ブックマン・マーク(1991年―2022年):真言密教と障害学

長瀬修

真言密教に取り組んでいると聞いて驚いた。ブックマン・マーク(Mark Bookman)と最初に会ったのは、2014年だった。米国人でフルブライトフェローとして、東洋大学で真言密教を研究していると話していた。本当は高野山大学に行きたかったが、車いす利用者にはバリアだらけで断念したとも語っていた。
実際、東京でも、バリアフリーなアパート探しに苦労しているということで、フルブライトフェローとして日本に滞在経験のある作家、ケニー・フリース(Kenny Fries)から紹介されたのだった。フリースは日本印象記である『マイノリティが見た神々の国・日本』を著している。
当時の会話で印象的だったのは、遠藤周作の『沈黙』をもっと若い時に読んで影響を受けたという話だった。それはマークがユダヤ教から離れるきっかけの一つだった。学生時代にユダヤ教に別れを告げたとき、父親(Paul Bookman)の嘆きはひとしおだったと言っていた。マークが最初に『沈黙』を読んだのは14歳の時で、その時は翻訳で読んだと父親は語っている。
マークは、私の出身校である上智大学にも留学経験があるということで、親近感を持った。バリアフリーな物件探しを手伝っていて、たどり着いたのが自立生活運動のリーダーである今村登だった。自立生活センターSTEPえどがわの今村は、DPI日本会議でも活躍している。その今村に相談したところ、自身も住む江戸川区瑞江のバリアフリーなアパートを紹介してくれた。手伝っていて改めて、バリアの多さを痛感した。山田太一作のドラマ『男たちの旅路 車輪の一歩』で岸本加世子と清水健太郎がバリアフリーな物件探しをするシーンを思い出した。

(2015年2月22日、江戸川区瑞江のアパートにてマーク。長瀬撮影)

真宗学と障害学』を出したばかりの頼尊恒信(真宗大谷派門称寺・CILだんない)を講師とする研究会を2015年に「社会的障害の経済理論・実証研究」(研究代表者:松井彰彦)として企画し、声をかけたところ、マークは熱心に参加していた。振り返れば、ちょうどまさに宗教学から障害学に関心が移行していた時期だったのだろう。
その後は、障害学に完全に転換するが、日本への関心は薄れることなく、2021年5月にペンシルベニア大学東アジア言語・文明研究科博士課程から”Politics and Prosthetics: 150 Years of Disability in Japan”(政治と義肢装具:日本の障害の150年)と題する博士論文で博士号を授与される。この博士論文を基にした著作はオックスフォード大学出版会から生前、すでに出版が決まっていた。2025年の刊行に向けて、共著論文のあるモナシュ大学のキャロリン・スティーブンス (Carolyn Stevens)やデラウェア大学のフランク・モンデリ(Frank Mondelli)が尽力している。
障害学に取り組み始めてからの歩みも、本当に素晴らしかった。査読付き論文や書籍(分担)を精力的に世に出していた。そして、博士号取得の前から、マークの存在感は急速に高まっていた。学会も開催者である障害学国際セミナー2021(オンライン特別セミナー「新型コロナウイルス感染症と東アジアの障害者」)には日本の報告者として指名され、「日本における支援連携問題の深刻化―新型コロナウイルスと環境・介助・施設の歴史」と題する報告を日本語で行っている。
2021年4月には東京大学東京カレッジにポストドクトラルフェローとして加わっていた。マークはその選択を喜んでいた。そして、これが最後のポストとなった。亡くなった時には、米国の障害学会(Society for Disability Studies)の理事を務めていたほか、障害学会では、2021年に発足した国際委員会で初代の委員を務めていた。私は個人的に勝手に、将来は学会理事、国際委員長、会長などを引き受けてくれたらと夢見ていた。そして障害学を超えて、ドナルド・キーンのような存在になってくれると漠然と感じていた。立岩真也も、立命館大学での自分の仕事の将来をマークに託していた。
マークは、仕事に真剣で、そしてとても親切だった。学会が「ウクライナへのロシア連邦による侵攻と障害者の保護と安全に関する」理事会声明を出した時の英訳も快く手伝ってくれた。2022年4月からは、私の所属する立命館大学生存学研究所の客員研究員(「ブックマン・マーク」という名前で登録していた)を務め、研究所が刊行する英文ジャーナルへの投稿論文の査読を頼んだ時には、24時間も経たないうちに、非常に綿密で良質な査読を行ってくれた。
最後に会ったのは、マークを主人公とするドキュメンタリーの撮影クルーが米国からやってきた時、2022年10月6日、彼の住むお台場の東京国際交流館だった。コロナの影響でだいぶ会えていなかったので、再会できてとても嬉しかった。その時に、クルーと共に来日していた父親のポールとも少しだけ言葉を交わす機会があった。
その晩に以下のメッセージが届いた。

Thank you SO much Nagase-sensei! I am so very appreciative of you coming all the way to Odaiba to interview for the documentary.

You’ve been (and are) such an inspiration to me and you have helped me so much over the years. I’m truly, truly grateful. And I know that my father is as well.

I hope to continue following your example and working to create a more accessible and inclusive society inside Japan and beyond.”
(長瀬先生、大変、ありがとうございます。ドキュメンタリーのインタビューのためにお台場までご足労いただき、感謝申し上げます。
先生はこれまでずっと私に多くのインスピレーションを下さっています。先生は長年にわたって、私をたくさん助けてくださいました。本当に、本当に感謝しています。そして、父も同じ気持ちです。
先生を、これからもお手本にして、いっそうアクセシブルでインクルーシブな社会を日本そして世界で実現するために活動を続けたいと思います。<長瀬訳>)
私は“You have been my inspiration!!!💛”( マークさんこそが私のインスピレーションであり続けています)と応えた。その気持ちは強まりこそすれ、今も変わらない。
訃報が届いたのは、亡くなった翌日の2022年12月17日だった。学会のオンライン理事会を終え、メールをチェックすると、オーストラリアのスティーブンスが、マークの急逝を伝えていた。そのメールを何度か読み直したが、マークの他界を私は理解できなかった。いや、受け入れられなかった。スティーブンスと話して確認せざるを得なかった。とても辛い会話だった。
その会話で、ポールが東京にまもなく到着することが分かった。私も、マークの遺体がある東大病院に向った。ポールと撮影時に会っていたことも背中を押してくれた。そこでポールと再会し、マークの義母のワサナ(イラク出身)と初めて会った。筋ジストロフィーに似た希少難病により、10歳で心臓移植を受けていたマークは、移植後の平均寿命が10数年程度であることを熟知していたらしいことも、その時に知った。マークの主な介助者だった畠山亮の手配で、東京都葛飾区四ツ木の斎場でマークは荼毘に付された。棺の中のマークは、白装束で徳の高い僧侶のようだった。
父親の同級生であり、ホロコーストをテーマとする作品でエミー賞を受賞しているロン・スモール(Ron Small)によってマークの生前から製作が進められていたドキュメンタリー”Mark: A Call to Action”(ブックマン・マーク:行動の軌跡)が完成したのは、2023年末だった。マークの急逝後に、追加のインタビューが行われていた。そして2024年2月末に、東京大学駒場IIキャンパス、上智大学四谷キャンパス、東京大学本郷キャンパスという所属や留学で関係のあった3か所で世界プレミアが開かれた。プレミア直前には、ジャパンタイムズが大きな記事を掲載している。米国では、2024年6月にマークの郷里であるペンシルベニア州ブリンマー(フィラデルフィア郊外)において、プレミアが行われる。

(東京プレミアのポスター。車いす姿のマーク。グライドファンド提供)

この作品を通じて、自分の知らないマークを知ると共に彼を取り巻く人々の姿をとても興味深く感じた。752グラムの超未熟児としての誕生、10歳の心臓移植、病床での他の病児との交流と死別、小学校時代の教師との生意気なやりとり、日本のアニメとの出会い、妹との関係、実母との死別、義母との交流、そして何より父親(もう一人の主役)との多面的な関係等々である。
本郷でのプレミアでは、今村が上映後に挨拶した。自分がバリアフリーなアパートを紹介した経緯について紹介し、マークが「精力的に行動されて、あっという間に日本中の障害者運動のリーダーたちに会いまくり、Facebookを見ると、私の友人の障害者関係の人とはほとんど繋がっていて驚いたものでした」と語っている。マークの驚異的なネットワークを示している。
マークがこのドキュメンタリーで伝えようとしているのは、自分が多くを成し遂げられた理由は、父親であるポールをはじめとする、可能性を信じる共同体(コミュニティ)のおかげであり、そうした共同体の支えがあれば、誰もがより多くを成し遂げられるという強い思いである。そして、マークは、そうした支えの提供を自ら実践していた。
そうした実践として、父と共に生前に発足させていたのが、グライドファンド(Global Leaders in International Disability Education Fund)である。その目的は、誰もが自立した生き方ができるインクルーシブな社会づくりを目的とする、障害学生の国際的な教育機会への金銭的支援である。それは自らが障害学生として経験した困難(例えば、バリアフリーな住居探し)を他の障害者が経験せずに済むようにしたいという思いに基づくものだろう。
このファンド以外でも、マークの遺産はすでに動き始めている。Anthropology of Japan in Japan(AJJ)はマーク・ブックマン賞を創設し、Esben Petersen(立命館大学・南山大学)らが2023年に第1回の受賞者となっている。2024年3月には、柳井イニシャティブ(日本文化研究の伝承と伝播を目的とする早稲田大学とカルフォルニア大学ロサンゼルス校との共同連携事業)の一環として、Japan Past and Present (JPP)という日本文化の研究や教育に関する国境を超えた情報ハブが立ち上がり、その中でDisability Studies in Japan (日本の障害学)に関するプロジェクトがマークに捧げられている。

(2024年2月28日、高野山大学にて。右がワサナ、左がポール。二人はマークの遺灰を手にしている。長瀬撮影)

東京のプレミア終了後、ご両親と真言密教の聖地であり、その開祖、空海が眠る高野山を訪問し、マークが一度は留学を目指した高野山大学にも一緒に足を運んだ。そこで、駒場でのプレミアで、マークが取り組んでいたのは「私たち人間がこの宇宙で生きていることの意味や謎に関する真理」ではなかったかと福島智が語っていたことに思いを馳せた。そして空海について本当に遅まきながら読み始めると、元高野山大学学長である松永有慶の「現実の有限世界の万物が、そのまま真理の無限の世界とつながるという世界観を展開した空海」(「空海」、岩波書店)という言葉に出会った。マークはまさにこうした真言密教の世界観と共鳴していたのかもしれない。真言密教の世界観と障害学の接点の有無についてマークから聞けなかったのは、数えきれない心残りの一つである。

(敬称略)

 

 

立岩真也、ジョン・ヒギョン、障害学国際セミナー

長瀬修

立岩真也の追悼ビデオが5分以上にわたり流されたのは、2023年10月27日、ソウルで開催された障害学国際セミナー2023開会式だった。韓国で2010年、2012年、2014年、2017年と4回開催されてきた障害学国際セミナーをはじめとする様々な場面での立岩の姿が映し出された。
深い思いと温かい記憶に満ちたビデオを作成し、解説したのは同セミナーのホストを務めた韓国障害学会の国際委員長であるジョン・ヒギョン(鄭喜慶:光州大学社会福祉学部学部長)である。        (障害学国際セミナー2023でのジョン・ヒギョン)

韓国からの留学生であり、自立生活センター立川で介助者経験のあるジョンは2007年4月に立岩が所属する立命館大学大学院先端総合学術研究科の博士課程に入学している。立岩はジョンの指導教員(博士論文の主査)だった。
障害学会でも、立岩が大会長を務め、立命館大学で開催された2007年の第4回大会2009年の第6回大会の2回、研究テーマだった韓国の障害者運動について報告している。ジョンは立岩が著者の一人である『生の技法』(1995年増補改訂版)を2010年に韓国語に翻訳している。韓国での立岩の評価はとても高く、「カリスマ的存在」だったと2010年のセミナーの参加者の一人は述べている。
障害学国際セミナーが2010年に日韓の障害学の交流の場として発足したのは、ジョンと立岩の出会いがあったからだ。そうして誕生した障害学国際セミナーの英文の名称は、“Korea Japan Disability Studies Forum” であり、韓国と日本を冠していた。
私が最初に参加したのは2012年のソウルでのセミナーだった。焼肉屋でサムギョプサルを頬張り、ソジュを飲みながら韓国側の参加者と議論を交わす立岩は本当に楽しそうだった。
日韓の障害学国際セミナーに中国のグループが加わったのは、2013年秋に京都で、立岩が率いる立命館大学生存学研究所が主催し、中国の障害者組織と障害学の研究グループそれぞれの代表を招いた研究会がきっかけだった。今では想像できないほど、自由な交流が中国と可能だった時代だった。国際交流に熱心な立岩と私は、日韓の障害学国際セミナーと同様に、日中の定期的セミナーを提案したが、前年の尖閣問題以降、日中関係は悪化していたため、政治的に難しいという感触だった。そこで、日韓のセミナーに中国グループが加わる形はどうかと提案すると、賛同が得られた。韓国側と相談し、2014年のソウルでのセミナーに中国グループが初めて参加した。
中国グループがホストとなり北京で開催された2015年のセミナーから日韓中の枠組みとなり、障害学国際セミナーという日本語の名称は変わらなかったが、英語では”East Asia Disability Studies Forum” とし、東アジアという名称に変更した。
台湾の障害学グループが初めて加わったのは立命館大学大阪いばらきキャンパスで生存学研究所がホストとして開催された2016年のセミナーだった。研究所の一員として私が企画運営を担当したが、立命館のアクセシビリティの課題で肝を冷やした
現在の日韓中台という枠組みが確立したのは、このセミナーだった。中国グループが加わった段階で、それまでの日本語と韓国語に加えて、中国語の通訳も加わり、音声言語だけでも3言語の同時通訳という体制となっていた。英語ではなく、それぞれの言語で参加できる形態の維持は、運営・経費面で大変な負担だったが、立岩にとって大きなこだわりだった。英語ができることが条件とならず、広範な参加が可能なセミナー運営が現在も維持されているのは、立岩のビジョンのおかげである。
なお、同セミナーの集合写真に神妙な顔で映っている立岩のもう一つのこだわりは、背景に映っているセミナーの看板の左端の月やススキと右端のウサギだった。これらは立岩の趣味であるのみならず、海外ゲストへのもてなしの気持の表れだっただろう。
この時期、立岩は新たなネットワークを強化するために、障害学国際セミナー以外でも東アジアに足を運んだ。2016年11月に台湾の東海岸の花蓮で開かれた台湾社会学会大会で報告を行っている。台北からの2時間半を越す列車の移動中、同行したアン・ヒョスクと私は車窓から見える美しい景色に目を奪われたが、立岩は持参した原稿の修正に集中し、窓外に目を向けることはなかった。2017年12月には中国の武漢で開かれた、中国の障害者政策に関する国際会議でも報告を行っている。

(2016年、花蓮の七星潭での立岩と、同行した韓国の留学生、アン・ヒョスク)

障害学会と障害学国際セミナーとの関係をここで振り返る。まず、学会と東アジアの障害学との接点に含まれるのは、2014年に沖縄で開催された第11回障害学会大会プレ企画「東アジアの障害学の展望――中国・沖縄・日本」(学会は後援)である。2012年の障害者権利条約の初回審査において、勇敢にもパラレルレポートを国連障害者権利委員会に提出した中国の障害者組織障害学研究グループのメンバーが報告した。堀正嗣会長と岩田直子大会長の尽力の成果である。
2018年の浜松での大会(田島明子大会長)では、同年に発足したばかりの台湾障害学会の張恒豪会長が自費で参加し、「台湾の障害学――問題と課題」と題する講演を行って下さっている。この時、立岩は会長である。
学会が共催に加わったのは、2020年のセミナーからである。本来は、2020年秋に京都で開催予定だったのだが、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の影響によりオンラインで開催された。学会大会もやはりコロナの影響により、オンラインで開催された。立岩は3回目の大会長を務めた。立岩は会長であり、2020年の学会大会とセミナーを連続して京都で開催する構想を持っていた。コロナの影響で実現しなかったのは、かえすがえすも残念でならない。
京都での対面での開催を模索したものの実現せず、2020年から2022年まで、3回連続のオンラインセミナーを情報保障付きで開催に成功し、その後、バトンを韓国障害学会に渡したのだった。情報化社会のユニバーサルアクセスを全体テーマとするソウルセミナーでは、石川准(学会会長)の放送やメディアのアクセシビリティの政策についての口頭報告(ビデオ)と、学会員によるポスター報告が共に初めての試みとして実現した。
ソウルでのセミナーは、最後に対面で開催された2019年10月の武漢でのセミナーから4年ぶりの対面開催だった。長期にわたる厳しい都市封鎖を経験した武漢のグループとの再会を含め、生身で会える形での開催は格別だった。しかし、そこに立岩の姿はなかった。それでも立岩の存在は間違いなくあった。立岩のビジョンとリーダーシップの成果がそこにあった。
それは2024年には台湾に引き継がれる。ソウルでは、台湾障害学会会長の周怡君(東呉大学教授)から障害学国際セミナー2024について、「障害者権利条約を超えて」を全体テーマとして、①支援付き意思決定、②働く場での合理的配慮、③脱施設化、④障害者権利条約の可能性と限界を4つのサブテーマとして、2024年10月25日、26日に台湾で開催する旨が表明された。
ソウルの障害学国際セミナー2023で立岩の追悼ビデオを見ることができたのは、ひとえにジョンのおかげである。「カムサハムニダ」。日本国外で立岩が最も評価されたのは韓国だった。それを可能にしたのもジョンの力である。国境を超えた立岩とジョンの出会いに心から感謝する。

(台湾での障害学国際セミナー2018にて。右前がジョン、その上が筆者、その左が立岩、左端は高雅郁(障害学会国際委員)

(敬称略)

 

コロナ禍における調査――現地に行ってわかったオンラインインタビューの仕方

伊東香純(日本学術振興会特別研究員PD/中央大学)

 『障害学研究』の最新刊に、「障害と開発」分野で先駆的な研究をしてこられた森壮也さんが拙著『精神障害者のグローバルな草の根運動』(伊東2021)の書評(森2023)を書いてくださり、私もリプライ(伊東2023)を書きました。拙著は、2020年9月に立命館大学に提出した博士論文が基になっています。博士論文では、2016年度にニュージーランド、2018年度と19年度に欧州8か国(うち2か国はオンライン)で、インタビュー調査や文書史料収集をおこない、精神障害者の世界組織の社会運動の歴史を描きました。2019年度の終わりからコロナ禍の世界が始まったことを考えると、私は非常に運がよかったと思います。博士論文の審査は、口頭試問(2020年4月)も公聴会(同年7月)もオンラインで実施されました。口頭試問の際、どうしたわけか指定されたミーティングルームに入れず、忙しい合間を縫って参集くださっている4名の審査員を5分ほどお待たせしてしまい、開始早々冷や汗をかいて謝るというハプニングもありました。
その後2021年度から現在の特別研究員(PD)に採用され、アフリカの精神障害者の社会運動の調査を始めました。このエッセイでは、1年目はオンライン、2年目はオフラインで実施した2年間の調査から、調査の仕方について私が学んだことをお話します。この研究プロジェクト応募当時(2020年5月頃)は、日本で最初の緊急事態宣言が発令された時期でした。海外渡航はできない状況でしたが、このような状況がこれほど長期に渡るとはまったく予想しておらず、博士論文が書けたら、フィールドワークを再開するぞと意気込んでいました。応募書類には、現地でのインタビューや史料収集を盛り込んだ研究計画を書きました。運よく研究員に採用されたものの、2021年度になっても海外渡航がほぼ不可能な状況は変わっていませんでした。このまま研究員の採用期間が終わってしまったらどうしようという焦りもあり、オンラインでインタビューをすることにしました。
欧州での調査でお世話になった方を頼ったり慣れないSNSを駆使したりして、2021年度は最終的に6名の方にインタビューにご協力いただけました。これは、私にとって予想を上回る成果でした。オンラインでのインタビューはコロナ禍前から経験していたので、現地の様子がわからなかったり信頼関係が築きにくかったりといったデメリットは始める前から予想していました。しかし、それらより私にとってはるかにデメリットだったのは、アフリカのネット回線の弱さです。10分以上お互いに音声が届かないことが、1回のインタビューで何度もあり、途切れた状態が30分以上続くこともありました。突然、音声が途切れると、私が日本でいくら大きな声で状況を伝えても相手には届きません。そして、聞こえていないのを知らずに、ずっと話し続けてくださっているのです。「Can you hear me?」を多いときには20回も繰り返して、やっと回線が復活すると、ひれ伏す気持ちでこの話の後から聞こえていなかったからもう一度話してほしいとお願いしました。二度も、時によっては三度も同じ話をしてもらうのは非常に忍びなく、話のテンポも悪くなるし、私は苛立つと同時に、インタビュイーが腹を立てはいないかとびくびくしていました。時差のため、ほとんどのインタビューは、日本時間の夜から深夜におこないました。実際に話を聞けていた時間は1時間程度でも、オンラインに接続して緊張していた時間は2時間近くになる場合が多く、へとへとになりながらオンラインのスイッチを切った深夜を覚えています。しかし、インタビュイーの方は、画面をオフしていたので実際のところはよくわかりませんが、私の心配とは裏腹に嫌な顔一つせず、熱心にインタビューに応じてくれました。コロナ禍で急増したオンラインのイベントでは、機材トラブルで数分間でも時間がロスすると主催者が謝ったり、トラブルを未然に防ぐためのシミュレーションを事前におこなったりといった対応を経験してきました。この経験と照らすと、私はインタビュイーの人たちがトラブルに落ち着いて非常に寛容に対応してくれたことが、個人の性格では説明しきれないように思えて不思議でした。
この寛容な対応は、2022年度、アフリカに来てすぐ腑に落ちました。私がアフリカでの調査で最初に訪れたのは、ウガンダの首都カンパラです。最初のインタビューは、カンパラからさらに東に移動した、ケニアの近くのムバレという地域でおこないました。ウガンダでよく使われる交通手段の1つにマタツと呼ばれる10人乗りくらいのミニバスがあります。歩いていると、乗れ乗れとたびたび車内から声を掛けられました。最初のインタビューの日、私の泊まっていたホテルからインタビュイーのご自宅まで、ホテルの近くに住んでおられるインタビュイーのご家族のジェーンさんが送り迎えしてくださいました。行きは、スーパーハイヤー(日本でいうタクシー)で、30分ほどかけてインタビュイーのお宅まで行きました。用事が済んで帰ることになり、帰りはマタツで行こうと誘ってもらいました。沿道に出ると間もなくマタツがやってきました。そこで、私が乗ろうとすると、ジェーンさんは乗るのはまだだと言います。もう少し人が乗ってからでないと車内で長時間待つことになるというのです。そして、客引きをしていた乗務員に乗客が集まってから声を掛けてくれと言って、沿道で待つことになりました。待っていると近所の人が椅子を出してくれ、ソーダと呼ばれる炭酸飲料を買ってきてくれ、スコーンとパンの間のようなお菓子を出してくれて、煮干しを仕分けたり菜っ葉を刻んで売ったりしているのを見ながらおしゃべりしました。その間、マタツは、300メートルほどを行ったり来たりしながら、お客を集めていました。30分以上経って、もう待っても人は集まらないということになったようで、私たちはマタツに乗り込みました。やっと帰れるかと思ったら、1キロほど走って人家が多いところにくるとまた客引きです。30分以上同じ道を行ったり来たりして、乗れ乗れと声を掛けます。そこでようやく座席が埋まり、市街地に向かって走り出しました。マタツを降りたときには、帰ろうかと言い出してから2時間以上が経過していました。驚いたのは、マタツは時間が来たらではなく、席が埋まったら発車するのだと聞いたときです。

沿道に停められているマタツ (2022年8月20日ジンジャ(ウガンダ)のバス停にて筆者撮影)
ジェーンさんたちといっしょにマタツの乗客が集まるのを待っていたところ (2022年8月12日ムバレ(ウガンダ)にて筆者撮影)

翌朝、渡航してから最初の停電を経験しました。アフリカでは、よく停電が起きると事前に読んで知っていたので、これかと思いました。その日は、ジェーンさんに地元のお祭りを案内してもらうことになっていて、前日同様ジェーンさんがホテルまで迎えに来てくれました。私は、ボダボダと呼ばれるバイクタクシーで、ドライバーとジェーンさんの間にできるだけ身を薄くして挟まれながら、今朝の停電の話をしました。そうすると「そんなのこっちじゃよくあることだから、わざわざ話題にしないよ」と笑われました。なんだか恥ずかしい気持ちになりました。そのお祭りは、皆がお酒を飲んで騒ぐから慣れていない外国人を連れていって危険な目に遭わせては大変だとのジェーンの友人の助言により、その日は結局ジェーンさんのお宅にお邪魔して、1日を過ごしました。庭の果物や普段より品数を増やした家庭料理で厚いおもてなしを受けました。
コロナ禍の調査を通じて学んだことの1つは、現地に行けない時期にもできることは思った以上にたくさんあることです。もう1つは、現地に行けない時期の調査をより実りあるものにするために、行ける時には行くことが重要だということです。インタビューの内容に関してより適切な質問を考えたり解釈したりするためには、現地の暮らしを知ることが役に立ちます。さらにそれだけでなく、インタビューの外形的な実施方法を考える上でも、自文化との違いを知ることは重要でした。私は、オンラインでのインタビューに時間がかかってしまって申し訳なく不安に思っていましたが、時間の経過ではなく聞くべきことを聞けたらインタビューを終わりにしてよい、聞けるまではインタビューを続けてよかったのだと知ることになりました。

[文献]
伊東香純,2021,『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』生活書院.
――――,2023,「書評へのリプライ」『障害学研究』18:360-365.
森壮也,2023,「書評/伊東香純著『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』」『障害学研究』18:354-359.

ジュディ・ヒューマン:「私たちは、お互いから学ぶことができます」

長瀬修(立命館大学生存学研究所)

左はジュディ・ヒューマン、右は筆者。2018年8月21日、障害者の権利に関するサマースクールを開催中の国立アイルランド大学ゴールウェイ校にて。

ジュディ・ヒューマンと初めて会ったのは、1987年の日米障害協議会だった。秘書としてお仕えしていた八代英太参議院議員が同協議会のリーダーの一人であり、私自身は、その事務局を務めていた時だった。バークレイで開催され、エド・ロバーツも出席していた第2回会議だった。ホストはバークレイCIL所長のマイケル・ウィンターである。ちょうどADA(米国障害者法)へ向けての取り組みが進んでいる時代だった。ジュディ(正確にはジュディスだが、いつもジュディと呼ばれていた)は、ロバーツが所長を務める世界障害研究所(World Institute on Disability)の副所長だった。
強く印象に残っているのは、ジュディがジャスティン・ダートをはじめとする他の障害者リーダーと共に必死に取り組んだ成果として1990年にADAが成立後に会った時だった。日本での障害者差別禁止法の実現を求めて八代と言葉を交わしていたジュディは、急に私の顔を見て「あなたのような人の役割が重要です」と言ったのだった。
当時の私は、米国政府と契約関係にある機関における障害者差別禁止を規定し、ADAの先鞭をつけたリハビリテーション法504条の成立過程で議会スタッフが果たした役割について不勉強だった。そして、同条の実施を求めて、ジュディたちが連邦政府のビルを1か月近くも占拠したことも知らなかった。それでも、ジュディの言葉は心に強く残った。場所は覚えていないが、晴れた日の屋外だった。その光景は、まるで第三者として見ているかのように、脳裏に刻まれている。
その後の長年にわたる交流で学んだのは、ジュディの①インクルーシブなリーダーシップ、②国際的な視野、③障害者の権利推進のために自分のポストを最大限に活かす姿勢である。それぞれについて少し述べたい。
ジュディはインクルーシブなリーダーだった。障害者権利条約の交渉過程のサイドイベントをはじめとして、ジュディは壇上から、「折角、この会議に来たのだから、顔見知りばかりに声をかけるのではなく、知らない人にこそ、声をかけてください」といつも呼びかけていた。アメリカ手話(ASL)で壇上から、フロアにいるろう者に話しかける姿もよく見かけた。1977年に連邦政府のビルを占拠していた時も「手話通訳の準備が整うまでは会議を始めない、という方針」を貫いたのだった。(ジュディス・ヒューマン、クリスティン・ジョイナー著、曽田夏記訳『わたしが人間であるために』2021年、現代書館
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3589-2.htm
ジュディは国際的な視野の持ち主だった。残念ながら時折、障害分野でも散見される米国中心主義=自国中心主義から自由だった。ADA成立以後の、「米国の障害者の状況はおそるべきもの」(第4回日米障害者協議会、1991年)や「米国には国民皆保険すらない」という言葉を思い出す。国際的な視野から、差別禁止や、アクセシビリティなど自国の長所を認める共に、自国の課題にも率直に向き合っているリーダーだった。そして自国中心主義と向き合うことは、例えば、障害者権利条約の審査でジュネーブに100人以上を送り出せる日本の市民社会にとっても重要な課題である。
ジュディには、障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢があった。国際的な視点を買われて、ジュディが世界銀行で初めての障害と開発に関する顧問だった2003年である。当時勤務していた東京大学では、福島智の着任を機にバリアフリー推進の機運が盛り上がり、バリアフリー支援準備室が2002年10月に設置されたばかりだった。福島は同室の副室長であり、私は副室長補佐だった。さらに全学的な機運を高めるために、バリアフリーシンポジウムを企画する構想が生まれ、その基調講演者としてジュディを招く構想が浮かび上がった。しかし、米国の首都ワシントンから招聘する予算はなかった。そこで2003年6月にニューヨークの国連本部で開催された第2回国連障害者の権利条約特別委員会に出席した際に、ワシントンまで足を伸ばして世界銀行本部でジュディに面会した。基調講演をお願いすると、東大のみならず日本にとって重要なシンポだからと快諾だった。そして、率直にジュディと介助者の招聘予算が十分ないことを話すと、世界銀行の仕事で日本への出張予定があり、その予算で航空券はカバーできるから心配するなとまで言ってくれたのである。当日、定員が120名の東大本郷の山上会館2階大会議室は満席の盛況だった。当時の山上会館にはバリアフリートイレがなく、仮設トイレでしのぐという冷や汗の経験だったが、ジュディが「世界の高等教育とバリアフリー」をテーマとして力強い講演をしてくれた手ごたえは今も思い出せる。トイレの不備についてはユーモアに包みながらも、ずばりと「では来週までに作ったほうがいいでしょう」とし、「そのストレートな話しぶりは、参加者を強烈に引き込むものだった」と東大広報(1273号)は報じている。その後、東大のみならず他大学においても進展した高等教育と障害の取り組みの進展にもジュディは確かな足跡を残した。この不世出のリーダーが残した数知れない足跡の一コマだった。
ジュディの障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢のもう一つの例を紹介しよう。ジュディがオバマ政権下、国務省において「国際障害者の権利に関する特別アドバイザー」をしていた時のことである。世界銀行の例と同様、ジュディが初代だった。2014年12月に国際障害同盟(IDA)が企画した、障害者組織を対象とする障害者権利条約に関する研修を行うためにモンゴルをビクトリア・リーと私が訪問した際である。その広いネットワークで、訪問を聞きつけたジュディから、首都ウランバートルの米国大使館訪問を要請された。大使館員に障害者権利条約のモンゴルでの実施について面談してほしいというのである。当初、固辞したが、東大の件で恩があり、お引受けした。大使館に入る時には非常に厳重なセキュリティチェックがあり、携帯、パソコン等すべて受付で預けさせられた。面会したのは、障害も担当しているという文化担当官で、他国に勤務していた時にジュディと会ったことがあると話していた。そして、モンゴルで盲導犬を使う盲人を最初に雇用したのは同大使館であると語っていた。自分が所属する国務省の中で最大限、常に障害者の権利を推進するために積極的に取り組むジュディの姿の一端を見た気がした。
ジュディが、昨年12月16日に東京において31歳で急逝したブックマン・マークと対談したビデオがある。マークは東京大学東京カレッジのポストドクトラルフェローであり、立命館大学生存学研究所の客員研究員だった他、米国障害学会理事、そして私が委員長を務めている障害学会国際委員会のとても頼りになる委員だった。
このビデオはマークが所属していた東京カレッジのイベント:著者と考える「わたしが人間であるために」ー米国と日本における障がい者の公民権運動(2022年6月24日)の記録である。ジュディそしてマークを振り返るために、再度、この貴重なビデオを見返した。
イベントサイト: https://www.tc.u-tokyo.ac.jp/ai1ec_event/7009/
日本語通訳版(和文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=daDJFAjUgK8
英語オリジナル版(英文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=oEKhLJSnU0g&t=72s
失ったものの大きさを痛感すると共に、ジュディそしてマークから受け取ったメッセージの偉大さに思いを馳せた。ジュディとマーク、この傑出した二つの魂は今頃、いっそう対話を深めているかもしれない。
このビデオの締めくくりでジュディは、「私たちはグローバルコミュニティの一員であり、お互いから学び続けることができます。学ぶべきことは多くあります」と語っている。この言葉を私はかみしめている。
(敬称略)

障害学の風:アルメニア

ホワニシャン・アストギク(ロシア・アルメニア大学)

 アルメニアは南コーカサスにある小国である。面積は29,800平方キロメートルであり、人口は約300万人、そのうち98%近くはアルメニア人である。主な産業は農業、IT産業、サービス業であり、一人当たりのGDPは4,267米ドルである。世界で一番古いキリスト教国とされており、修道院、教会などの建築物が多い。

写真1:アルメニアの首都エレバン

アルメニアにおける障害者の歴史についてはほとんど知られていない。文学作品には知的障害者、精神障害者などの描写がしばしば見られるが、障害観、障害者福祉・政策の歴史についてまとまった研究が存在しておらず、障害学という分野もない。いうまでもなく、NGO、当事者、アルメニア政府により障害者の雇用、アクセシビリティなどについてさまざまな調査が実施されているが、それはあくまでも諸問題を明らかにするためであり、理論などを取り扱っていない。
アルメニアは1922年〜1991年はソビエト連邦の一部になっていたが、障害者政策もソ連と同じであった。ソビエト時代には障害は就労不能と強く結び付けられており、例外的なものとして視覚障害者連盟、聴覚障害者連盟では障害者が働ける工場などがあったが、特に重度の身体障害者、精神障害者の場合、就労は原則として不可能であった。ちなみに、ソビエト・アルメニアで視覚障害者および聴覚障害者はその他の障害者に比して社会的地位が高かったといえよう。1930年代にそれぞれの障害者連盟が形成され、連盟が障害者のためのアパートを建設したり、障害者が務める文化会館、教育機関、工房、工場などを経営していたため、視覚障害者および聴覚障害者が文化活動に携わっており(劇団、合唱団<注1>など)、雇用も保証されていた<注2>。両連盟は現在でも不動産を所有しており、それを貸し出すことによって費用の一部を賄っている。

写真2:アルメニアの首都エレバンの中心部にあるアルメニア聴覚障害者連盟の文化・スポーツ会館。連盟以外は、アルメニア空手連盟の事務所、旅行会社なども入っている。

また、ソビエト時代に障害は1932年より三つの級に分けられており、第1級は最も重かった<注3>。アルメニアでは独立後もそういった制度が続いていたが、2021年に施行された「障害者の権利に関する法律」では級が廃止されたため、現在は別のシステムに移行中である。

1991年以降の状況について

アルメニアは1991年にソビエト連邦から独立したあと、障害者に関するさまざまな法律が施行されている。1993年4月に「障害者の社会保障に関する法律」が制定され、機会均等化をはかろうとした。法律は障害者の健康、教育、雇用の保証、アクセシビリティ、生活保護などに包括的に触れていたが、問題点も多かった。例えば、「障害者」の定義は「知的または身体的不完全さにより日常生活の活動が制限され、社会支援および保護を必要とする者」となっていた<注4>。
この法律が2021年に廃止され、「障害者の権利に関する法律」<注5>が施行された。この法律は、内容や語彙に関して、アルメニアが2010年に批准した国連の「障害者の権利に関する条約」に強く影響されている。新しい法律では、障害や障害者の定義が変わり、個人の健康状況のみならず、物理的・社会的バリア(障害者に対する態度を含む)の影響も強調されている。ここでは、「障害者」とは「身体的、精神的、知的または感覚的な継続的な障害を有し、かつ環境のバリアの影響により他の者との平等に社会生活への完全かつ効果的な参加が制限されている者」と定義されている。ちなみに、用語も変更し、「障害者」(հաշմանդամ) は「障害のある人」(հաշմանդամություն ունեցող անձ)となっている。
新法律では、社会保障などのみならず、障害者差別、ステレオタイプや偏見の解消、障害者の社会参加、労働についての権利、男女平等、アクセシビリティ、インクルーシブ教育なども重視されており、障害の人権モデルが採用されている。また、ソビエト時代の障害の「級」が廃止され、障害は「中度」「重度」「最重度」となっており、ヘルパー制度も導入されている。

写真3:「障害者の権利に関する法律」の作成に積極的に関わった国会議員のザルヒ・バトヤン(Zaruhi Batoyan)。車椅子利用者であり、2019年1月〜2020年11月に労働・社会問題相として務めていた。写真は本人のFBページより。

上記の法律以外は、アルメニア共和国憲法、労働法、「都市計画に関する法律」などでも障害に関する規定がある。また、1991年以降には数多くの障害者支援団体、NGOが活動している。

法律と現実のギャップ

このように、法律は整備されているが、それは障害者の生活の質の向上につながっておらず、アルメニアの障害者は数多くの問題に直面している。2021年の時点で、アルメニアには195,634人の障害者がおり、そのうち93,201人は女性である。18歳以下の障害者数は9182人、63歳以上の者は85,165人である<注6>。障害者権利団体Unisonの代表アルメン・アラベルジャンによると、障害者の中では失業率が90%以上を超えており、それはアルメニアの平均(16.5%)を大きく上回っている。アルメニアの「雇用に関する法律」の第20条では、障害者の採用枠が設けられており、それは100人以上雇用している国有企業・役所の場合は3%、民間企業の場合は1%である<注7>。また、障害者を雇った場合、助成金制度、減税制度も利用できるが、それは必ずしも障害者雇用につながっていない。アラベルジャンによると、採用枠を増やす必要もあるが、障害者雇用を妨げる最大の理由は、「障害者が働けない」という根強い偏見である<注8>。
もう一つの大きい問題は、物理的なバリアである(そして、それも大きく就労機会を制限しているといえる)。アルメニアの「障害者の人権に関する法律」、「都市計画に関する法律」などはアクセシビリティに触れているが、アルメニアの町は、最近多少改善されたものの、障害者にとって非常に不便である。
まず、ソビエト時代からある建物には、基本的にエレベーターがない。あった場合も、車椅子が入れないほど狭い。そのため、身体障害者にとって外出さえ大きなチャレンジである。私の恩師、日本語教師のK先生(2019年に逝去)の例をあげたい。K先生は癌による障害があり、2016年からは車椅子利用者になっていた。働く意欲があったものの、暮らしていたアパートにも、勤務先の大学の建物にもエレベーターがなかったため、それは不可能であった。外出すら至難の技であり、業者を呼び、車椅子を4階からおろしてもらう必要があったため、特別な機会を除いて、家を出ることはできなかった。
1990年代以降に建設されたアパートでは、エレベーターの設置が義務付けられているが、狭いものが多く、車椅子利用者が必ずしも自由に使えるとは限らない。
また、町の中は階段が多く、スロープが少ない。エレバンの中心部にはある程度作られているが、勾配が大きくて使いにくいものも少なくない。さらに、スロープのすぐ前に車が止まったり、工事がされたりすることなども珍しくないため、整備されている道でも、自由に動けない場合はある。

写真4:エレバン中心部にあるショッピングセンターのスロープ。
写真5:エレバンの中心部。この状態が2週間程度続いていた。

公共交通機関のバリアフリー化も進んでおらず、車椅子利用者が地下鉄、バスなどを基本的に使えない。一部のバスにはスロープかつ車椅子スペースが設けられているが、当事者によると、多くの場合バス運転手がスロープの使い方がわからない、あるいは混み合っているときは協力しないため、整備されているバスでも乗れないことがある。
ここで問題の一部のみをとりあげたが、このようなバリアのためアルメニアの障害者が自由に外出できず、しばしば引きこもり生活を余儀なくされている。物理的なバリアによって、その他のバリアも発生する。例えば、アルメニア政府は不妊治療の経済的な負担を減らすために障害者を含む42歳までの女性の体外受精などの費用を全てまたは一部助成するが<注9>、通院が問題になって諦める障害者女性も少なくない<注10>。
当事者の話によると、問題は経済的なものだけではない。自治体、ビジネスなどがアクセシビリティを重要視しない、不便さを意識しないことが最大のバリアであるそうだ。アルメニアの障害者、またベビーカーを押している親たちが声を上げ始めているが、それが大きい運動に発展しない限り、真のバリアフリー化を望めないと思われる。

写真6:スロープの上に止まっている車。

日本のアルメニアの障害者への支援

最後に、国際協力の例として日本の草の根・人間の安全保障無償資金協力の枠組みによるアルメニアの障害者への支援について紹介したい。「草の根無償」とも言われるこのプログラムは、「人間の安全保障の理念を踏まえ、開発途上国における経済社会開発を目的とし、地域住民に直接裨益する、比較的小規模な事業のために必要な資金を供与するもの」<注11>であり、今までアルメニアでそれにより多数のプロジェクトが実施されている。その中には、障害者に裨益するものもある。その例としては、「障がい児支援のための感覚統合ケアサービス整備計画」がある。この計画が、リハビリ機材を導入し、障害児に感覚統合ケアサービスを提供することによって社会的適応や自立の促進を目指している<注12>。
「草の根無償」だけでなく、いつかアルメニアと日本の障害者の「草の根交流」も可能になることを願っている。

<注>
1.視覚障害者連盟の合唱団は、高齢化しているものの、いまだに存在している。詳しくは次のドキュメンタリーを参照(英語字幕付き)。https://www.youtube.com/watch?v=mAhXHN6j-Z8&t=2s&ab_channel=CIVILNET (2023年2月10日アクセス)。
2. 情報は視覚障害者連盟長ラフィク・ハチャトリアンとの会話に基づく(2021年5月10日)。
3.ソビエト連邦の障害者政策については次の論文が詳しい。Sarah D. Philips. 2009. “” There Are No Invalids in the USSR!”: A Missing Soviet Chapter in the New Disability History”, Disability Studies Quarterly Vol. 29, Issue 3. https://dsq-sds.org/article/view/936/1111 (2023年2月10日アクセス)。
4. 法律の全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=127 (2023年2月11日アクセス)。
5. 全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docID=152960 (2023年2月11日アクセス)。
6. アルメニア国立統計局。https://armstat.am/file/article/sv_01_22a_530.pdf (2023年2月11日アクセス)。
7. https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=87734 (2023年2月12日アクセス)。
8. Արմեն Ալավերդյան, Հաշմանդամություն ունեցող անձանց զբաղվածությունը որպես լիարժեք կյանքի գրավական, 17 մայիսի 2020, Սիվիլնեթ (アルメン・アラベルジャン「完全な生活の保証としての障害者雇用」2020年5月17日、Civilnet)։
9. 障害のある女性の場合、医療上の禁忌がないことが不妊治療および費用の助成の条件となっている。
10. ԿՌԿ Հայաստան, Վերարտադրողականության օժանդակ տեխնոլոգիաների հասանելիությունը կանանց տարբեր խմբերի համար. խոչընդոտները և մարտահրավերները, 2022.
(Women’s Resource Center, Armenia『さまざまな女性のグループの、生殖補助医療へのアクセス:バリアおよびチャレンジ』、2022 ).
11. https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/kaigai/human_ah/index.html#:~:text= (2023年2月14日アクセス)。
12. https://www.am.emb-japan.go.jp/files/000550691.pdf (2023年2月14日アクセス)。

香港平等機会委員会講演会と香港の今

後藤悠里
(福山市立大学英語特任講師)

2022年9月8日に、香港の人権機関「平等機会委員会」の朱崇文博士(行政総監(営運))から、条例の内容、実施状態などを伺うイベントを開催した。本エッセイの「現行の制度」の節はイベントの内容に基づいている。その他の箇所の主張や誤り等の責任は執筆者にある。

1.はじめに

香港はアクションスターを輩出した地、100万ドルの夜景の観光地として知られる。かつてイギリスの植民地であったが、1997年に返還され中国の一地区となった。「中華人民共和国香港特別行政区」が、現在の香港の正式名称である。
ところで、香港は、障害者差別禁止に関する取り組みを東アジアの中でもいち早く始めている。取り組みが始まった遠因は、1989年に中国で起きた天安門事件にある。デモ隊に対して武力が行使されたことは、香港政庁(イギリスが香港に設置した政府)および香港の人びとに大きな衝撃を与えた。実際のところ、それまで、香港政庁は「自由放任主義」の旗印のもと、香港の人権政策の向上に無関心の態度を取ってきた。しかし、事件後、イギリス植民地政府は中国返還後の人権の後退を懸念し、人権保障の取り組みを開始することとなった。
1991年には、「香港権利章典条例(Bill of Rights Ordinance)」が制定された。なお、「条例」は、たとえば日本における、法律と同等のものと考えてよい。本条例は、公的機関による差別を禁止していたが、私的機関については対象外であった。そこで、「障害者差別禁止条例(Disability Discrimination Ordinance)」が1995年に制定、1996年から施行された。中国返還を1年後に控えた年のことであった。同様の法律が韓国では2007年に、日本では2013年に制定されたことを考えあわせれば、前述の通り、香港の取り組みは早かったこととなる。
その後、中国は、2008年に障害者権利条約を批准した。中国はすでに2回(2012年、2022年)、国連の審査を経験している。先行する香港から、私たちが学ぶことがあるだろう。そこで、以下、障害者に関する現行の制度として、平等機会委員会および障害者差別禁止条例、判例について、紹介されたものの一部をまとめる(適宜、平等機会委員会のウェブサイト、判決文も参照した)。その上で、執筆者の見解も述べてみたい。

2.現行の制度
1)香港・平等機会委員会(Equal Opportunities Commission)について
香港・平等機会委員会は、政府から独立した法定機関であり、香港における差別禁止条例の実施を担っている。ここでいう差別禁止条例とは、性差別禁止条例、障害者差別禁止条例、家庭内の地位に関する差別禁止条例、人種差別禁止条例を指している。
講演者によると、平等機会委員会の業務は、リアクティブ(事後対応的)とプロアクティブ(事前対応的)な介入に分けることができる。リアクティブな介入としては、調停や法的支援が挙げられる。たとえば、平等機会委員会は、苦情申し立てがあった場合に調査をし、当事者間の調停を行う。調停がうまくいかなかった場合には、法的支援を行うこともある。プロアクティブな介入として、たとえば、政策についての研究および啓発活動がある。

2)障害者差別禁止条例について
定義について 障害者差別禁止条例の定義は、インペアメントに依拠する方式である。たとえば、「(a)身体的または精神的機能の全体または一部の喪失」「(b)身体部分の全体または一部の喪失」というような形である。また、「過去に存在していた障害」「現在の障害」「未来に生じうる障害」「障害とみなされる状態」を含んでいる。この定義は「オーストラリアモデル」に基づくとされており、実際のところ、オーストラリア障害者差別禁止法の障害の定義とほぼ同一の文言となっている。

対象者について
法律の対象は、上記の障害を持つ者だけではない。障害者の周囲にいる人たちも対象となり得る。たとえば、障害者の配偶者、親戚、ケアをする人、仕事などでの関係を持つ人たち、障害者と「真に家庭的な基礎を持って一緒に暮らしている人(a person living together on a genuine domestic basis)」も含まれる。「真に家庭的な基礎を持っている人」とは、結婚はしていないが、カップルとして同居している人のことである。一例として、同性のパートナーが挙げられる。条例の対象者の幅の広さは特筆に値する。

対象領域について
障害者差別禁止条例においては、条例の対象領域が規定されている。たとえば、雇用主と従業員といった雇用関係、財やサービスの提供者と被提供者との関係、教職員と学生との関係などである。障害者差別禁止条例に関しては、特に雇用関係の申し立てが多いという。

対象となる行為について
差別の対象となる行為としては、差別、ハラスメント、中傷という3つのタイプがある。これらに関して、平等機会委員会のウェブサイト(Equal Opportunities Commission 2023a)による説明を見てみよう。第1のタイプである差別の中には、直接差別と間接差別がある。直接差別は、「障害を理由として、同じ状況下で、障害のある人が障害のない人と比較して、より不利に扱われる時に生じる」。一方、「間接差別とは、すべての人に適用される条件や要件が、実際には障害のある人により悪い影響を与え、不利益となり、そのような条件や要件が正当化されない時に生じる」。そして、第2のタイプであるハラスメントとは、「その人が傷つけられた、侮辱された、脅迫されたと感じることが合理的に予想できる、障害を理由とした歓迎されない行為」、第3のタイプである中傷とは、「公的な場において、障害者に対して憎悪を向けたり、深刻な侮蔑や深刻な嘲笑を行ったりする行為」とされている。

3)判例について
講演では、判例についていくつか紹介していただいた。その中で、Siu Kai Yuen v Maria Collegeのケースを取り上げる。本判例は、直接差別の事例でもあるが、講演においては間接差別の事例として紹介された。平等機会委員会のウェブサイトには、本件の簡潔な紹介がある(Equal Opportunities Commission 2023b)。
原告であるSui氏は教員として14年間働いた。がんの手術を受けた後、病気休暇を取得し、3か月後に教壇に復帰をする予定であった。しかし、復帰予定の1ヶ月前に、彼は解雇された。
原告側弁護人は、がんを、定義の「(e)身体の一部の機能不全、奇形または醜状のこと」に当てはまるとして障害であると主張し、被告側弁護人も異議を唱えなかった(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 2 & 22)。直接差別についての条項(第6条(a))では、「障害のない者を扱う、または扱うだろう場合と比較して、障害を理由として、人を不利に扱うこと」とある。原告側が2名の仮想の比較対象者(産休を取った人、陪審員となったため欠勤した人)を示したところ、学校側は、この2名を解雇することはないと述べた。ここから、裁判所は、直接差別が立証されたとした(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 50)。
一方で、間接差別も認められた。学校側は、理由にかかわらず自分の授業の10%以上を欠勤することは契約に違反するという規定に基づき、Sui氏を解雇した(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 41)。この規則は、Sui氏のみならず、すべての教員に適応されるものである。したがって、障害者に対する差別的な規則ではないようにみえる。しかし、裁判所はこの規則を正当化できないとした。まず、病人は出勤できないのは明らかであるため、出勤を義務付けることは間接差別の要素となり得る(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 58)。次に、学校側は生徒の利益を保護し、教育を継続させるためにこの規則が必要であると主張しているが、裁判所はその目的が正当であったとしても、解雇という手段を取ることは、障害の結果休まざるを得なかった人にとっては不当であると述べた(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 59)。このようにして、本規則は間接差別だと認められた。
執筆者は、差別についてこれまで学んできた。大学における障害学生支援にも取り組んできた。それでも、取り扱いの違いがある直接差別に比べ、間接差別については、現実に落とし込んで考えることが難しいように感じている。差別をしないようと、心にとどめていても、間接差別を行っていることがあるかもしれない。判例を学ぶことは、間接差別への理解を深めることができるという点で、また、実践という点で、有益であるだろう。

3.香港の今:まとめにかえて
これまで日本においては、欧米諸国や韓国の事例が紹介されてきた。しかし、香港の事例からも学ぶことは多い。法律の対象者の広さは、日本においても検討されるべきことかもしれない。また、判例を学ぶことによって、差別への理解を深めることができる。
もう一点、執筆者の見解を付け加えたい。香港の事例から、私たちが学ぶべきことがある。それは、民主主義や言論の自由といった、日本に住む者にとっては当然のものとなっている理念の重要性である。
かつて執筆者は、香港の現状について、以下のように述べたことがある。

〔香港において〕デモや集会ではない形での、正式に意見を通す仕組みや対話ができる場があってしかるべきである。それがないために困難を抱えるのは障害者である。香港の障害者団体も含めて、香港社会は今後、民主主義の実現に向けて取り組むことが必要であろう(後藤 2018: 455)。

 この文章を書いた当時、執筆者は、香港の情勢がこれほど悪化するとは考えていなかった。民主主義の確立は徐々に行われていくのではないか、その可能性は高いのではないかと、楽観的に考えていた。なぜならば、香港の憲法にあたる法律「中華人民共和国香港特別行政区基本法」)に、「従来の資本主義制度と生活様式を今後50年変更しない」という文言があるためである。したがって、民主主義が大幅に後退させられることはないだろうと考えていたのであった。
しかし、近年中国は香港への介入を徐々に強め、2020年には「香港国家安全維持法」を制定した。この法律においては、国家の分裂および政権転覆、テロ活動、外国勢力との結託が犯罪行為とされている。この法律の下で、民主化運動の活動家が逮捕されるなど、香港の言論の自由は奪われつつある。2021年には選挙制度が見直され、すべての立候補者は事前審査を受けることになった。その結果、中国政府に批判的な勢力は、選挙に出馬することすらできなくなった。こうした形で、現在、香港における民主主義は徐々に力を失っている。
障害者の権利を保障するためには、言論の自由が不可欠である。障害者運動の依拠するスローガン「私たち抜きで私たちのことを決めないで」は、障害当事者の意見が重視されることを意味している。意見が尊重されるためには、まずは意見を自由に表明することができる環境が整っていなければならない。したがって、言論の自由が保障される必要がある。言論の自由が奪われている状態においては、当事者としての権利を十分に行使することができない。香港の民主主義のように、障害者の権利保障も後退していくことが、万が一にも起こり得る。
実際のところ、これまでは、香港においては言論の自由が保障されていた。執筆者が実施したインタビューにおいて、言論の自由に言及されたことがあったが、「香港の言論の自由が保障されている」とインタビュー相手は共通して述べていた。しかし、国家安全維持法のもとでは、言論の自由という、香港において確立されていた権利が、民主主義と同様に奪われているのである。
香港を対象に研究を進めている者として、執筆者はこの状況に危惧を抱いている。日本にいる私に何ができるのか。一つは、日本にいる私が自明視している言論の自由、民主主義を日々守っていくという思いを日々新たにし、その姿勢を能動的に保ち続けることだろう。

参考文献
Equal Opportunities Commission, 2023a, “FAQ-The Disability Discrimination Ordinance and I” (Retrieved January 6, 2023, https://www.eoc.org.hk/en/discrimination-laws/disability-discrimination/faq/the-disability-discrimination-ordinance-and-i).
Equal Opportunities Commission, 2023b, “Disability Discrimination”,
(Retrieved January 6, 2023, https://www.eoc.org.hk/en/legal-services/significant-court-cases/hong-kong/disability-discrimination).
後藤悠里,2018,「香港」長瀬修・川島聡編著『障害者権利条約の実施――批准後の日本の課題』信山社, 443-458.
Siu Kai Yuen v. Maria College, 2005, DCEO 9/2004, Hong Kong District Court (Retrieved February 10, 2023, https://legalref.judiciary.hk/lrs/common/search/search_result_detail_frame.jsp?DIS=44943&QS=%24%28Siu%2CKai%2CYuen%2Cv.%2CMaria%2CCollege%29&TP=JU).

謝辞
本講演をしてくださった香港平等機会委員会の朱崇文博士にお礼申し上げます。本原稿に対し、貴重なコメントをくださった高雅郁氏、田中恵美子氏、土屋葉氏に感謝します。本講演会は、障害学会の後援を受けて行われました。本講演会は、科学研究費補助金基盤研究(c)「障害女性の生きづらさの実態と解消方策の検討―制度の実効性に関する東アジア比較―」(19K02047)の助成を受けています。

障害者権利条約審査:中華民国(台湾)独自のモデル――新型コロナウイルス蔓延とペロシ訪台の下で

高 雅郁(Eunice Ya-Yu KAO)

2022年8月6日土曜日の午後、37℃という真夏の気温の下、台北市信義区の「台北世界貿易センター」のエアコンが効いた部屋に約60人が集まった。これは中華民国(台湾)政府(以下、台湾政府と表記する)が主催した、障害者権利条約(以下、CRPDとする)の2回目の審査の総括所見(勧告)を発表のための記者会見だった。林萬億氏(リン・ワンイー/行政院政務委員[注1])が政府の代表者として登壇した。他に、台湾政府の招聘を受けて、国際審査委員として長瀬修氏(国際審査委員会委員長/日本籍)、金亨植氏(キム・ヒュンシック/韓国出身・オーストラリア在住)、Janet Meagher A.M.氏(ジャネット・マアー・A.M./オーストラリア籍)の3人が現地で、また、Diane Richler C.M.氏(ダイアン・リッチラーC.M./カナダ籍)、Oliver Lewis氏(オリバー・ルイス/英国籍)の2人がリモートで登壇した。そのうち、長瀬氏とリッチラー氏は1回目の審査に引き続き、2回目の審査委員も引き受けてくださった。

【写真1:記者会見での、国際審査委員の3人と政府代表者の林氏との写真。左側からマアー氏、林氏、長瀬氏、金氏。手持ちの看板は総括所見をイメージしている。現地にいた3人の委員は、そこにサインを求められた。上には中文と英文で、総括所見と書いてある。(写真提供:E-think会社)】

台湾では、『身心障礙者権利公約施行法(障害者権利条約国内施行法)』が2014年8月1日に立法院(国会に相当)を通過した。その時、CRPDの本体は、同時に通過しなかった。その後、2016年4月22日にCRPDの本体が立法院で追加承認され、同年5月16日に馬英九総統(当時)が批准した。しかし、台湾は国際的に特殊な地位にあり、国連の会員としての加入に障壁があるため、批准書を国連事務総長に受領されるには困難がある。そこで解決方法として、2017年5月17日に蔡英文総統が頒布し、台湾国内での効力発生日は2014年12月3日に遡って定められた。台湾にとっては、施行法が条約本体より先に通過した異例ともなった(廖 2017)。
CRPD第35条により、国が自国内で効力を生じてから2年以内に国連に履行報告書を提出し、その後、4年ごとに履行報告と審査を受ける義務がある。しかし、台湾の場合は、国連報告ができないため、国際審査委員を招聘し、独自の審査体制を作った。2017年10月末には、1回目の審査のために5人の国際委員[注2]が台湾まで足を運んでくださった。2回目の審査は2021年に行う予定だったが、新型コロナウイルス蔓延により延期された。その後もコロナ終息の兆しが見えないため、2回目の審査は「外交的バブル」の下で行うことになった。「外交的バブル」とは、特別な理由で台湾政府の中央流行疫情指揮センター(CDC)の承認をもらい台湾に入国する人は、隔離や自粛の期間をおかずに、滞在期間中2日間ごとにPCR検査を受けて、会場と宿泊地に同伴されて移動する、予定地以外のところに自由に移動できない制限である。そして、会場にいる間も、バブル以外の人と一定の距離を保持する規定がある。台湾現地の3人の委員とLeanne Craze A.M.氏(マアー氏のアシスタント)、私(長瀬委員長のアシスタント)の5人は、審査期間中、「外交的バブル」の規定に沿って動いていた。

◆審査の前
審査の対象となるのは国である。審査前の2020年12月に、台湾政府は国家報告を公布した。審査延期の影響もあり、その後国家報告の英訳を2021年8月に公布した。国家報告に対して、市民社会(障害者団体を含め)のパラレルレポートが出され、2021年6月に掲載された。委員たちは国家報告とパラレルレポートの英訳版を読んで、2022年3月に事前質問事項(list of issues)[注3]を提出し、同年6月末に政府と市民社会から回答をもらった。委員は、審査前に、合わせて17部の報告と事前質問事項の回答を読んだことになる。

◆建設的対話
審査のスケジュールは、三日間の公開の建設的対話の後、二日間で総括所見を作成し、最後に記者会見をおこなうというものであった。
審査委員会と市民社会、政府との建設的対話は、2022年8月1-3日に条文ごとに分けて、ハイブリット方式で行われた。初日は第1条から第11条、2日目は第12条から22条、3日目は第23条から33条と条文の順に沿って進めた。毎日、市民社会との対話を先に行い、その後政府との質疑応答をした。今回は、新型コロナ対策の配慮等により、入場者数が前回より厳しく、市民社会はパラレルレポート或いは事前質問事項に回答した団体に限り、一団体から3名まで(介助者を含まない)、事前の申し込みの上で参加できるという入場制限があった。会場は、普段は展覧会場として使われている「TaiNEX台北南港展覧館」であった。
今回の審査に参加した市民社会の中には、老舗の障害関連の団体や人権に関する団体もあったが新設の当事者団体もあり、参加団体の多様性が増したように見えた。さらに、建設的対話で発言した代表者は、障害のある当事者が前回より増えていた。その中には、身体不自由者や聾者、脳性麻痺者のほか、社会心理的に配慮が必要な方、知的のある青年、そして、障害のある児童の発言もあった。

【写真2:審査のときの檀上の様子。左側からはマアー氏、Craze氏、長瀬委員長、筆者、金氏。新型コロナ対策として、席の間にクリア板が設置された。全員が掛けている黒いマスクは、主催者が配布した今回のCRPD審査のシンボルマークが付いている不織布マスクである。(写真提供:E-think会社)】

また、リモート参加の審査委員がいるため、ネットの安定性に加えて、時差も今回の審査で直面しなければならない挑戦であった。台湾時間で午前9時にスタートの時間は、カナダにいるリッチラー氏にとっては夜中9時であり、英国にいるルイス氏にとっては午前2時であった。二人の委員には、昼夜転倒とともにでもありながら、会場の状況を把握しにくいという苦労も多少あった。そして、委員の間での即時の議論や意見交換をするツールも極めて重要になった。
さらに、建設的対話は、三日間では時間が足りず、市民社会や政府側が委員の質問に即時に回答できない場合は、翌日、書面回答の英訳を審査委員会に送る方法で回答した。

【写真3:審査委員の目線から見た会場の様子。前にスクリーンがあって、リモート参加のリッチラー氏(左側)とルイス氏(右側)が写されていた。そして、「外交的バブル」の規定で、審査委員と会場の参加者との間が赤線で仕切られ、距離が置かれた。写真の左側は市民社会の席で、真ん中と右側は政府各部門の代表者の席である。写真を撮ったときは、委員と政府との質疑応答のセッションであったが、一部の市民社会の代表者も会場に残っていた。(撮影:高雅郁)】

◆新設された国家人権委員会(NHRC)
 CRPDの第33条では、批准国に独立の機関を設置し、自国にCRPDの履行状況について監視することを規定している。1991年「バリ原則」の後、多くの国が国家レベルの独立人権監視機関を設置している。台湾では、「国家人権委員会(National Human Rights Commission, Taiwan)」[注4]を設置する提議が1997年から始まり、2020年8月にようやく設置された。これは、他の人権条約だけでなく、1回目のCRPD審査後に、当時の総括所見の勧告の産物とも言えるだろう。現在は委員長と副委員長と、8名の人権委員の10人体制で構成されている。副委員長の王榮璋氏(ワン・ジョンザン)[注5]は、ポリオの人で、障害者運動と長期に渡る関わりを持ち、立法委員の経歴もあった。今回の審査で、NHRCは独自の報告書と事前質問事項への回答を提出した。
しかし、この新設された機関は、「独立」と自称してはいるものの、監察院に所属していて、委員長は監察院長が兼任し、委員も監察委員が兼任している。監察院とは、最高の国家監察機関である。主な役割は公務員や国家機関の不正行為や怠慢行為などを調査し、糾正や弾劾、糾挙を行う。そして、各国家機関の財政状況と年度予算などの会計監査し、審議権を行使する。監察委員は総統が立候補者を提案し、立法院の同意を得た上で、総統が任命する。6年間の任期で再任が可能である。最初の国家人権委員は、第6期の監察委員とともに就任した。国家人権委員と監察委員の役割をどのように分けていくか、それとも補完的な役割を持つのか、曖昧な状態である。
また、NHRCはCRPDの国の履行状況の監視機関を目指しているが、CRPD国内施行法ができた時点でNHRCはまだ設立されておらず、NHRCは法的にはこの権限がない。そして現時点で、NHRCには、CRPDに関する専任職員がいない。NHRCは、どの程度の組織の機能を発揮できるか、障害者人権に関する支援や救済措置にどのように貢献するか、これから注目すべきだろう。 

◆ペロシ・ATM・入所施設・双子
 世界にも注目された、米国下院議長Nancy Patricia Pelosi氏(ナンシー・パトリシア・ペロシ)の台湾訪問は、CRPD審査の2日目の深夜であった。今回のCRPD審査の数日前の7月下旬には、攻撃された場合に備えた軍事演習が、国民を巻き込んで例年通り行われた。ペロシ氏訪台の噂が広まってから、極短期間の台湾滞在とその後、中華人民共和国は、いつもより反発を強めて、台湾を封じ込める軍事的な演習が強化した。台湾海峡の情勢は、緊張が高まり、戦争が「一触即発」の状態の下で審査が続けられた。初日の建設的対話であったCRPD第11条の、リスク状況及び人道上の緊急事態に関する措置については、戦争の人為災害を身近にリアルに感じられた。
マスメディアがペロシブームやそれに伴う多くの国内のサイバー攻撃(幸い、審査中のインターネットと中継は安定していた)を報道していた中に、私は特にある報道が気になった。それは、ある人が目の不自由な人を偽装し、保険金詐欺事件を見破られたことである。それが発見された理由は、なぜ視覚障害者なのにATMを使えたのか、なぜ視覚障害者なのに一人で買い物ができたのか、というものである。詐欺事件が見破られたことは良いことである。しかし、CRPD審査での政府の答弁を聞きながら、特にこの事件と報道に関して、審査チームの一員でも台湾国民でもある私は、台湾社会、特に警察とマスメディアに、障害の認識がまだまだ足りておらず、環境の整備もまだ十分でないと示されたことを皮肉に感じた。
また、皮肉にも驚いたことがあった。前回の審査の総括所見でも勧告を受けた、第19条の「地域移行」に関して、台湾は逆方向に進んでいるように見えた。台湾の入所施設の発展の歴史において欧米のような千人程度の大型施設が作られておらず、政府が地域移行に向けて努力していると政府は主張したが、市民社会からは新設の入所施設が増えているし、今後も増えていくだろうという情報があった。さらに、地域での自立生活を支える予算は、主に宝くじの利益から出ていて、財源が不安定であることも、今回の審査で委員たちが懸念した点であった。
ところで、今回の審査で、市民社会の多様性が増えたことを前述した。その理由の一つは、双子や多胎児・者家庭を支える団体が加わったことである。多胎児・者の一人、或いは複数名ともに障害をもつ場合について、現在、多胎児・者に関する統計データがなく、その家庭に対するサポートが足りないとの訴えがあった。この団体の問題提起に応じて、審査委員は、総括所見で特にこの点に言及した。

◆死刑、「善終」と介護殺人事件への特赦請願運動
もう一つ新たに参加した団体は、社会心理的に配慮が必要な人たちの当事者団体である。「社会心理的に配慮が必要」という言い方は、(精神や知的)障害手帳を持っていないけれど、支援や配慮が必要である人を広汎に含むための表現である。台湾では、支援やサービスを利用するために、障害手帳の有無が基本的な判断基準となる。しかし、グレーゾーンの人や、障害のアセスメントを受けなかった人は支援が必要だとしても、利用できない。この当事者団体が特に気にしていることは、精神療養施設と矯正機関では、社会心理的に配慮が必要な人にあまり配慮をしてないことである。この点について、『精神衛生法』の改正に向けて深刻な問題点を訴えた。知的障害のある青年の発言でも、矯正機関内にいる知的障害のある人への対応に懸念が表明された。また、初回の審査後に、社会心理的に配慮が必要な人の二人の死刑が執行されたこと(2018年と2020年に各1件)も、今回の審査で市民社会が強く訴えたことであった。
生命権に関する第10条に関して、死刑の懸念以外に、長瀬委員長は、特に「善終(良い死)」に言及した。台湾では、『病人自主権利法』[注6]が、難病にかかっていた当時の立法委員の推進で、2015年12月に立法院を通過し、2019年1月に実施、2021年1月に修正された。これは、患者中心の死における医療的治療に関する自己決定についてのアジアで初めての法律だと主張された。第1条の目的には、「患者の医療的な自己決定権を尊重し、良い死の権利を守り、医療関係者と患者との良い関係を推進するために、本法を制定した」と書かれている。「安楽死」と「緩和医療」とは違い、患者の「自己決定」だと推進者たちと台湾政府は、強調した。しかし、医療的治療の終止の理由の中には、重い障害や難病にかかっていることも含まれている。社会的制限が多く遭遇されている障害者にとって真の「自己決定」と言えるのかを、審査委員会では強く懸念した。また、事前の医療的計画を患者が撤回、変更できると法に書かれてはいるが、撤回、変更についての詳細には不明である。審査委員会は、このことも憂慮していた。

【写真4:初日の審査をハイブリットで視聴した画面である。画面は、4つの部分に分けられ、左上には会場の壇上の様子が映されている。真中の長瀬委員長は、第10条生命権についての政府との質疑応答の際に、「善終」(good death)と書いてある紙を挙げた。右上には、リモート参加のリッチラー氏とルイス氏、右下には手話通訳者の画面が映されていた。左側は中文の文字通訳が出ている(スクリーンショット:高雅郁)】
 
ある父親が2020年に50年間に介護していた脳性麻痺の娘を殺した。その後、父親は、自殺したが、未遂に終わった。家族の証言によると、この父親は娘をとても愛していた。しかし、脳性麻痺の娘は生きているのが辛そうに見えたし、母親も病気にかかっているし、父親もうつ病に罹患している。二審の裁判長は、この事例に「社会から忘れられた人」とコメント付けた。今回のCRPD審査の数日後に、最高裁判所でこの79歳の父親に刑期2年6ヶ月間の判決が言い渡された。判決後の8月16日から、父親への特赦請願運動が行われた。主催者は立法委員のオフィスで勤めている脳性麻痺の女性とその立法委員だった。二日間で千人以上の賛同者がいた。賛同する団体の多くは、脳性麻痺に関する団体であった。賛同の意見の中には、CRPDを実現しようという提唱があった一方で、この父親は可哀そう、脳性麻痺患者の家庭は可哀そう、政府は脳性麻痺患者に支援サービスをもっと作ろうといったものや、脳性麻痺患者が安置される入所施設をもっと作ろうといったものがあった。基本にあるはずの脳性麻痺患者の生命権は一切言及されなかった。この請願運動に出席・賛同した脳性麻痺の当事者は本当に賛同したのか、私は大いに疑問を持っている。
こういう社会的な雰囲気の下に、『病人自主権利法』の実施においては、多数者の「善終」を守るか、少数者の「(良い?)死」を推進するか、どちらになるだろう。

◆118点の総括所見:CRPDは「障害者の権利」ではなく「人権」についてである
  台湾における第2回CRPDの審査は、8月6日の記者会見で終わった。審査委員会が118点の総括所見を提出した。各条文に関する勧告を含めて、全体として次の6つの課題を取り上げた。

① 人権視点に切り替えること
② 平等と差別しないための努力向上
③ 障害のある当事者の参画のための柔軟性
④ 地域で暮らす政策と支援の完備
⑤ 社会心理的に配慮が必要な方への対策改善
⑥ 政府各部門の間の協調と連携の必要

 「台湾は人権立国だ」とよく言われる。ペロシ氏とその後訪台した米国や日本の議員たちも台湾の民主化と人権立国としての台湾を支えるために訪台したという。確かに台湾は、アジアや世界の他の地域と比較して先進している部分もある。しかし台湾が「人権観点」という点で進んでいるか、今回のCRPDの審査は、鏡のようによく映し出しただろう。審査委員のマアー氏[注7]が今回の審査で台湾社会に贈った言葉は、「これは障害者の権利ではなく、『人権』に関することだ」というものだ。
ペロシ氏訪台の夜、この世界的な影響力を持つ人物と最も近い距離にいたとき、審査委員会がペロシ氏とともに蔡英文総統とCRPDや人権について対談する夢を見た。
審査は終わったが、118点の総括所見への実践はこれからだ。4年後、台湾独自のモデルは台湾社会にどのように変えていくのか。障害者である前に、一人ひとりが「人間」として扱われることを期待している。
最後にこのエッセイの場を借りて、新型コロナウイルスにかかるリスクと強権の威迫している時勢に、審査任務を引受けた5人の審査委員に最高の敬意を払う。

(日本語の校正をしてくださった伊東香純氏に感謝する。)

[注]
1、中華民国(台湾)の中央政府機関は孫文の「五権分立」思想に沿って、行政院、立法院、司法院、考試院、監察院の五つに分かれている。行政院は国の最高行政機関であり、日本の内閣と各省庁を併せたものに相当する。院に行政院長(首相に相当)と副院長、現在は8名の政務委員(無任所大臣に相当)、正副秘書長、各部会の部長(大臣に相当)により構成される。林氏の専門は社会福祉、元は国立台湾大学の教授である。2006年5月からの一年間、1回目の政務委員に務め、2016年5月から2回目を務め今に至る。
2、1回目の審査は2017年10月30日-11月3日に行った。国際審査委員会は長瀬修氏(委員長)、ダイアン・リッチラー氏、Adolf Ratzka氏(アドルフ・ラツカ/ドイツ出身・スウェーデン在住)、Michael Ashley Stein氏(マイケル・スタイン/米国籍)とDiane Kingston氏(ダイアン・キングストン/英國籍)の5人で構成された。筆者は、当時も長瀬委員長のアシスタントとして審査チームの一員になった。
3、中華民国(台湾)第2回報告に関する事前質問事項は以下のリンクを参照
 http://www.arsvi.com/2020/20220323crpd.htm 
4、NHRCの詳細はこちらを参照 https://nhrc.cy.gov.tw/en-US 
5、王榮璋氏のプロフィールhttps://nhrc.cy.gov.tw/en-US/about/member/detail?id=7b169946-634a-4159-9d24-35501c1ac5c0 
6、『病人自主権利法』の英訳版は以下のリンクを参照 
https://law.moj.gov.tw/ENG/LawClass/LawAll.aspx?pcode=L0020189 
7、マアー氏の個人紹介は下記のリンクを参照
  https://finalreport.rcvmhs.vic.gov.au/personal-stories-and-case-studies/janet-meagher-am/ 
  マアー氏の著書は日本語に訳されており、書名は『コンシューマーの視点による本物のパートナーシップとは何か?――精神保健福祉のキーコンセプト』である。
http://www.arsvi.com/b2010/1512mj.htm  
  
[参考文献]
廖福特,2017,「第一章 歷史發展及權利內涵」孫迺翊・廖福特(編)『身心障礙者權利公約』台北:台灣新世紀文教基金會。

[関連リンク]
・中華民国(台湾)と障害者権利条約 http://www.arsvi.com/d/undc-twn.htm 
・中華民国(台湾)2回目の障害者権利条約審査の総括所見(英語原文と中文仮訳)
https://crpd.sfaa.gov.tw/BulletinCtrl?func=getBulletin&p=b_2&c=D&bulletinId=1696

日本とザンビアの「アクセシビリティ」に関するオンライン会合について―DPI日本会議、ザンビア障害者機関、ザンビア障害者連盟の繋がり―

 日下部 美佳 
(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科、
アフリカ地域研究専攻一貫制博士課程)

未曽有の新型コロナウィルス感染症の拡大により、人の移動が制限される一方で、私たちはオンライン化が世界を繋ぐことを改めて認識した。今回のエッセイでは、2022年7月7日の七夕の日に「アクセシビリティ」という共通のテーマが架け橋となって、日本とザンビアの障害者関連団体との出会いの場となったオンライン会合について記録に残したいと思う。

1.「アクセシビリティ」をテーマに国を越えて
2020年3月末にコロナ禍のザンビアから筆者が日本に緊急一時退避した後、2022年3月に同国の首都ルサカに再渡航するまで、2年の歳月が過ぎた。再渡航後、ザンビアの障害者関連の政策立案や調整、そしてサービスの実施を担うザンビア障害者機関(Zambia Agency for Persons with Disabilities、以下ZAPD)に勤務するムレンガ・ジェーンさんと2年ぶりの再会を果たした。相変わらずの弾けるような笑顔だった。
ジェーンさんとは、コロナ禍であっても、WhatsApp(Lineに似たコミュニケーションアプリ)で連絡を取り合い、繋がりを深めてきた。WhatsAppを通した数多くのやり取りの中で、東京2020パラリンピックの話をきっかけに日本のアクセシビリティが話題になった際には、特定非営利活動法人DPI(障害者インターナショナル)日本会議のアクセシビリティ改善にかかる活動の写真や記事を英訳して情報を提供することもあった。2年ぶりの再会に喜んで一息ついたころ、アクセシビリティ監査員で障害当事者のジェーンさんから「日本の交通機関のアクセシビリティの改善に関する写真を共有してくれたのを覚えている?ザンビアの物理的アクセシビリティは、より一層の改善が必要な状況なの。日本のアクセシビリティがどのように改善したのか色々と学びたいのだけれど、オンラインで勉強会を開催できないかしら。」との相談があった。ジェーンさんに共有した記事は、「8月3日(月)第2回『新幹線実証実験報告』」(DPI日本会議, 2020)であったが、彼女はこの記事から日本の知見を学びたいと思い、彼女なりにザンビアにおいて日本の知見が活かせないかとアイディアを温めていたのだ。
早速、DPI日本会議で国際協力分野において長年ご活躍され、JICA課題別研修「アフリカ障害者リーダーの育成研修」の実施など、アフリカの障害と開発の実践に尽力されている中西由起子さんにメールを送ったところ、DPIの総会で忙しい時期にも関わらず好意的に受け止めていただき、オンライン会合の実施に向けた準備が始まった。

2.ザンビアの障害者を取り巻く概況
ザンビアはアフリカ南部の内陸国であり、熱帯性気候(涼しい乾季、暑い乾季、暑い雨季の季節)の国である。(写真1参照)

写真1: 涼しい乾季のルサカ市内の居住地の様子(撮影者:筆者)

(写真1の説明:コンパウンドと呼ばれる低所得者層の居住地の様子。道路は未舗装で、生活排水が道に流れ出ている。)

人口は約1,892万人で(The World Bank, 2021)、73の民族がいる。言語は英語が公用語であるが、その他に主要民族の言語(ベンバ語、ニャンジャ語、トンガ語など)がある。1964年の独立以来、民族間の対立による内戦もなく、“One Zambia One Nation (一つのザンビア、一つの国家)”というスローガンのもと、政治的な安定を維持していることが特徴的である。ザンビアの経済は、主に鉱業、農業、建設業部門によって牽引されており、2021年の一人当たり国民総所得(GNI)1,040米ドルである (ibid.)。
「ザンビア共和国の憲法第266条」及び「障害者法」おいて、障害の定義とは「恒常的な身体的、精神的、知的、または感覚的な機能障害の単独、または社会的もしくは環境的な障壁と相まって、他者と対等で完全かつ効果的に社会に参加する能力を妨げる」ことを意味する。2010年に実施された国勢調査では、障害者は全人口の2%であり、機能障害種別で見ると肢体不自由者が32.7%と最も多く、次いで視覚障害者(弱視)が24.8%と続いている(CSO, 2012, p71, p72)。しかし、ザンビアの障害当事者団体の関係者から聞き取りをした際に、国勢調査の調査票は世帯主が記入するため、世帯主が障害者を家庭内に隠し、障害者を報告しないケースがあるという指摘があった。障害者個人への調査を実施した2015年の「ザンビア全国障害者調査」(標本調査)では、ザンビアの障害者は人口の7.7%と推定している(CSO&MCDSS, 2018, p39)。
ザンビアは2010年に障害者権利条約に批准し、2012年には障害者権利条約の国内化を目指す「障害者法」を制定した。障害者法第5条「障害者の権利の保護と促進」第5項「アクセシビリティとモビリティ」の第40号「アクセシビリティ」には、省庁は公共設備や公共交通機関のアクセシビリティ確保、また情報アクセシビリティの確保等について適切な措置を講じることが記載されている。また、2015年には「障害に関する国家政策」を制定し、「2030年までに障害者が生活の基盤となる機会均等を享受する」というビジョンを掲げ、政策目標と措置が示されている。
先行研究では、ザンビアでの障害は、伝統的に親族からの妬みや怒りから発生する呪いや魔術等と障害が結び付けられており(Mwale & Chita, 2016, p60)、障害者は地域の人々から差別を受ける傾向がある(UN, 2016, p8)。加えて物理的・情報アクセシビリティなどの課題に直面している。国連が2016年に作成したザンビアの障害者の権利に関する特別報告者レポートによると、物理的アクセシビリティに関しては、ザンビア基準局(Zambia Bureau of Standards: ZABS) (注1)による国家アクセシビリティ基準(注2)が設定されているにもかかわらず、多くの公共及び民間の建築物はバリアフリー化されていないことが言及されている(ibid., p10)。また、ZAPDによるアクセシビリティ・ニーズ・アセスメントの実施や、アクセシビリティ監査員の訓練の必要性が強調されている(ibid.)。首都ルサカの公共建築物における障害者のアクセシビリティとモビリティの調査を行ったChiluba&Njapawu(2019, p60, p61)は、アクセシビリティに関する法律を実施する際の課題として、政府の計画や予算配分における優先順位の低さやコスト上の問題、また障害に対する否定的な認識と障害者代表者の不在、とりわけ政策立案者と実施者を含む関係者間で障害者のアクセシビリティとモビリティに関する理解度にギャップがあることを指摘している。

3.オンライン会合の内容
このように、ザンビアの文化や障害者を取り巻く生活環境は、日本と異なるものの、日本社会での事例やDPI日本会議で国際協力分野の活動から学ぶために、「アクセシビリティの改善」を共通テーマとして、第一回目のオンライン会合が始まった。以下が議事次第である。

日時:2022年7月7日(木)日本時間:17:00-18:00 (ザンビア時間:10:00-11:00)

    • 紹介 中西由起子(DPI日本会議 副議長)
    • 開会挨拶 ニコラス・ゴマ(ZAPD 局長)
    • 日本の発表「日本におけるアクセス:日本における障害者運動によるアクセシビリティの改善」 報告者:宮本泰輔(DPIアジア太平洋事務局、 (株)ディーディーコンサルティング会社 代表)
    • ザンビアの発表「ザンビアにおけるアクセシビリティ」
    • 報告者:ジャスティン・バカリ (ザンビア障害者連盟 会長)、カトンゴ・ムタンバ(ザンビア障害
      者連盟 プログラムマネージャー)
    • 南アフリカの発表「南アフリカにおけるアクセシビリティの改善」
    • 報告者:降幡博亮(DPI日本会議 プロジェクトオフィサー)
    • 閉会挨拶 ニコラス・ゴマ(ZAPD 局長)
  • まず初めに、中西氏によるDPI日本会議の概要説明と発表者の紹介等も含む開会の言葉の後、ZAPD局長のゴマ氏からは、ZAPDの概要と併せてザンビア側関係者の紹介や、会合開催への感謝の辞が述べられるなど、参加者の間で笑顔が生まれる温かい雰囲気の中で会合が始まった。その後、日本の障害者運動に長年参画しているDPIアジア太平洋事務局の宮本氏からは、日本の障害者運動を通じた公共交通機関や建物のバリアフリー化の実践や、当事者参画による法整備について発表があった。宮本氏は35年前の日本の写真を提示しながら、当時は日本の経済が発展していた時期にもかかわらず、公共交通機関の改札口からプラットフォームまでの間にエレベーターがなく、人々が車椅子を担いで階段を昇降しており、障害者などの人々への国や政府の対応は遅れていたことを指摘した。その後の日本では、全国的な障害者運動を通して当事者たちが声を上げ、またマスメディアや政治家も巻き込んだ戦略的な政策立案や活動によって、日本のアクセシビリティの現状や活動の成果があったことが言及された。ザンビアからの参加者は、このプレゼンテーションに刺激を受け、「アクセシビリティ改善に向けた全国的な規模の障害者運動をやってみよう」との発言もあった。
    ザンビア側からの発表では、ザンビア障害者連盟(Zambia Federation of Disability Organisations、以下ZAFOD)の会長のバカリ氏が冒頭の挨拶をした後、プログラムマネージャーのムタンバ氏から、ZAFODの紹介とザンビアのアクセシビリティの現状と成果について報告があった。(写真2参照)
  • 写真2. オンライン会合の様子(撮影者:筆者)
    (写真2の説明:ZAPDの会議室を使用したオンライン会合の様子)

    ZAFODは15の障害者団体が加盟する全国的な連合体であり、アドボカシー活動を通じて、ザンビアの障害者の権利を促進している。ZAFODの活動としては、障害の啓発、また障害者団体の組織力の強化を行っている。また様々な障害者を取り巻く課題に関する調査や研究を行っている。アクセシビリティに関する発表では、事例に沿って、ザンビアの官公庁はエレベーターの設置が少なく、トイレもバリアフリー仕様でないことが指摘された。(写真3,4参照)。

    写真3:ルサカ市内にある官公庁のトイレの写真(撮影者:カトンゴ・ムタンバ、ZAFOD)
    (写真3の説明:女性用トイレの入口までには6段の段差がある)

    写真4:ルサカ市内にある官公庁のトイレ内の写真(撮影者:カトンゴ・ムタンバ、ZAFOD)
    (写真4の説明: トイレの出入口が狭く、トイレ内に手すりはない)

    またZAFODからは、ルサカ市内の道路は排水溝に蓋がないため視覚障害者が転落する危険性や、アクセシブルでない公共交通機関に加えて、バス等の交通機関職員に対する障害啓発が不足しているため、スタッフによる障害者の乗車介助のない状況が報告された(写真5と6参照)。

    写真5:ルサカ市内の道路の状況 (撮影者:カトンゴ・ムタンバ、ZAFOD)
    (写真5の説明:道路脇の排水溝に蓋はなく、誘導用ブロックや柵は設置されていない)

    写真6:公共交通機関のバスの乗降口 (撮影者:カトンゴ・ムタンバ、ZAFOD)
    (写真6の説明:ザンビアの公共交通機関の事例として、バスの乗車口には4段の段差があり、バリアフリー対応にはなっていない)

    ZAFODの関わったアクセシビリティ改善に関する成果の一例として、障害当事者の呼びかけによる物理アクセシビリティの改善の事例も報告された。ZAFODは、ルサカ市内のホテルで「パブリック・ダイアローグ・フォーラム」を開催した際に、フォーラムの開催前にはホテルの会場やトイレに段差があったが、障害当事者たちが働きかけた結果、24時間以内に会場やトイレ前にスロープが整備されるなど、当事者の声によってアクセシビリティの改善がなされ、バリアフリーでフォーラムが開催されたことが報告された。(写真7参照)

    写真7:ホテル内のトイレ入口前に整備されたスロープ (撮影者:カトンゴ・ムタンバ、ZAFOD)
    (写真7の説明:トイレ入口に整備されたスロープを使用する車いす利用の参加者と介助者)

    その後、降幡氏からは、南アフリカのハウテン州でDPI日本会議が実施中のJICA草の根パートナー型プロジェクト「障害者自立生活センターの拡大と持続的発展」(注3)の事業概要の説明と、アクセシビリティに関連する活動の成果報告があった。プロジェクトでは、日本から障害当事者のアクセシビリティ専門家の派遣や、ピアエデュケーターの育成により、住宅を改修して当事者の住居環境が改善された事例が共有された。また南アフリカでは、バスは人々の移動にとって重要であるが、アクセシブルなバスがないため人々の移動は制限されていた。そのため、車いすで乗車可能なリフト付きバンを日本から輸入し、地域のバス循環移送サービスの運用開始を目指すなど、当事者の参画や行政関係者との協働によって、アクセシビリティが改善している事例が紹介された。
    本会合の最後には、ZAFOD会長のバカリ氏から、DPI日本会議関係者に対して、「日本や南アフリカの成功事例をもとに、ザンビアにおいてもアクセシビリティ改善に関する活動を展開してほしい」との要望があった。またZAPD局長のゴマ氏からは、閉会の辞とともに、本オンライン会合は双方にとって大変実りが多く、障害者分野の知見やノウハウを共有できる貴重な機会であるため、今後も障害を取り巻く多様なテーマにてオンライン会合の継続を希望するとのコメントがあった。ゴマ氏の言葉通り、日本とザンビアのアクセシビリティ促進に関わる関係者が共鳴しあうなか、今後の更なる連携を確認し、会合は締め括られた(写真8参照)。

    写真8.オンラインでの集合写真(撮影者:DPI日本会議)

    4.今後の展望
    ザンビアなどアフリカの国々と日本は遠く離れているが、コロナ禍で促進されたオンラインでの繋がりにより、アフリカの人々の存在はより身近に感じることができるようになっている。国を越えた人との繋がりの中で、アフリカの貧困や経済の格差などの状況を知る一方で、私たちは障害を取り巻く社会的障壁や課題に共通点があることに気付くのである。
    2022年8月27日及び28日にチュニジアで開催される第8回アフリカ開発会議(The 8th Tokyo International Conference on African Development: TICAD8)では、 “Leave no one behind(誰一人取り残さない)”をスローガンとした持続可能な開発目標(SDGs)の実現を後押しすることが期待されている。 またその前後の期間には、オンライン上で「障害と開発」を含むサイドイベントが企画されている。SDGsの達成のために、日本とアフリカの国々の間を越境する障害者当事者団体間の更なる連携と、ドナーや政府の関与や支援が今まで以上に期待されているといえるのではないだろうか。

    (注1) ザンビア基準局(Zambia Bureau of Standards; ZABS)とは、商務貿易産業省傘下の法定機関であり、規格の開発や標準化・品質保証サービスを提供する役割を担っている。
    (注2) 2013年に策定された国家アクセシビリティ基準は、関連省庁や関係者内で周知されておらず、基準の検証もなされていない。ZAPDは、本基準に関するコンセプトペーパーを作成し、全国10州の障害当事者団体や自治体の担当課職員や建設業者等を対象としたアクセシビリティ監査員の育成と、国家アクセシビリティの基準の検証を行う迅速調査の実施に向けた企画書を作成したが、予算の不足により未実施となっている(日下部のフィールドワークでの聞き取りより)。
    (注3) DPI日本会議が実施している「障害者自立生活センターの拡大と持続的発展」プロジェクトの参照URL:https://www.dpi-japan.org/blog/tag/south-africa/

    <参考文献>
    Central Statistical Office, 2012, 2010 Census of Population and Housing: National Analytical Report.
    https://www.zamstats.gov.zm/download/5648/?v=5660
    (閲覧日:2022年7月12日)
    Central Statistical Office and Ministry of Community Development and Social Services, 2018, Zambia National Disability Survey 2015.
    https://www.unicef.org/zambia/media/1141/file/Zambia-disability-survey-2015.pdf
    (閲覧日:2022年7月12日)
    Chiluba, B, C., and Njapawu, W, G., 2019, Barriers of Persons with Physical Disability over Accessibility and Mobility to Public Buildings in Zambia. Indonesian Journal of Disability Studies (IJDS). 6(1): p53 – 63.
    href=”https://ijds.ub.ac.id/index.php/ijds/article/download/130/90/527″>https://ijds.ub.ac.id/index.php/ijds/article/download/130/90/527(閲覧日:2022年7月12日)
    DPI日本会議, 2020, 8月3日(月)第2回「新幹線実証実験報告」.
    https://www.dpi-japan.org/blog/workinggroup/traffic/%e7%ac%ac2%e5%9b%9e%e6%96%b0%e5%b9%b9%e7%b7%9a%e5%ae%9f%e8%a8%bc%e5%ae%9f%e9%a8%93%e5%a0%b1%e5%91%8a/
    (閲覧日:2022年7月20日)
    Mwale, N., and Chita, J., 2016. Religious pluralism and disability in Zambia: approaches and healing in selected Pentecostal churches. Studia Historiae Ecclesiasticae, 42(2), 53-71.
    The World Bank, 2021, DataBank, World Development Indicators.
    https://databank.worldbank.org/source/world-development-indicators
    (閲覧日:2022年7月31日)
    United Nations, 2016, Report of the Special Rapporteur on the rights of persons with disabilities on her visit to Zambia, A/HRC/34/58/Add.2.
    https://www.refworld.org/pdfid/58b00b5c21.pdf
    (閲覧日:2022年7月12日)

30年前に戻って

田中恵美子 2022年3月14日

 障害学会国際委員会が発足し、理事として委員にさせていただいた。最初のエッセイを書くこの時期に、突然ウクライナに対するロシアの軍事侵攻が始まった。驚いている。戦争ってこんなに簡単に始まってしまうんだと思った。しかもNATOなんて、20世紀の枠組だと思ってきたのに、それが原因?
だが、そうではなかった。今回の戦争は冷戦後の30年間くすぶっていた、20世紀の枠組が再び姿を現したものだった。それに戦争は、私が気づこうとしていなかっただけで、いつも世界のどこかで起きていた。とはいえ、この緊迫した国際情勢の中で、今回の戦争について触れておくことが必要ではないかと思い、エッセイの内容は急遽変更した。

1. ウクライナに対する軍事攻撃の始まり
2022年2月24日未明、ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻が始まり、首都キエフで爆音が響いた。戦場の様子はテレビやインターネットを通じて即時私たちのもとにも伝えられ、現実のものとは思えないような映像が次々と映し出された。最初ロシア軍の標的となったのは、軍事施設といわれたが、すぐさま戦禍は主要都市に及び、早い時点から原子力発電所への攻撃が始められた。プーチン大統領は、大企業幹部との会合で、「ほかの選択肢はなかった」と述べ、軍事侵攻を正当化し、国際社会に核戦争をほのめかすような発言も行った。
映像に映し出されるのは、難民として国境を超えようとする人々の列、女性と子どもであり、また彼女らと別れを惜しむ男性の姿もあった。18歳から60歳の男性は国外出国が禁止されたからだ。国家の非常事態に男性は兵士として国を守ることを義務付けられたのだ。人口350万人という首都キエフには現在も200万を超える市民が残っているという。
難民の列の中に障害者は見られなかった。多くの障害者は逃げることができず、自宅にとどまっているのではないだろうか。あるいはもともと市内には生活しておらず、施設にいて、そこにとどまっているのだろう。3月10日にヨーロッパ障害フォーラム、インクルージョンヨーロッパ、欧州障害者サービス事業者協議会によって開催された記者会見の趣旨文によると、ウクライナには270万人の障害者がおり、知的障害者は26万1千人と推定される。そして多くの障害者が置き去りにされているという。

2. 「障害者はいかにつくられるか」
2022年3月4日、障害学会は「ウクライナへのロシア連邦による侵攻と障害者の保護と安全に関する障害学会理事会声明」を発表した。以下に紹介する。

ウクライナへのロシア連邦による侵攻は国際法に違反し絶対に容認できません。この侵略行為は障害者を含むウクライナ国民に対して、深刻な被害をもたらしています。私たちはロシア連邦にウクライナからの無条件即時撤退を強く求めます。
障害者権利条約に至る世界の人権の促進と擁護の取り組みは、戦争がもたらした惨害への深刻な反省から始まりました。そうした悲劇を繰り返してはなりません。障害者権利条約は「平和で安全な状況が、特に武力紛争及び外国による占領の期間中における障害者の十分な保護に不可欠である」という認識の下に、「危険な状況(武力紛争、人道上の緊急事態及び自然災害の発生を含む。)において障害者の保護及び安全を確保するための全ての必要な措置をとる」ことを締約国に求めています。当事国そして周辺国、人道的支援に取り組んでくださっている機関を含め、すべての関係者に対して、この障害者権利条約の規定の遵守を緊急に要請します。
私たちは日本の東日本大震災において、障害者の死亡率が住民全体の死亡率よりも2倍以上に高かったという痛切な経験を持っています。その経験にも基づいて、平和の即時的確保と、この緊急事態における障害者の保護と安全確保を要請します。

戦争によって障害者に多くの被害が及ぶことが想定される中、このような声明をいち早くまとめ、理事声明として提示いただいたことに感謝したい。また私からはやはり戦禍の中で障害者が生み出されていること、そしてそれはのちに後遺症としても生み出し続けられることを伝えておきたい。
「障害者はいかにつくられるか」が1981年にシンガポールで開催されたDPI(障害者インターナショナル)の第一回大会のテーマであったと私に教えてくれたのは、その大会に日本代表として参加した近藤秀夫氏だった(注)。近藤氏は日本からこのテーマにあった議題として何を持っていくか考え、ベトナム戦争の特集番組で描き出された枯葉剤の使用の様子の映像を持っていくことにした。当時、ベトナム戦争に関する映像は、日本であってもアメリカの統制下にあり、自由に報道することができなかった。しかしその中でいわば放送事故のように映像を流してしまった報道番組があった。その映像を近藤はテレビ局まで押しかけ、何とか入手し、なけなしの金で編集して5分だけ8ミリビデオに落として持っていった。空港の検閲で没収されたが、何とか現地のスタッフの努力で取り戻し、会場で上映したそうだ。
「その時、初めて僕はそのフィルムを見た。それはもうぞっとするような…。家の玄関から障害者が這って出てくる。枯葉剤で歩けなくなった障害者が、みんな這って出てくる。ケアする者が何もないから。その(5分の)フィルムは強烈なところをとってあった」(近藤氏のインタビューから)。
上映後アメリカの参加者から、映像がアメリカを中傷するものだというクレームが来たが、近藤氏は、「障害者はいかにつくられるか」というテーマは戦争とリンクしている。戦争を問うためにこのフィルムを持ってきたんだと説明したら、納得したと述べていた。
爆破されたウクライナの町や逃げ惑う人たちの様子をテレビで見ながら、私は近藤氏の言葉を思い出していた。障害者はつくられる。戦争によって。解説者が、プーチンが核について触れていることも怖いが、化学兵器について何も言わないことも不気味だと述べていた。ゲリラ的に化学兵器を使用する可能性もあるのだという。そうなったら近藤氏が見たおぞましい映像がまた現実のものとなるのだ。早く戦争を何とか止めなくては。

3. 市民の生活から
今回の出来事の起こりは1989年のベルリンの壁の崩壊、そして1991年のソビエト連邦の崩壊に端を発しているという。そのころのことを私はとてもよく覚えている。当時私はドイツ語を学ぶ学生であった。連日授業でドイツ語のニュースを聞き、映像をみて、また新聞を読んだ。そしてベルリンの壁が崩壊し、人々が歓喜の声を挙げている様子を目の当たりにした。つい9か月前までその壁を乗り越えて西に逃げようとした若者が射殺された、その場所で、人々は壁をハンマーで打ち壊していた。堂々と西に向かう人たちの姿が映し出され、こんな瞬間が、私が生きているうちにおこるのだと驚いたものだった。
1990年3月に私は初めてドイツを訪れた。その時、友人たちとベルリンを旅し、短い時間だったが旧東ドイツ側にも滞在した。確かまだ規制があったように思う。長い時間滞在しなかったという記憶がある。貧乏学生の貧乏旅行だ。食事はほんとに質素なものを食べながらの旅だった。東側に行ったとき、ちょうど夕方に駅の近くのお店でパンを買って、それを夜行列車の中で食べて夕食にしようと思って、確か1マルクで大きなパンを買ったと思う。とても安かったという記憶がある。だが、夜行列車で食べようと思ってもどうしても食べられなかった。空腹に耐えながらも、どうしてもそのパンを捨てるしかなかった。臭くて食べられなかったのである。腐っているのではない。小麦の質が悪すぎて臭くてどうしようもなかったのだ。それくらいひどい暮らしを東側の人たちはしてきたのだとその時実感した。そしてその生活を抜け出したいと思ったことも痛いほど分かった。壁一つ隔てた先にある生活とまるで違うのだ。
ウクライナがNATOに加盟したいというのは、あまりに無謀だと思った。ロシアと面したウクライナがNATOに加盟したいというのは、ロシアにとっては脅威だった。そこまでは理解できる。しかしウクライナの人々が自分たちの生活を変えたいという思い、西側の一員になりたいと思う気持ちは止められないだろう。ロシアの中でも声を上げる人たちがいる。かつてゴルバチョフは、「欧州共通の家」という構想を打ち出し、冷戦を終結へと向かわせた。西側に加担すると考えるのではなく、全ての人が自由と尊厳を持って生きられる社会にするという方向で考えていくことができないだろうか。プーチン大統領が指揮するこの戦争がどのような結末を迎えるのか、予測がつかない。最悪の結末になる前に、何とか市民の力を結集して、ロシアの内部から変革がおこってくれないだろうか。かつての東ドイツのように…多くの犠牲を出す前に。

追伸:このエッセーを書き終えた朝、ロシア国営テレビの生放送中に女性職員が反戦を訴えて「戦争をやめて」と書かれた紙をもってキャスターの後ろに映り、また「戦争をやめて」と叫んだという事実を知った。この女性は警察に拘束されているという。ロシア国民に立ち上がってほしいと思いつつ、彼女のような人が厳しい処罰を受けることを覚悟して動くことを扇動するような発言はできないと、心が重くなった。一体どうしたらこの惨事は終わるのだろう。

(注)近藤秀夫氏は1964年のパラリンピックに出場し、その後町田市役所勤務など、様々な経験があり、簡単には紹介ができない。季刊福祉労働166~170に連載。現在書籍化を行っている。

中国と”Nothing About Us Without Us” ――障害学国際セミナーへ

長瀬修 2022年1月20日

 ちょうど10年前になる。振り返れば、それは機会の窓が開いていた時期だったと言えるかもしれない。2012年だった。金子能宏さん(国立社会保障・人口問題研究所)から、中国人民大学で行われる障害者に関する国際会議で社会保障について報告してほしいと話があった。適任ではないと最初は辞退したが、有難いことに再度お誘いをいただき、結局は北京に足を運んだ。会議で驚いたのは、出席していた中国の障害者リーダーが圧倒的多数の研究者を前に”Nothing About Us Without Us"(私たち抜きで私たちのことを決めないで)を訴えていたことである。

(中国人民大学にて筆者と故金子能宏さん:右)

 私は、DPI(障害者インターナショナル)アジア太平洋ブロック議長を務められていた八代英太さんのスタッフをしていたことから1980年代後半から北京を訪問する機会があり、DPIのメンバーである中国障害者連合会(半官半民)との付き合いがあり友人もいる。しかし、熱気のこもった”Nothing About Us Without Us”を中国の障害者から耳にしたことはなかった。そのため人民大学で、骨形成不全やアルビノのリーダーが、障害者権利条約交渉時に何度も繰り返された、障害者自身の参加を強くアピールする言葉を口にするのを目にした時は非常に新鮮であり、衝撃だった。

 官制でない中国の障害者運動との出会いには心を動かされた。この2012年6月末の会議での出会いから中国通いが始まった。この会議以来3年で10回、足を運んだ。尖閣諸島をめぐる問題で日中間の関係が悪化したのは2012年の夏であり、8月には中国各地で激しい反日デモが行われ、それ以前から微妙だった日中関係は非常に緊張した時期だった。しかし、この間中国で不愉快な経験をすることはただの一度もなかった。逆に大歓迎された記憶がある。反日デモの翌年の2013年の8月に初めて武漢を訪問した時だった。市民社会や障害者組織が中心となった若手障害者の研修合宿だった。ボランティアをしていた何人もの若い女性や男性から一緒に写真に入ってほしいと頼まれたのである。これだけ「人気者」だったのは空前絶後である。武漢で同時に開かれた会議では、市民社会からインクルーシブ教育に関する武漢宣言が出されている。

(武漢の名所、黄鶴楼)

 

(武漢での会議場)

 こうした出会いから日中の障害学に関する交流が始まった。尖閣諸島をめぐる緊迫した雰囲気の中で、“Nothing About Us Without Us”を訴えていた中国のリーダーたちに日本に来てくれないかと打診したら躊躇なく即座に快諾をもらった。それが実現したのが年明けすぐの2013年1月である。東京大学経済学研究科の「社会的障害の社会理論・実証研究プロジェクト(REASE)」(松井彰彦代表)主催の公開研究会だった。同年11月にもやはりREASEが中心となって別の中国の障害者リーダーを日本に招聘し公開講座を開催した。その機会に立命館大生存学研究所(当時はセンター)が来日リーダーを京都に招き、研究会を開催した。2010年から毎年、日韓で交互に開催されていた障害学国際セミナー(Korea Japan Disability Studies Forum)があったので立岩真也さんと私は日中でもそうした新たな交流ができないかと京都で打診したが、政治的問題から難しいという返事だった。そこで、障害学国際セミナーを日韓から日韓中に拡大することとした。そして、2014年11月には、ソウルでの障害学国際セミナーに初めて中国グループが参加し、翌2015年には北京で障害学国際セミナーが初めて開催された。その時点で英文名称は現在の”East Asia Disability Studies Forum”へと変更した。そのため2016年から台湾グループが加わっても、英文の名称変更も必要なかった。

 その間、障害学会大会(2014年11月:沖縄国際大学、岩田直子大会長)のプレ企画として、「シンポジウム 東アジアの障害学のネットワークに向けて」が2014年10月に沖縄国際大学で実現している。障害者権利条約の中国の初回審査(2012年9月)に共にパラレルレポートを提出した、ワンプラスワン障害者文化開発センターとイネーブル障害学研究所の代表を招くことができた。堀正嗣学会会長が出席されたこと、沖縄自立生活センター・イルカ訪問、そして平和学習に取り組んでいる沖縄の高校生がひめゆりの塔に案内してくださったのが特に印象に残っている。

 この時期の中国の障害分野の大きな動きは、2012年9月に実施された障害者権利条約の初回審査である。国際的にも注目度が高く、国際障害同盟は同年春に香港で、審査に向けたワークショップを開催している。その成果として前述の二つのパラレルレポートが提出された。初審査を受けての国内の対応について「竜頭蛇尾」という言葉を使う中国のリーダーがいるが、それだけ期待が大きかったことの裏返しかもしれない。

 10年前に北京で耳にした“Nothing About Us Without Us”を忘れたくはない。数か月後の尖閣の問題の沸騰を考えると、少し時期が違っていたら、この出会いはなかったかもしれない。振り返ってみると隔世の感がある。2012年11月に現政権が登場してから潮目は変わったことは明らかだ。障害者組織による若手障害者リーダーを対象とした研修合宿も2015年を最後としてそれ以降は開催されていない。日本に招いたリーダーが帰国後、警察に呼び出されたこともあった。2017年1月からは外国NGO規制法が施行されている。今年2022年夏に中国の第2回目の審査が予定されているが、中国の市民社会からのパラレルレポートは一本も提出されていない。しかし、現在も窓は完全には閉じられてはない。開いている部分がある。”Nothing About Us Without Us”を訴える中国の障害者の肉声が日本を含む東アジア、そして世界に届くチャンネルの一つとしても障害学国際セミナーはあるのかもしれない。

関連サイト:

「武漢―障害学国際セミナー、桜、水餃子」REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)