、説明モデルに関心を持つのならば、まずはクラインマン自身の解釈を教材として、それが妥当なものと言えるのか、批判的に検討してみる必要があるだろう。
 そこには次のように、極めて重要な論点がいくつも存在する。澤野[2018]が指摘するように変更の容易ではない患者―治療者関係をそのままに、患者に変容が求められることの是非。野島[2021]が指摘するように医療化に批判的な旧来の医療化論的枠組みでは、まだ見ぬ診断や治療に希望を抱く患者の現実が過小評価されるどころか批判の対象になりかねないこと。病者を取り巻く社会構造はそのままに病いの意味にアプローチを行うことが一体どのようなことであるのか。それら問題の認識および点検がなされず、説明モデルが表層的なコミュニケーションのためのツールなどとして用いられる時、患者にとって得られるメリットとデメリットがどのようなものであるのかについても考察されなければならないだろう。

■参考文献
○Kleinman, Arthur 1988 “The Illness Narratives : Suffering, Healing, and the Human Condition” Basic Books =19960425 江口 重幸・五木田 紳・上野 豪 訳 『病いの語り――慢性の病いをめぐる臨床人類学』,誠信書房.
○Kleinman, Arthur 1980 “Patients and Healers in the Context of Culture : An Exploration of the Borderland between Anthropology,Medicine,and Psychiatry” University of California Press
=1992 大橋 英寿・遠山 宜哉・作道 信介・川村 邦光 訳,弘文堂.
○野島 那津子 2021 『診断の社会学――「論争中の病」を患うということ』 慶應義塾大学出版会.
○澤野, 美智子 2018 「<特集論文 1>序– 医療人類学における「理想」のナラティヴと現実の間」,『コンタクトゾーン』 10:107-117.


■質疑応答
※報告掲載次第、9月25日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は2021jsds@gmail.comまでメールしてください。

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