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アカデミズムの なかの さべつてきな ひょうげん、ヴィジョニズム (visionism)、そして ゆうてつがく (eusophia) について

かわぞえ ねむる


0 はじめに:さべつごに ついて
このはっぴょうでわ さべつごについて れいお だしながら けんきゅうお してゆきます。
とくに『』でくくられた ことばわ、ちょうせいなし にわ しゃかいの さべつお ふやしてしまう、かがいてきな ことばです。
『』いがいにも、かわぞえが はっぴょうによって さべつお もたらしているかも しれません。
そのときわ なにとぞ コメントで おつたえください。そのとき わたしにわ「たいわお して、マイノリティの ひがいお ゆうせんする ぎむ」があることお、ここに かくにんします。
また このけんきゅうに コメントお するかたも、ことばお いんようする ときなどに さべつてきな こうかお もたらさないように ちゅういして くださるよう、おねがいします。

1 はっぴょうの ながれ
このけんきゅうお はじめる といであり しゅちょうわ シンプルです。
「わるいことお あらわすときの ひゆとして、しょうがいお いみさせる ことばお もちいるのわ さべつでわないのか?」です。
そしてまた、「あるしゅの けんぜんせいお よいことの ひゆにもちいたり、とうぜんの ぜんていとして もちいられる ひょうげんも さべつでわないのか?」です。

ひとつ ぐたいてきに いうと、たとえば あるしゅの かんがえかたお ひはんするときに『しやが せまい』などと ひょうげんすることです。
このような ひょうげんわ、いわゆる しょうがいお あらわす ことば いがいでも たくさん あります。
しゃかいうんどうでも アカデミズムでも あるいわ それらいがい(とされる)いっぱんてきな ばでも、おおくの さべつてきな ことばが つかわれ、いくつかわ つかわれなくなって いきました。
こんかいわ ひょうげんについて、なぜ さべつなのか わるいのかお かんがえます。

ふたつめに『みる』という ひょうげんについて かんがえます。げんざいの がくじゅつてきな ひょうげんわ『みる』こと と(も)ひんぱんに むすびついて いるからです。
もしかしたら こういうふうに ぎもんに おもわれるかも しれません。“ぶつりてきにわ そんざいしない がいねんにたいして『みる』と ひょうげんするならば、それわ ぶつりてきな めで みている わけでわ ないはずだ。『これわ さべつなのか?』” と。
しんたいの めで みずに、ものお『みる』とわ、どのような こういで あるのでしょうか? ぎゃくに かんがえると、あらゆる ふるまいお『みる』という ふるまいえと あてはめていくこと とわ どのような しゃかい なのでしょうか?
これお「しかくお しゃかいの ちゅうしんの ひとつだとする ありかた:ヴィジョニズム (visionism) 」という ことばお つくって かんがえます。

みっつめ、さいごに「ひょうげんという さべつ」にたいして わたしたちが どのように しゃかいかんけいお つくっていくべきなのか かんがえます。「さべつひょうげん」お ぶんのいみが そのままに なるように「べつのことばに いれかえる」ことが「せいかい」なのでしょうか? ひとつの やりかたとして そのように「たいおう」するとよい、と しんじられている ような きがします。そして さべつお なくすということわ、それによって「わたしたち」や しゃかいが、より『たくましくなる』『すぐれたものになる』のだ、とも しんじられている きがしています。『そのためにわ どうしたらいいか?』こんかいわ そのような かんがえかた じたいの あやうさについて、ゆうせいしそうとの ちかさについて かんがえます。
『なにが すぐれた せいめいか』お ジャッジする かんがえかたや ふるまいが ゆうせいしそう である のならば、『なにが すぐれた しそうか』お ジャッジするという やりかた・システムわ、それと おなじような あやうさが あると おもいます。アカデミズムが エイブリズムで あることについて。がくもんから はじまる ゆうせい。ゆうてつがく (eu-sophia) という なまえお つけて、その『ちから』について かんがえてみたい とおもいます。

2 ひゆと さべつ
はじまりの といお くりかえします。
なにかお ひょうげんするさいに
「とくていの しんたいせい・こういせいお ひゆに もちいること」わ さべつてきな こうかが ないでしょうか?

れいお 2つ あげます。
なにかお ひはんするときの かんようくの ひとつに『かたておち である』というものが あります。
そして だれかの かんがえお ほめるときに『めの つけどころが よい』と ひょうげんしたり します。
インペアメントお わるさの ひゆとして もちいたり、ぎゃくに けんじょうだと されることや ふへんてきであると されることお よいことの ひゆとして もちいています。

ぞくせいお よい/わるい ことの ひゆに もちいることわ、しょうがいと けんじょうという カテゴリー いがいにも あります。
・じょせいと だんせい
・こどもと おとな
・ちほうと ちゅうおう
・にんげんいがいの どうぶつと にんげん
ひゆによって わるいと よいが とくていの カテゴリーに へんかんされながら、ぜんあくの ジャッジお する しゃかいお つくる どうぐとして つかわれています。

ぜんあくの ほかにも、ちゅうしょうてきな こういや げんしょうお
しんたいてきな ふるまいのように あらわす ひゆが あります。
なにかお いとてきに こうりょしない ことお『むし:みないこと』と ひょうげんしたり、かんがえや じょうほうお よりひろい しゃかいえと ひろげ つたえていくことお『こえお だす/あげる』ことえと なぞらえたりする、などです。

わたしわ いろんな ひょうげんお こうわの にほんごから さがして みました。はっぴょうの さいごに リストに してみましたが、わたしの いんしょうとしてわ「このような ひょうげんわ ことばお もちいるなかで きわめて ありふれているな。」と おもいました。
つぎわ、いまあげた れいのように ことばお つかう こういと システムが さべつである ことについて かんがえます。

2.1 ひゆの ひょうげんわ どのように わるいのか
マイノリティわ ひんぱんに、マイノリティで あること そのものお わるいことの ひゆとして つかわれます。
ひゆとして つかわれることと つかわれた カテゴリーが わるいものであると されていくことわ、そのくりかえしに よって よくあつ として そんざいする ようになる、と かいしゃくする ことも できます。
ひゆすることに くわえて ひゆされたこと じたいが ただしいこと・よいことであると『しゃかいで つうようする』ことに より、しゃかいてきな『むりょくか』が そんざいする ようになります。

なにかお おとしめるような ひょうげんが『むりょくか』に さようする ということわ「わるいこと」「こうげき」として かんがえられやすいと おもいますが
マイノリティでないこと、『ふつう・ぶなん である』ことお よいことだと むすびつける くりかえしによって マジョリティが しゃかいから ゆうりょくか されていくことの わるさわ、ひはんされることが すくないと おもいます。
ゆうりょくかと『むりょくか』わ べつべつに そんざいする ことでわ なく、さべつとわ その どちらでもで できています。

さきほど「さべつわ はんぷくのなかに ある」といった ひょうげんお しましたが、ほかの かいしゃくも あります。
それわ さべつがおきること、ひとつひとつの マイノリティの カテゴリーが『むりょくか』お くりかえされる ことお、「あるしゅ ぐうぜんの めぐりあわせ」「こべつてきな ひげき」のように いみづける ことえの ひはんです。
「マイノリティ=わるいこと」というのわ ぐうぜんである というよりも、それこそが マイノリティの しゃかいてきな やくわり なのでわ ないでしょうか?
しゃかいが ほんしつてきに ぜんである にもかかわらず「まちがって」なにかお さべつに おとしいれて しまう のでわなく、
しゃかいわ「やくわりと そのわりあて:やくわりに なにかお あてこんでいく」という システム・せいしつが あり、それが さべつそのものとして そんざいするのだ、とわたしわ かんがえます。

「さべつのない しゃかい」とわ、いまある(と しんじられている、と しんじられている)「しゃかい」から「さべつ」だけお ひきざんして じつげんする ような ものでわなく、しゃかいが かなり べつのものに なることお いみするのだと おもいます。

ひょうげんと さべつの かんけいせいの はなしに もどります。
ちゅうしょうてきな こういや げんしょうお、マイノリティ/マジョリティの ふるまいや とくせいに なぞらえて あらわすような ひゆの もんだいについて かんがえます。

たとえば、かんがえることお みることに なぞらえると、みるお しないことが かんがえないこと かんがえていないこと とかんれんづけられます。はっきりと れんそうされる こともあれば、あいまいに おもいこまれることも あるとおもいます。
とくに ゆうりょくか、「みえている ものわ みえていないもの よりも つねに すぐれて かんがえているのだろう、ものごとお りかいしているのだろう」とわ、しんじられていないようで ありながら しぶとく しんじられているのでわ ないでしょうか。そういう おもいこみお、ひゆによって ささえることが あります。

もうひとつ かんがえます。しゅちょうすることお おんせいげんごで『はなす』ことに なぞらえると「しゅちょうとわ おとによって なされる」という(ただしくない)じょうしきお つくります。
そこから おんせいいがいによって なされた しゅちょうや ひょうげんお みとめなかったり かろんじること、
おとお はっしているのならば、なにかかならず とくべつな「いと」があるのだろうと けつろんづけることわ ときどき あるいわ つねに もんだいとなります。

ひゆおつかって なにかお なぞらえていくということわ、もちいた ひゆに じぶんの かんがえかたや せかいが あてはめられていく という ことと つねに つながっています。
そして そのような かんがえかたや りかいの はんぷくが、しゃかいのなかで ゆうりょくかと『むりょくか』として、さべつとして さようすることわ よくないとおもいます。

3 しかくちゅうしん しゅぎ (visionism) と がくもん
さきほど『むし』という かなり いっぱんてきな がいねんお れいにあげました。にちじょうてきな ことばづかいにおいても アカデミックで せんもんてき とされる かいきゅうの ことばづかいにおいても、しかく(があること)お ぜんていとした ごいわ、ほんとうにおおいです。
しかし、なにかお『むし』するという ことばが つかわれるとき、その なにかわ そもそも めで みえるような ものでわ ないことも あります。
べつのかんがえかたお すれば、しゃかいでも がくもんでも『めで みずに ものお みる』という こういが ひじょうに ありふれたものとして そんざいしている(としんじられている)ようです。

ここでわ『めで みずに ものお みる』『おおくのことがらや こういわ みる ことに にているものだと おもう』ことが とうぜんである という かんがえかたから はなれて、
それわ しかくの ちゅうしんしゅぎ ヴィジョニズム (vision-ism) であると かんがえてみたいと おもいます。

はじめに ひとつ かくにんします。『みる』という ひょうげんお ちゅうしょうてきな がいねんに もちいることわ、『せいがんしゃ』とされる かただけでわ ありません。もうじんや しかくしょうがいしゃと よばれる かたたちも、おおくのかたが つかっています。そういういみでわ「『みる』という ひょうげんわ しょうがいしゃえの さべつなので つかうことわ つねに あやまりである」といった けつろんお すぐに だすこと、ヴィジョニズムという かんがえかたお そのようにだけ りかいすることわ あやういです。
しかくしょうがいや もうと されるかたたちが どのように『みる』という がいねんお いみづけているのか、かんがえかたや おもいの たようせいについて、わたしわ そのほとんどお しりません。
この はっぴょうわ、そのような かわぞえが いま かんがえたことお まとめた メッセージです。『せいがんしゃ』とされる かわぞえが かんがえた、ヴィジョニズムの はなしです。

あらためて、ヴィジョニズム:
「しかくお、しかくに かんけいすることにも かんけいしないことにも いみづける、しかくお すぐれたことや おおくのものごとの ぜんていである とする かんがえかたや ばの ありかた」について かんがえます。

よのなかお しらべると、しかく ゆういの しそうとわ ただたんに ことばの もちいかたとか かんがえかた だけでわないと おもいます。ぐたいてきな はいじょ・そがいの うんようと つねに かんれんしています。
アカデミズムの ばでも そうでないとされる ばでも、ずや がぞうお せつめいの しゅだんにすることわ よいこと、そうすれば「”みんな” が より りかいしやすくなる」としんじられて いますし そう うんようされています。
へやの なかでだって「しょうがいされるかた」が「とくべつな」はいりかたお して、きまったいちに おさまることが セオリーと されています。どうせんが あらかじめ さだめられています。
「ばしょのつかいかた」や「わかりやすさ」が なにお ちゅうしんと しているか、ということです。

ときどき「わたしわ だれにとっても わかりにくい ものお ひょうげんとして もちいるので、だれのことも さべつせずに くるしめているのだ」みたいな「あくびょうどう」の がいねんお しゅちょうしてくるかたが いますが、あやまりです。かならず なにかお ひいきしています。しゃかいで とうぜんだと しんじられていると しんじていることお りようしています。びょうどうに かがいすることわ できません。

そしきにおける じょうほうの りようにも アンフェアが あります。とくに オフィシャルでないとされる じょうほうに ついてです。
たとえば、わたしわ アカデミズムのばで とある「せんもんようご」とされる たんごが はつおんされたときに、そのアクセントの「いち」で、はつわしゃが そのせんもんようごにたいして どういう スタンスで いるのかお「きいて」すいそくしたことが あります。
そのたんごわ はつおんするときに ひとによって いくつかのアクセントの パターンが あるようでした。
そして アクセントの パターンと、そのことばの いみお どのように おもっているのかの イデオロギーや グループには、なんらかの けいこうというか いみあいが あるようでした。
ともあれ そのとき わたしわ そのはっぴょうお、ことばの アクセントじたいに メッセージが「あえて オフィシャルでわ ないかたちで」こめられている、そんなふうに『きき』ました。
よくもわるくも「なかまうちだけの シグナル」みたいな やりかたわしゃかいに そんざいしています。そして がくもんのばでも、あまりよくないいみで そのこうかわ おおきいと おもっています。

ヴィジョニズムについて わたしのいけんお まとめます。
「みない・みえない」ことや ふるまいが、そしきのなかで そうたいてきに どのような いみづけや やくがらお ひきうけているのか。それが「みえる」「みる」ことと たいとうでなければ、それわ しかくの ゆういしゅぎの システムです。
ヴィジョニズムわ「みることお ヘゲモニーとすること」です。みる しゅたいと みられる きゃくたいが そんざいし、『みる』ことによって ジャッジする、『みる』ことじたいが ジャッジである という いちほうこうの ありかたであり やりかたです。
『みる・みいだす』とわ そういうこと そのものでわ ないでしょうか。
そして、「めでわ みない にもかかわらず『みる』のだ」という フレキシブルさわ、けんぜんしゅぎ:ヘゲモニーが じしんお ばんのうであると さだめることと かんれんしている ロジックなのだと おもいます。

4 すぐれた せいの しそう (eugenics) と、すぐれた がくもんの しそう:ゆうてつがく (eusophia)
ここまで、「ひょうげんという さべつ」について かんがえてきました。さべつわ かがいであり あらためるべきです。
しゃかいでも アカデミズムでも、りくつわ わかりませんが ひょうげんわ かわっていきました。『じへいてき』や『めめしい』のような ひょうげんわ 20ねんまえと くらべて すこし つかわれる ひんどが へったのでわ ないでしょうか。
しかし、ぎもんがあります。そうやって ことばが つかわれ すたれていくことが、すなわち もんだいお かいけつするという ことなのでしょうか?
そして さらに ぜんていお うたがいます。
「もんだいお かいけつしたい」というおもいわ「ほんとうに どんなときも のぞましい」ありかた なのでしょうか?

このはっぴょうで わたしわ「とくていの ひょうげんによって さべつが おこなわれる ことがある」と しゅちょうしました。
それに あるていど なっとくしたとして、もしかして このような かんがえや ぎもんが しょうじる かもしれません。
「さべつごだと りかいした。さべつにならないように いいかえる ことばわ ないか?」
「じぶんも きがつかずに さべつおしていたことお しった。そこから かんがえると、もしかして OOも さべつなのでわないか? あなたわ どうするべきだと かんがえるか?」
「さべつしない ために あんぜんな ほうほうが しりたい。」
『そのためにわ どうしたらいいか?』と。

わたしわ そのような はんのうに あくいお かんじるわけでわ ありません。また わたしわ ただ ひにくお つたえるために このような ことばお そうぞうしたわけでも ないです。
ただし これらの といや そこから かんがえお すすめていくこと、「どうすれば」という かんがえかたにわ あやうさお かんじています。
なぜかというと そのかんがえかたの ぜんていお つきつめて かんがえると、ゆうせいてきな かんがえかたとの ちかさお かんじるからです。

「ひとつの さべつお じぶんが あらためること、それによって じしんが/しゃかいが より よいものとなる」「じぶんや しゃかいお『たくましく』『すぐれた』ものと するために どりょくする」という かんがえかたわ、はんさべつの ようでいても ゆうせいしそうと おなじ あやまちに あると かんじます。
・じぶんお じぶんじしん・ほかのなにかお かえる しゅたいであると いちづける。
・なにが よいことで なにが わるいことか、じょれつお かくしんして ジャッジできる。
・そして よいことわ すこやかなこと、つよいことだと しんじている。
わたしわ そのような『すこやかさ』えの あこがれお、きぐします。
さべつお ひとつひとつの こべつてきな エピソード:「もんだい」として けしさろうという どりょくわ、いがくの「ちりょう」という ありかたと ちかいです。そして それわ「しょうがいされる ものの こうてい」とわ あいいれません。

「もんだい」にたいする このような かんがえかたや ありかたわ、がくもん/アカデミズム とよばれる ばでも すくなからず おこなわれていると かんじており、きぐしています。

『なにが すぐれた いのちか』お ジャッジすることが ゆうせいしそうで あるのならば、
『なにが すぐれた しそうか・ちせいか』に じょれつお つくり ジャッジするという やりかた・システムわ、
ちせい/ちしき/まなび にたいしての ゆうせいであると しゅちょうします。
これお「ゆうてつがく (eusophia)」と なづけてみます。『よい (eu-)』かんがえかたに とっけんお あたえながら、それお まなんでいく システム (sophia) です。

げんざいの がくもんについて しっているかたわ、はんろんするかもしれません。「がくもんわ なにが すぐれた ちしきなのかわ くべつし ついきゅうするが、それお さべつに もちいることわ ない。」と。
しかし「なにが ただしい かんがえかたなのか」「あるべき しゃかとわ なにか」ということお さだめるという こういの つみかさねわ、つねに とっけんてきでした。
そして『すぐれた』ちしきお もっているとされる にんげんお『すぐれた そんざいである』かのように ひかくして とりあつかう システムわ、しゃかいにも アカデミズムのなかにも ありふれているはずです。
いまの「がくもん・まなび」という ありかたからわ、けんりょくの ひたいしょうせい・じょれつかといった こういお すぐに きりはなすことわ できないものである、とおもいます。
アカデミズムわ つねに エイブリズムであり、ゆうてつがく てきでした。ゆうてつがくお そのままに「さべつお どうすれば よいか」かんがえても、それわ「ちりょう」か すぐれたものえの こじんてきな「きょうそう」として こうかすることに なるとおもいます。

よこづか・こういち さんが “そんなにかんたんに「じゃあどうすればいいのか」などというな” とのべた ということお (*1)、 あおいしばのかいの こうどうこうりょうで “われらわ、もんだいかいけつの みちお えらばない” とあることお (*2)、わたしなりに かいしゃくすると、ひとつに こうなります。
「もんだいお かいけつする」という ありかたが、のぞみが、すくなくとも これまで ずっと あやうかったのです。

かがいお やめるべきなのわ あいてえの かがいであるから であって、かがいしたかたや しゃかいが『よいもの』に なるべきだから という りゆうづけや よくぼうわ ゆうてつがくだと おもっています。

5 まとめ
ひゆ ひょうげんわ ぶんみゃくによってわ さべつとして こうかします。
ひゆの さべつお あらためるとわ、ことばお たんじゅんに いれかえる ことでわ ありません。そのことばお つかうまでに いたる あらゆる しゃかいの ひつぜんせいお はんせいし くみかえていく プロセスお ひつようと します。それによって はじめて ヴィジョニズムなどが かいたいできると おもいます。
さべつお あらためたいと おもうときにも、ゆうせいのしそう・ゆうてつがくが あることがあります。
もんだいにたいして「こたえ」お あらかじめ きめておきたい、という よくぼう、
このひょうげんわ『いい』のか『わるい』のか、という かんがえかたにわ、それじたい むりょくかと ゆうりょくかお おこなう あやうさが あります。かがいに むきあう とわ べつの やりかたお ひつようとします。ジャッジすることお きょぜつし、かつ かがいの わるさにたいして ちゅうりつてきでない ことの りょうりつです。

6 さんこうぶんけん
(*1) 横塚晃一「母よ!殺すな」生活書院 2010ねん p.31
(*2) 日本脳性マヒ者協会全国葵芝の会福岡青い芝の会支部「行動綱領」
http://web.archive.org/web/20110712170813/http://www.kumin.ne.jp/jago7526/aoishiba2.html

7 リスト
いかのリストでわ 『』でくくっていませんが すべて さべつごです。

・インペアメントお わるさの ひゆにもちいるもの
ちせつ(ーな せいしん)
ろうもう
へんしつてき
ゆがみ/ゆがんだ
へん(ーな)
かたておち
ちてき たいこう
しゅうあく
まっきてき
むしんけい
ひんじゃく・ぜいじゃく
ぼうぜん
あぜん
ふあんてい
せいさんせいが ない/ふもう
くるっている/くるいが しょうじる
じへいてき
いきぐるしい

・けんじょうせいお ふへんせいお よさにもちいるもの
けんぜん/すこやか(ーな)
まっすぐ
しょうき
がんきょう(ーな)
きえいの
じせだいの

・とくていのこういお しんたいしょさ とうに なぞらえるもの
はあく
たちあがる
ふんばる
もんだいし・いたんし・けいし・べっし・ちゅうし・むし(ーする)
こえお あげる
みみお かたむける
かがみお みる(ーべきだ)
かしか・ふかしか
せかいかん・かちかん
(おおげさにー)きこえる
いしきの けつじょ
くせ・しへき・しゅみ(ーである)
はらむ
へんけん・しゃし
はやる/りゅうこう
きずお つける(きずつける とわ ことなる)

・うえお ぜんていに ふくむもの
とうめいか
しや(ーに いれる)
ほんね
けつぞうする/ぞうお むすぶ
レンズ
いぬぶえ
エコーチャンバー
フットワーク
あかしんごう


■質疑応答
※報告掲載次第、9月25日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は2021jsds@gmail.comまでメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。

〈2021.9.24 会員から〉

つちや たかしと もうします。 とても じゅうような もんだいていきだと おもいます。
ところで こうはんの 「ゆうてつがく」について かわぞえさんわ

> 『なにが すぐれた しそうか・ちせいか』に じょれつお つくり ジャッジするという やりかた・システムわ、
> ちせい/ちしき/まなび にたいしての ゆうせいである

と かかれていますが これわ 「すぐれている/すぐれていない」と はんだんすることじたいが 「ちせい/ちしき/まなび にたいしての ゆうせい」だから やめたほうがいいと おっしゃりたいのか
それとも 「すぐれている/すぐれていない」と はんだんしてもいいのだけれど げんざいの がくもんの 「すぐれている/すぐれていない」という はんだんのしかたが よくないと おっしゃりたいのか
どちらでしょうか?

もし 「すぐれている/すぐれていない」と はんだんすることじたいを やめてしまうなら たとえば デマやフェイクニューズと じじつにもとづくほうどうの どちらが「すぐれているか」も いえなくなってしまうとおもいます。
「なにが すぐれた しそうか」と はんだんすることは 「しんじつ」を おいもとめることに つながっていると おもうのですが いかがでしょうか? 

〈2021.9.30 報告者から〉
つちやさん

しつもんお していただいて ありがとうございました。

まずわ つちやさんの だした といかけえ こたえようと してみます。

「かわぞえの いいたいことわ どちらか?
すぐれている/いないと はんだんすることお やめよ か、
はんだんすることわ ありだが げんざいの がくもんなどでの やりかたが よくない なのか。」

おもうに、かわぞえの いうこと・いおうとすることわ あくまで ぜんしゃです。かわぞえが なにお しているのかだと こうしゃでも あります。

かわぞえわ じしんのはっぴょうで「すぐれている/いない」「しんじつ/しんじつでわない」という わくぐみお、しゅちょうの りゆうえと ゆうごうさせる ことお やめようと している、と いえるかも しれません。
そして(またわ ただし)かわぞえわ、
「かがいである/かがいお あらためようとする」「あやうい」「するべき」「するべきでわない」という わくぐみわ、しゅちょうに もちいています。じしんの かんがえと ゆうごうさせています。

ぜんしゃの わくぐみたちと こうしゃの わくぐみたちわ、かならずしも おなじでわない。ともすれば かんがえお『すぐれている』『よい』『ただしい』といった いみあいで かいしゃくしていく・させていく げんざいの しゃかいの/アカデミズムの なかで、「かんがえかた/やりかたにわ ちがうものが ある。いまの やりかたや それによる ありさまが ひつぜん・ゆいいつでわ ない。」
というふうに、「いちど」かんがえる ことお することお しゅちょうしてみます。

ただし、それらが べつである/べつになる かのうせいお かんがえたのちに、それらの わかちがたさ、そしてまた げんざいの しゃかいと そのヘゲモニーが べつのものたちお おなじである「かのように」する・したい という ふるまいお もつ システムでもある ことにも むきあうひつようがある、とも しゅちょうします。

かわぞえが「いちど」きりはなせる、おなじ・ゆいいつである「かのように」かんがえることに されてしまっていても、べつのかんがえかたお するべきと おもうこととわ たとえば いかのようなことです。

・なにかが「かがいであるか」にこだわっていくことと、なにかが「すぐれているか」にこだわっていくことわ、かんがえかた・やりかたとして おなじでわない。また「すぐれているか」という わくぐみお、こだわる・はんだんするときの ゆいいつの ありかたであると かんがえない。

・はんだんすること・こだわっていくことと、だれかの はんだん・こだわりお ヘゲモニーお つうじて『つうようさせる』ことも べつのこういである。けんりょくと つながりながらでしか はんだんが なしえないとする しゃかいお やめる。

・「しんじつ」お ついきゅうすること・さだめること じたいと「しんじつである/しんじつにちかい」ことわ どういつでわ ない(が、「かのように」あつかわれている)。

・「しんじつ」というシステムが マイノリティとマジョリティとでわ おなじような フェアさで さようして・かんけいお むすんで こなかった。「しんじつ」お ついきゅうすることと、かがいしない/かがいでわない ことも、つねに どういつでわ なかった。

つちやさんが れいにあげるように、デマや フェイクニュースえの たいこうに きぞんの がくもんの けんい、そして なにがしんじつであるか という わくぐみが つかわれることも あります。(さいきんの れいでわ ラムザイヤーろんぶんの れきししゅうせいしゅぎに たいする けんきゅうしゃ・けんきゅうしゃいがい からの ひはんなど。https://archive.is/20210410001613/https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82049)しかしまた、がくもんのけんいや「しんじつのついきゅう」という しゃかいこういが、つねに デマや フェイクニュースに たいこうするとわ かぎりませんでした。

ひとつの『しんじつのついきゅう』という じれいに『よい』ぶぶん・やくわりが あることと、「そのしゅだん ぜんたいが あることお こうていするべき」(あるいわ そのしゅだんお もちいる「しかない」のだ)ということも、わけることができる はずです。
むしろ それお しゃかいてきに つなげる、おなじである「かのように」する ことにもヘゲモニーが かかわります。
マイノリティにかかわる わずかな『わるい』とされる できごとお こんきょとして、マイノリティぜんたいが こうげきされること。それと おそらく ぎゃくで、マジョリティの かがいてきな ありかたが、『よい』とされる できごとによって「だから もんだいわ ない」「もんだいがあっても しかたがない」と かんがえられていく、『つうよう』させられていくという、けんりょくの よくあつてきな システムの ことお かんがえますと、
「デマやフェイクニュースに『しんじつ』が たいこうした」(とおもえた)ことお、「しんじつ・しそうの ゆうれつ という がいねんわ/が ひつようである」という ロジックの むすびめ(けつろんお こていする ための こんきょお さだめてそして、けつろんお こていすること、としてみます)にすること でわなく、
「しんじつ・しそうのゆうれつお さだめる という システムないし こういが およぼす ゆうてつがくの かがいせいお あらためること」と「デマやフェイクニュース という かがいに たいこうすること」の りょうりつが もさくされるべきだ、と かわぞえわ かんがえます。

さいしょの といかけに もどりますと、
それおへて なお かわぞえが しゅちょうするのわ、「ゆうてつがくてきな はんだんと そうでない はんだんが ある」でわなく、「すぐれている/いない だけでわなく、はんだんすることと ゆうてつがくわ わかちがたく、やめるべき」なのだと おもいます。ここまでの かわぞえの はなしに かずおおくの「はんだん」が ふくまれているにも かかわらず、です。
それわ おそらく、かわぞえわ きぐしているからです。「はんだんであっても ゆうてつがくの かがいに ひはんてきで あれば よい」という えらびかたじたいが、ゆうてつがくという ことばで そんざいお たしかめた かがいのありかたと へんかがない かもしれない ことお です。
ヴィジョニズムの ところでも かいたことですが、わたしもふくめて、おそらく ゆうてつがくに あがらうということわ、そんなに かんけつに なしえることでわないと かんじます。しゃかいであり わたしたちじしんが かなり べつの ありかたになることです。ゆうてつがくでも ゆうせいしそうでも、あまりにも かんたんに(というか きぞんの しゃかいと ちょうわするように)その『こくふく』が しゅちょうされるとき、それわ けんぜんしゅぎに あがらい あらためると いうよりも、より『フレキシブルで、つよい』ような ものとして『しゃかいで やくわりお はたす』のだと おもいます。

かがいのはなしわ「なになら してよいか」というわくぐみでわなく、「どのように やめるか」というふうに かんがえたい。

いま わたしが かんがえたのわ、このようなことなどでした。


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