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質疑応答は文章末です


児童文学にみる障害者像――ポリティカル・コレクトな障害にまつわるスピリチュアリティ

三島亜紀子


■はじめに

 この文章を読んでくださっている方の多くは、幼い頃、偉人の伝記の一つとしてヘレン・ケラーのマンガや児童文学を読んだことがあるのではないだろうか。子ども向けのヘレン・ケラーの伝記は、これまで幾度となく出版されてきた。報告者が小学生の時に読んだものは、もはやどの本だったか分からないが、ヘレン・ケラーを聖人化し、彼女の人生を感動的に描いたものだったように思う。今も、「暗闇から光を投げかけた愛の天使‼」、「三重の苦」を背負った「奇跡の人」などという紹介されているものが手に入る。
 さすがに近年出版された学習マンガは、完全無欠の聖人としてだけ描くものではない。とはいえ、予算の少ない教育現場の書棚には、まだ古い障害観が色濃いものが依然残っていることが多いのも事実である。
 児童文学は子どもが文化を吸収する過程にある子ども時代に読まれるものであり、障害観を形成する際に何らかの影響を及ぼすだろう。大人向けの各種メディアと同様、児童文学は絶えず新たな価値が織り込まれ流通してきた。第二次世界大戦中を思い起こせば、小川未明や村岡花子など多くの児童文学作家も関わった「日本少国民文化協会」(1931―1945)が国策に沿った児童文学を量産し、子どもたちを戦争に駆り立てた。児童文学の威力は凄まじいといえる。
 逆に望ましい価値観を児童文学に盛り込んで、全ての人が生きやすい社会へに向けた礎にすることもできる。厚生労働省社会保障審議会では、児童福祉法第8条第7項にもとづき「福祉文化分科会」 を設け「優れた文化財」の推薦をおこなっているのも(たとえば2020年度の児童福祉文化財推薦作品には、海老原宏美の『わたしが障害者じゃなくなる日』(2019)などが推薦されている)、こうした期待してのことだろう。
 報告者は、これまで福祉問題に関する児童文学研究をおこなうと同時に(三島2010b, 2019a)、絵本やマンガも出版してきた(三島2010a, 2019b)。
 障害に関わる児童文学研究(三島2010b)では、児童文学における障害者観の変化に焦点を当て、①1970年初頭に起こった障害児殺し事件とその後の減刑嘆願運動を題材にした児童文学にみる障害者観、②1970年代半ばに大きな話題になった「ピノキオ論争」、③1990年代以降の児童文学における障害者の描かれ方について検証した。
 本報告は、12年前の研究の③の続編として、児童文学に描かれる障害観について概観したい。なお、主に4歳前後から小学生までを対象とした絵本を考察する。

■クラウドファンディングと絵本の多様化
 2010年の論文で考察の対象とした児童文学は、1970年代から80年代にかけて出版されたものであった。団塊ジュニアがちょうど子どもであった時代。今と比べるとマーケットが格段に大きかった。
 とはいえ現在、巷では「子どもの本が売れている」と言われたりする。その理由に、2001年に「子どもの読書活動の推進に関する法律」が制定されたこと、PISA型読解力をつけるために教育機関で読書がさかんに推進されたこと、「大人も楽しめる」とされるヨシタケシンスケや西野亮廣らの絵本の人気などがあげられている(飯田2020)。
 そんな潮流のなか、障害者が登場する絵本の出版に影響を与えたと思えるのは、西野のとった手法である。2016年に、お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣が、絵本『えんとつ町のプペル』を出版したことが話題となった。彼はクラウドファンディングで資金を調達し、4600万円を超える資金を集めたという。SNSを駆使し、ネットで絵本の内容を全ページ公開するなどの宣伝方法であったことも衆目を集めた。出版部数は70万部を突破したという。
 これほどの規模ではないものの、その後、クラウドファンディングで資金を集めて絵本を出版することは定着したようだ。クラウドファンディングの会社のホームページをのぞいてみると、絵本の出版が意外に多い。そして、そのなかに障害に関わる絵本が散見される。クラウドファンディングを活用して世界の本を翻訳出版する「サウザンブックス」という出版社さえある。
 たとえばサウザンブックスから出版されたジェシカ・ラブの『ジュリアンはマーメイド』(2020年、横山和江訳)は栄えある賞を数多く受賞した絵本で、各国で翻訳出版されている良書である。テーマはLGBTQ、主人公の少年は黒人。国際的に賞賛されている本でも、日本では採算がとれないと判断されたのであろう。
 他に、サウザンブックスから精神障害の親をもつ子ども向けの『悲しいけど、青空の日――親がこころの病気になった子どもたちへ』(2020年、シュリン・ホーマイヤー作、田野中恭子訳)や、自閉症スペクトラム障害の男の子の自立の物語の『キッズライクアス』(2020年、ヒラリー・レイル作、林真紀訳)など良質の本が出版されている。

■発達障害に関する絵本
 2005年4月に発達障害者支援法が施行される前後、発達障害に関する絵本も多く出版された。たとえばディスレクシアの当事者のパトリシア・ポラッコによる絵本は早くから翻訳出版された。自伝的な『ありがとう、フォルカーせんせい』(2001年、香咲弥須子訳、岩崎書店)、『ありがとう、チュウ先生』(2013年、さくまゆみこ訳、岩崎書店)『がらくた学級の奇跡』(2016年、入江真佐子訳、小峰書店)などである。
 ほかにも、ローレン・モイニハン作『ディスレクシアってなあに?』(2006年、トム・ディニーン (絵)、藤堂栄子訳、明石書店)やバーバラ・エシャム作の『ボクはじっとできない 自分で解決法をみつけたADHDの男の子のはなし』(2014年、マイク&カール・ゴードン絵、品川裕香訳、岩崎書店)、メラニー・ウォルシュの『ぼくはスーパーヒーロー――アスペルガー症候群の男の子のはなし』(2017年、品川裕香訳、岩崎書店)などがある。
 日本を舞台にした絵本も出版された。たとえば、嶋田泰子の『ぼくって、ふしぎくん?』(2007年、北村小夜監修、岡本順(絵)、ポプラ社)や品川裕香の『なまけてなんかない! ディスレクシアの男の子のはなし』(2017年、絵・北原明日香(絵)、岩崎書店)、竹山美奈子の『すずちゃんののうみそ――自閉症スペクトラム(ASD)のすずちゃんの、ママからのおてがみ』(2018年、宇野洋太監修、三木葉苗(絵)、岩崎書店)があげられる。
 発達障害のある子どもが学校で過ごしやすいように、こうした絵本を通じて障害に関する知識を伝えることは大切なことであるが、一方で知識を子どもに伝える際に懸念される面もある。現在では、発達障害に関する周知が進み、場によっては「『子どもらしい子ども』は皆、発達障害扱いに」(安藤2021:72)されてしまうという指摘がある。そんな状況下、子ども同士で都合の良い「診たて」がされかねない懸念である。
 障害者に言及されることが多いSDGs教育に関する児童書が2020年以降数多く出版された。こうした本のなかでは、分かりやすく車いすユーザーが描かれることが多い。とはいえ2000年代に入った頃から、発達障害を含め目に見えず理解されづらい障害を描く児童文学が増えたことは大きな変化であった。京都にある書店ホホホ座の店主・山下賢二による『やましたくんはしゃべらない』(2018年、中田いくみ(絵)、岩崎書店)は、軽度の場面緘黙症であった山下の子ども時代を描いた絵も美しい絵本である。

 しかしながら、気になることもある。数ある絵本から読み聞かせする絵本を指南するガイドブックの類では、いまだに田端精一『さっちゃんのまほうのて』(1985年、偕成社)や『ぼくのお姉さん』(1986年、偕成社)が推薦されていることだ。これらは各方面で評価された本で、今も保育・教育現場の書棚に並んでいる。国際障害者年(1981年)以降の出版のため、「完全参加と平等」などといった視点が盛り込まれているものの、35年前の社会に住む読者に向けたメッセージであり今も推薦され続けるのには違和感を覚える。描かれる親子愛・兄弟愛は不動なので、今を生きる人の心を動かしてしまう。そして、少し前の古い障害者観を継承してしまうのではという心配がある。

■その後の因果応報
 1977年に発行された『全障連』創刊号(全国障害者解放運動連絡会議)には、「養護学校義務化阻止」や「都市交通の車イス乗車拒否問題」に並んで「『ピノキオ』差別図書を糾弾する闘い」が取り組まれるべき課題として掲載されている。
『ピノッキオの冒険』(1976年、小学館)は「単に差別的な表現を用いているだけでなく、『悪いことをすれば神の罰を受けて障害者になる』といった誤った障害者観を含んで」いると指摘し、「出版社に回収を求めた」という(楠2006)。こうした批判に対し、児童文学者たちの多くは「表現の自由を奪うもの」と反論、小学館は「びっこ」「めくら」という表現を「足の悪いきつね」「目の悪いねこ」と書き換えて回収を避けた。つまり、因果応報の障害観が描かれている部分については、うやむやのままにされたのである。
 現在も「猿蟹合戦」や「カチカチ山」、「こぶとり爺さん」などといった因果応報を説く民話は親しまれている。猿蟹合戦やカチカチ山における罰は、死だ。(またこぶとり爺さんの締めくくりは「いじわるじいさん」に罰として両頬にこぶができるが、これをルッキズムの観点からどう評価するかという問題もある。)こうした昔ばなしに慣れ親しむと、『ピノッキオの冒険』にあるような罰として障害者になるというストーリーもすんなりと頭に入るようになるのだろう。

■ポリティカル・コレクトな因果応報?
 こうした因果応報というスピリチュアルな障害観に関連して、新たな動きがみられるように思える。
 のぶみの『このママにきーめた!』(2017年、サンマーク出版)や『うまれるまえにきーめた!』(2019年、サンマーク出版)などから導き出される障害観である。ちなみに、のぶみの代表作は『ママがおばけになっちゃった!』で、2018年にはのぶみが作詞した楽曲「あたしおかあさんだから」が「母親の自己犠牲を賛美している」などとして「炎上」した絵本作家である。
『うまれるまえにきーめた!』は、「胎内記憶のある子どもたち100人に聞いて描いた作品」とされている。胎内記憶とは、「生まれる前から子どもがもつとされる記憶のことで、母親の胎内にいた頃だけでなく、子ども自身が『かみさま』と相談して母親を選んだ記憶や、神秘的な体験をした記憶を語り出すというものである」(橋迫2021)。映画『かみさまとのやくそく』(荻久保則男監督、2014年)を機に広く知られるようになったという。胎教の関りで以前から「胎内記憶」は取りざたされてきたので、のぶみの考案したものではない。他の絵本も大人向けの本も出版されている。これらはスピリチュアル領域における障害児が生まれる理由の新しい解釈であるようにも思える。
「スピリチュアル市場」における人気のコンテンツたる「胎内記憶」の主導者は、医師の池川明だ。のぶみとの共著(のぶみ・池川2022)もある。池川は、障害をもって生まれてくる子どもたちについて次のように言及する。

 先天性の障害や病気を持って生まれてくる赤ちゃんたち。中間生の記憶のある子どもに「どうしてだろう?」と聞くと、「みんな、どんな体で生まれてくるか、自分で決めるんだよ」と教えてくれます。
 人生のシナリオとして、あえてハンディキャップを選び、勇気凛凛でチャレンジする。今までの過去世でも、たくさんの経験を積み重ねてきて、魂のレベルはずっと先の方まで進んでいるんでしょうね。
 だから〝可哀想〞ではなく、〝素晴らしい〞子どもたちなのです。
 その子どもたちに選ばれたお母さんの人生も、平坦なものではありません。効率優先・経済至上主義の現代社会にあって、偏見はちっともなくならないし、バリアフリーも掛け声だけ。障害児や障害者をあるがままに受け入れ、個性を大事にする学校や職場は限られています。経済的支援も十分とはいえないでしょう。ショックで、初めは「産むんじゃなかった」と嘆く人だっているはずです。
 でも、ママこそが人生のベスト・パートナー。多くの人が「この子のおかげで、人間として大きく成長できたと思います」「たくさんの仲間と出会い、人間の可能性を信じることができました」などと胸をはって語ってくれています(池川2016)。

 のぶみは、こうした「胎内記憶」で共有されるストーリーの一端をSNSに投稿し、共感と反感を集めている。たとえば以下のようなものである。

https://www.instagram.com/nobumi_ehon/より。絵の説明・手書きの文「病気のマルを選ぶ子は神さまと病気をもって生まれても耐えられるママを選ぶそうだ」に、あかちゃんやかみさまの可愛らしいイラストが添えられている)

「胎内記憶」言説において、子どもは神様と一緒に自ら障害や病気になることを選ぶ。聖性を帯びた子どもが母親を赦すという構図だ。橋迫瑞穂は、「妊娠・出産を巡って、子どもが障がいを持って生まれてきたり流産したりしてしまうことで、母親が自分自身を責めてしまう状況があることが、改めて浮き彫りになる」と指摘している(橋迫2021:108-109)。
 1956年生まれの谷口明広は、母親や親戚から「お前が一家の不幸を背負っているので、わが家は幸福に暮らせるのだ」と言われたという(谷口2005:12)。こうした「日本人の祖先は、障害児をタカラゴやフクゴなどと呼び、大切に育ててきた」という言説も、実は戦後生まれのスピリチュアルな障害観である(三島2019b)。この戦後生まれのスピリチュアルな障害観と「胎内記憶」言説との共通点は、障害の当人以外の方向を向いている点である。谷口も、周囲の人々にとっての癒しに過ぎないと指摘していたように。ただし、以前は周囲の人々がこの幻想を共有していたのに対し、現在の「胎内記憶」信者たる女性は夫にさえその幻想を共有することをあきらめているかのようだ。
 因果応報や「一家の不幸を背負っている」という障害観では、障害はネガティブに位置づけられている。これに対し、「胎内記憶」言説では障害者はチャレンジャーと位置付けられ「魂のレベル」が高いものとされる。こうした変化は、無意識にポリティカルコレクトネスがスピリチュアル領域に浸透したものかもしれない。
 皮肉にも「胎内記憶」の伝道者・池川が指摘したように、効率優先・経済至上主義の現代社会では偏見がはびこり、経済的支援も十分ではなく、バリアフリーも限定的だ。そんな社会では孤独な母親からのスピリチュアリティを求める声は後を絶たないだろう。ただ、たとえ偏見がなくなり、経済的支援や社会サービスを充実させたとしても、同様のスピリチュアルへの欲求がなくなるわけではなさそうだが。

■おわりに

 安倍元首相銃撃事件の容疑者・山上徹也の母親が宗教にのめり込むようになったのは、長男が小児がんになり、右目を失明したことがきっかけの一つであったと報じられた。彼女を救ったのは、社会サービスでもなく、周囲の人々でもなく、スピリチュアリティであった。
 本報告では、ここ10~20年の障害児者が描かれた児童文学について概観してきた。ほかにも取り上げたい児童文学は多くあったが、後半は紙幅の都合によりスピリチュアルな障害観の変化に絞って考察した。
 今後も報告者はストーリーのつくり手でもありたいと考えている。以上の考察も糧とし取り組んでいく所存である。

■参考文献

安藤希代子(2021)「子どもへの向精神薬処方を地域の問題として捉えなおしてほしい――相談先が病院だけという岡山の現状から」『福祉労働』(170) 71-74.
海老原宏美(2019)『わたしが障害者じゃなくなる日――難病で動けなくてもふつうに生きられる世の中のつくりかた』旬報社.
橋迫瑞穂(2021)『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』集英社.
飯田一史(2020)『いま、子どもの本が売れる理由』筑摩書房.
池川明(2016)「障害や病を持って生まれること」(https://cakes.mu/posts/11305, 2022.8.19)
楠敏雄(2006)「再び『差別語』と『差別表現』を考える 1『ピノキオの冒険』」『KSKRパンジーだより』60,7.
三島亜紀子(2010a)『妖怪バリャーをやっつけろ――きりふだは、障害の社会モデル』(監修・平下耕三/絵・西村悦子)生活書院.
三島亜紀子(2010b)「児童文学にみる障害者観――「ピノキオ」問題は克服したか?」倉本智明編著『手招くフリーク : 文化と表現の障害学』生活書院.
三島亜紀子(2019a)「『子どもの貧困』と児童文学――二宮金次郎ストーリーを超えて」『子どもの貧困/不利/困難を考える Ⅲ』ミネルヴァ書房.
三島亜紀子(2019b)『障害者と社会の壁――妖怪バリャーvs.心のバリアフリー』(監修:平下耕三)生活書院.
のぶみ・池川明(2022)『胎内記憶図鑑』東京ニュース通信社.
谷口明広(2005)『障害を持つ人たちの自立生活とケアマネジメント――IL概念とエンパワメント』ミネルヴァ書房.
 

■質疑応答
※報告掲載次第、9月17日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はjsds.19th@gmail.com までメールしてください。

①どの報告に対する質問か。
②氏名。所属等をここに記す場合はそちらも。
を記載してください。

報告者に知らせます→報告者は応答してください。いただいたものをここに貼りつけていきます(ただしハラスメントに相当すると判断される意見や質問は掲載しないことがあります)。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。


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