ジュディ・ヒューマン:「私たちは、お互いから学ぶことができます」

長瀬修(立命館大学生存学研究所)

左はジュディ・ヒューマン、右は筆者。2018年8月21日、障害者の権利に関するサマースクールを開催中の国立アイルランド大学ゴールウェイ校にて。

ジュディ・ヒューマンと初めて会ったのは、1987年の日米障害協議会だった。秘書としてお仕えしていた八代英太参議院議員が同協議会のリーダーの一人であり、私自身は、その事務局を務めていた時だった。バークレイで開催され、エド・ロバーツも出席していた第2回会議だった。ホストはバークレイCIL所長のマイケル・ウィンターである。ちょうどADA(米国障害者法)へ向けての取り組みが進んでいる時代だった。ジュディ(正確にはジュディスだが、いつもジュディと呼ばれていた)は、ロバーツが所長を務める世界障害研究所(World Institute on Disability)の副所長だった。
強く印象に残っているのは、ジュディがジャスティン・ダートをはじめとする他の障害者リーダーと共に必死に取り組んだ成果として1990年にADAが成立後に会った時だった。日本での障害者差別禁止法の実現を求めて八代と言葉を交わしていたジュディは、急に私の顔を見て「あなたのような人の役割が重要です」と言ったのだった。
当時の私は、米国政府と契約関係にある機関における障害者差別禁止を規定し、ADAの先鞭をつけたリハビリテーション法504条の成立過程で議会スタッフが果たした役割について不勉強だった。そして、同条の実施を求めて、ジュディたちが連邦政府のビルを1か月近くも占拠したことも知らなかった。それでも、ジュディの言葉は心に強く残った。場所は覚えていないが、晴れた日の屋外だった。その光景は、まるで第三者として見ているかのように、脳裏に刻まれている。
その後の長年にわたる交流で学んだのは、ジュディの①インクルーシブなリーダーシップ、②国際的な視野、③障害者の権利推進のために自分のポストを最大限に活かす姿勢である。それぞれについて少し述べたい。
ジュディはインクルーシブなリーダーだった。障害者権利条約の交渉過程のサイドイベントをはじめとして、ジュディは壇上から、「折角、この会議に来たのだから、顔見知りばかりに声をかけるのではなく、知らない人にこそ、声をかけてください」といつも呼びかけていた。アメリカ手話(ASL)で壇上から、フロアにいるろう者に話しかける姿もよく見かけた。1977年に連邦政府のビルを占拠していた時も「手話通訳の準備が整うまでは会議を始めない、という方針」を貫いたのだった。(ジュディス・ヒューマン、クリスティン・ジョイナー著、曽田夏記訳『わたしが人間であるために』2021年、現代書館
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3589-2.htm
ジュディは国際的な視野の持ち主だった。残念ながら時折、障害分野でも散見される米国中心主義=自国中心主義から自由だった。ADA成立以後の、「米国の障害者の状況はおそるべきもの」(第4回日米障害者協議会、1991年)や「米国には国民皆保険すらない」という言葉を思い出す。国際的な視野から、差別禁止や、アクセシビリティなど自国の長所を認める共に、自国の課題にも率直に向き合っているリーダーだった。そして自国中心主義と向き合うことは、例えば、障害者権利条約の審査でジュネーブに100人以上を送り出せる日本の市民社会にとっても重要な課題である。
ジュディには、障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢があった。国際的な視点を買われて、ジュディが世界銀行で初めての障害と開発に関する顧問だった2003年である。当時勤務していた東京大学では、福島智の着任を機にバリアフリー推進の機運が盛り上がり、バリアフリー支援準備室が2002年10月に設置されたばかりだった。福島は同室の副室長であり、私は副室長補佐だった。さらに全学的な機運を高めるために、バリアフリーシンポジウムを企画する構想が生まれ、その基調講演者としてジュディを招く構想が浮かび上がった。しかし、米国の首都ワシントンから招聘する予算はなかった。そこで2003年6月にニューヨークの国連本部で開催された第2回国連障害者の権利条約特別委員会に出席した際に、ワシントンまで足を伸ばして世界銀行本部でジュディに面会した。基調講演をお願いすると、東大のみならず日本にとって重要なシンポだからと快諾だった。そして、率直にジュディと介助者の招聘予算が十分ないことを話すと、世界銀行の仕事で日本への出張予定があり、その予算で航空券はカバーできるから心配するなとまで言ってくれたのである。当日、定員が120名の東大本郷の山上会館2階大会議室は満席の盛況だった。当時の山上会館にはバリアフリートイレがなく、仮設トイレでしのぐという冷や汗の経験だったが、ジュディが「世界の高等教育とバリアフリー」をテーマとして力強い講演をしてくれた手ごたえは今も思い出せる。トイレの不備についてはユーモアに包みながらも、ずばりと「では来週までに作ったほうがいいでしょう」とし、「そのストレートな話しぶりは、参加者を強烈に引き込むものだった」と東大広報(1273号)は報じている。その後、東大のみならず他大学においても進展した高等教育と障害の取り組みの進展にもジュディは確かな足跡を残した。この不世出のリーダーが残した数知れない足跡の一コマだった。
ジュディの障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢のもう一つの例を紹介しよう。ジュディがオバマ政権下、国務省において「国際障害者の権利に関する特別アドバイザー」をしていた時のことである。世界銀行の例と同様、ジュディが初代だった。2014年12月に国際障害同盟(IDA)が企画した、障害者組織を対象とする障害者権利条約に関する研修を行うためにモンゴルをビクトリア・リーと私が訪問した際である。その広いネットワークで、訪問を聞きつけたジュディから、首都ウランバートルの米国大使館訪問を要請された。大使館員に障害者権利条約のモンゴルでの実施について面談してほしいというのである。当初、固辞したが、東大の件で恩があり、お引受けした。大使館に入る時には非常に厳重なセキュリティチェックがあり、携帯、パソコン等すべて受付で預けさせられた。面会したのは、障害も担当しているという文化担当官で、他国に勤務していた時にジュディと会ったことがあると話していた。そして、モンゴルで盲導犬を使う盲人を最初に雇用したのは同大使館であると語っていた。自分が所属する国務省の中で最大限、常に障害者の権利を推進するために積極的に取り組むジュディの姿の一端を見た気がした。
ジュディが、昨年12月16日に東京において31歳で急逝したブックマン・マークと対談したビデオがある。マークは東京大学東京カレッジのポストドクトラルフェローであり、立命館大学生存学研究所の客員研究員だった他、米国障害学会理事、そして私が委員長を務めている障害学会国際委員会のとても頼りになる委員だった。
このビデオはマークが所属していた東京カレッジのイベント:著者と考える「わたしが人間であるために」ー米国と日本における障がい者の公民権運動(2022年6月24日)の記録である。ジュディそしてマークを振り返るために、再度、この貴重なビデオを見返した。
イベントサイト: https://www.tc.u-tokyo.ac.jp/ai1ec_event/7009/
日本語通訳版(和文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=daDJFAjUgK8
英語オリジナル版(英文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=oEKhLJSnU0g&t=72s
失ったものの大きさを痛感すると共に、ジュディそしてマークから受け取ったメッセージの偉大さに思いを馳せた。ジュディとマーク、この傑出した二つの魂は今頃、いっそう対話を深めているかもしれない。
このビデオの締めくくりでジュディは、「私たちはグローバルコミュニティの一員であり、お互いから学び続けることができます。学ぶべきことは多くあります」と語っている。この言葉を私はかみしめている。
(敬称略)