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障害の社会モデルと「不健康な障害者」をめぐる一考察
遠藤 翔馬 (東京都立大学大学院人文科学研究科)


1.障害の社会モデルにおけるインペアメントの位置づけをめぐる議論
 「障害の社会モデル」とは、障害(disability)は社会的障壁によって生成されるものであるとみなし、社会的障壁によって生じている不利の解消を社会に求めるための理論枠組みである。マイク・オリバーらによって問題提起された英米圏のディスアビリティ・スタディーズでは、障害の個人モデルの認識が障害を心理的または病理的問題に還元するのに対して、障害の社会モデルは障害が社会的・経済的構造における広範な社会的・物質的要件よってもたらされるものであると理解されている(Barnes et al. 1999=2008:49)。
 しかし、障害という現象を記述するうえで「心理的または病理的問題」としてのインペアメントをまったくもって捨象することは可能なのであろうか。また、それらを捨象することはある種の障害者の包摂を不可能にするのではないかといった問題提起がフェミニスト障害学者からなされている。
 たとえば、モリスは障害の社会モデルが障害に対する偏見を打破しようとするとき、インペアメントという「否定的側面」を忘却しようとするリスクを指摘する。このような「否定的側面」は健常者のみならず、障害者自身の内面にも「住みついて(reside within)」いる(Morris 1991:43)という。このような女性障害者による内在的批判は、既存の社会モデルがインペアメントを取り扱わなかったことに対して、フェミニズムの主張に則ってインペアメントの問題も政治化したと杉野昭博は指摘している(杉野2007:134)。
 こうした指摘にしたがえば、インペアメントに関する偏見や否定的な認識を内面化しているかぎり、障害者は障害の社会モデルを受け入れたり、それによって肯定的なアイデンティティを獲得したりすることは困難であると考えられる。
 アメリカにおいて障害学に言及するウェルチは、当初の典型的な障害の社会モデルに込められた「われわれの参加を阻むように恣意的に立ちはだかる障壁、我々はそれに負けない」というようなメッセージは、見えない障害をもつ人や慢性疾患の人の経験を代弁し、そうした人々のニーズに十分接近するためのツールとして不十分ではないかという懐疑を示している(Welch 2017:124-125)。 ウェルチは、ウェンデルの「健康な障害者(Healthy disabled)」「不健康な障害者(Unhealthy Disabled)」という概念を援用することで、モリスのようなジェンダー論視点からの批判とは異なる視点から、障害と健常の二項対立の図式では説明できない障害者のおかれた状況を説明している。
 「健康な障害者」は、「身体的状況と機能制限が比較的安定しており、予後が確定している者」(Welch 2017:120)で、四肢の欠損、臓器や身体機能の欠損のような「明白に可視的で実体的な『根拠』」によって自らが障害者であることを証明している。そして、多くの場合障害者運動家は前述のような「負けない」、「強い」メッセージを発してきた障害者というイメージを体現している。障害者運動においてさえ、社会モデルを促進し、医療化に抗するという目標のためには運動家は健康で、精力的に運動に取り組む「できる障害者(able-disabled)」でなければならず、運動あるいは労働の場において完全な社会参加を承認されているのは「できる障害者」のみなのだという(Wendell 2001=2017:164)。
 これに対して、慢性疾患や見えない障害を持つ人は、寛解している状態においても「長期にわたる医療や観察が必要とされる」、「あるいは治療に合理的な説明がないため患者が再発を恐れなければならない状態が想定」される(Wendell 2016:164)。具体的には、免疫関連の疾患、糖尿病、ある種の伝染病の予後不良の後遺症といった疾患や障害には上述のような特徴がみられる。特に免疫関連の疾患に関しては「痛みや疲労の経験」をもつことが強調され、こうした疾患や障害をもつ人は、社会的障壁の除去のみでは対応できない健康上の問題を抱えており、しばしば身体的状況は不安定であり、医療的予後が不明ないし不良である。またそのことによって、他の人たちが経験しないような死への恐怖も抱いている(Wendell 2016:162, Welch 2017:124)。
 このような「不健康な障害者」に着目した時に、「健康な障害者」の運動家による既存の障害の社会モデルの提唱や医学モデルへの挑戦は、慢性疾患や見えない障害をもつ人にどの程度妥当性があり、適用可能なのだろうか。「不健康な障害者」が自らも障害の社会モデルの担い手でありたいと願うとき、障害の社会モデルは彼女ら/彼らの「不健康な」身体的状況にもかかわらず、彼女ら/彼らを迎え入れることができるだろうか。そのためには健康でないことによるニーズへの対応が社会モデルにおいても正当に位置づけられることが必要ではないか。
 本稿はこのような問題意識をもとに、「不健康」であることによって生じる「不健康な障害者」の経験する社会生活上の問題がいかなるものであるか、およびそうした問題に対応するために必要とされる医療的介入と障害の社会モデルを架橋することの可能性を検討したい。
 なお、本報告は公開された先行研究の文献調査であり、研究上の倫理的配慮については一般的な事項をのぞいて特記すべき点はない。

2.ADAによる障害定義の狭義化と「不健康な障害者」の排除
 まず、「不健康な障害者」がアメリカの障害者差別禁止法制の文脈でどのように位置付けられているのかを概観しておく。
 ヤングは、障害を持つアメリカ人法ADAが成立するとすぐに、誰が「真に」障害者と言えるのかという定義を狭める努力がなされ、それが一定の成功をおさめてきていると警鐘を鳴らしている。原告が自らは被害者であると位置づけその救済策としての法的責任を追及し、権利や配慮を認めさせるというADAに内在する帰責の枠組みが、「憎しみの政治(Politics of resentment)」を誘発しているという。雇用主はいかにして障害を狭義化して、原告を配慮の提供対象となる「障害者」ではないことを証明することに関心を集中させているとヤングは述べている。この結果、そもそも最重度で目に見えるような明らかな障害をもっている人だけが、ADAで認められる障害者とされがちになる。こうした「不健康な障害者」は、ADA訴訟においては「障害者」とは認められなくなる可能性が高い。
 一方、ADA訴訟では、仮に障害者として認められたとしても「職務能力のない障害者」とされれば、同様にADAの対象外とされる。そしてアメリカの現行法では職務能力の定義は実質的には雇用主の恣意性に任されているとヤングは指摘する。こうした雇用主によって恣意的に定義された職務基準に適合しない労働者は、障害の有無にかかわらず、怠惰で非協調的で、労働に不適格であるとみなされる(Young 2001:172)ために、ADAの訴訟から排除されるのである◆1。
 以上のように、「不健康な障害者」は、二重の意味でADAから除外される可能性が高い。一つは「充分に障害があるわけではない」ために「障害者」として認められない可能性であり、もう一つは、たとえ「障害者」として認められても、慢性疲労や不安定な健康状態について「職務不適格」としてみなされて、合理的配慮の提供義務の対象外とされる可能性がある。
 こうして、障害者の定義はすでに障害者として認められているものだけに狭義化され、固定化していく。狭義化、固定化された障害者の定義は、慢性疾患や見えない障害を持つ人への対応を困難にする。

3.「不健康な障害者」のおかれた生活実態
 慢性疾患の人や見えない障害をもつ人は「不健康」であるという困難を抱えつつも、障害を隠して生活するか、障害を呈示、可視化し認知させるか、いずれかの戦略を選択しなければならない。疾患や障害固有のニーズを承認させるためには後者の戦略を選択し、痛みや疲労の経験を認知させること、インペアメント自体に注目を集めることが必須となる。それにもかかわらず、慢性疲労や線維筋痛症といった複雑な、予測不可能で説明が難しいインペアメントを可視化し、周囲に理解させることには困難がつきまとう。例えば慢性疲労をカミングアウトしても、疾患による疲労がいつ起こるかわからず、生活に制約があることが理解されず、睡眠や休息をとれば回復する一般的な疲労としばしば同一視される(Welch 2017:128)。このため、慢性疲労特有の困難について十分な認知を得られないまま、「みんな」と一緒、「ふつう」の人と同じ仕事や試験、課題の遂行が要求されることがある。
 運動に参加するとしても、「不健康な」彼女ら/彼らは調子の悪い日は会合に参加したり、手紙やメールを書いたり、電話に出たりといったことが不可能である。不調があった際には事後的に進捗を教えてもらったり、活動をゆっくりと進めることができるように依頼したりという配慮を受けなければならない(Wendell 2016:165)。

4.流動的な連続体としての障害の把握
 医療社会学者のゾラは、障害は固定的、二元的な状態ではなく、流動的なものであると述べている。病気を固定的なものとして把握することは客観的、専門的な診断、治療といった専門家の信念を強化するものであるので(Welch 2017:116)、これに対するべく固定的ではない、尺度化しえないものとして「障害」を把握するには、(1)障害という問題は特定少数の限られた人の問題ではないとこと、(2)障害という問題の解決は医学によるものだけとは限らないこと、(3)障害をもつ人と慢性疾患の人を区別することは、分断された不平等な社会を永続させるということ、という三つの再認識が必要であるとゾラは主張している(Welch 2017:130)。なかでも、障害者と健常者との定義上の線引き、すなわち、障害/健常の二分法は「自己欺瞞」であり、障害とは「今ここにはいないだれかほかの人の問題」ではありえず、ほとんどの人が「せいぜい、一時的に健常者であるにすぎない」のであり、「それなりの期間を障害者としてすごすことになるのだ」という(Zola 1982=2020:393-394)。
 そのためゾラは、個人を二分法的に障害者か健常者に分類するよりも、障害の幅と無力化の程度を包括する連続体(continua)に改めることのほうがより生産的ではないかと提案する(Zola 1993: 24)。ウェルチはこれについて障害を尺度化し測定することは、ある時点でスナップショットを撮るようなものにすぎず、「誰もが共有する度合いや状態や状況の一揃い」ととらえるゾラのいう障害の再定義こそが、変化してゆくリスクにおかれた「人々全体のニーズに対応した柔軟な社会的環境を変革し育成していく」のであるという(Welch 2017: 131)。
 ゾラのいうように障害を流動的な連続体として把握することによって、健常者と障害者の連帯の成否、ひいては慢性疾患や見えない障害といった特に流動的な把握によって説明されうる「不健康な障害者」、「できない障害者」にとっての社会モデルの有効度合いも異なるのではないか。

5 流動的なものとしての障害把握の限界と可能性
 ところで、このように障害を流動的、連続体的なものとしてとらえる学術的営為はあったとしても、 そのような把握が社会の大部分でなされているのではなく、これまでに示したような周囲からの承認を得るためには「不健康」であるとしても、可能な限り「健康な」障害者像へ近づこうという実践が、「不健康な障害者」自身によってなされている。この実践は医学的診断や治療といった、一見「障害の社会モデル」と相反するようなセルフケア、自己管理といった実践をともなう。社会の要請によってセルフケアを行うことについて、「不健康な障害者」はどう考えているのか。ウェンデルの考えるような「不健康」さを有しているような疾患の経験として、ここでは喘息と糖尿病の経験を引用してみたい。
 岡原正幸は、自身の小児期における喘息の経験を語っている。母親が管理していた発作を抑制するメジヘラー(吸入薬)を自己管理するようになって、就寝時の喘息発作などで母親から保護される自分が、管理主体としての自己と管理対象としての喘息に分離され、喘息に立ち向かう「強き勇者」となれた(岡原1995:88)のだという。
 しかしこうした自立は挫折をみる。吸入薬の頻繁な使用は喘息の子どもの自立を妨げる、という自身の気負いと相反するような言説や、それにもとづいた「もう一枚外側」からの管理によって、あるいは自立を妨げるといった言説を内面化していくことで、吸入薬を使用することの自主性を喪失したと語る。すべてに立ち向かうような「自立」を前提にするがゆえに、本来なら、「いつメジヘラーを使えばいいのか」などと親に聞くことができたはずなのに、立ち向かう自分の姿に「おぼれて」いたという(岡原1995:91)。このような心身の相関性への着目は流動的な連続体としての障害把握につながるものであるが、そこに(健康な)「自立」を見いだそうとしたために「挫折」に直面している。
 こうした「挫折」経験に対して、浮ヶ谷幸代による糖尿病患者の治療実践の研究は、より積極的な意味において病気を流動的に捉えることを試みている。
 糖尿病の療養は血糖値や血圧など、病理的意味付けがなされた数値によって規定されており、患者は多くの場合、検査によって示される数値に一喜一憂し、食生活や身体的運動など生活習慣のコントロールなどによって血糖値を操作できるというような支配的な医療言説をうのみにせざるを得ない立場に置かれている。
 しかし療養を通して自覚症状や微妙な身体感覚への気づき、治療実践への新たな意味の発見や創造による試行錯誤と創意工夫にもとづく「自分のからだ」と向き合う実践によって身体は再構築されていく。浮ヶ谷はウェンデルが「痛みを直視するようになってコントロールを体得し」、「(私たちの)日々生きている自分の身体はまちがいと思いこまされてい」たことに気づいたと述べたことを引用する(浮ヶ谷2004:112-113)。
 患者らはしばしば糖尿病の療養を通して、身体は治療専門家に任せるものであるという「身体の疎外」、医療者の言うような弱さの克服とは異なったものとして、「健康な身体」では経験しえなかった新たな身体感覚を次第に獲得していく。糖尿病の療養における試行錯誤や創意工夫によるセルフケアはむしろ支配的な医療言説のオルタナティブとなるような解釈と「生きる術」を見出すことに成功している。
 セルフコントロールの「挫折」と「成功」は、長期的な医療を受容することによって障害の社会モデルから排除されるよりも、内面化された医療言説の否定を通して主体性を回復する可能性に開かれているだろう。これは、障害を把握するにあたって「スナップショット」的な障害の測定に対置される連続体的な障害の把握を先取りした自己認識であって、こうした認識を促進するような「人々全体のニーズに対応した柔軟な社会的環境」づくりが要請されるといえよう。

脚注
◆1 こうした状況に対してヤングは、訴訟や法的措置よりも、労働組合による交渉権の中に、賃金交渉だけでなく、「職務能力の定義」や「職務能力評価の基準と方法」なども交渉事項に含めることが重要だと述べている(Young 2001:173)。

引用文献
Barnes Colin et al., 1999, (=松波めぐみ他訳『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学の経験』明石書店)
岡原正幸, 1995, 「家族と感情の自伝」井上眞理子・大村英昭編『ファミリズムの再発見』世界思想社, 60-95.
杉野昭博, 2007, 『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会.
浮ヶ谷幸代, 2004, 『病気だけど病気ではない:糖尿病とともに生きる生活世界』誠信書房.
Welch, Melissa Jane, 2017, ” Back to the future: Irving Zola’s contributions to the sociology of disability”, Sara E. Green and Sharon N. Barnartt eds., Sociology Looking at Disability: What Did We Know and When Did We Know it, Bingley, Emerald Group Pub Ltd., 97-141.
Wendell, Susan, 2001, “Unhealthy Disabled: Treating Chronic Illness as Disabilities”, Hypatia, 16(4): 17-33. Reprinted in: Lennard J. Davis ed., 2016, The Disability Studies Reader 5th Edition, New York, Routledge, 160-172.
Young, Iris Marion, 2000, “Disability and the definition of work”, Leslie Pickering Francis and Anita Silvers eds., Americans with disabilities : exploring implications of the law for individuals and institutions, New York: Routledge, 169-173.
Zola, Irving Kenneth, 1982, MISSING PIECES: A Chronicle of Living with a Disability, Philadelphia, Temple University Press. (=ニキリンコ訳, 2020, 『ミッシング・ピーシズ――アメリカ障害学の原点』生活書院.)
Zola, Irving Kenneth, 1983, Socio-Medical Inquiries, Philadelphia, Temple University Press.
Zola, Irving Kenneth, 1993, Disability Statics: What We Count and What It Tells Us, Journal of Disability Policy Studies, 10-39.


■質疑応答
※報告掲載次第、9月25日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は2021jsds@gmail.comまでメールしてください。

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〈2021.9.22 会員の石島健太郎さんから〉
 帝京大学の石島です。
 ALS患者の在宅生活をフィールドに調査を行っています。ALSがもたらす身体障害は誰の目にも明らかな場合が多いですが、進行の過程が予測しづらく、生活に医療的ケアを要す点で不健康な障害者に含まれると考えており、ご報告は大変勉強になりました。

 5節のセルフケアについて質問があります。
 喘息や糖尿病の当事者による実践は、たしかに支配的な医療言説に対するカウンターとして有効である一方、フーコーめいた言い方をすれば、そのように主体が立ち上がることもまた、ボトムアップ的な権力作用の結果であるようにも思えます。
 つまり、こうした抵抗言説が、個人の主体的な実践であるという装いで行われるだけに気づきにくいかたちではあるけれども、実はすでに別種の権力に絡め取られているようにも思えるのです。
 そうした権力の具体例として、たとえばネオリベラリズム的な健康の自己責任論があります。セルフケアの実践が生の技法として称揚され、さらにはセルフケアを行うことをよしとする社会的環境が実装されていくとき、セルフケアができない人々には、どのような抵抗が可能なのでしょうか。

〈2021.9.28 報告者から〉
石島様

 遠藤です。
 コメントをいただきましてありがとうございます。

 「セルフケア」を(新自由主義的)自己責任論として、たとえば「健康日本21」の示すような慢性疾患、「生活習慣病」の早期発見・予防を要求する保健医療行政における政策目標にそったものとして把握すれば、「セルフケア」は健全主義、健康至上主義にそった自己コントロールができない人を排除するものとして機能することになるでしょう。

 しかしながら反省的に身体へ向き合うこと、インペアメントを契機とした自己認識の変革がすなわちボトムアップの権力作用としてのコントロールであるかどうかについては、やはり検討の余地があるかと考えます。

 本報告では、政策目標にそった自己管理の要請やできないことと、それによる不利益をその人個人に帰責する環境そのものを変革するような実践もセルフケアと呼んでいます。それは必ずしも健全主義的なものであるとは限らないのではないかと考えています。

 ご質問いただきました、政策的要請にそったセルフケアができない人による「抵抗」の可能性については、インペアメントをコントロールできなくても、コントロールできない生きざま自体が「抵抗」でありえるのではないかと考えます。また、それを具体的な変革や不利益の縮減につなげていくとすれば、「できない」こと自体を肯定的に意味付けるような価値観の形成、またインペアメントとの折り合いの付け方を相互参照、学習することに資するようなネットワークの構築、あるいは既存のネットワークの価値観の更新をさしあたり構想できるかと思います。

 コメントをいただきまして、本報告にて「セルフケア」という術語・概念に5節の事例のような自主的治療実践と政策的要請による自己責任的治療実践を切り分けずに用いた箇所があったため、用語法のレベルでも再考が必要と気づきました。
また「挫折」「成功」といった、個人の治療実践に対する評価は社会的環境との相互作用であるという要素を考慮すると、安易に治療実践を評価することには慎重であるべきかもしれません。

 今後とも機会がありましたらコメントいただければ幸いです。


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